電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
情愛と情合
2014年11月30日(日)
情愛と情合
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夏目漱石や芥川龍之介を読むと「情愛」を「情合」と書いている。古語辞典には「情合い」があって、「親から子への情合」などと用いると、「情愛」よりちょっと精神性が高い気もする。
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中国語だと「情合い」は「情分」や「人情的程度」であって、人に対する時の「情」、すなわち真心や親切、その心の度合いをあらわす「分」や「的程度」と結びついて「情合」になっているわけだ。
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「情愛」と言って漠然と言い逃れてしまうことを許さない厳しさが「情合」にはある。確かに夏目漱石も芥川龍之介も「情合」の方がしっくりくる「深みをもってそのこと」を語っている。
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「深みをもってそのこと」を語らざるを得ない社会情勢になったいま、深みをもって語るための言葉を失っていることに気づく。英語力より国語力という指摘に深くうなずくのはその点においてだ。
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「愛」などではなく「合い」で語らざるを得ない現実がいま突きつけられているからで、「愛」で言い逃れることは現実に対する深みを持ち得ない。「愛の哀しみ」とはそういうことだ。
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ラジオ雑感
2014年11月30日(日)
ラジオ雑感
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02
寺田寅彦はトリルダインのラジオを某百貨店で買ったと書いている。当時の百貨店はそれぞれのブランドのラジオを売っていたらしい。高島屋には「タカシマヤダイン」というのがあった。SHARPなどが作っていたのは「シャープダイン」。経済用語のトリクルダウン似ているのでトリルダインに引っかかっている。
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「ラジオ商が外見だけは同じで抵抗もインダクタンスもまるでいい加減なコイルを取換えたりしたために、感度は一桁も二桁も下がったと思われる」。トリクルダウンと言われる現象があるにしても、そう単純な仕組みじゃないよと言っているような、トリルダインラジオ顛末記を読んだ。
社会鍋と募金箱
2014年11月29日(土)
社会鍋と募金箱
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01
救世軍の社会鍋に家中の小銭をかき集めて入れてくるのが師走恒例の行事になっている。毎年、新宿駅京王百貨店前まで出かけ、活動報告のパンフレットをもらってくると一年終わりの小さなピリオドになる。
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大きい駅なので大宮駅前に出ないのかしらと検索したが見つからない。静岡県清水では清水駅近く、SEIYU前あたりに社会鍋が出ていたが、町が底抜けに衰えた今でも出ているのだろうか。
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1970年代初頭、マイクロフィルムで古い新聞を読んでいたら、清水駅前、駅前銀座アーケード入口あたりに設置されていた募金箱の記事があった。
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当時はまだ高度経済成長期で、地方から清水に働きに来ている人が大勢いた。暮れには故郷に帰るのだけれど、汽車賃がなくて途方に暮れ、交番に借りに来る人がいたらしい。
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警察官のポケットマネーから貸せるような額でもないので、アーケード出口あたりに募金箱を置き、集まったお金を交番に預けてその資金に充ててもらっていたらしい。
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短い記事からの類推もあるので詳しいことはわからない。そんな時代もあったのだなと感慨深いので、いつか覚えている人を探して詳細を確かめてみたいと思っている。
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豆を戻す、豆を茹でる
2014年11月28日(金)
豆を戻す、豆を茹でる
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01
インターネットが普及して、たくさんの郷里静岡県清水市出身者と知り合ったら、東京近辺では南西側の地域で暮らす人が多い。友人によれば23区なら世田谷あたり、都内を離れれば川崎、横浜あたりに多く生息していると言う。そういえば我が親戚たちも世田谷、鶴見、川崎、横浜あたりを転々として暮らしていた。
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江戸城を中心として自分の故郷に少しでも近い方角に地方出身者は住みたいのだというので、考えてみたら西の中央線沿線には信州や甲州育ちの友人が多いし、城北地区から北では東北や上信越出身の友人が多い。帰省と上京という参勤交代の道筋に住まいが定まるのだろう。
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そんなわけで区境を越して台東区や北区の商店街で買い物をすると、寒い地方の物産が容易に手に入るので嬉しい。夏場は大好きなホヤの新鮮なやつが並んでいるし、冬になれば鱈の白子やたら子の鮮度のいいのがふんだんに出てくる。突きこんにゃくもちゃんとあるので「たら子の煮つけ」にも困らない。ニーズが種と質と量を決めている。
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秋田、山形、宮城あたりでよく食べられる浸し豆の実演販売をしていた。郷土料理店の突き出しでよく出てきて、その枯れた味が好きなので作ってみたいと思っていたが、醤油ダシに浸したよくあるやつではなく、塩味だけのさっぱりした試食が気に入ったので初めて乾燥豆を買ってみた。袋には「秘伝ハッピー豆」と書かれている。
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「秘伝」というのは枝豆の品種名だそうで産地は山形県寒河江市になっている。だだ茶豆出荷以降に収穫時期が訪れるのだという。袋裏の解説によると、ひと晩水につけて戻した豆をいったん水からあげ、戻し水だけを鍋に入れて煮立たせる。そこに戻した豆を入れ塩を加えアクを取りながら弱火で好みの硬さまで茹でるのだという。
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朝から晩酌のことを考え、水につけておいたら夕方にはふやけていた。原寸大に戻ったというよりさらに拡大されたかのように見える。青いうちに収穫される枝豆より、しっかり身が入ってから収穫されるからだろう。
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茹で上がったものをざるに受けて蒸気を飛ばし、皿に盛り付けて冬の枝豆としてつまみにし、余ったものは浸し豆や料理に使うことにした。季節外れに冷凍枝豆を食べるよりずっと美味しい。固めに茹でた豆の歯応えを楽しんでいたら東北の夏の味がした。
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勢いのある玄関先
母と子
2014年11月26日(水)
母と子
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01
今日11月26日は義母86回目の誕生日となる。我が母は2歳年下なので生きていたら来月84歳になるが、9年前に他界したので義母は母より11年長く生きていることになる。
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母が他界する前年、偶然エレベーターに乗り合わせた女性にさっき一緒にいたのはお母さんかと聞かれ、「私は6年前に母を亡くしたけど、あんたね、母親って生きてるだけでいいものよ」と言われたことがある。
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親は生きていてくれるだけでいいものだということは、親がいなくなって初めて身にしみて思うことだ。親に産み落とされ後ろをついて歩いて育ち、親元を離れて一人立ちし、ある日ふと気づいたら伴走者のようにそこにいたはずの親が消えている。
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その瞬間初めて「いなくなることで確実にいたことを実感する」という仕組みで親という「あなた」はできていた。村瀬学を読んでいたら次のようなことを書いていた。村瀬のいう「あなた」は二人称で名指し可能な「あなた」ではなく、もっと社会的な「あなた」、自然を「あなた」と呼ぶような敬意をもって呼びかける大きな「あなた」のことである。
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そもそも生命体は、「個体」として存在しているように見えて、「親の代」から受け継いだものと、「みずからの代」で創り出しているものと、「次の代」に託すものの、三つの活動のなかで常に動いているものだ。そういうふうに動かざるをえないように生きているものだ。生きているとはそういう存在の三重性を生きることだからだ。(村瀬学『「あなた」の哲学』講談社現代新書)
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末期ガンになった母は、もって半年かもしれないと言われて二年間生きた。二年間を母に付き添い、他界された時は、この世にもう一度産み落とされたような気がしたのを覚えている。
07
その時、不思議なことに幼い頃生き別れた父親も含めて、いなくなった二人の親が自分とともに今も「いる」と確信し、それは呼びかけるなら「あなた」であると思った。親たちに死なれることによって「あなた」を孕んだのだと思う。
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もう自分の娘であることもわからなくなった母親が、老人ホームでたくさんの人のケアを受けながら生きている。認知症になった年寄りが満面の笑みで「ありがとう」というとき、その相手は世界に偏在する大きな「あなた」であり、介護職もまた大きな「あなた」の命を見つめている。毎日母親の元へ食事介助に通っている娘がいる。「わたし」の中で生き続ける「あなた」を孕んで、世界にもう一度産み落とされる日まで。
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メモ:古来より語部が女性によって担われてきたことの理由はそこにあるかも知れない。歴史を孕むということ。
カレー南蛮百連発:045 六義園門前のカレー南蛮
病院前風景
2014年11月25日(火)
病院前風景
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01
望ましい結果が見つかることを期待しない、いい加減な検索結果の楽しみというものがある。
02
寺田寅彦が病室で書いた随筆を読みながら「窓の下の◯◯屋」ってなんだろうと思い、◯◯屋と病院で検索したら病院前の佐野ラーメン◯◯屋がヒットした。大きな病院前にはたいがい病室を抜け出して患者が食べに行くうまいラーメン屋があるものだ。
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病院前で儲かりそうな商売は花屋と果物屋だけれど、病院前の◯◯屋には酒屋もある。病院と酒屋で何かいいことがないかと考えてみたが、退院後の楽しみを思い浮かべて励みとするくらいしか思いつかない。
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「ようこそ◯◯屋葬祭センターへ!」などというページもヒットするので病院前に葬祭センターがあるのか!と驚いたら、病院へお迎えにあがりますだった。
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病院に入院した母にお迎えが近いと感じ、葬祭業者の電話番号を携帯電話にメモしておいた夏がある。早朝の電話で病院に呼ばれ、臨終を確認して病室から電話したらすぐにお迎えが来た。
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原文をよく読んだら「◯◯屋の病院御用自動車」とあり「寝台自動車」とあるのでおそらく霊柩車のことだろう。
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「電柱の雀がからたち寺へ飛んで行く。人間の世界は何もかも変って行くが、雀はおそらく千年前の雀と同じであろう」(寺田寅彦「病院風景」)。病室は東大病院、からたち寺は春日局の菩提寺である麟祥院。「今日も雀は居る。昨日の雀だかどうかは分からない。雀はどれを見ても人間には同じである」
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本郷あたりにそういう葬祭業者があったかなと記憶をたどったら、斎場と葬祭業者が東京中心部から郊外に移転させられた歴史を思い出した。検索したら東京都下にいまも同じ名前の会社があるが、寺田寅彦が書いているそれと同じかはわからない。
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柿の色
2014年11月25日(火)
柿の色
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01
たわわに実った柿の実が冬空に映える季節になった。自然な色のちからはたいしたもので、澄み渡る青空にも、垂れ込めた鉛色の空にも柿の色はよく似合う。
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さいたま市あたりの柿は今年がおもての成り年らしい。大宮駅東口から国際興業バスに乗って、義母が暮らす老人ホームへ向かう道沿いにも、大きな柿の木がたわわに実をつけている様子が見える。
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編集委員をして手伝っている郷土誌の編集長も、若い頃ご主人とふたりこのバス路線沿いに住んでいたことがあると言うので驚いた。ぼんやりとした記憶では坂を上ったところにある銭湯に通っていたという。
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さいたま市は広大で平坦な武蔵野原なのだけれど、低湿地を流れる川が長年かけてつくった河岸段丘があり、それをいくつも越えていく古道には坂がある。こんなのどかな田舎に銭湯などあったのだろうかと不思議に思うけれど、昭和の時代は思いがけない繁盛記を地域に残しているので、そんな賑わいがかつてはあったのかもしれない。
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バスが芝川にかかるコンクリート橋を渡り、緩やかにカーブした坂を上って高みに出ると、まとまった広さの農地と屋敷林を背負った農家がある。その畑の真ん中にぽつんと大きな柿の木があり、思わず「わっ」と声が出るほどたくさんの実をつける。
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なぜか去年はまったく実をつけなかったが、裸になった柿の木の下で作業するお百姓の姿を見たので、裏年とわかって木を休めるため、早々に実を落とし枝をはらって養生させたのかもしれない。
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一年おきに豊作と不作を繰り返す隔年結果と、お百姓の丹精の甲斐あってか、今年はまた見事に実をつけた。古道沿いの柿は総じて実のつきが良いので、この地域全体が成り年に当たっているのかもしれない。
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地元で農家をしている老人ホーム入所者の家族が、いかにも庭でもいだらしい柿を袋いっぱい事務所に差し入れしていた。秋田県出身の施設長がいたので挨拶したら柿を持って行けと言い「俺は皮ごと食べる」と言って笑顔で丸かじりして見せた。
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不作の年は柿の実が大きく立派であり、成り年は小振りで出来としては良くないというが、同じく貰いものした庄内柿よりは色が濃く、渋も入っていて滋味あふれる冬空の味がした。
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身につくまで
2014年11月24日(月)
身につくまで
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01
幼い頃よくおとなの口振りをまねした。まねして失敗すると、「こまっしゃくれた口を利くんじゃない」と叱られたり「この子は意味がわかって言っているのかしら」などと笑われたりした。
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少し年上にはいつもおとなのような口振りで兄貴姉貴風を吹かせる子どもたちがいた。おとなの口振りをまねることが、やがてしっくり身につくことで子どもはほんとうのおとなになった。
|言葉で構造が説明しづらい近所にある交叉|
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それまで当たり前だった常識をひっくり返すようなめざましい業績をあげた学者の本を読んでいると、常識をひっくり返すための話し方が上手で、「なるほど、こういう筋道をたどって、こうたたみかけるように言えばいいのか」と感心する。
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感心したら、もっと自分に分かりやすい自分の言葉で書き直してみることにしている。書き直したものを読み返してみて、学者になったつもりの受け売りに感じたり、わかって言っているのだろうかと笑いたくなるほど不明瞭なときは、何度もやり直すという幼い頃と同じことをいまだにやっている。
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意識しないだけで、人は一生そういうことを通じて他人の考えを身にまとい、自分の考えであるかのように表現しながら生きているのだと思う。生まれて物心ついてから老いて弛むまで一貫して。
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初冬の武蔵野
2014年11月23日(日)
初冬の武蔵野
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01
埼玉の老人ホームで暮らす義母の面会を終えると、遅い昼食をとるために15分ほどの道のり歩く。見沼の低地からちょっと高みにのぼり、御蔵の字名がある家並みを抜ける。水がつきにくそうな場所なので江戸時代は見沼田んぼで収穫した米を集積した場所なのかもしれない。飢饉に備えた米倉のあった場所にそういう地名がある。
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野田方面に向かう古そうな道沿いに庚申塚というバス停留所があり、昔は庚申講が行われたお堂があったのだろう。食事を終えると近所にあるスーパーで地場野菜などを買い、そのバス停から帰りの大宮駅行きバスに乗る。
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通り沿いに小さな畑が残っており、バスを待つ間に眺めていると心がなごむ。初冬の景色が美しいので「この風景、妙にいいよね」と言ってみたら妻もずっと好きだったという。
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ときどきお百姓が畑仕事をしており、いつも飼い猫らしいのがそばにいて、畑の真ん中で身体を「へ」の字に曲げウンコをしていたりするので笑ってしまう。
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祖父母が暮らしていた静岡県清水の家にも自家用野菜を育てる小さな畑があり、祖母が畑仕事をするそばにはいつも猫がいた。
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祖母が鍬をふるって掘り起こす土の中から、蛙やモグラやネズミの子などが出てくるのが楽しみでもあるようだった。
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祖母のまわりで一人遊びをし、かまってもらえないので小さな柿の木に登って啼いており、「なぁ、この猫はこうやって馬鹿なことをする」と笑われていた。
08
今年は柿が生り年にあたるのか、どの木もたわわに実をつけている。初冬の武蔵野には柿の木がよく似合う。
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いつかこの場所にも来なくなる日がくるので写真を撮っておいた。やはりいつもの猫がいて、右の道沿いにある生け垣に顔を突っ込んでいる姿が小さく写っている。
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急須とお茶パック
2014年11月22日(土)
急須とお茶パック
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01
日本茶を入れる急須は透明のガラス製を使っている。中に茶殻が入ったままの急須が放置されるのが我慢ならないので透けて見えるものにしている。
02
ガラス製の急須にはナイロンや金属を編んだ網状の茶漉しが付いてくるのだけれど、使い込んで茶色くなると、気のせいかもしれないけれど、いくら洗ってもお茶の風味を損なう苦味が出るように思えて気に入らない。ハリオ製のパンチングステンレス製を買ってみたら、滓や渋の溜まる隙間がないので清潔で非常に具合がいい。
03
仕事場にもう一つ欲しいと思ったけれど結構な値段がするので、仕事場では網状の茶漉しをはずしてしまい、紙製のお茶パックに茶葉を詰めて淹れることにした。
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もらいもののお茶が冷蔵庫にたくさんあるのだけれど、その都度紙パックに詰めるのが面倒なので、あらかじめ紙パックに詰め替え密閉容器に入れて冷蔵保存した。
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ガラス製の急須にお茶パックを一つ入れてお湯を注いでみたが、茶葉は開くものの滲出のぐあいが良くない。茶漉しのように茶葉の間をお湯が流れないせいかもしれない。
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珈琲の淹れ方を思い出し、まず紙バックの中で茶葉が膨らむ程度の湯を入れて少し蒸らし、その紙パックに当てるように残りの湯を注いだら綺麗な色のお茶が出た。
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ティーバッグの紅茶を振ると渋みが出るように、緑茶も湯の流れる力で滲出させるのはよくない気もするのだけど、簡便さとのトレードオフということで、この辺で手を打った。まあおいしい。
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あたりまえの梅干
2014年11月21日(金)
あたりまえの梅干
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01
梅干で食べるおかゆが好きで朝飯によく出すが、最近は梅干の調達に苦労する。昔は梅干を漬ける祖母が持たせてくれたし、母も漬けたし、農家からの貰い物にも事欠かなかったので買った記憶がない。
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店に行けばいくらでも売っているけれど、梅・紫蘇・塩以外の添加物が記載されていないものを探すのが難しい。ネット検索すると無添加をうたう梅干が見つかるけれど送料分を入れると取り寄せるのが馬鹿馬鹿しい。
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近所の酒屋でチューハイ用に売っている梅干が「紀州南高梅を添加物は一切使用せず、塩だけで漬けた梅干です。味も大きさも品質も最高の梅です」がうたい文句なので買っている。
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350グラムで700円ほどなら安いと思うので「無添加なら上出来だろう」と言うと「だって値段もいいもの」と妻が言う。「スーパーで売ってるかたちのいいやつは裏を見ると添加物がいっぱい書いてあって値段が倍くらいするぞ」と言うと「そりゃそうだけど」と言う。
05
都会に出荷する梅干にあれこれ添加する生産者も頭がおかしいと思うけれど、田舎の無添加手づくり梅干をただでもらって食べる生活があたりまえだったわが家もまた頭がおかしくなっているのだろう。
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ことばの聞き覚え
2014年11月21日(金)
ことばの聞き覚え
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01
本を読んでいたら「権突(けんつく)を食わせられる」という言葉が出てきて懐かしい。祖母がよく「けんつくをいう」と用いたのを覚えているが母親が言うのは聞いた記憶がない。
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突っかかるような刺々しい物言いのことをそう言っていた記憶があるので、辞書を引いて確認したら権突ではなく剣突で載っていた。役人が立場を笠に着て横柄な物言いをすることを述べた箇所なので剣突ではなく権突と書いたのかもしれない。
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祖母の声色まで一緒に「剣突をいう」を覚えていることが不思議なのは、自分が一度も剣突という言葉を話したことがないからだ。祖母はよほど印象的な場面で剣突を用い、幼い者の記憶に深く刻まれたのだろう。
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思いがけない言葉を覚えられて困ることがある。小学校の鳥小屋に入り込んで閉じ込められたカラスを飼ったことがあるけれど、児童が教える変な言葉を覚えて喋るので人気者になり、「しまった」と思ったらしい教師たちが放鳥してしまった。
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子どもの頃、母親に「そんな言葉を覚えるんじゃない」と叱られたことがあり、あらかた忘れたのに今でも覚えているものもある。たとえば「世の中に寝るより楽はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」というのがそうで、元は江戸時代の狂歌らしい。母もどこかで覚えて口にし、息子が覚えてしまったので「しまった」と思ったのだろう。
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武蔵野とハイドン
2014年11月20日(木)
武蔵野とハイドン
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01
寺田寅彦が大正11年に発表した「写生紀行」という随筆が好きだ。好きなので何度も読み返し、荷船を家として世を渡る貧しい家族について書かれた部分まで来ると涙が出る。寺田寅彦も涙が出て「なんのための涙であったか自分でもわからない」と書いているが、何度読んでも涙がでるのがなんのためなのかはやはりわからない。
02
同じく寺田寅彦の「ラジオ雑感」(昭和八年)を読んでいたら、ここにも武蔵野の夕暮れについて書かれた箇所を見つけた。
「日が暮れて帰ろうとしていたら階下で音楽が始まった。ラジオの放送音楽である。聞いてみるとそれはハイドンのトリオであった。こんな閑寂な武蔵野の片隅で、こういうものを聞くということが何となく面白かった。(寺田寅彦「ラジオ雑感」)
携帯音楽プレイヤーなどがない時代、寂しい武蔵野の夕暮れに突然聴こえてきたハイドンを想像すると胸に迫るものがあるが、なにが胸に迫るのかはよくわからない。
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家人に「武蔵野ってどのあたりをさすの?」と訊かれたので、個人的な思い込みを排除すれば、旧武蔵国全域を指す広大な地域だと答えておいた。東京から見ると武蔵野原はどこまでも地続きで広く、ちょっと遠出しすぎると途方にくれるようにゆき暮れるからこそ、なんのためかわからない感傷が不意に胸に訪れる。
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武蔵野好きだった寺田寅彦は「写生紀行」を書いた翌大正12年に、念願の別荘を武蔵野に建てたというが、場所はどこだろうと調べたら意外に近く、板橋区中台から若木のあたりだったらしい。
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中台から若木のあたりにほど近い場所に、大学時代の学生寮があったり、友人たちが暮らしていたり、印刷会社があって出張校正に行ったりと、ずいぶん馴染み深い。そういう意外な場所に寺田寅彦あこがれの武蔵野風景があったことに驚いた。当時は自然豊かな場所だったのだろう。
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自分で歩いたことのある町並みを思い浮かべ、ゆき暮れて武蔵野の感傷に浸ったことのある地域を広域地図で眺めるとずいぶん狭い範囲で、武蔵野はお釈迦さまの手のひらのように茫漠として広い。
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◆山田一郎『寺田寅彦覚書』岩波書店を古書で注文してみた
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