【なぎら健壱コンサートに行ってみた 】 (再掲)

【なぎら健壱コンサートに行ってみた 】 (再掲)

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 1999 年 10 月 24 日の日記再掲)

今年の正月、いや去年、待てよ一昨年だったかな、東京で正月を過ごした母と愛犬イビを清水に送り届けた帰り、東名高速ひとり旅の徒然にカーラジオをつけたらなぎらさんが出ていた。ラジオで聴くなぎらさんは学生時代の「セイ・ヤング」以来だったので、懐かしさが胸にこみ上げ、思いがけない楽しい旅になった。

フォークソング・ブームの頃、初めて聞いたなぎらさんの歌は『葛飾にバッタを見た』だったが、「主流」とおぼしき人たちとは少し別の流れの人だなぁという感想を持っていた。放送の中で『葛飾にバッタを見た』に触れ、「あの歌の中で、俺は綺麗なマンションに住んではいないけど、お前の住んでる “都会” にゃあバッタはいないだろうと歌ったけれど、あの歌はもう唄えない。だって俺もマンションに住んじゃってるから」とおっしゃっていたのがとても好感が持てた。大邸宅に住んでベンツを乗り回して金の装飾品をじゃらじゃら付けて、演歌を歌う歌手は許せても、大金持ちになって四畳半フォークを唄うフォーク歌手にはどうしても違和感を感じてしまうのだ。許せない度量の狭さを指摘されても、どうしてもチクチクと胸が痛んで「人間なんてそんなもんさ」とは思えないのである。

放送の中で『四月十日の詩』というのを聴いたときには感激した。あの懐かしい「デン助劇場」の大宮敏充さんが舞台を去る日の歌だったのだ。

「デン助劇場」は大宮敏充さんが率いる一座による大衆演劇で、「学」は無いけど人情もろくてお人好しでおっちょこちょいの「デン助」と娘の「スミちゃん」を中心とした下町人情喜劇で、浅草で上演されていたものを NET テレビ (現テレビ朝日)が土曜日の午後中継していた。小学生だった僕はこれが見たいがために土曜日の午後は走って家に帰ったものだ。1972 年(昭和 47 年)3 月 25 日が最終放送日とななった。おそらく 4 月 10 日は最後の舞台だったのだろう。この日、僕はニキビ面でぼさぼさ頭の高校生として静岡県清水市に住んでいたから、「浅草の灯が消えた日」に立ち会うことはできなかった。小学生の頃浅草六区を歩くと路上に首をくるくる振っている「デン助人形」が置かれている小屋があり、ああここで「デン助劇場」をやっているのか、浅草という町は凄い町だなぁとわくわくしたものだ。

コンサートは『なくした歌が多すぎる』(タイトル間違っていたらなぎらさん、ごめんなさい)で始まった。

もう最初から「あの歌を唄わないかなぁ」とドキドキしていた。結局最後まで唄われることなく、「リクエストはありませんか」というタイミングになり、あの歌をリクエストしたいと思うのだが曲名が思い出せない。気を利かした川上哲也さん(哲ちゃん)が後ろの席の関係者の方に「デン助の歌のタイトルは何ですか」と訊いてくれて、「四月十日の詩お願いしま~す!」とかわりに叫んでくれた。しかし「あの歌は前回も唄ったからなぁ」ということでパス。絶望落胆白髪三千丈。最後の曲も終わりアンコールになって、なぎらさんが一人登場して唄い出したら、なんと『四月十日の詩』だった。みなさんどうもありがとう。客席からかけ声が響くという歌詞のところで「なぎらさ~ん!」と声をかけた川上京さんは絶妙のタイミングで参った。さすがキヨシローの追っかけで鍛えただけはある。恐れ入りました。なぎらさんがニヤッと反応してましたもんね。

コンサート終了後私たちの席に来て一緒に飲んでくれるし、握手はしてくれるし、記念写真も一緒に撮らせて貰えるし、僕もうメロメロでデン助人形状態になってしまった。

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