【カンナの咲く頃】

【カンナの咲く頃】
 

 物心つく前の儚い断片的な記憶の中に、川沿いの土手に咲く真っ赤なカンナがある。
 てらてらとした艶があって幅広の葉を持つ、すらりと伸びた長い茎を見上げると、遙か高いところにその花は咲いており、抱き上げられてようやく間近で見た鮮烈な赤が、今も記憶に焼き付いている。



カンナに降る雨。

 両親に連れられて東京へ向けて出奔するまで、ほんのわずかだけ暮らした郷里静岡県清水の家について、
「土手に真っ赤な花が咲いていたよね」
と聞いたら、それは母が植えたカンナだった。
 そんなわけで郷里静岡県清水を流れる巴川に関して、幼い頃の記憶をたどるとそこには決まって真っ赤なカンナが咲いているのだけれど、夏の日の墓参りで川辺の家があった大内近辺を歩くと、なぜか赤いカンナが咲いていることが多く、川辺というのはカンナの生育に適していて、毎年自然に生えては花をつけているのかもしれない。



塩田川土手に咲くひと群れのカンナ。2009年8月8日

 本郷通り沿いにも街路樹の根元にカンナが植えられている区間があり、幼い頃のふるさとを思い出したりするのだけれど、いかに幼かったとはいえ見上げるように高いところにあったカンナの花を、いかに大きく育ったとはいえ見下ろすように眺めるなどということが、本当にあり得るのだろうかと不思議に思っていた。



巴川支流河口近くに流れ着いて自生したカンナ。2009年8月19日

 衆院選投票日だった8月30日、夕方近くなって買い物に出たら雨が降り出した。
 この夏ももうカンナの季節は終わりだなと、花のなくなったカンナの濡れた葉を眺めて歩いたら、花が散ったあとに実がついていた。カンナは球根植物なので根っこで増えるのだけれど実生もちゃんとつく。カンナの実生について調べてみたら、街路樹下に咲いている背の低いカンナは、種苗メーカーが実生から育てて矮小化させた背の低い品種なのだという。



本郷通り沿いで見つけたカンナの実。2009年8月30日

 生まれて初めてカンナの実生を見つけることで、幼い頃抱き上げられてようやく間近に見ることのできた、高さ2メートルにも達するカンナと、街路樹の足下で濡れている50センチほどのカンナの、不思議の謎解きがやっとできた。

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▼亀の湯

 小学生時代に通った東京下町の銭湯は毎夜芋の子を洗うように混雑しており、昭和三十年代とはそういう時代だった。あまりに混雑しているので、銭湯では脱衣場の脱衣カゴを片付けたり、乳幼児を連れた客の手伝いなど、雑用をするために紺の上着を着た若い女性が何人も働いていた。

 




左から、夕日を受けて点いているように見える電球、
色とりどりの飾りカボチャ、
廃線となった電停看板のある中古カメラ屋、
いずれも亀の湯のある坂道にて。



 木賃アパートの隣三畳間に住む独身のお兄さんが、そのうちのひとりを好きになったらしいという噂が近所に広がり、とうとう自分の三畳間に彼女を誘って連れてくるのに成功したなどという話しが、また近所の話題となっていたのを今でも思い出す。やがてデートの日が来て、いま隣の部屋に銭湯のお姉さんが遊びに来ていると思うと不思議な気分だった。
 おとな達の恋愛にかかわるドタバタはたくさん見聞きしているのだけれど、裸になる場所で知り合った女性との恋愛というのが、子ども心に妙な引っかかり方をしているのか、今でも忘れない。
 中学生になって生まれ故郷清水に引っ越し、当時飲食街はずれにあった銭湯に通い始めたら、湯上がりに番台の少女と目が合い、それが中学でよく顔を合わす上級生であることにきづき、それ以来巴川たもとにあった別の銭湯に通うようになったが、その複雑な想い出とも微妙に絡み合って記憶から消えない。




寝かせて入れる奥の深い傘箱が馴染み深いが、
ここ亀の湯では立てて入れる方式なのが珍しい。



 銭湯で男湯と女湯が左右どちらにあるかは決まりがないらしく、思い出の中で男湯は右だったり左だったりする。住宅が建てこんだ街なかでは、覗き見されにくい側に女湯があるケースが多いと聞く。やはり男湯より女湯の方が覗かれてはまずいのだ。
 小学校4年生になって「今日からひとりで男湯に行け」と言われてそうしたけれど、男湯の脱衣場にも女湯で見かけた紺の上着を着た同じ女性が入って働いているのにびっくりし、三畳間のお兄さんとはその後どうなったのだろう、などと横顔を見てぼんやり思ったものだった。

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▼2009年秋天

 このところ朝夕涼しくて、熟睡するせいか寝坊することが多い。慌てて仕事場に行き、午後一番から百人町である三好春樹新刊書打ち合わせ資料を準備する。駒込駅前橋上から見上げる空はすっかり秋の雲に主役交代している。

 




8月28日の空。



 農林水産省が28日に発表した、2009年産米の作柄は46都道府県中、25都府県が「平年並み」、21道府県が「やや不良」だという。百人町での打ち合わせを終え、赤坂の農業系出版社で『大絵馬ものがたり』という民俗学写真集全五巻のうち最初の一巻分装丁データを納品した。
 コロムビア通りの坂道を下って赤坂見附に向かう途中の路上にあるバケツ田んぼに、今年も見事に稲穂が稔り、スズメ除けも施されて収穫の日を待つだけになっていた。猫の額ほどのバケツ田んぼにも秋の恵みの有り難さが充ち満ちて、通りかかる人の足をとめさせており、みんな日本人だなぁと思う。




8月28日、赤坂コロムビア通りのバケツ田んぼ。



 午後七時から駒込富士神社で今年の山じまいにあたる大篝火が焚かれるというので行ってみた。富士講の人々が揃いの衣装で集まり、篝火点火前の神事が行われていた。点火までしっかり拝見しようと思ったのだけれど、藪蚊の来襲に悲鳴をあげてあえなく退散した。




8月28日、駒込富士神社、大篝火点火前の神事。



 富士神社を出て駒込病院脇から動坂を下り、動坂下交差点にある『動坂食堂』に夕食を兼ねて行ってみた。以前から前を通るたびに入ってみたいと思っていた食堂で、郷里静岡県清水庵原の友だちの娘もこの店のすぐ近くで働いていた。




8月28日、動坂食堂前にて。



 地域の老若男女、仕事帰りの人々などが次々に訪れ、明るい喧騒の中で飲食する飾り気のない大衆食堂だけれど、安くて美味しくて、郷里静岡県清水、大正橋たもとの『金田食堂』を思い出した。

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【氷ミルク】

【氷ミルク】
 

 日曜の投票日が地区の運動会と重なっており、奥さんが地区女性部の部長を兼務しているので、運動会はかき氷を売るのだと、静岡県清水から届いた友だちのメールにあった。清水はまた暑さがぶり返しているという。
 かき氷で思い出したのだけれど、この夏、郷里清水帰省時に二回続けて清水銀座『マンガ喫茶富士』の氷ミルクを食べている。



清水銀座『マンガ喫茶富士』の氷ミルク。

 最初に食べたのは清水七夕祭り初日の朝で、あまりに暑いのでたまらず氷ミルクを頼んだのだけれど、食べてみてびっくりした。業務用のコンデンスミルクを使っているなら丸ごと一缶ぶち込んでいるのではないかと思える大盤振る舞いで、しかもミルクがかかっていない部分にはちゃんと定番通り白蜜で甘みがつけてあるので、甘い物好きのお子様なら飛び上がって天井にめり込みそうな爆発的甘さがある。
 食べながらコンデンスミルク好きの新潟の友だちにメールを書いたら
「食いてぇ~っ」
と絶叫メールが戻ってきた。
 美味しいのでガンガン食べたらこめかみがキーーンと痛くなり、いい歳してやめようと思ったけれど、次回帰省時もいつの間にか『マンガ喫茶富士』に吸い込まれて目の前に氷ミルクがあった。

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【ジュズダマ】

【ジュズダマ】
 

 子どもの頃、静岡県清水大内の田んぼの真ん中にあった祖父母の家に預けられて過ごした夏の日、ジュズダマの実を集めてよくひとり遊びした。



大内田んぼの今年のイネ。

 祖母が針に木綿糸を通し、ジュズダマの中心に針を刺してその糸を通し、茶色い素朴な首飾りを作ってくれたのを懐かしく思い出す。ジュズダマの実で作るお手玉や首飾りを、懐かしい草花遊びの本で知っている友だちは多いけれど、実際にジュズダマの実を摘んだ経験がある人は意外に少ない。僕が子ども時代の大内田んぼは畦や土手沿いを探せば、いたるところでジュズダマをとることができたが、考えてみたら郷里以外の野山でジュズダマに出会ったことがほとんどない。



大内田んぼ脇のジュズダマ。

 ネットで調べて知ったのだけれど、ジュズダマは食用として熱帯アジアから持ち込まれた稲科の植物で、このジュズダマを改良した作物がハトムギなのだという。かつて栽培されていたものが野生化して広まったのが、野に自生するジュズダマなのだそうで、大内田んぼでもジュズダマが栽培されていた時代があるのかもしれない。
 かつて一面の田んぼだった場所は巴川の遊水池になってしまったけれど、北街道と大内観音のある帆掛山に挟まれた場所では、時折こうしてジュズダマが残っていて懐かしい。

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【夏の時間】

【夏の時間】
 

 子ども時代の夏を思い出すと、何かおもしろいことはないかと楽しみを探しあぐねて、長い昼間の時間を持て余していた記憶があり、何て贅沢な暮らしだったのだろうと思う。



左から、新巴川沿いを歩いていて見つけた「清水おもしろクラブ」、
新巴川に架かる小さな橋より、
「清水おもしろクラブ」正面にまわってみたが休みだった。

 子どもは「おもしろいこと探し」が得意そうでいて実は下手くそで、いつもおもしろがらせてくれる大人の手助けを求めていたんじゃないかと思い、同じように贅沢にある時間を持て余して「おもしろいこと探し」ができずにぼんやりしている年寄りを見ていてそう思う。



能島八幡にて。円を描いて何かおもしろいことをしたらしい。
輪踊りかなと思ったけれど、何かの競技跡にも見えるし、
幼児の運動会跡にも見え、想像することもまた楽しい。

 こんなにふんだんにある夏の時間を、生活のための仕事をせずに過ごせるなら、あれもしたい、これもやってみたいと思うことが山ほどあるのにと、子どもや年寄りを見て思う。だが自分もやがて、「おもしろいこと探し」ができない年寄りになるのだろうか。



塩田川の水辺で遊ぶ子どもたち。
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【能島ひとまわり】

【能島ひとまわり】
 

 静岡県清水区能島。次郎長と同じ時代を生きた國太郎の代まで、瓦職人だった母方の祖先をたどるとここ能島に行き着く。島と名がつくとおり、かつて水量が多かった巴川がこのあたりで分流して川幅が広くなり、巨大な中之島になっていたため能島という地名になったらしい。
 北西部の山から流れ出た土が堆積して粘土となり、瓦製造に適していたため古くから瓦製造が盛んだった。わが祖先も家族内口伝に寄れば、駿府城築城用の瓦を焼くため、三河からやって来た瓦職人だということになっている。
 この地で瓦産業が栄えたもうひとつの理由は、川の中州だったため水運の便が良かったことで、終戦直後から高度成長期にいたる瓦産業最盛期には巴川河口にあった瓦問屋まで船を使って出荷したし、駿府城築城の際も川を遡って瓦を運ぶことができた。旧清水市域の中でこの能島は駿府城の直轄領とされていた。



左から、巴川に合流する新巴川、
新巴川に架かるこの小さな橋は僕が幼い頃すでに永久橋で欄干がなくて怖かった、
新巴川上流方向、右岸が能島ということになる。

 巴川に架かる昭和九年竣工の永久橋、能島橋の下流200メートルほどの所に巴川に合流する小さな川があり、現在の地図では新巴川になっているが土地の人は昔この川を「ふるっかわ」と呼んだ。呼び名の通り古い巴川の名残であり、この分流があったために能島は島だったので、能島に渡るには船が必要だった。





新巴川(ふるっかわ)に沿って

 地図を見れば今でも能島は巴川と新巴川に囲まれることによって島であることは一目瞭然なのだけれど、川に沿って自分の足でぐるっとひとまわりすることで、島であることを確かめたくなって一周してみた。



能島一周を終えて。川の下流に見えるのが能島橋。
川の右岸が能島ということになる。

 ぐるりと一周してみたら、能島はちゃんと川の流れに囲まれて島として残っていた。
 ただそれだけのことなのだけれど、じりじりと焼け付くような夏の日射しの下にいると、人はそういうことをむきになって、ただひたむきにやってみたくなるものだ。

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▼リコーダーで奏でる諸国の歌

介護の合間を縫って徒歩15分で行ける、母校近くにできた小ホールで開かれた、リコーダーのコンサートに行ってきた。


「リコーダーで奏でる諸国の歌」
演奏:
田中せい子 ダニエレ・ブラジェッティ
演目:
T. モーリー:カンツォネッタ集
松永通温:カンティクム
A. ポリニャーノ:ロンド
G. ヤンセン:ラルゴ
G. バッサーノ:リチェルカータ
I. ユン:「中国の絵」より“猿回し”
J. ファンエイク:「笛の楽園」より


会場に何と作曲者の松永通温さんご本人が見えており、もう80歳を過ぎておられるけれどとても若々しかった。




9月15日は「浜松市楽器博物館」にて。おすすめです。
一度行ってみたいけど無理だな。

「天使の調べ~無伴奏リコーダーの競演~」
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【昭和九年の永久橋】

【昭和九年の永久橋】
 

 静岡県清水区能島。
 子どものころ頻繁に渡った橋のひとつが巴川に架かる能島橋で、この橋は清水でもかなり早い時期から永久橋だったという。そんな記述を歴史書に見つけ、そういえば幼い日に幼児用補助椅子をつけた自転車に乗って、母と渡った能島橋が確かにコンクリート製の永久橋だった記憶があるので、古びた橋脚の銘板を確かめに行ったら「昭和九年二月竣工」とあった。



左から、「昭和九年二月竣工」の銘板、能島橋全景、繰船八幡神社内の石碑。

 昭和九年と聞いて驚くのは、この能島橋よりひとつ川上の堀込橋が、東京オリンピックのあった昭和三十九年時点でまだ木造橋だったからだ。
 堀込橋たもとには知る人ぞ知る旧清水市の屎尿処理場があり、膨大な数のバキュームカーが毎日堀込橋を渡って市内から出る屎尿を運び込んでおり、得も言われぬ香りとともに乾燥して肥料になった黄色い乾燥ペレットが、ベルトコンベアでうずたかく積み上げられていたものだった。
 毎日何十往復もバキュームカーが渡るので、木造橋の上に土を敷いただけの橋はすぐにデコボコになり、歩いて渡ると板の隙間から川面が見えて怖かった記憶ばかりある。毎日排出される清水市民の屎尿の重さを支え続けていた堀込橋ですら、コンクリート製の永久橋に掛けえられたのは昭和四十四年五月なので、いかに能島橋の永久橋化が早かったかわかる。



「昭和四十四年五月竣工」の第一堀込橋上より。
巴川右手あたりに祖父母の瓦工場があった。

 能島橋早期永久橋化の理由は能島の八幡神社境内にある石碑に書かれているので再度読んでみた。
 「道路改築記念碑」と書かれたその石碑に書かれている内容によると、当時この能島地区は日本第三位の瓦生産量を誇る静岡県内において、その四分の一を生産している地域だったが、瓦積み出しを巴川による水運に頼っていたこともあって陸運が立ち後れ、道路も橋も、何度誓願しても整備して貰えなかった。そこに降って湧いたのが昭和八年、政府による農村土木振興事業で、それを千載一遇の好機として補助金獲得に成功し、昭和八年能島地区道路改良工事は着工され二年後の昭和十年に竣工している。その際、拡幅された竜南街道とともに能島橋は永久橋化されたのだろう。



1934年2月竣工の能島橋。2009年8月19日。

 永久橋といっても字面通り永久不滅の橋では当然無くて、コンクリート製の欄干など触るのも怖いほどに傷んではいるけれど、この橋が75年間もこの場所にあり続けることに、この地域に暮らした経験がある者としては、得も言われぬ感慨がある。

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【旧北街道と竜南街道】

【旧北街道と竜南街道】
 

 静岡県静岡市清水区押切。
 JR新宿駅高速バスターミナルを出た高速バス「駿府ライナー」が東名高速道路を出て最初に停車するバス停が「押切」になる。入江南の生家を整理したので、高速バス「清水ライナー号」より「駿府ライナー号」の方が便が良くなってこちらを利用する機会が増えそうに思う。



左から東名清水インターを降り北街道を西進する駿府ライナー、
押切から先、北街道沿いのバス停案内板、
竜南街道十字路近く『炒炒』のラーメン。

 現在の北街道、押切付近にあたる区間が開通したのは明治40年のことで、それまでの旧北街道は天王交差点を過ぎて西進し、和田川を渡ってすぐを左斜めに降りていく細い道がそれであり、いつの間にか旧北街道であることを示す案内板が設置されていて嬉しい。大内新田の集落を抜けていくその細道は北街道が昔の姿のまま残っている貴重な道になっており、瓦職人だった母方のルーツのような地域であり、100歳近くまで曾祖母が一人暮らしをしていた家もある。




左上:旧北街道江尻方向、
右上:竜南街道能島方向、
左下:竜南街道柏尾方向、
右下:旧北街道駿府方向。

 大内新田集落内に残る旧北街道を西へ歩いていくと小さな交差点で旧北街道と竜南街道が交わっている。明治40年に新しい北街道が開通し、竜南街道が開通したのが明治42、3年の事なので、それ以来この十字路は新しい北街道とともに東西南北が交差する交通の要衝になった。竜南街道を北へ行けば柏尾、南に行けば能島、北街道を東に行けば江尻、西に行けば駿府という交差点に立ち、ここを通りすぎたであろう人と物の姿をふと想像してみる駿府ライナー下車直後。

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【風立ちぬ】

【風立ちぬ】
 

 雑誌『季刊清水』の編集会議に出席するため日帰り帰省した。
 駿府ライナー押切バス停で下車し、戦中戦後期の瓦産業について調べるため清水区能島で取材した。そのあと会議まで余裕があったので、能島が今でも巴川の流れに囲まれた島であることを確認するため、蝉の声を聞きながら岸辺を一周してみた。
 巴川にもっと水量があった時代、粘土質の大きな中州として能島は存在した。そこに南から旧谷津沢川が押しだした扇状地が川を挟んで接し、その部分はちょっと高く安定した土地だったので土豪吉川氏の館があった。地元の人はそのあたりを「上の段(うえんだん)」と呼んでおり、母方の親戚もあって親戚中から「うえんだんのうち」と呼ばれている。



何となく秋らしい墓参りの道(左)
大内田んぼの稲とその畦に一列植えられた古代米らしきもの(右)

「そうだ、墓参りをしていこうか」
と思い出したように言うと、母親は
「墓参りはついでにするもんじゃないよ。あらためて出直そう!」
とひどく叱ったものだけれど、自分が参られる立場になった今も、母はやはりそう言うのだろうか、墓を蹴倒して出てくるんじゃなかろうかなどと考えながら、取材ついでの墓参りをした。いつも通う墓参りの道に咲く花も、いつの間にかすっかり秋めいていた。



つぶらな眼としっかりした眉のキャラクターを見ると「清水ふるさと塾」塾長に見えてしまう(左)
地上の強風を知っているのか、子どもを抱き足を拡げ踏ん張ってエスカレーターをのぼる若い静岡の母(右)

 北街道大内観音前バス停からしずてつジャストラインバスに乗ってJR静岡駅前に着き、地下通路を渡って地上に戻り、駅前のロータリーに出たらひどく風が強くて驚いた。秋の風というわけでもなく、駅前に高いビルが建て込んできたことで、ロータリーにビル風が起こるようになったということだろうか。じりじりと照りつける太陽の下、無風の大内観音バス停から密閉空間に入って移動したが、田舎と都会のコントラストに目が眩んだわけではなく、唐突な強風に驚いてちょっとよろめいた。



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【手と職と言葉】

【手と職と言葉】
 


 職を失った若者の再就職支援に関するドキュメンタリー番組を見ていたら面接の練習指導で
「我が社をどうして選んだのですか?」
と聞かれ、言葉に詰まって何も言えない若者を見た。本音を聞けば、
「どんな仕事でもいいから正規雇用してもらって安定したいだけ」
だという。質問されて黙って首をかしげるのではなく、素直に
「遊ぶ金欲しさです」
と笑顔で答えてくれた方が、僕が面接担当者なら、面白い若者だなと思って突っ込んで話してみたくなるのだけれど。



友人が何人も通った専門学校の広告(左)と北川木材工業の広告(右)。静岡鉄道桜橋駅にて。

 4年前の夏、難病にかかり若くして他界したひとまわり年下の従妹の娘が、来年はもう高校を卒業するのだという。
「進路はどうするの?」
と義理の従弟に聞いたら、お菓子作りの仕事がしたいので専門学校に通うことにしたのだという。
 手に職をつけておけば、面接で
「我が社をどうして選んだのですか?」
と聞かれても、
「自分の技術が生かせると思ったからです」
と答えられるのが何よりだと思うので、
「安心した、今の時代、手に職をつけるのが何よりだもんね」
と答えたらきょとんとしている。



JR静岡駅にて。旧静岡市で盛んな下駄製造、清水銀座にもかつて全国を相手に手広く商売をした下駄屋があったという。

 思えば、高校を出たらすぐ手に職をつけようとしている娘の、その父親も、その祖父である叔父もまた手に職を持った人であり、それでも
「こう景気が悪くちゃ仕方ない」
とぼやき続けているのであり、手に職があるからこそ完全失業することもなく何とか暮らせている幸せが、手に職を持っている人からは見えにくいのだろう。若者が言葉に詰まるわけだ。

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【坊ちゃんと乙女とオヤジ】

【坊ちゃんと乙女とオヤジ】
 

 行きつけの床屋が廃業してしまい、新しい床屋に行くと、いちいち髪型の注文を付けるのが面倒だと言って、限界まで我慢していた友だちがいるけれど笑えない。
 ここ数年間清水帰省する度に、実家向かいの床屋で散髪して貰っているので、東京の床屋に行くのがが面倒で、半年近く清水帰省ができないと、半年近く髪が伸ばし放題になってしまう。もちろん以前通っていた床屋が東京にあるのだけれど、長いこと別の床屋に行っていた理由を説明するのも面倒で、床屋というのは頭の上に載っている毛をたかが毛のことと感じる者には、あれこれ説明するのを面倒と感じる場所なのだろう。子どもの頃も同じ理由で面倒だったかは記憶にないけれど、当然行きつけの床屋があり、黙って座ればちゃんと坊ちゃん刈になった。



更地になった実家跡地前の床屋(左)と静岡鉄道桜橋駅(右)

 実家土地売却の事後処理があって清水帰省したついでに向かいの床屋に寄ったら近所のおばあちゃんがパーマと毛染めで先客になっており
「おやあんた久しぶり、元気そうで良かった」
などと言う。女性というのは歳をとると他人の垣根を越えて身内のように接してくるものかもしれなくて、距離を置いてもわかる不思議な感触がある。
 垣根といえば男女の垣根も不思議で、子どもの頃、床屋に女の子が散髪に来るのが不思議だったが、壁に貼られた髪型一覧に坊ちゃん刈と並んで乙女刈があったので腑に落ちないわけでもなかった。男の子は黙って座ると坊ちゃん刈になり、女の子は黙って座ると乙女刈になった。



乙女刈のある料金表

 やがて女の子は大きくなって床屋に来なくなり、美容室に通って頭の上に載っている毛のことに関して、あれやこれやと注文をつけるようになる。そして、おばあちゃんになるとまた近所の床屋に戻ってくることが多く、祖母もそうで、床屋で顔そりをして貰いたいのだと言ってこの床屋の世話になっていた。
 乙女刈などという言葉は死語なのか、おとめがりと打つと乙女狩りと変換されて乙女刈がでてこないけれど、同様におやじがりはオヤジ狩りに変換され、そちらは誤変換ではなく現代用語として登録されている。黙って座れば坊ちゃん刈にしてくれた床屋が好きなままオヤジになったので、黙って座ればオヤジ刈にしてくれる店が面倒でなくていいなと思う。

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【桜橋デート】

【桜橋デート】
 

 静岡県清水桜橋町。
 静岡鉄道桜橋駅で待ち合わせして新静岡まで、若き日の甘酸っぱいデートについて書かれた、雑誌掲載用エッセイに添える写真を頼まれたので、帰省時にあれこれ撮影してみたが、現在の改札口ができる頃にはすでに高校を卒業して清水を離れてしまったので、現在の桜橋駅改札には撮影してもさしたる感慨がなく気持ちがこもらない。



左から橋上から見た桜橋駅、桜橋駅改札、橋上へ出る階段。

 南幹線道路が完成する前、僕が中学高校時代の桜橋駅は橋上駅舎だったので、桜橋でデートの待ち合わせをするならきっと橋の上だったはずで、残念ながら自分にはそういう思い出がないけれど、デートを申し込むような相手がいたらきっと桜橋の上で待ち合わせしたと思う。



桜橋たもとにある『ルビー美容室』前。

「桜橋のところにある『ルビー美容室』前で10時に逢おう」
などと言って待ち合わせをし、やって来た彼女を見たら自転車なのでなぜかがっかりしたりする。肩を並べて橋を渡り、橋上改札口で切符を買い、しずてつ電車に乗って新静岡まで。新静岡センター地下に降りてのぼって北街道に出て、江川町交差点の地下道に降りてのぼって江川町通りに出て、『メチャ安のサイトー』前を通り、呉服町交差点を右折して呉服町商店街を歩き、『田中屋』の手前を左折して七間町通りを歩いて映画街へ。
 映画を観たりボーリングをしたり、喫茶店でお茶を飲んだりして夕方になり、新静岡からしずてつ電車に乗って桜橋駅に着いたら夕暮れ時になっている。



『ルビー美容室』夕景。

 ホームの階段を上り、橋上改札口を出て、肩を並べて橋を渡り、『ルビー美容室』前にとめた自転車のところで
「楽しかった、じゃ、またね」
と手を振って自転車の彼女を見送ると、紅の空はすっかり暗くなって藍色に沈んでゆく。
 そんな桜橋デートが清水には無数にあったんじゃないかな、などと想像してみたりする桜橋夕景。

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▼麦藁帽と日本脳炎

 帽子をかぶった方がよいと薦められて夏用の帽子を買ったので、清水帰省時にかぶって外出したら実用に耐えない。帽子をかぶると熱気が帽子内にこもり、帽子を取った途端、帽子内に貯まっていた汗がザッと流れ出て背中を伝い、まるで滝のような有様になってしまう。身体全体が汗っかきになるのはメタボの証拠らしいけれど、頭から異様に発汗するのは男性にもある更年期障害の典型らしい。

 年下の女性編集者から電話があって
「暑いね」
というので
「頭が汗っかきになって、とくに後頭部が滝のようにひどいので、首に日本手ぬぐいをかけて外出してる」
と答えたら、それは女性の更年期特有の現象だと思っていたけれど男性もそうだと知って愉快であり
「ざまぁみろ」
だという。



しもふり銀座商店街にて。左が女性用、右が男性用。



 昼食後に買い物に出たら懐かしい田舎麦藁帽が売られていた。子どもの頃は、何処の家の玄関先にもこの田舎麦藁帽が壁に掛けられており、
「暑いから帽子をかぶってけよ」
と大人に声をかけられたものだ。面倒なのでいやがると
「帽子をかぶらないと日本脳炎になるぞ」
と言われ、日本脳炎はたまらないのでかぶって出た。子どもなので、本当に熱い日差しを受けると日本脳炎になると思っていたのだけれど、当時は大人も本気でそう思っていたのか、同じ事を言われたという友だちが多い。※1



しもふり銀座商店街にて。女性用、男性用ともに600円。



 いくら丸洗いできるからといっても山の上のダムのように保水力のある布の帽子はかぶる気になれないけれど、田舎麦藁帽なら汗も貯め込まず、風通しが良くて快適そうな気がするし、歳をとったおかげで妙に似合う容姿に自分がなっている気もする。万が一似合わなくて、ざまぁみろの編集者に見つかって
「どうしてそんな帽子かぶってるの」
と笑われたら
「日本脳炎になるから」
という言い訳が立つのも笑えて優れていると思う。買ってみようか。

※1 炎天下に帽子もかぶらず外出して体力を消耗したりしないよう心がけることは、感染予防の一助となるということらしい。2020年9月5日追記。

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