【母と歩けば犬に当たる……47】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……47】
 

47|痛み

 他人の痛みはわかりづらい。
 まず、他人の気持ちになって考えるのが下手な自分の至らなさを認めるにやぶさかではないけれど、どんな名医や人格者でも、やっぱり他人の痛みはわかりづらいよなあと、溜息をつくように思うのだ。
 野球が大好き、熱烈な巨人ファンの義父が富山から上京して同居となり、二人で東京ドームに中日・巨人戦を見に行ってから、もう10年ほど経つ。既に重いパーキンソン病(★1)だった義父だが、その頃はまだ歩いて出掛けられたのだ。
 友人に手を回してネット裏の特等席の切符を手に入れたのだけれど、義父はやっぱりテレビでの観戦の方が良いそうで、試合中、野球のボールがいまどこにあるのかと聞くので困った。
 視力というのは、視力検査だけで測れるものではないだろう。当時の義父には、外野の芝生の上に白いボードを置き、そこに描かれている黒い輪のどこが切れているかと問われて回答するだけの視力はまだあったと思うが、試合中の白球を追う視力は、テレビ画面で切り取られる範囲と、アナウンサーによる解説の助けを借りて初めて観戦に耐えられる〝実用上の視力〟になっていたのだと思う。きっと、人間は目だけでものを見ているのではないのだ。
 最近になって義父が、ものの見え方に関して不調を訴えるので眼科を受診させたら白内障だという。重度のパーキンソン病ゆえに手術不能なのだそうで、本人も納得の上で我慢しつつ気をつけて生活することになった。だが、今度は特定の色に関する見え方の違和を訴えるようになり、更に幻覚のようなあり得ない光景が見えると訴えるようになってきた。
 加齢による目の衰え、病気による支障もあるけれど、パーキンソン病治療に使われている薬の影響や、なにか心理的な要因も加わっているかもしれない。
 昨日から不調を訴える母の痛みもわかりづらい。栄養状態良好、白血球数値良好、腫瘍マーカー値好成績、排便良好、黄疸なし、むくみなしとのことなのだけれど、母は言葉で言い表せない漠然とした理由で辛そうなのであり、やはり心のケアが必要なのかもしれないと思ったりする。
 あれこれ母の口から聞き出したキーワードを元に、ガンに罹られた人の日記を検索し、症状とその感じ方を綴ったものをネット上で読んでみた。自分より二歳年上の女性が書かれた日記が素晴らしく、やはり年齢が近い人の感じ方には共感できるものが多い。なるほどこういう身体の痛み、心の痛みがあるのだなと教えられることも多い。
 母に対する接し方のヒントをいただき、少しだけ元気になって、日記の主の近況はどうかと読み進めたら、一昨年の夏に亡くなっておられた。検索サイトからいきなり日記に入り、今、そこにいるかのように温かな筆致で書かれた日記を読んでいた者にとってその結末は辛い。残された家族の手で、膨大な日記がネット上に保管公開され、掲示板は友人たちから故人へ語りかけるような書き込みがあって今も更新され続けていた。
 関東地方も梅雨入りし、晴れたかと思ったら激しい雨になり、昨日は晴れ間を見計らって二度外出して、二度雨に降られた。
 訪問入浴介助を受け、パジャマに着替え、テーブルに座って視点の定まらない目でボーっと外を見ていた義父が突然、
「にじ、でとる」
と呟く。確かに、うっすらと虹が架かっているのだが、うっかり見落としてしまうほどに淡く儚げな虹なので驚いた。
「そうか、お父さんはあんなに淡い色もまだ見えるんだ!お父さんがどれくらい物が見えるかわかって嬉しい!」
と、手をとって大喜びしたくなる。他人の身体と心はわかりづらい。わかりづらいからこそ知りたいし、わかることはこんなに嬉しい。

(2004年6月8日の日記に加筆訂正)

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★1 パーキンソン病
難病(特定疾患)に指定されている神経変性疾患の一つ。義父は長いことパーキンソン病治療を受けていたが、晩年になってパーキンソン症候群の中の別の病気であると見直しの診断を受けた。

【写真】 義父が好きだった松井。子どもが置き忘れたらしい。

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