遠くの世界と近くの世界

2014年4月30日(水)
遠くの世界と近くの世界

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特養ホームに義母を訪ねるときは首にカメラをぶら下げている。限られた世界の中で何か目新しいものを探すのは、写真という趣味の最小の楽しみ方の一つでもある。それでも写すものが見つからない季節もあるので、望遠や接写のきく飛び道具的なカメラを持っていくことにしている。

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入所者居室ベランダに面した庭には、花が咲いて実がなる植物が植えられている。五月の主役は柚子の花かなと思って望遠で覗いてみたら、膨らんできた蕾の脇にカマキリの卵鞘(らんしょう)があった。一度に数百匹が生まれるので、孵化したした小さなカマキリが、枝から列をなして下っていく様子は感動的だと思う。そして、その中で生き残るのは数匹だけだという。過酷なものだ。

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柚子のそばにあるブドウ棚に白いものがたくさんあるのでアップにしてみたら、ブドウの新芽は白く見えるのだということがわかった。小さな粒々の蕾がそばにあり、やがて花開き、受粉したものが房状の実になるのだろう。

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遠くの屋根のアンテナに小枝をくわえた小鳥がとまったのが見えたので、超望遠で撮影し、帰宅してパソコンで見たら思いがけないものをくわえたモズだった。ちょんと止まって一瞬休憩し、さっと飛び去ってしまったので枝と見間違った。

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老人ホーム玄関前のハナミズキを写真に撮ったら、花びらのように見える総苞(そうほう)の上に小さなアリがいた。幼い頃から思っていたことだけれど、アリの身長に人間をあてはめたら、とてつもない距離を歩いて、とてつもない高さへの登頂を果たしているわけで、大雪渓で手を振る登山家に見えた。

(2014年4月29日の老人ホーム訪問にて)

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二冊の本

2014年4月30日(水)
二冊の本

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読書していると、難しくて面白くて、難しくて面白くてという、呻吟と理解が交互にやってくるように感じられる本があり、そういう本に出会うと、自分の人生にとって本はこの一冊があれば事足りるのではないかと思うことがある。

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その一方で、読み始めた途端に感動し、人間にとって大切なことのすべてがここに書かれているのではないか、この本を何度でも繰り返し読んでいれば、心豊かな人生がおくれるのではないかと思い、再度読み返してみたら、これのどこに感動したのだろうと、まったく感動のない本もある。

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結局、新書サイズで再版された著名な学者が書いた二冊の本はどちらも机の脇にあり、前者はさらに理解を深めるために、後者はなんでそんな現象が自分に起こってしまうのかを考えるために、ときおり手にとって読んでいる。

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そういう極端にある本を二冊並べて座右の書に加えているのは、異なる体験の結果として得られる学びが、とどのつまりとして同じものになってしまうのではないかと思うからだ。

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靴が鳴る

2014年4月29日(火)
靴が鳴る

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東京の小学校に入学して最初の遠足は荒川区の荒川遊園地で、歩いて行ける距離だったがバスで行った。東京で遠足といえばバス旅行のことだった。

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清水の中学校に入学して最初の遠足は迎山町の忠霊塔で、歩いて行ける距離なので歩いて行った。バスで行く遠足には遠足ではなくバス旅行という別名があった。

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十年前の日記を読み返したら、家族五人全員が駒込に揃って食卓を囲む暮らしをしており、童謡『靴が鳴る』の中で、どうして子どもたちの靴が鳴るのか、などという事を話題に団欒していた。

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義母から「昔は靴も満足に買って貰えなくて、親や親戚や姉からのお下がりの靴ばかり履いていた。歩くとゆるゆるの靴の底が足裏を打って、ペッタンペッタンと鳴ったものだったが、そういう靴をみんな履いていたのではないか」というしみじみとした意見が出たので、わが家の正解にしたと書いてある。

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童謡『靴が鳴る』の作詞者である清水かつらは文京区にあった私立習性尋常高等小学校を卒業している。場所は本郷通りから後楽園に向かって壱岐坂を下った右側、東洋学園大学のあるところだ。坂の多いまち文京区も当時はまだ田畑が多かったので、歌詞にあるような徒歩で行く遠足をしたのだろう。

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遠足は心を弾ませることで足を前に進めるものである。「唄をうたえば」「丘を越えれば」「はねて踊れば」心が弾んで、もっともっと歩きたくなり、腕試しにはやる気持ちを「腕が鳴る」と言うように、先へ先へと歩きたくて心がむずむずする様子を「靴が鳴る」と言ったのだろう。

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十年が経って五人家族も二人家族になり、母と義父は清水の寺にある墓の中、義母は埼玉にある老人ホームで暮らしている。そして作詞者清水かつらは駒込の吉祥寺に永眠している。春の祝日は靴が鳴るので、今日は遠足をかねて老人ホームの義母に会いに行く。

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4月26日、清水日帰り帰省のまとめ

2014年4月28日(月)
4月26日、清水日帰り帰省のまとめ

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年明けから静岡の図書館まで日帰り帰省で調べものに通っている。もっと違う方法をアドバイスしてくださる方もあるけれど、マイクロフィルム化されたデータを開架式の棚から自由に取り出して閲覧できる気安さが快適なので、がんばって早起きして通っている。

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午前四時五十九分駒込発の山手線外回りに飛び乗ると、普通電車を乗り継いで八時二十一分には草薙駅に着ける。僅かな滞在時間なので、親やご先祖様の墓参りは勘弁してもらい、マイクロフィルムリーダー前に六時間ほど座り続けている。

|午前四時五十五分の駒込駅。夜明けが早くなるこの時期に、ホーム脇のツツジは満開を迎える|

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体調を崩して入院した叔母が、退院して自宅に戻ったと聞いたので、この日は清水駅で下車して見舞いに寄ることにした。御殿場線経由で沼津から東海道線に乗り込んできた少年たちは、サッカーの試合に出場するため清水に向かっているらしい。清水駅に到着したとたん「わっ、清水の駅でけえ!」と叫んだので笑った。みなと口の階段で清水エスバルスのエンブレムを撮影している女性がいた。

|清水駅みなと口にて|

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叔母の見舞いを終え、北街道沿いまで歩き、新静岡行きバスを待っていたらレンゲ畑となった田んぼを見つけた。幼い頃の北街道沿いは、こんな田んぼだらけだったので、自分にとってこれがいちばん春の訪れを感じる景色になっている。

|清水区能島の田んぼにて|

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新静岡駅前でバスを降り、県立中央図書館に向かう道すがら、青空に向かってのびるお茶の新芽を見た。清水平野で生まれ育った者にとっては、これもまた季節を象徴する光景に見える。

|駿河区谷田にて|

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県立美術館に向かうプロムナード沿いに杉山彦三郎がやぶきた品種選抜のため各地から集めた茶の原木が栽培されている。この日は静岡県立美術館有志ボランティアグループらしき人々が茶摘みをされていてよいものを見た。

|駿河区谷田にて|

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森を歩こう

2014年4月25日(金)
森を歩こう
A Walk in the Black Forest

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iPhone で「ぶりょうをかこつ」と打ってみたら、ちゃんと無聊を託つと変換できてえらい! 小さなスマホの変換辞書にも無聊は登録されている。

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無聊を託つとはわだかまりがあってこころが晴れないことを言う。無聊にも託つにも同じようにもやもやとした意味があって、同じような言葉の大きさと向きを、背に負わせるように重ねて意味の握り飯を結んでいる。夏目漱石の『こころ』では無聊が次のように用いられている。

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その時の私は屈托がないというよりむしろ無聊に苦しんでいた。(夏目漱石『こころ』)

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屈託にもまた無聊や託つと似たもやもやとした意味があるので、屈託がないと思われるかもしれないけれどとわざわざ前置きをすることで意味の大きさと向きを強化し、言葉の握り飯を手で持っても崩れないようにより堅く結んでいる。

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考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極りが悪くなった。(夏目漱石『こころ』)

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ここにまた「極りが悪くなった」という、同じようにもやもやとした大きさと向きを持った言葉が置かれている。極りが悪いの極りとは、体裁が悪いの「世間体」や、ばつが悪いの「場都合」のことであって、「考えのない私」にくすぶるこころ晴れなさの理由に、さらなるもやもやとした大きさと向きを加えている。

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言葉の持つ大きさと向きはベクトルと言い換えられる。もやもやとして深い言葉の森には、書き手が「うんっ!」と力を込め「ゴンッ!」と大木槌で打ち込んだ、意味へといざなう矢印の道標がうまい場所を選んで立てられている。

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昨日も早寝、今日も早起き。いつも通り未明に目が覚めたので、スマホの中にあるもやもやとした朝靄けむる言葉の森を少しだけ散歩してみた。

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豆の味

2014年4月24日(木)
豆の味

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子どもの頃、豆を一緒に炊き込んだご飯が嫌いだった。母親は逆にそういうご飯が大好きな人で、息子への嫌がらせのようによく炊いたり蒸したりした。外食のときは豆だけよけて食べたが、家では残すと叱られるので豆だけ先に拾って食べ、掃除が終わって米だけになったご飯を晴れ晴れとした気分で食べた。

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それがいつの間にか好きで食べるようになったのは酒飲みになったからで、いまでは「亡き母親が好きだったのを思い出したから」などという理由をつけて、和菓子屋や米屋で売られている赤飯を買って帰る。好き嫌い克服のきっかけが飲酒だった証拠に、嫌いを克服したものを食べながら酒を飲むのが好きだ。

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「昔はお赤飯のくせにもち米を使っていなかったり、あずきの色ではなく着色料を使っていたりして、ひどいお赤飯もあったけれど、最近はスーパーのお赤飯でも、しっかりしたものが食べられるね」
二〇〇三年十月の日記を加筆訂正していたら、二〇〇五年に他界した母が入院中の病院で話した言葉が書かれていた。

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子どもの頃、赤飯はあずきで作るものだと思っていたが、赤飯はささぎ(ささげ)で作るものであるという話を大人になって聞いた。あずきは豆の中央から裂けるように煮崩れるので、切腹のようで縁起が悪く、煮崩れによって食味が損なわれるため、ささぎを使うのだという。

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郷里静岡県清水の叔父を訪ねたら、叔母が庭の畑でえんどう豆を収穫しており、 豆ご飯にするとおいしいからあげるという。ご飯に入れて炊き込めばいいんだよねと言ったら、炊き込むと煮崩れるから塩ゆでした物を取り置いて炊き立てご飯に混ぜろと言うので、「えーっ」と言葉に出さずに思った。

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小学校の家庭科で粉吹芋(こふきいも)を作らされ、単なるじゃがいもの塩ゆでが、水気をとばしながら粉を吹かせると、驚くほどしゃれた味になることを知った。茹でたじゃがいもがこんなにうまいものかと感動したが、子どもなのでこれでいっぱいやりたいと思うにはまだ至らない。

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赤飯も、えんどうの豆ご飯も、豆が煮崩れて粉吹豆(こふきまめ)状態になったものをうまいと感じ、えんどう豆やそら豆の塩ゆでも、柔らかくて多少はだけたものが好きだ。煮豆だって多少煮崩れていないとおいしいと思えないし、とうぜん赤飯だって切腹したあずきの方がうまいと思う。

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そういう言わばだらしのない食味を愛するのも、好き嫌い克服のきっかけが飲酒だったからで、だらしのない習慣には、だらしのない食味が似合う。だらしないの語源がしだらないを経て自堕落に通じるというのも食味的に充分うなずける説である。

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昨日の春散歩

2014年4月23日(水)
昨日の春散歩

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雨が上がって乾き始めた歩道を歩くと、なぜか落ち葉の周りだけが濡れている。たいていそうなっているのが面白くてよく写真に撮る。濡れそぼった落ち葉と地面の間に毛細管現象で水が入り、雨が上がって地面が乾き、落ち葉も乾き初めて立体世界に戻り、毛細管現象が緩んで落ち葉の周りに水が染み出すのではないだろうか。

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染井霊園はずれ、芥川龍之介の墓がある慈眼寺門前にある猫の額のような場所に「染井 花の会」の人びとが手入れされている花壇があって、牡丹が見事に開花していた。
「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」
という白樺派の歌人木下利玄(1886年 - 1925年)の歌を思い出した。利玄(りげん)を本名では「としはる」と読む。結核のため四十歳で亡くなられ、墓は木下家菩提寺がある岡山市北区足守にあるが谷中墓地にも分骨されている。

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桜の花が散り、若葉が芽吹いて葉桜となると葉の間に赤いものが見える。萼(がく)についていた蕊(しべ)で、桜並木を歩くと頭の上へ間断なく降り注ぐ。雨上がりということもあり、それらが赤い絨毯のようになっていた。「桜蕊降る(さくらしべふる)」は春の季語になっている。

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カラスノエンドウ(烏野豌豆)は通称で、正しくはヤハズエンドウ(矢筈豌豆)といい、マメ科ソラマメ属の越年草。中国名で野豌豆(のえんどう)というように、葉も実も食用になり、古代農業では栽培作物だった。現代人は食用となることを忘れてしまったが、カメラで寄ってアップにしてみると、アリたちがやって来て蜜腺をなめているのがわかる。

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通称ペンペングサの果実が膨らんできた。春の七草でこれもまた食べられる植物。子どもの頃は文鳥の餌にするためよく摘んだ。果実を引っ張ってぶらぶら垂れ下がらせ、指で順転逆転させるとしゃらしゃらと音がする。子どもの頃、ちっとも三味線の音に似ていないではないかと思ったが、似ているのは果実と三味線のバチのかたちだ。

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藤の花を鉢植えで咲かせているお宅をこのあたりでよく見かけるような気がする。本当にこのあたりでよく見かけるのか、植木職人が集まっていた染井村という先入観がそう思わせているのかはわからない。

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染井霊園に隣接した専修院は染井村の植木屋伊藤伊兵衛の屋敷跡だと言われている。代々染井村の伊兵衛は襲名されることになっており、霧島から取り寄せた躑躅の生産者として名を馳せた伊兵衛は五代目(1667-1757?)。約6000坪といわれる庭に地植え、鉢植えの植物が配され、栽培種の見本園を兼ねた観光名所だった。専修院門前の藤棚も満開になっていた。

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畷(なわて)と縄手

2014年4月22日(火)
畷(なわて)と縄手

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夏目漱石『こころ』冒頭ちかくに畷(なわて)という言葉が出てくる。書生である主人公は暑中休暇中の友人に誘われて海辺の町に宿を取る。湘南の賑やかな別荘地ではあっても繁華街からちょっと外れており、

 宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷を一つ越さなければ手が届かなかった。(夏目漱石『こころ』)

というように描かれている。

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畷(なわて)とは田圃のあぜ道のことで、右の双を二つ重ねたつづり合わせを音符とし、左に意味として田圃を加えた会意形声文字だ。

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「なわて」といえば京都の地名が思い浮かびそちらは縄手と書くが、縄手にもまた畦道という意味がある。繁華な古都もちょっと時間を遡ればカエルがゲロゲロ鳴く田圃であったかもしれないので、なわては畷と縄手どちらの字を書いても田圃の畦道ということで良さそうにも思われる。

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だが京都の縄手は鴨川の土手沿い、長野の縄手は松本城外堀沿い、島根の縄手は松江城の堀沿いということで、畦道よりちょっと都会的にひらけた大通りといった語感がある。

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畷(なわて)も畦(あぜ)も畔(あぜ)も、文字のできかたが似ているので意味も似通っており、田圃をつづり合わせたり、土を盛って区切ったり、ひとつをふたつに分けたりすることを意味する。いわばそういう土や石を使った治水を表しているわけだ。

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土や石を使った治水の始まりは、そもそも文明の始まりを意味する。水を支配下に治めて安定した土地には労働力が集まり、その結果富が蓄えられて町ができる。そして水を治めるために天文や土木の学問も発達して文化も育まれる。

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文化的な町は人の都合にあわせて形を変えて行き、田舎にはない合理性を重視したまっすぐで長い水路がつくられ、それに沿ってまっすぐで長い道ができる。そういう道のこともまた縄手と呼ぶらしい。

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ということで夏目漱石『こころ』 に出てくる畷(なわて)と、田んぼの畦道ではなくまっすぐで長い道を意味する縄手(なわて)との関係を調べてみたという、知っている人には常識だと笑われそうなことのメモである。


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郷里静岡県清水の巴川もそうだが、肥沃な氾濫原を作りながら蛇行する河川をコンクリート護岸の直線水路化することは、ダムなどと同じく自然への負荷となる。それに対する反省として遊水池造成など近自然的治水工法での見直しが行われている。


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自然に対して人間に都合のよい合理性を押し付けないことを徹底するなら、自然災害のリスクと引き替えに得られる地勢由来の富を、地域保障のための財源としてその地域住民のために担保するハードではないソフト的な治水が、文明の行き着く先にあるように思う。


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畷と縄手からの脱線おしまい。

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ラジオは友だち

2014年4月21日(月)
ラジオは友だち

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診療所待合室で長時間待たされたり、タクシーという密室で運転手と二人だけの沈黙が気まずかったりすると「ああ、こんなときラジオがあって良かった、ラジオっていいものだな」と思う。けれど、電話がかかってきたり、加齢のせいか考え事への集中がままならなかったりすると、ボリュームを絞ったり消してしまいたくなり、日常生活の中でつけっぱなしのラジオにつきあうのはなかなか難しい。

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震災でラジオが被災民の支えとなった話はドキュメンタリー映画のやらせ発覚で味噌がつけられてしまったけれど、ラジオが果たした功績には偽らざるものがある。東京在住でも震災直後の余震が酷くて地震酔いになり、心がわさわさと不安定になったとき、つけっぱなしのラジオにずいぶん助けられた。

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人生でとりわけラジオがありがたかったのは、母親が他界して無人となった家の片付け帰省時だ。足かけ四年間、ひとり軍手をはめマスクをして、薄暗い家のゴミ捨てをしたが、片付け作業をしているときも、がらんとした部屋に布団を敷いて寝るときも、常に傍らでラジオが鳴っていた。

|末期ガンの宣告を受けた母親が枕元で聴き、他界後の片付けで支えとなった SONY の防災用ラジオを時々つけてみる|

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ラジオは友だちというフレーズはどこか民放ラジオ局のキャッチコピーだったようにも思うけれど、普段の暮らしでラジオが友だちである時間は常に断片化している。いくら気心が知れた友だちであっても、喋り通しの話を始終聞き続けることはなかなかできない。

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だが人間にはそういう付き合い方が必要な時があり、それができてしまうのは互いが家族だからだ。友だちとはいえ他人では耐えられないことも、家族であれば耐えなければいけないし、耐えていけるのが家族というものだろう。呆けた年寄りの幻覚に付き合って、明け方まで訴えを聞きながら過ごした日々もある。

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ポール・サイモンが相棒だったアート・ガーファンクルについてインタビューを受け、仲が悪いというので有名な二人だけれど、それでもずっと友だちですよねと聞かれ、彼が友だちだったことなど一度もない、彼は家族だと答えたという。

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都合に応じてつけたり消したりして付き合うラジオは他人だけれど、なんでもいいから鳴り続けてくれ、語りかけてくれなかったら心がどうにかなってしまうと感じるときのラジオは、まぎれもない家族なのだと思う。

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そういうことをポール・サイモン風に言えば、ラジオが友だちだったことなど一度もない、ラジオは他人だったり家族だったりする。友だちとは他人以上家族未満の微妙なものだ。

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庭の春と太田道灌

2014年4月20日(日)
庭の春と太田道灌


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義母が暮らす老人ホームの居室は南に向いて全面ガラスで開閉する窓がある。晴れた日には布団が干されるベランダに出て庭を覗くと、建物に沿って木々が植えられている。

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左端にはブドウ棚があり、その隣にはカリン、その右隣にはユズがあって、夏から秋になるとそれらは次々に実を付ける。

|ブドウの春|

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ブドウ、カリン、ユズとくればそれらに隣り合う木々にも何かの実りを期待してしまうが、「七重八重 花は咲けども ホニャララの 実のひとつだに なきぞ悲しき」で、実をつけたのを見たことがない。

|カリンの春|

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実を付けないのでホニャララの名前がわからない。4月19日土曜日の面会でベランダから見たら、ユズのとなりは白い花が満開、さらにそのとなりは咲き終えたのか、葉っぱばかりになっていた。

|ユズの春|

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日差しを浴びてポカポカになった布団の上に身を乗り出し、それらの木々に訪れた春をカメラにおさめてきた。

|開花が遅くいま満開ホニャララの春|

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ホニャララの名前がわからない八五郎はご隠居に書いてもらったヤマブキの歌をうろ覚えに、友達に尋ねようとし
「ナナヘヤエハナハサケドモヤマブシノ、ミソヒトダルトナベトカマシキ」
などと言ってしまう。
「なんだい、そりゃァ。都々逸か?おめえ、よっぽど華道に暗ェなァ」
「だから写真を撮ってきた」(落語「道灌」風)

|開花を終えたのか葉ばかりになった隣のホニャララの春|

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海鞘の味

2014年4月19日(土)
海鞘の味

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海鞘と書いてホヤと読むほやが好きだ。結婚して仙台に籍を置いたことがある母親も大のほや好きだった。

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大学を卒業したばかりのころ、かつて中央線沿線にあった著名居酒屋で、ホヤの塩辛を食べたのが初めての出会いだが、鼻がもげそうな異臭があって、こんなものは二度と食べるまいと思った。

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しばらく後になって、ほや好きの母親が東京の居酒屋で新鮮なほやを見つけ、剥いてもらって食べて帰り、最高の味だったと自慢していたが、あれが新鮮なほやが東京で手にはいるようになったはしりの頃だったのだろう。

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あんな臭い物をよく食べるねと母親を笑ったら、ほやは臭くないよと笑い返されたが、本当にほやが臭くなくて、本当においしいものだと知ったのは、夏の東北を旅して新鮮で剥きたてのやつを食べてからだ。

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青森の市場脇には早朝からおばちゃんたちが並び、
「お客さん、ほや剥かせてよ~」
と観光客を呼んでいた。剥きたてをビニール袋に入れてもらい、ビジネスホテルの食堂に持ち込んでこっそり食べていたら、従業員のおばちゃんが
「あら、いいもの買ってきたね~。待ってな、いまご飯をもう一杯上げるから」
などと言い、ほやで食べるご飯がうまいと知ったのはその時だ。

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小さな車に乗って訪ねた釜石の町で、入る店ごとに出てくる突き出しがほやで、
「ほや食べてすぐビール飲むと甘いから試してみて」
と、どの店でも嬉しそうに言うのを笑ったのも、いまでは震災前の切ない思い出になっている。

 

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わが家の近くでは新鮮なほやが手に入りにくいので、今では塩辛や干物にしたものでも喜んで食べているが、初めて食べた中央線沿線のほやの味には出会ったことがなく、あれは珍味の限界を超え、傷んで異臭を発していたのではないかと思われる。そういうものを食べても死なないのが人間なのに自然災害には勝てない。ほやにはいろいろな味わいがある。


|東北新幹線に乗ると楽しみにしている車内販売が売りに来る石巻・水月堂物産のキャラメル箱入りほや|

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今週の散歩道まとめ

今週の散歩道まとめ

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仕事帰りにいつもと違う路地を折れたら木香薔薇(モッコウバラ)が咲いていた。「ああそんな季節になったのか」と驚くようなカードが切られて次々に目の前で開かれるたびに、巡る季節というのは永遠の連用日記のようなものだなと思う。

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六義園内で日当たりのよい水辺に、細い茎ばかりがホエホエと生えている植物があり、なんとも脱力感を誘う風景だったので写真に撮ってきたが、翌日同じ場所に行ったら一斉に開花していた。アップで撮影したものをもとに思いつく限りのキーワードを入れて検索したら松葉海蘭(マツバウンラン)だった。

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数年前、六義園に出かけたらツツジの無料ガイドウォークが開かれており、しだれ桜ライトアップの喧噪が去った揺り返しか、ひどく参加者が少ないので飛び入りさせていただいた。染井村がかつて植木職人の村であったこともあり、非常に奥深い話が聞けて楽しかった。今年もまた園内のツツジが見頃を迎えている。

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六義園内滝見の茶屋前で流れゆく水面を眺めていたら、落ち葉が四枚並んで流れ去っていくのを見つけた。流れが速いので慌ててシャッターを切ったがちゃんと写っていた。落ち葉は珍しくもないが、こうして着水したものが整列して流れる確率はそう高くないのではないかと思われる。人には「これは珍しい!」と確立の高低に反応する力があるらしい。(寺田寅彦風)

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六義園の端で入園者が立ち入れない場所にある一本の木にすぎないが、中で子育てをするカラスがいて、時折バサッと飛んできて中に消える。そのたびに、『森の生活』とか『森に降る雨』などの書名を思い出しつつ、これもまた「森」なのだなぁと思う。 関川夏央さんの『森に降る雨』はまだ読んでいないのでついでに注文した。(関川さん、カラスのついでですみません)

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魚紋(もじり)

2014年4月18日(金)
魚紋(もじり)

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開高健に出てくる「魚紋」という二文字だけを検索窓に入力してやると、飲食店情報と、手相見のサイトと、壷屋焼の金城次郎さんがヒットするが、それらの読みはみな「ぎょもん」である。「魚紋+もじり」と入力してやると、漁師や、釣り人や、愛魚家のページが検索の網に掛かるが、なぜ魚紋を「もじり」と読むのかがわからない。

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「もじり」という言葉を調べてみたら「捩り捩る」があって「すぢりもぢる」と読む。辞書には近松門左衛門の浄瑠璃『冥土の飛脚』から引用があり、
「里の裏路(うらみち)畦路(あぜみち)をすぢりもぢりて藤井寺(ふぢゐでら)」
♪里の裏道や畦道を曲がりくねって藤井寺に着いた(内山田洋とクールファイブ風)、というように用いられている。

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魚が水面近くにやってきて餌となるものを捕食する際、水面が波立って模様ができることを魚紋(ぎょもん)といい、その「魚紋」に餌を追って体をくねらせる「捩り(もじり)」の読みを当てたのだろう。開高健ではこんな風に用いられて出てきた。

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 どこの池や川へいっても釣る人がいないので不気味なくらい静かだった。杭、桟橋、岩かげ、藻のかげ、淵、いたるところに魚紋(もじり)があって、影が閃く。魚にみちみちている。藻かげで魚の呼吸する音、水面に跳ねる音、もつれあって逃げる音などにみちている。あとは木の葉のそよぎと、水や泥のうえで煮える日光のざわめきがあるだけだ。(開高健『青い月曜日』)

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「水や泥のうえで煮える日光のざわめき」などとというすごい表現を寝転んで読みながら、なんて表現が的確で上手なんだろうと身体をすぢりもぢりした。

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自意識の耐えられない過剰

2014年4月17日(木)
自意識の耐えられない過剰

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「あの人は私のことをどう思っているのだろうか」などと想像して考えてばかりいるのは、あの人の気持ちを考えているつもりで自分のことばかり考えているにすぎない。そうやって自意識がはちきれんばかりの過剰になりがちなのは自分もあの人も同じなので、実は「あの人は自分のことばかり考えていて、私のことなどほとんど気にしていない」というのが「あはは…」な現実なのである。

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「あなたは私のことをどう思っていますか」
「べつにどうとも思っていません」
「そんなはずはありません、あなたは私のことを思っているはずです。正直におっしゃってください」
「正直に言えば、私は私のことばかり考えているので、あなたのことなどまともに考えたことがないのです」
「まともでなくてもいいですから、少しでも私について考えたことがあったら教えてください」
「そうですね、あの人は私のことをどう思っているのだろう、ぐらいですかね」
「あはは…」

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木を食った話

木を食った話
2014年4月17日(木)

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昭和三十年代の東京下町、場末で食べる中華そばに入っているシナチク(支那竹)は妙に硬くて、誰いうともなく
「あれは客が使った割り箸を煮て味付けしたものだ」
などという噂があり、冗談だと知りつつ妙な現実味があって、それくらいに硬いことが多かった。

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大宮駅東口に『京園』という台湾料理屋があってなかなか美味しい。いつだったか壁の品書きに干したけのこの炒め物を見つけたので食べてみた。台湾で言う乾筍(カンスン)を戻し、煮て味付けしたものがシナチクだと聞いていたので、半世紀ぶりに割り箸を煮たものでないことを食べて確認できた。

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子どもの頃食べたシナチクが硬かったのは、タケノコが竹に近いくらいに伸びきったやつを使うからではないかと思っていたが、台湾産の干したけのこの材料は麻竹(まちく)といって直径20cm、高さ20mにもなる大きな竹で、日本の孟宗竹とは大きさが違うらしい。支那産でないのにシナチクはおかしいというので、麺の上にのせる麻竹だから麺麻(めんま)という名に言い換えたのが呼称の由来だという。

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開高健の作品に『青い月曜日』という自伝的小説があり、その中に太平洋戦争中、勤労動員によって操車場で働かされている仲間と連れだって投網を打ちに行く話がある。列車が山あいの駅に着くあたりの文章がとても美しい。

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 汽車は長方形の車体が楕円形になるぐらい人間を呑みこんでのろのろと走りだし、都会をぬけ、平野をぬけると、やがて静かな山へ入っていった。渓谷に沿って走り、小さな駅で私たちをおろすと、あえぎあえぎ去っていった。この駅でおりたのは三人だけであった。よほどの田舎だ。駅長がでてきて機関士に車票をわたすということもしなかった。私たちは夏空と蝉の合唱のなかにおちていた。川の音が聞えて、あたりいちめんに草の匂いがあった。(開高健『青い月曜日』)

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結局一匹の魚も捕まえることができず、手ぶらで乗った帰りの列車が、米軍機による機銃掃射を避けるため緊急停車する。逃げ惑う人びととともに斜面を這い上った主人公は、徴兵を逃れて山奥に隠棲する男とその妻に会う。

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 「物や技巧にたよると人間は弱くなるのですよ。裸がいちばんいいのです。人間本来無一物と申しますでしょう。あなたがたは知ってますか?」
 川田が答えかねて顔を赤らめていると、男はかまわずに話をつづけた。いつのまにか私たちのまわりに退避してきた汽車の客たちが群がり、男の話を聞くともなしに聞いていた。(開高健『青い月曜日』)

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物慾、色慾、権力慾などという我慾のとりことなったために人類はこうして滅びようとしている。食べようと思えば木の葉でも何でも食べられるのに、人間はことここに至ってもなお買出しだ、闇だと血眼になって我慾から逃れられないと男は言う。そう言って男は手近にあった木の葉をちぎってむしゃむしゃと頬張り、今は苦味があるが若葉のころはもっとおいしいと言って食べて見せ、
「……すると、何ですか、あんたはこんなところへこもって木の葉食べて生きたはるのでっか?」(開高健『青い月曜日』)
とまわりの者を驚かせる。

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また戦争などという事態になったとしても、もう戦場へ引っ張られる年ではないけれど、もし若かったらこうして逃げ延びることができるだろうか、木の葉を食べて生き延びられるだろうか、などと考えていたら、割り箸を煮たように硬かったシナチクのことを思い出した。

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戦争中は食べられるものなら何でも食べたので雑草すらなくなるような有り様だったと親たちは言っていた。竹は草本か木本かなどと定義から議論して考え込んでしまう人間が、ジャイアントパンダのように竹まで食べて生き残れるだろうかと、清水から届いた柔らかいタケノコを食べながら思う。

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