iPhone のそれから

iPhone のそれから

 電話としては引退させた iPhone 5 を写真機として使うことにしたのだけれど、使わずに放置しているだけでぐんぐんバッテリを消耗している。それでは困るのでので、電話機状態から一旦完全リセットした。
 そうしておいて、写真機として必要最小限のアプリだけインストールし、電話ではないので通信に関して不要と思われる設定をすべて OFF にした。
 その状態で放置しておいたら、期待した通り未使用時のバッテリ消耗が止まったので嬉しい。こうやって日記も書ける小型で超多機能な単焦点写真機として、解約した iPhone のそれからが始まった。
 電話機としては引退したけれど、写真機として新たに再出発させてみると、それはそれで新たな欲というものが出てくる。新たな土地に新たなものが芽生えて生命が生まれたら、生まれた生命が増殖していくことは抑えきれない。ただの写真機でいいと思ったものの、枕元に置いた写真機で未明に本が読めたら便利ではないか、そう思って kindle の電子書籍リーダーをインストールした。
 電子書籍リーダーにもなった写真機で漱石の『三四郎』を読んでいたら、「ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて 、団子坂の上から 、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た」とあり、三四郎の散歩コースを知りたいので古地図アプリをインストールした。写真機に地図帳が付いていて、しかもそれがタイムマシンになっているのは重宝なものだ。
 三四郎は本郷追分あたりに下宿して帝大に通っていた。団子坂上までどう歩いたのだろうかと思うに、団子坂上を左折して大通りに出るなら、藪下通りを日医大方面から歩いて、団子坂上を左折して大観音通りに出る、もしくは動坂方面から駒込保健所や特養ホーム千駄木の郷がある通りを進んで団子坂へ左折ということになる。
 三四郎が上京した当時、路面電車は帝大前の本郷通りルートが大学側から拒否され、本郷三丁目からは直角に迂回して春日を経由していた。『三四郎』に出てくる野々宮は寺田寅彦がモデルだが、野々宮が理科大に所属して研究をしていた穴ぐらは、第一高校脇から弥生門を入ってすぐだという。ということは理科大が帝大内に間借りしていたことになるので調べたらそういう時期があり、路面電車の路線とあわせて推測した、明治終わりころの地図を確認してみた。

 そうしたら白山上から団子坂上に向かう大観音通りはともかくとして、団子坂より、本郷保健所前を通って動坂上へと向かう道の方が広かったように見える。三四郎は白山上方向から大観音通りを歩き、団子坂上から団子坂を下らず、左折して動坂方向に向かったのだった。
 そんなことまで調べ、こうやって文字として記録できる写真機という余生が、わが iPhone のそれからである。


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旅とゴミ

旅とゴミ

未明の読書の寄り道で、夏目漱石の『三四郎』を読んでいたら、ふと幼い頃の汽車旅を思い出した。

「ただ三四郎の横を通って、自分の座へ帰るべきところを、すぐと前へ来て、からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外をながめだした。風が強くあたって、鬢がふわふわするところが三四郎の目にはいった。この時三四郎はからになった弁当の折を力いっぱいに窓からほうり出した。女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。風に逆らってなげた折の蓋が白く舞いもどったように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと女の顔を見た。」

東京へ向かう車内風景の中にはこんな描写も出てきた。

「三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。「じっさいあぶない。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。あぶない。気をつけないとあぶない」と言いながら、さんざん食い散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へなげ出した。」

幼い頃、昭和三十年代前半の汽車旅では、窓からゴミを捨てる光景をよく見た。弁当の食べかすや、読み散らした新聞などは足元の座席下に突っ込んでおけと教えられたが、まだ窓から捨てる人も多かった。飲み残したお茶をじょろじょろとこぼしたり、窓から腕を突き出して灰を風に散らし火のついたままの煙草を投げ捨てる男たちもいた。そうだったそうだったと遠ざかる風景の一コマを不意に思い出した。

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鳥居耀蔵と清水と本駒込3

鳥居耀蔵と清水と本駒込3

父である林述斎は町奉行に就任した鳥居耀蔵に

「小善は大悪に似て、大善は非情に似たり」

と言って励ましたという。(童門冬二『妖怪と言われた男鳥居耀蔵』)

 

で、この言葉はどこに出典があるのだろうとネット検索したら、ビジネスマンたちが書くブログに山ほど転載されており、どうやら稲盛和夫の書いたビジネス本に書かれていたらしく、さらにそれを読んだブロガーが自分のブログに転載し、稲盛和夫の言葉として紹介しているものが多い。また、キルケゴールの言葉であると紹介している人もいて、そっくりな文章でキルケゴールの言葉であると書かれているブログもあってうんざりした。

 

林大学頭述斎は江戸時代後期の儒学者であり、朱子学の本に出てくるんじゃなかろうかと思ったけれどよくわからない。

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居眠り

居眠り

 友人が、電車の中で居眠りする少年少女を見て、背筋をほぼ垂直に伸ばしたままの姿勢で眠れる子は健康であり、左右に激しく傾いたり、くずおれそうにくにゃくにゃしている子は、どこか身体に悪いところがあるかもしれないという。ほんとうかどうかは知らない。

 まいにち特養ホームへ食事介助に向かう妻に付き添って、週末だけ1時間半ほど電車やバスに揺られている。行き帰りの楽しみのひとつが、電車やバスの座席に腰掛けたまま居眠りすることで、寝具の上で横になっての眠りとは違う、一種独特の爽快感がある。

 腰掛けたままの居眠り癖がついてしまい、最近は仕事中に眠くなり、注意力散漫で効率が悪いと感じた時は、腕組みして姿勢を正し、目を閉じてこっくりこっくりしている。何回目かのこっくりでパッと目が醒める瞬間があり、気分爽快になってその後の仕事がはかどる。

 ただし、こっくりこっくりの際に身体が傾き、椅子から転げ落ちそうでビクッとすることがあり、そういう日は体調が良くない気もして早めに切り上げることにしている。たしかに居眠り時の身体の傾きは、なんらかのバロメーターになっているかもしれない。

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旅の表紙もしくはポケットの旅支度

旅の表紙もしくはポケットの旅支度

 docomo にキャンプ地を変え、画面の広い新しいスマートフォンに引っ越したので、掃除をしながら調度を整えている。今年もまた出張や帰省や週末の老人ホーム訪問があるので、そういう外出時を想定して、最初の起動画面にアプリを並べてみた。

 カレンダーと地図二枚、方位磁石に天気図、バスと電車の乗り換え補助、そして Suica と TOICA の残高確認、急な宿泊の予約と食事の店探しとアプリを並べ、設定とメモリ管理。最低限の通信関連は最下部の引き出しに並べ、液晶画面が側面に回り込んでいる機種なので、右脇を引っ張ると隙間家具の整理棚が出てくるという、いかにもアジアの辺境的仕掛けになっている。

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道具と人間

道具と人間

 同じマンションで暮らす年上のご夫婦が遊びに来られたので、明るいうちからいっぱい飲んで歓談したら、奥さんが赤いフリップケースに入れた iPhone を持っていた。
「iPhone にしたんですね、どうですか?」
と言ったら、
「使いづらくて私のしたいことがうまくできないの」
という。

 思うところあって docomo に MNP し iPhone ユーザーからも転出したのだけれど、長年使い慣れた iPhone なので
「どんなことがしたいんですか、アドバイスしますよ」
と言ったら、
「みんなでこうして楽しくやっているところを自撮りして LINE に投稿したいの」
などという。フロントカメラも、セルフタイマーも、自撮り棒がわりの長い腕も、LINE アプリも使ったことがないのでびっくりした。同じ道具でも、人それぞれ、全く違う使い方をしているんだなぁと再認識した。それにしても docomo の iPhone には見慣れない docomo アプリが並んでいて驚いた。

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病は気より

病は気より

 ストレスが有害だと信じている人の死亡率はは、ストレスをあまり受けていない人より高くなるのだそうだ。さらに、ストレスが有害だと思っていなかった人の死亡率はは、ストレスを感じていない人と変わらないという。人の思い込みこそが結果を決定しているということはよくあるのだと思う。

 ごく身近にある限られた例だけれど、外科的治療法のない段階の病気でも、それが自然な老化の一過程に過ぎないと達観しているように見える人たちは、周りの者が驚くほど余命を延ばしつつ普通の暮らしをされている。老化を受け入れられる程度に、みな運よく高齢になっているということなのだけれど。
 高齢になるほど病気の進行が遅いという話を聞くのは、そういう心の持ち方が影響するということもあるかもしれない。

 

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鳥居耀蔵と本駒込と清水2

鳥居耀蔵と本駒込と清水2

 野口武彦 『江戸人の精神絵図』 講談社学術文庫を電子書籍版で読み始めた(2015年8月21日)。鳥居耀蔵のことがもっと知りたくて 『幕末気分』講談社を紙の書籍で注文し、届くのが待てなくて著者名で検索し、すぐに読める Kindle 版でこの本を見つけたのだった。

 『 三人称の発見まで』 筑摩書房 1994、 『安政江戸地震 災害と政治権力』 ちくま新書、1997 のち同学芸文庫、 『幕末不戦派軍記』 講談社 2008 のち草思社文庫など、この人の著作は書名をみただけでなんとなく意図がわかって惹かれるものが多い。

  『三人称の発見まで』は古書で見つけたけれど高価なので中身を見てからでないと手がでない。『安政江戸地震 災害と政治権力』 は 「地震後の社会の 『ラディカルな能天気、支配層への期待感ゼロ状態、とことん徹底的な政治無関心』」 と同書解説にあるように、東日本大震災以降の日本で起きていることと酷似しているのではないか、というタイトルへの興味と中身が合致していそうなので注文した。 『幕末不戦派軍記』 も、まさに求めていた「地べたから観た幕末明治維新」 が読みたいという期待にぴったりそうなので注文した。

  で、『江戸人の精神絵図』 だけれど、徂徠学の詩文制作を重んじる一派を 「 「詩酒徴逐(ししゅちょうちく)」(詩を作ると称してしょっちゅう酒を飲んでむらがっている)」 と世間では言っていたと前書きにある。なんだかいまの日本人には頭の痛い批判だけれど、そういう思潮への反作用として江戸時代の改革はあった。

  非合理主義的開放の時代とその反動としての合理主義的粛清の時代。解放と統制、呼気と吸気、海退と海進、弛緩と緊張のような振り子運動として、日本の歴史は繰り返されているだけはないか。そういう中で妖怪じじい鳥居耀蔵はどう生きたか、どう生かされたか、どう生きなくてはならなかったか、とか。そんなことが知りたくてたまらない。

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鳥居耀蔵と本駒込と清水

鳥居耀蔵と本駒込と清水

 幕末明治維新は多くの人が苛烈に生きざるを得なかった時代だ。
 その人自身が意識して苛烈に生きた場合もあれば、意図せずして流されざるを得なかった苛烈な運命もあるし、本当かどうかわからないけれど後の世の人々の解釈と評価がその人に対して苛烈にすぎる可能性もある。

 後の世の人々の解釈と評価がその人に対して苛烈にすぎる可能性として、妙に気になる生き方をした人たちがいて、鳥居耀蔵もその一人だ。あまりに娯楽時代劇で悪のレッテル張りが激しいこと、伝記などをたどると意外なエピソードが多いことに加えて、郷里清水の草ヶ谷や小島に居住したことと墓が近所の駒込吉祥寺にあることもあって馴染み深く、妙に気になっている。

|鳥居耀蔵の墓がある駒込吉祥寺、2015年8月19日正午|


 所詮想像でしかはかりえない過去の人の人生を、柔軟に人間臭い視野から眺めることをしてみたくて、野口武彦 『幕末気分』 講談社、平岩弓枝 『妖怪』 文春文庫、童門冬二 『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』 小学館文庫の三冊を注文してみた。

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旅の負荷

旅の負荷

 子どもの頃の静岡帰省は東海道線の普通列車に乗って約三時間半ほどの旅だった。いまの静岡帰省は新幹線で一時間ほどなので、たとえ満席で座れなくても苦になるほどではない。
 通路まで乗客があふれて立錐の余地もなく、窓開けに協力しあい、天井の扇風機が熱風をかき混ぜているだけという時代の夏旅にくらべたら、冷房がきいて揺れの少ない車内で立って過ごす、三分の一程度の時間は比較にならないほど快適である。


 静岡駅構内の券売機で切符を買おうとしたら喫煙禁煙に関係なくすべての指定席が満席で、お盆のUターンラッシュ最中にいま自分がいることに気づいた。
 昔の旅を思えば一時間立っているくらい苦にならないと思ったものの、慣れない夏の礼服を着て硬い黒の革靴では、三分の一程度の時間であっても比較にならないほど苦痛であり、帰宅して着替えを終えたとたん、ぎっくり腰になった。

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不思議

不思議

 この八月は久しぶりに不思議な出来事に遭遇した。きっと忘れ得ない夏の思い出のひとつになるだろう。
 不思議は実態として存在するものではなく、人がそう感じるから不思議なのであり、そういう不思議を分かり合える他人がいると嬉しい。分かり合える他人が欲しくて、こんな不思議なことがありましたなどと、勝手に話して聞いてもらったりするが、いつまでも不思議を覚えていてくれる人は少ない。結局、あの夏は本当に不思議なことがあったねと、思い出して話し合える人は、ごく身近な限られた人だけに戻ってしまう。

 通夜の席を辞去する際に、未亡人となった義従妹に話しかけようとしたら思いがけない言葉が口をついて出た。不思議な出来事が起こる一週間前まで時計の針を戻すことができるなら、彼女には最愛の夫との楽しい暮らしがあったのだ。
「なんだか夢のように不思議な一週間だったね」
と言ったら、キラキラ光るものが次々にあふれ出て、黒い喪服の上をすべって落ちた。

 

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つまさき立ちをする男

つまさき立ちをする男

 夕暮れの JR 草薙駅ホームで下り静岡方面行き列車を待っていたら、スポーツバッグを背負った若者が線路側に背を向け、つまさき部分だけをちょこっとホームの端にひっかけ、両手をしっかり体側につけ、しゃんと背筋を伸ばして立っていた。

 新幹線で帰京して通夜だけ顔を出してのとんぼ帰りである。
 暑くて疲れきったうえ、そういう儀式に出席した直後の心はおかしな方向に引きずられてバランスを崩しているので、この若者はそういう奇矯な姿勢から身をひねるように線路へ身を投げ、列車に轢かれて死にたいのだろうかなどとふと思った。

  危ないからそういうことをするなと注意する気力もなく、そんな死にかたを望む者には、それ相応に深い理由があるのだろうなどとも思う。それより、この若者はそういう微妙な姿勢で静止し、何があろうと線路側に転げ落ちたりしない、自分の鍛え抜いた技術を見せたくなったのかもしれないとも思う。見てもらうことで生きたいのだ、この若者は死んだりしないと思った。

  やがて列車到着のアナウンスがある頃には、若者も満足したのかつまさき立ちをやめ、ホーム進行方向寄りへぶらぶら歩き去ってしまったので、目の前で惨劇を見る可能性もなくなってほっとした。

  帰京後も、夕暮れのホームにつまさきを引っ掛け、背筋を伸ばして静止した若者の姿が忘れられず、ああいう光景をどこかで見たことがあるとずっと気になっていたが、いまようやく思い出した。目も眩むような飛び込み台から、後ろ向きでプールに身を投じる直前、じっと精神を集中させている高飛び込み選手だ。あれはそもそも美しい姿だが、夏の夕暮れのホームでは息を飲むほどにいのちを際立たせる。その夕暮れはそう見えた。

 

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後の雁が先になるということ

後の雁が先になるということ

 生まれて死ぬまで、人は雁(かり)のように、一列になって飛んでいる。先頭から順に歳をとり、やがて力尽きて消えて行くのだけれど、自分より後ろを飛んでいるはずの者に追い越されてしまうという、まさかのことが不意に起こることもある。年少の者が先に死んでしまうことを 「後の雁が先になる(あとのかりがさきになる)」 と言う。


 まさか追い越されるとは思わないこともあり、撮影したままおそらく見せたこともないと思われる写真をプリントした。高校時代、ふたりのいとこを連れて郷里静岡県清水の里山にのぼり、セルフタイマーで撮影した写真。雁の群れの先頭、左端に写っている自分はまだ高校一年生だった。午後3時過ぎに家を出て通夜に向かう。



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のんある気分

のんある気分

 近所の出版社の暑気払い会に呼ばれて出かけたら、お酒を飲めない人が 7 人中 3 人もいるという。気に入りの 「キリン 本搾りチューハイ グレープフルーツ」 を買ったついでに、気の毒なので 「サントリー のんある気分 地中海グレープフルーツ」 というチュウハイ風ノンアルコール飲料を手土産に買って行ったら
「そもそもお酒を飲まないのだから、お酒風飲料を飲む必要はない」
と笑われて、なるほどそれはそうだと思う。

 妻はお酒を飲むけれど、健康のために週一回月曜日を禁酒デーにしている。禁酒といっても、最近はかなり良くできたビール風飲料もあるので、よく冷えたのを飲むとそれなりの清涼感と開放感が味わえるという。とはいうものの 「キリン 本搾りチューハイ グレープフルーツ」 を美味そうに飲むのも気の毒なので、 「サントリー のんある気分 地中海グレープフルーツ」 をついでやったら、のんあるはビール風だから気分が出るのであって、グレープフルーツソーダなんて飲みたくないと笑われた。

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原寸大とスマートフォン

原寸大とスマートフォン

 夫婦揃って節目年齢に達したのと、連続 10 年以上利用者だったというのを口実にした、ダイレクトメールが郵便で届き、らくらくスマートフォン 3 の原寸大写真が載っていたので妻に見せたら、 「私の求めていたものはこれだ!」 と言う。こんなに見事な売り込みを受けたのは初めてなので感心した。

 以前から、 iPhone にして文字の大きさを特大に設定すればらくらく iPhone になるからと説明してもダメだったのに、アンドロイドを高齢者向けに設定し、らくらくスマートフォンという名前にして、原寸大の写真を見せるというのが功を奏したのだろう。ダイレクトメールも、大竹しのぶを起用したカタログも、そしてガイドブックも徹底して原寸大写真を載せている。



 ホーム画面もごちゃごちゃしていなくて好感が持て「これなら使いこなせそう」と言う。商品の原寸大というよりも、目が見えにくくなって何をするにも老眼鏡が必要になり、 「あーあ、歳はとりたくないなぁ」 という女性の、年齢と老いに対する原寸大の捉え方ができているという、うまい商売の好例だろう。

 で、キャリアもひとつにしてシンブルにしませんかということになり、自分も iPhone 5 を解約して docomo に乗り換え、ペンの使える GARAXY Note Edge に機種変更した。幸いにも老眼鏡は不要なのだけれど、やはり画面が大きいのとスタイラスペンが使えるのは読書の線引きにも便利で、やはり年齢の原寸大にヒットしているのかもしれない。 docomo の赤い袋を二つ提げて帰ってきた。

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