【拝啓 川上哲也様】(再掲)

【拝啓 川上哲也様】(再掲)

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 8 月2 日の日記再掲)

拝啓 川上哲也様

貴兄の『じっとり酔眼』いつも楽しく読ませていただいております。酷暑の中、食あたりもせず元気にお過ごしのことと思います。小生、敬愛する貴兄の奇行・偏愛に心酔しながらも、一人で飲み歩く習慣を持たず、夜の魔界に貴兄の足跡をたどる追体験の旅もままならない身の上ですが、せめて外出時の昼食だけは爪の垢ほどの至福の時を求めて怪しい脇道を選んで歩くよう心がけています。そんな心がけが報われたのか、素晴らしい店で夢のような昼餉を食す事が出来ましたのでご報告いたします。

その店は当然裏通りにありました。当然エアコンなどは無く、玄関は通りに向かって開け放たれ、狭い店内の様子を観察することができました。貴兄なら「当然」と素っ気なくおっしゃると思いますが、3人ほどしか座れないカウンターはビニール製のドーナツ型座面の丸椅子でございました。そして、さらに「当然」の事ながら客は誰一人おりませんでした。もう午後一時をとうに過ぎてサラリーマンのランチタイムも終わりなのに、正面厨房の壁に開けられた小さな出窓には、何を注文されても良いようにあらかじめキャベツの千切り、トマト、ポテサラの定番3品が盛りつけられた真っ白い皿が一枚置かれ、直立不動の老人がこちらを向いて立っておりました。そう、まるでつげ義春のマンガのようだったといえば貴兄なら、よし入れと背中を押されたことでしょう。はい、当然私も入りました。

店内のすすけた貼り紙には「とんかつ」「あじフライ」など貴兄の好きな揚げ物が並んでおりましたが、申し訳ありません、勇気の無い私は「豚の生姜焼き」を頼んでしまいました。出て来た生姜焼きを見て、ああ、これでこの皿の定番3品も生ゴミにならずに済んだ、良い功徳を施したと爽やかさすら感じながら割り箸をパチンと勢いよく割ったのでありました。

余程客がこなかったとみえ、私を待ちわびていたものは老主人だけではありませんでした。カウンターの上の壁の隙間から柿の種ほどの茶色いゴキブリが「やったっ、飯だ飯だ」とばかり飛び出してまいりました。貴兄はゴキブリが躓いて転ぶところをご覧になられたことはお有りでしょうか。そのゴキブリは歓喜のあまり壁のささくれに足を取られ危うくカウンター上に20センチほど落下しそうになり、慌てて「おっとっとっと」とささくれにしがみついて体勢を立て直したのでした。貴兄がおられたらゴンズイ髭をひくひくさせ、わき腹を引きつらせてお笑いになったことと思います。いかに貴兄に心酔している私でも、皿の上に柿の種がズカズカ乗り込んできてはたまりませんので、箸の背でコンコンと壁を叩いて警告を与え、ベンチに引き下がらせました。ちょうど脂身のかけらをカウンターにこぼしていたので角のコーナーに突っ込み、後に柿の種が飢え死にすることの無いよう供え物にして置きました。

ああ、重ねて功徳を施したと心も胃も満腹になり、勘定を済ませて外に出ますと、午後二時も回りいくぶん日差しも和らいだようでした。振り向くと何事も無かったように老主人は直立不動でカウンター脇に立ち、出窓には「新たな定番3品盛りの白い皿」が置かれているのが見えました。 それではお元気で。

石原雅彦 拝

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