略歴

2014年12月31日(水)
略歴

01
からくり人形に関する書物で立川昭二(たつかわしょうじ)の名が出てきた。名前に聞き覚えがあって調べたら、白髭神社がらみで踏鞴(たたら)製鉄に関する本を読み漁っていた頃、『鉄 一塊の鉄が語る歴史の謎』学生社 1966 を買って読んだその人だった。その後に書かれた著書一覧がある略歴を見て知の遍歴に驚嘆した。

02
立川昭二は早大文学部史学科卒の歴史学者なのだけれど、1966年北里大学教授となり、1969年に『からくり』、1971年に『病気の社会史 文明に探る病因』を出版し、以後病理史学者としての著作が続く。

03
傀儡政党の傀儡(かいらい)はどうして傀儡子の傀儡(くぐつ)なんだろうとぼんやり思っていたが、日本のジプシーとも言える芸能集団傀儡子が動く人形をつかったことにより、傀儡(かいらい)は「操り人形」なのだった。

04
その操り人形作りの技術を極めたものがからくり人形で、その研究の大家となり大阪万博の「ロボット館」を手塚治虫とともにプロデュースしたのも立川昭二だった。

05
鑪製鉄をした民の研究から傀儡子とからくり人形へ、からくり人形の仕組み研究から人体と病いの歴史へ、人体を機械のようにみなす近代医療を見直しつつ生老病死を見つめる優しさのいのち論へと、思索の旅をされたのではないかと略歴を見て思うが、本当のところはわからない。

06
経歴をざっと眺めるとそれなりの物語が思い浮かぶ。思い浮かんだ物語が真実である確証はないけれど、理解したつもりになるのは効率的なので、人は略歴を書かされ、他人の略歴を読むのだろう。

06
『死の風景 歴史紀行』講談社学術文庫 1979 と『臨死のまなざし』新潮文庫 1993 を注文してみた。親たちの看取りが終わりに近づいたら自分たちのそれも身近になっているからだ。ということで立川昭二の本は『鉄 一塊の鉄が語る歴史の謎』学生社1966 から生老病死の思索へと氏の略歴を一気に飛んでいる。

07
…と書いたところで、自宅の本棚に『最後の手紙』 ちくまプリマーブックス 1990 があったのを思い出した。自分で買った覚えがないので妻に聞いたら、新聞書評で興味を惹かれ買って読んだのだそうで、妻もまた思いがけないところで接点を持っていた。

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転ばないで歩く

2014年12月28日(日)
転ばないで歩く

01
生まれた時から頭の大きい子どもだったそうで、重い頭でふらふら歩いていたと叔父によく笑われた。その叔父が撮った写真を見ると確かに頭が大きくて、地球に降り立って重力に戸惑う宇宙人のようだ。人は宇宙から地球へと不自由な体で生まれてくる。

02
なんども顔から転んで広い額に怪我をして、それでも無事に大きくなり、身長も180センチ近くまで伸びたので、いまでは大きな頭も支え切れているし走ることもできる。

03
加藤秀俊を読んでいたらホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)の話が出てきた。高度な学習機能を備えたロボットの例としてひかれているのだけれど、ASIMOといえば発表会での転倒事件を思い出してしまう。ASIMOは自分に結集された高度な技術を解説しながら、階段を登る途中で後ろに昏倒した。

04
ロボットより高度な動きをする人間ですら転ぶので、センサーと学習能力を強化して転ばないロボットを作るより、転ぶことを学習して損傷の少ない上手な転び方をするロボットを作る方が優れている。

05
パーキンソン病の義父に付き添って大学病院に行ったことがある。どんどん早足になって前のめりになり、足が追いつかずに顔から転んで大怪我をするのが義父にもよくあった特有の症状なのだけれど、足だけ前に出て頭が追いつかず後頭部から転びそうな人もいて驚いた。

06
認知症の本を読んでいたら、認知症は病気ではなく障碍を負うことであると書かれていてその通りだと思う。転ばず上手に歩くようになった人間も、やがて老化とともに転びやすくなる。義父の介護方針を決めるため、住まいを訪れた理学療法士が「いつもやっているようにベッドから起きて歩いてみてください」と言い、義父の動作を見て「なるほどー」と感心していた。人は次第に負っていく障碍を、小さな工夫でだましだまししながら生きている。

07
老いに伴う衰えを治すことは根源的にできない。それでも障碍を生きることを手助けする「だましだまし」こそが究極の介護であるように思う。

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セレンディップ

2014年12月27日(土)
セレンディップ

01
本を読んでいたらセレンディップということばが出てきて意味がわからない。辞書には見当たらないのでネット検索したらセレンディピティー(serendipity)という言葉がヒットし、その解説でセレンディップは昔セイロンと呼ばれたあの島であることが知れた。

02
セレンディピティーの解説で『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話を知った。三人の聡明な王子が旅の途中で、聡明さゆえに予期せぬ出来事の中から思いがけない発見をしていくのだという。

03
この聡明さをパスツールは「構えのある心」だと言い
「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」(Dans les champs de l'observation le hasard ne favorise que les esprits préparés.)
とあった。

04
この「偶察力」とも訳される「構えのある心」を、精神科医の中井久夫は「徴候的知」と呼んでいるそうで、ちょっと高いけれど、もらった図書カードがあるので、その『徴候・記憶・外傷』(みすず書房2004年)を注文して読んでみることにした。

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付け馬商売

2014年12月26日(金)
付け馬商売

01
近所のスーパーマーケットで買い物をしてレジに並んでいたら、前で精算をしているおばあさんが
「いけない、財布忘れてきちゃった」
と言う。

02
レジの女性が
「お金を持って戻ってこられるまで、お取り置きしておきますから大丈夫ですよ」
と言ったら、
「戻ってもう一度出直す力がないのでもういいです」
という。

03
「わかりました、お戻ししておきます」
と店員が言い、老女は肩を落として帰って行ったけれど気の毒だなと思う。

04
気の毒だなと思ってからもう何年も経つのだけれど、いまだにあの時なんとかしてあげられなかったのかなと思い出す。

05
このところ一年に二 、三回 、こんなふうに買い物にでかけて用事をすませ 、さてお勘定 、という段になって財布を忘れてきたのに気がつくことがある 。あ 、こりゃ困った 。財布を忘れてきちゃった 、すぐにとりにくるから 、このままにしといてね 。レジ係のお嬢さんはおおむね軽蔑したような流し目でわたしをごらんになる。(加藤秀俊『隠居学』講談社)

06
遊興費の取り立てではないけれど、落語の「付け馬」のように、店内をぶらぶらしている男性店員でも使って、家まで送って代金を受け取って来るくらいの対応があってもよかったのではないかと思う。

07
「僕が立て替えます。家までついて行きますからそこで返してください」
みたいな気の利いた対応が咄嗟にできないのが素人のいたらなさなので、そこはスーパー側がマニュアル化しておけば商売の助けになるのではないかと思う。国民の多くが「あ 、こりゃ困った 。財布を忘れてきちゃった」と年に二 、三回の時代が来るのだ。

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裏具合

2014年12月25日(木)
裏具合

01
学生時代に家庭教師をしていた二人の小学生は、どちらも算数がよくできて国語や社会科が苦手だった。

02
世界地図を見ても国名が言えないので、勉強後の夕食では食べながら地図帳を広げて国名あてごっこをした。

03
「じゃあここは?」と指差すと「裏具合、熟れ具合、売り具合、ウルグアイ」などと言うので「笑わすんじゃない」と笑いながら叱った。そういう覚え方をするからちゃんと覚えないのだと。

04
老人の痴呆について書かれた本を読んでいたらこんなのがあった。

05
とくに「モーチョー」から「チョーチョー」、「サツマイモ」から「ヨツマイモ」(この連想は三の次は四だからかな?)を連想したり、あるいは同じ「サツマイモ」から「スズマイモ」、さらに「セズマイモ」(これは「サ」、次の「シ」が抜けて「ス」「セ」とサ行で移行している)、最後が「セツナイ」で終わる。(阿保順子『痴呆老人が創造する世界』岩波書店)

06
青森県で採集された話なのだけれど、そもそも人は連想で記憶を作るのかもしれない。正しい覚え方なんてあったんだろうかと今になって思う。

07
最後が「セツナイ」で終わるのがいいなあと思うが、裏具合の少年は最後に「お父さんの部屋には『エロトピア』がいっぱい」と言ってニヤッと笑うのだった。最後のそれが言いたかったのかもしれない。

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簡単な言葉と計算

2014年12月24日(水)
簡単な言葉と計算

01
痴呆という言葉に問題があるならば認知症という言葉にも問題がある。くくり得ない多様な現象をひとからげにして言葉へと置き換えることは、ある目的を持って多様な可能性の一部を切り捨てることだ。病名をつくるということは効率性をとって非効率な存在を消去する合理的な手段であることに注意したい。

02
病名に限らず、名指しようのないものを名指ししたり、約(つづ)めようのないものを約めて言うことには、効率化の得を得る側による非効率の消去という差別が必ず含まれている。

03
「簡単な言葉と理屈で手早くだれにもわかるように説明のできる事ばかりが、文明の陳列棚の上に美々しく並べられた。そうでないものは塵塚に捨てられ、存在をさえ否定された。それと共に無意味の中に潜んだ重大な意味の可能性は葬られてしまうのである」(寺田寅彦『田園雑感』より)

04
簡単な言葉で言い切ること自体を疑ってみることは大切だ。大切なことがこんなに簡単に言い切られて良いのだろうかと思うとき、その怪しい言葉を因数に分解し「小さな事実の積」として眺めてみると、隠されている不都合な真実が見えやすい。

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行きつ戻りつ

2014年12月23日(火)
行きつ戻りつ

01
煎茶にしろ紅茶にしろ珈琲にしろ、上手な抽出の鍵は蒸らしにあるように思われる。急がず前もって適度な蒸らしを行うと、出るべきものが素直な味で出てくるような気がするのだ。

02
読み終えた本をすぐもう一度読み返す習慣がついてきた。すべての本ではないけれど、良い本だったと思えるものはかならず振り返ってみる。読み終えたばかりの本は大切なポイントがどこにあるかがわかっているのですばやく深く読める。再読という見通しの良い視点から読むことによって書いた人の動機となる志(こころざし)がわかるし、気づけなかった新たな発見がある。

03
振り返りながら今と過去の間を行きつ戻りつして前へ進むことは大切だ。読み返すから新たな気づきがあり、そうして読み返された過去は穏やかな示唆に満ちている。

04
買い物を兼ねて散歩したら、東洋文庫の敷地内にアバカダで書かれた言葉があった。ABCDがABKDなのでタガログ語のローマ字はそう呼ばれるのだそうだ。

05
「来し方を振り返ることができない者は行くべき先に辿り着けない」と書かれているらしい。添えられた日本語訳を読んでからもう一度特徴的な子音「ng」のあるフィリピン語の綴りを見るとあらためて味わい深い。

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窓外の赤

2014年12月22日(月)
窓外の赤

01
義母が暮らす特養ホーム、そのベランダ越しに赤い実をつけた木が二本並んで見える。毎年桜の開花に遅れて白い花をつける名を知らない木だ。

02
入所者のMさんに聞いた話によるとユズらしいと妻は言っていた。ユズはまったく違う姿をしているので違うとは思っていたけれど、赤い実がついたことでバラ科の姫リンゴらしいことが明らかになった。

03
尾張いろはかるたで「桃栗三年柿八年柚子の大馬鹿十八年」などと言うが、亡くなられたらしいMさんはこの木に実がなるのを見られなかった。リンゴの仲間は五、六年で実をつけ始めるというが、おそらく今年初めて実らしい実ををつけたのではないかと思う。

04
冬至のお風呂に入れるためユズの黄色い実がなくなった特養ホームの庭は、昨年まで冬枯れた枝が見えるだけの寒々しい景色が窓外に広がっていたが、今年はたくさんの赤が点じられて少しだけ暖かい。


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冬のレンガ

2014年12月21日(日)
冬のレンガ

01
子どもの頃、テレビで『ちびっこギャング』や『ちびっこ大将』と題されたドタバタ映画シリーズを夢中になって観ていた。いまでもときどき思い出すシーンは、活動写真的コマ落とし映像なので『テケテケおじさん』やチャップリン映画とごっちゃになっているかもしれない。

02
テケテケと動く登場人物たちが、雪が降って凍える冬の日にレンガを奪い合うコメディが好きで、冷え込み厳しい冬になるとよく思い出す。

03
冬の日に街を歩くと足の裏をつたって冷気がのぼってくる。地に足をつけていると凍える大地が人と一つになろうとする。だがうっすら積もった雪を見ると、道端にあるレンガの周りだけ雪が溶けていたりする。レンガは温かいのだ。

04
道ばたに落ちているレンガの上に立つと、じかに地面に立つより温かい。その温かいレンガの上に立ちたくて、あの手この手でレンガを奪い合うといういじましいコメディなのであり、道を歩くとレンガのひとつふたつ転がっている時代が日本にもあった。

05
焼成レンガが温かいのは中に微細な空気が封じ込められているからではないだろうか。発泡スチロールが温かいのに似ているし、スポンジや、卵白を泡立てて固めたお菓子もやはり暖かい。

06
冬の室内で温かくなる工夫をする文鳥の画像を見てふと思い出した。温かくなりたくて、あれこれ身にまとって街を行き交う人々を見ていると、テケテケとした動きがしみじみおかしい冬である。

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ひたくれなゐの生

2014年12月20日(土)
ひたくれなゐの生

01
明るい側からではなく暗い側から世界を眺めたい傾向が昔からあって、友人たちと飲んでいても、こいつまた暗くてめんどうな話を始めやがったと、苦笑いで呆れられているような気配を感じることがある。

02
小学校入学直後に父親が家を出て行き母子家庭になった。そうなってから母親の口癖は
「おかあさんが死んだらあんたは一人ぼっちになる、一人ぼっちになったらあんたどうする?」
だった。どうすると言われても子どもには答えようのない問いだった。

03
そういう問いをくりかえし試されると、大切な人や自分の死について考える子どもになる。生ではなく死の側からものを見ることが習い性になる。習い性になってみると悪いものでもない。辛い思いに追い詰められたときに強い。死を思えば恐いものは少ない。


04
死の側(がは)より 照明(てら)せばことにかがやきて ひたくれなゐの生(せい)ならずやも

05
本を読んでいたら斎藤史(ふみ)の歌が紹介されていた。苛烈な境遇を生き、母親と夫の重介護をしながらこの歌を詠んだという。『ひたくれなゐの人生』と題した対談つき歌集が三輪書店から出ていたので注文してみた。

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森の脇道

2014年12月19日(金)
森の脇道

01
老人の痴呆(あえて認知症を使わない)に関する本を読んでいる。最近「認知症」に関する本を出された著者から、今度書いた本を読んで感想を聞かせてくれと頼まれた。

02
頼まれた本は発売直後から増刷を重ねているらしいので、頼まれたのは売り上げ協力要請かもしれない。買ったまま、まだ手が付いていないのだけれど、その著者にいま読んでいる本を見せたら、それもとても良い本ですという。

03
まずこちらを読み終えようと読みすすめているその本には、たくさんの脇道があって次々に興味が膨らむ。膨らんだまま老人の妄想とはなにかという脇道にそれて本を注文してみた。

04
相反する二つの気持ち、たとえば「楽しみ」と「不安」のような感情がせめぎ合い、それが解消不能に思われて生きにくさが高じた時、人はあり得ない「非現実」をつくりだすことで「わたし」を保ちながら生きなおしてみようとする。

05
本人にとってはそれが唯一の救いなのだけれど、他人から見れば「非現実」的な不穏であり妄想に思えてしまう。まさに義父がつくりだしていた妄想世界がそれであり、そういう現象について、生きなおしの戦略という視点からやさしさをもって(期待による想像だけれど)書かれた本を2冊取り寄せることにした。

06
脇道に逸れながらの併読になるので、なんでこんな本を読んでるんだろうと見当識を失いかけた時のため、目印の赤いテープをこの分岐点につけておく。

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見当識の壊れ方

2014年12月18日(木)
見当識の壊れ方

01
今がいつで、ここがどこかがわかることを見当識という。年をとって見当識を失うことを失見当識とか見当識障害などという。

02
マンションのエレベーターが新しくなりドアの開閉と行き先ボタンがある操作パネルデザインが新しいものになった。

03
ただそれだけのことでパニックになっているおばあさんがいた。操作方法がわからないと言うので、矢印ボタンを押して待っているとエレベーターのドアが開くから乗って、行きたい階の数字を押すだけです。いつもとかわらないから落ち着いてくださいと説明した。
「一緒にやってみましょうか?」
と言ったら
「自分でやってみます」
と言う。

04
よほどたって居住階のエレベーターホールに行ったら、さっきのおばあさんがいて困った顔をしている。
「どうしました?」
と聞いたら
「このボタンを押しているんですけど、何度押しても1階が来ないんです」
と言う。

05
人は頭の中に世界の見取り図を作っている。夜中に目が覚めてトイレに行きたくなり、眠いので瞼があけられず灯りもつけず、それでもちゃんとトイレまで行けてしまうのは頭の中に暮らしの見取り図があるからだ。そういう見取り図は些細な変化で壊れやすい。

06
内側と外側は微妙な概念だ。同じマンション内で暮らす義母が1階エレベーターホールにいたので
「おかあさん、どうしたの?」
と聞いたら
「マンションの中に入れんようになったんよ」
と言う。
「おかあさん、ここはマンションの中ですよ」
と答えたら笑っていたが、それから間もなく義母は時計が読めなくなり、深夜の徘徊が始まった。

07
新しいエレベーターに戸惑ったおばあさんは、真新しいデザインになったことでエレベーターの内側と外側の概念が壊れてしまい、エレベーターのドアが開くのを待つエレベーターホールが、エレベーターの内部になっていたのだ。だからいくら繰り返しても1階が来ないと訴えた。

08
その後、普段は見かけない娘さんらしき人に付き添われた姿を見かけるようになり、挨拶すると笑顔で応えてくれたが娘さんは暗い顔をしていた。そしておばあさんの姿を見なくなって久しい。

09
変化に乏しい田舎で一人暮らしをする年寄りが自立を維持できるのは、頭の中にある世界の見取り図に変化がないからだ。変化のない世界は年寄りにやさしい。だから短期の入院などという事態に至ると急激に衰える。退院後いつもの生活に戻れるかどうかは、丹念に見当識の見取り図をたどって、もとどおり修復してあげられるかにかかっている。

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もの盗られ妄想について

2014年12月17日(水)
もの盗られ妄想について

01
小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波新書を読み始めた。きっかけは村瀬学『「あなた」の哲学』講談社現代新書で紹介されていたからだ。

02
「第三章 痴呆を生きるこころのありか」「第二節 初期痴呆—未来への不安」に、日本の老人に見られるもの盗られ妄想に関する考察があって面白い。

03
認知症と呼ばれる老いの段階に至った義父母にもの盗られ妄想はなかったが、末期の膵臓ガンの告知を受けて二年間生きた母は、闘病晩期になると肝機能低下に伴う意識混濁によって、支援してくれた友人たちに対するもの盗られの訴えがあった。

04
証拠もないのに他人を盗人呼ばわりするのを横で聞いているのは気分の良いものではない。ましてやもっとも身近にいる家族や友人に嫌疑の矛先が向くのは痛々しい。もの盗られ妄想がどうして起こるかはずっと心に引っかかっていた。

05
真実か妄想かわからない母親のもの盗られ報告を聞きながら、こういうのは戦中戦後もののない時代を過ごした女性特有のものではないかと思っていたのだけれど、小澤勲もそのことに言及している。

06
「このような介護状況はわが国にかなり特異なものである。たとえば、六五歳以上の世帯構成をみると、わが国では、減少してきているとはいえ二世代以上の家族が同居している割合はまだ六〇%ある。ところが、デンマーク、スウェーデンでは一〇%に満たず、米国、英国、フランスでも一〇%台である。」(同書118ページ)

07
介護を担う同居家族にもの盗られ妄想の矛先が向いてしまうのはそこに同居家族がいるからだ。欧米ではもの盗られ妄想の事例は少ない。家族に迷惑をかけたくないと思う一方で、家族に世話をしてもらいたいという相反する思いを抱くとき、もっとも介護を担うことになる家族はその存在自体が、介護されるものにとって暴力的なものに感じられてしまうこともある。

08
わが義父も、娘の亭主の援助が必要な事態に追いつめられると「あいつを呼ぶな、あいつは恩着せがましいからいやだ」と言っていたという。恩着せがましいことを言ったつもりはないけれど、心の負い目が恩着せがましさを感じさせていたのだろう。

09
小澤勲は、老いによって感じる負い目の元を喪失感という。それは老いによって「なじみの『わたし』を喪うこと」だと。

10
ものを盗られたと言うとき、盗られた現場を目撃して動かぬ証拠をつかんだのでないならば、「盗られたとき」とは「盗られたと気づいたとき」である。盗られたものではなく、盗られたに違いないと思いこむ心の働きこそが老人にとっての要点であり、盗られて喪われたのは「もの」ではなく、誰の世話にもならず自分でちゃんとできると思えた頃の「こころ」なのだ。

11
妄想を訴えて家族を眠らせなかった義父も、妄想の原因となる「もの」について家族に問いつめられると「もの」自体がころころと変わり、「あら、心配で眠れなかったのはあのことじゃなかったの」などと家族を呆れさせていた。若さの喪失感が妄想を産んでいたのだ。

12
三好春樹も、老人にとって自分より若くて元気で長生きする若い者が、介護が現実的な状況になると、老人にとって暴力的な存在になると言っている。暴力に対する暴力的な抗(あらが)いが、妄想で家族を振り回すことなのであり、それは最も親身に介護を担う人に向かう。「嫁がわたしのものを盗るんです」と。

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縦書き横書き

2014年12月16日(火)
縦書き横書き

01
最近タイポという言葉をよくネット上で見かけ、「これは多分タイポだと思うんだけど…」などと用いられている。デザインの仕事をしている者がタイポと聞いて思い浮かべるのはタイポグラフィのことだ。

02
タイポグラフィの意味は時代変遷と共に広義にわたるけれど、簡単に言えば文字を用いた視覚伝達のことで、それを専門にした人をタイポグラファーなどという。

03
「これは多分タイポだと思うんだけど…」と用いられる時のタイポは typographical error のことだ。活版組や写真植字で誤字脱字のことを誤植というが、コンピュータでタイピングによって発生する誤字脱字を誤植と呼ぶのはおかしいので、typographical error をつづめてタイポと言っているわけだ。欧米人も略してタイポと呼ぶのかは知らない。

04
青空文庫を読んでいるとときどき誤字脱字と思われる箇所を見つける。誤字脱字を見つけたことを指摘するには入力者が用いた底本にあたって確かめるのだけれど、わざわざ国会図書館に行ってそれをやる時間もないのでそのままにしている。

05
入力者が打ち間違えたのではなく、底本にそういう間違いがあるのかもしれないし、さらにその底本の元となった手書き原稿を読むことができれば、著者があえてそうしていた可能性もあるのだ。

06
先日も日記を書きながら寺田寅彦の随筆を引用したのだけれど、どう見ても入力ミスとしか思えない箇所があったので勝手に直しておいた。「青空文庫ママ」としておくべきか個人の日記だから許されるかどうかは知らない。

07
誤字脱字を校正によって根絶することは難しい。定年退職まで鬼の校正をした編集者の友人ですら、完璧な校正は不可能だと言っていた。

08
縦組み横組みが切り替えられるエディタが iOS にもあるので愛用している。★1  縦横の文字組み変更をしただけで誤字脱字が見つけやすくなるのが不思議で、これこそタイポグラフィーによる typographical error 発見法だろう。

09
毎日書くことをノルマとして続けている日記でも誤字脱字チェックに苦労するが、最近自動校正してくれるページをネット上で見つけた。★2  便利に使っているがなかなかよくできている。

★1 iライターズ - 快適日本語入力

★2 日本語のタイポ/変換ミス/誤字脱字エラーをチェック

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黒い森

2014年12月15日(月)
黒い森

01
NHK・BSの『世界音楽紀行』でドイツ・黒い森地方を見ていたら黒い森の位置を示した地図が映り
「この範囲に、フランス、スイスはあってもオーストリアは出てこないんだね」
という話になった。オーストリアは思っていたよりずいぶん東にある。

02
人が頭の中で思い描く地図は個性的に歪んだり欠落したりしている。そして思い込みと経験によって世界地図の改訂を重ねながら生きている。若い頃の地図は今よりずっと大雑把だったし、一度も海外旅行をせずに死んだ親たちのはもっと質素だったのだろう。

03
個性的で歪んだ地図を持つ者同士の話がとんとん拍子で合い、約束の場所と時刻でちゃんと落ち合えるのは、歪んだ地図同士の辻褄合わせがどこかで行なわれたからだ。そうやって辻褄合わせの回数を重ねた恋人同士は待ち合わせがしやすいし、不仲な夫婦ほど待ち合わせで喧嘩になる。

04
「早めに着いたら黒い森でも散歩するといいよ。森を出たらすぐ横がオーストリアだから、そこのウイーンっていう名曲喫茶で5時に待ってる」
などという約束をして大変なことになる前に地図を修正した。

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