◉独り読書会

2019年7月31日
◉独り読書会

 

未明に目が覚めたので蒲原にある北条新三郎の墓についてメモ的なものを書いた。このところ自宅で夜中に文章書きをするときは、初代 iPad mini に Lightning 接続のキーボードをつないでいる。iOS でも Mac OS でも Android でも書いたものがシンクロして続きができるので、すべて Evernote で書いている。残念ながら初代 iPad mini では Evernote が重くて堪えられないので、iOS 付属のメモアプリで書いて Evernote に発行している。この iPad mini の古い OS と古いバージョンの Evernote で起きる現象なのだろうと諦めている。付属メモアプリは軽快でとてもいい。

発行と引用という用語を知っているのは古い Mac ユーザーの証拠で、英語ではパブリッシュ&サブスクライブといった。厳密にはちょっと違うのだけれど、純正メモアプリで書いたものを Evernote に向けて送信することを、ついつい発行(パブリッシュ)すると心の中で言ってしまう。

文章づくりに欠かせない道具がクリップボード拡張アプリで、iOS では「Copied」というアプリを使っている。コピーした文章をストックしてくれるわけで、記憶する脳の補助具になっている。古い iPad mini でも動くのだろうかと試してみたらちゃんと動作するので嬉しい。有料バージョンにアップグレードすると記憶する量の制限が解除されるという。アップグレードを選択したらすでに購入済みなのでレストアが可能になっていた。買ったことを忘れていた。英文の説明を読んだら、なんと MacOS 版もあって iCloud を介してコピー履歴がシンクロするという。知らなかった。仕事場に行ったらインストールしてみる。

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昨日は二度寝したら寝坊し、あわてて朝食準備をしたら朝ドラの「なつぞら」も終わっていた。とうぜん「おとうさんのしごと」である朝刊チェックもさぼった。今これを書きながら食卓の上に昨日の朝刊があるのでちらと見たら鷲田清一『折々のことば』が関川さんだった。

「正義の人」より「ただの人」たれ、声高に運動するより、礼節ある無関心の方がどれほどましかわからない(関川夏央)

その通りと思う。最近は「わたしはただの人です」とすすんで言う人ほど声高なのが悩ましいけれど。

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郷里清水出身の経済学者竹内宏の『昭和経済史』(ちくまライブラリー)が届いた。亡き母が「あんたも世話になった竹内医院の息子さん」と言っていたが 1930 年生まれなので母と同い年だった。この人には新潮文庫『路地裏の経済学』があり、平易な語り口で人気のあった人なので、昭和を懐かしく回想しながら読んでみる。(4:32)

ここまで書いて Evernote にパブリッシュ。

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Akihabara 2019

妻が半音のない 20 弁手回しオルゴールで、ヴィヴァルディの四季から「春」第1楽章を編曲して聴かせてくれた。錯視ならぬ錯聴でごまかすテクニックがかなり上手くなっていて、周りに目眩しの花粉を振りまくようにして困難な箇所を巧みに切り抜けていく。なかなか面白い。

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読書会の持ち回りリーダー(船頭的読み手)役をやらされて気づいたのだけれど、章などの区切りを利用して「この人はこの部分で何を言いたいのか」ということを要約して自分の言葉で書いてみることはとても有意義だ。これをする前の自分の読書はなんだったのだろうと思う。書き手に同意しようがしまいが、本の書き手になったつもりで、その人がここで何を言いたいかを要約して代弁してみること、これはやってみるととても面白い。作者と自分と代弁者、三人の立場に立ってみるわけで、思いがけない発見がある。理解とはそもそも発見なのだろう。読書会以外の家庭内読書も、そうやっているとにぎやかな独り読書会になっている。独り読書会ノートを作った。(15:31)

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◉蒲原と北条新三郎の墓

2019年7月31日(水)
◉蒲原と北条新三郎の墓


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北条新三郎(綱重)(? 〜1570)は後北条氏の祖北条早雲(1456 〜 1519)の孫で武蔵小机城城主だった。小机城があった神奈川県横浜市港北区小机町は横浜F・マリノスのホームスタジアムがある町で、両者はわずか数百メートルの距離にある。新三郎は日産スタジアムから蒲原に転勤してきた。
 
永禄11年に甲相駿三国同盟を結んでいた武田信玄(1521 〜 1573)が駿河侵攻すると、北条氏は今川氏に助勢することになり、駿河に出兵した際に蒲原城(静岡県静岡市清水区)を預かった。(Wikipedia, 2019.7)
 
という事情で和歌に造詣が深かったとされる新三郎は武田との戦(いくさ)に巻き込まれ……
 
永禄12年(1569年)12月、第五次川中島の戦いを終えた武田軍が、武田勝頼を総大将、典厩信豊(信玄の弟・信繁の子)、山県昌景らを大将として襲来。北条軍では、弟・長順をはじめとする1000余で篭城するが、勝頼、信豊の猛攻で激戦となるが、同日中に落城した。この結果、綱重、長順、それに狩野新八郎、清水太郎左衛門、笠原為継、荒川長宗ら城将は悉く討死した。綱重は真田幸隆・信綱親子率いる真田勢に討ち取られた(Wikipedia, 2019.7)
 
……という痛ましい最期を迎える。無残なものである。自分は草食系なので中世の武士になど生まれなくてよかったと心より思う。
 
痛ましい出来事を講談調に語るのが好きではないので蒲原町史より抜き書きすると以下のような凄惨さである。
 
…城内の変事に気づいた北条軍が軍をまとめて引返そうとしたが、敵中突破できないうちに、城を占拠した武田軍が山を馳け降ってきて、小山田隊、武田軍の本隊と合流し、北条軍を重囲した。乱戦中、武田方の小幡弾正は北条方の狩野新八郎と組合い、立ちあがろうとしたところを落合市之丞が馳けつけ、狩野新八郎を討ち取った。城将新三郎を始めとして、同舎弟箱根少将長順(あるいは覚胤とも云)狩野新八郎義忠、清水太郎左衛門正次(上総介正令とも云)、笠原新六郎秀範、多目周防守長宗、荒川豊前守国清、大草右近大夫、新田又八郎、大草右京亮、鈴木但馬守重経、引野大膳(比企とも云。)同図書、上原甚太郎、山口宗三郎、南条又十郎、久保宗四郎鏑目鹿之助、上野又蔵、加藤播磨、同平次郎、同助九郎、同助次郎、杉浦(欠名)、石井忠兵衛、早野玄馬、波多野助三郎(介三郎とも云う。)、花沢主人土岐二郎九郎、鯉名七郎、宇都宮掃部頭、工藤勘蔵、加藤助太郎等大将分六人、侍大将ら三十人、これらの外士二百余騎が皆殺しになった。
 新三郎の死は一説に、山伝いに逃れて、常楽寺(蒲原町諏訪神社東側付近)に入り、寺を焼いて、火中自刃し果てたとある。新三郎の法諡は常楽寺殿衝天良月居士、常楽寺跡に新三郎の供養塔一基があるが、墓は三島市裕泉寺、牌は善福寺(蒲原町善福寺在)に安置してある。善福寺の過去帳によれば、新三郎を、善福寺殿衝天良月大居士とし、三十六人の法号はあるが、俗名は記載されていない。(蒲原町史編纂委員会編集・静岡県蒲原町発行『蒲原町史』昭和四十三年十一月三日発行・非売品より)
 
東海道蒲原宿を抜けて東に向かうと左山側に「北条新三郎の墓」と書かれた案内板がある。町史にある常楽寺のあった場所といわれ、墓に参る多くの人びとが数百年間にわたってたどった、踏みしめられ苔むした細道が緩やかに登っていく。


蜘蛛の巣を払いながら進むとほどなく暗く湿った崖下に突き当たり、巨木と竹藪が覆いかぶさるように小さな石塔を守ってただならぬ妖気を放っている…ように凄惨な昔話を読んだものには思える。


史実とは信じる者が創り上げるものであり、そういう意味で確かに北条新三郎の墓に違いないので、手を合わせて黙祷していたら、待ってましたとばかり藪蚊が襲来するので、早々にもと来た道を落ち延びた。虫除けスプレーを持って来ればよかった。

神奈川県横浜市港北区小机町789 小机城
神奈川県横浜市港北区小机町3300 日産スタジアム
静岡県静岡市清水区蒲原1丁目14 北条新三郎の墓


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◉道草を食いながら行く夏の旅

2019年7月30日
◉道草を食いながら行く夏の旅

 

 
パブロ・ピカソのことば
「子どもは誰でも〇〇〇だ。問題は、大人になっても〇〇〇でいられるかどうかである」
の〇〇〇にあれこれ、そうだよなあ子どもの頃は自分も〇〇〇だったかもしれないなあ、と思うことを取っ替え引っ替え代入してみるとおもしろい。自分が大人になってなくしてしまった〇〇〇の中に、今からでもとりもどせる〇〇〇があるだろうか。数日前の日記にピカソのヤギを掲げておいたけれど、なんど見ても、いいなあと思う。こういうのを、いいなあと思わせてもらえるだけで芸術はありがたい。
 
 
Paris 1994

ヤギといえばヤギのありがたさについてお百姓が語った言葉で「つないでおけばその辺の草をみんな食べてくれる」というのがあっていいなあと思った。牛のありがたさについて「田植え前の田んぼに入れておけば土を踏んでくれる」というのも、やはりいいなあと思った。道草を食うという言葉はいまでは経済効率主義がまさって、時間を無駄に費やして手間取ること、などという意味で使われる。昔、牛に荷を負わせて物資を運ぶのを生業にした人たちは、牛宿に泊まると人にも牛にも宿泊代や餌代がかかるので、街道を逸れた裏道を旅し、人は野宿し、牛は道端に生えた草を食べて倹約をした。倹約に協力してくれる牛に道草を食わせなければ死んでしまう。そういうのを「道草を食いながら行く」と言ったのだと民俗学の本にあった。いいなあと思う。

道草を食いながら行く夏の旅

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◉Lightning Keyboard

2019年7月29日
◉Lightning Keyboard

 

昨夜の NHK 大河ドラマ『いだてん』では塩見三省演じる犬養毅が出てきて(この役者どこかで見たなあと思ったら『あまちゃん』に出てきた「琥珀の勉さん」だった)時局は五・一五事件(昭和 7 年)へ。昨日の日記で蒲原の城山隧道(昭和 9 年竣工)と時局匡救事業(昭和 7 年〜 9 年)について書いたので、高橋是清大蔵大臣(昭和 6 年〜、昭和 9 年〜)による高橋財政と偶然にも同期していて妙な気分だった。満州事変が昭和 6 年、桐谷健太演ずる河野一郎は朝日新聞を辞して昭和 7 年衆議院初当選、のちに佐藤栄作と自民党総裁を争うわけだが、東京オリンピック翌年の 1965 年 7 月に亡くなっている。

   ***

夜中の空気は囁きを伝えるためにできている。草木も動物も人間も、囁くように物音を発して、それがよく闇を伝わっていく。未明に目が覚めてごそごそする音も眠い人には耳障りに違いないので、起き出して食堂のテーブルにタブレットを置き、キーボードをつないで調べ物と読書メモなどを書いている。キーボードをそっと叩いても微かな打鍵音がきこえるので、なるべく音の出ないものを選んでいる。iPad mini につなぐキーボードとしてすぐれているのは Logitec 社の Lightning Keyboard で、これは Bluetooth ではなく Lightning 端子につなぐので電池がいらない。キーボード自体もよくできている。それでも文字を一文字打つたびにかそけき音を囁く。(3:59)

   ***

言うまいと思えど今日の暑さかな。
口に出して言わずにいられる暑さは、たいした暑さではない。
「暑いですね」
と互いに言い合う暑さは、まあまあ暑い。
「暑いのはわかってるから、暑いって言うな!」
と叱られる暑さは、かなり暑い。子どもの頃、わが母が
「口もききたくないから話しかけるな!」
と怒鳴る夏の日があり、そう言う日はとてつもなく暑かった。

うるさいと怒鳴られるほどの暑さかな

(15:25)

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◉蒲原の城山隧道

2019年7月28日(日)
◉蒲原の城山隧道


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蒲原城址まで登った帰り道、S字カーブのもと来た道を引き返していたら、二つ並んで円形の城山配水場タンク脇から逸れて下って行く道がある。

海辺の方向に下る道なのでまんざら見当違いでもなく、どこへ降りるのだろうという興味が優ったので折れてみたら、なんとその先にトンネルがある。地図はざっと見ていたけれどそんなものがあるとは気づかなかった。

湧き水が滴り落ちて冷んやりした隧道(すいどう)内を抜け、さらに坂を下ると正面に駿河湾と蒲原の町並みが見え、頭の上を東名高速道路が跨いで通っている。


道は急激に左旋回して逆方向に下るので、どこへ連れて行かれるのだろうと訝(いぶか)りながら下ったら、なんとループ状になってもう一つトンネルがある。第二城山隧道と名前があるので、さっきくぐったトンネルが第一城山隧道なのだろう。あとで地図を見たら第一隧道は載っているけれど第二隧道は東名高速下なので記載がない。

東名高速道路の橋梁下に、地域住民の利便性を考慮して抜け道を作ったにしては妙な構造でえらく古びており、この二つの隧道は 1934(昭和 9 )年の竣工なのだという。清水にはこのころに竣工した隧道や橋や道路がたくさんあり、それらは時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)、世界大恐慌に伴う不況による失業者対策、経済更生の取り組みとして実施されたものだった。

事業は 1932 年度から 1934 年度の場合、全国町村の 40 パーセントを指定して実施されたが、静岡県は全町村が指定を受けていた。そのせいで昭和一桁年代の竣工物件を清水ではよく見かける。有度地区の山道や飯田地区の農道も、調べてみると時局匡救土木事業によって作られたものだった。静岡に行けば何か仕事があると言われて、清水に人々が流れ込んだのもその時代だ。おそらくこの二つの隧道もそういった経緯によるものと思われる。

坂を下った先は、なんとさっき歩いた旧東海道蒲原宿、旧五十嵐歯科医院のちょっと先であり、蒲原城址に登るなら新しい自動車道路よりこちらの旧道が近道だったように思う。

いい機会なので郷里清水出身の経済学者、故竹内宏『昭和経済史』ちくまライブラリー(1988/10)を古書で注文してみた。時局匡救事業に関する参考文献に挙げられていたので読んでみたくなった。竹内さんの本はなつかしい次郎長の経済学以来久しぶりだ。

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◉地震

2019年7月28日
◉地震

 
 
いつも通り未明に目が覚めたので起き出して蒲原の城山隧道に関するメモを書いた。午前 3 時 31 分ころに地震があり震度 2 から 3 くらいかなと思う。速報を見たら宮城県南部で震度 4 なので震源を見たら三重県南東沖だという。「えっ」。
 
 
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◉旧五十嵐歯科医院

2019年7月27日(土)
◉旧五十嵐歯科医院


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6 月 30 日に見学した蒲原の旧五十嵐歯科医院を 7 月 24 日に再訪した。旧東海道蒲原宿でとくに古い建物が残る一角に、和洋両様式が折衷ではなく混在した町家建築が歴史的建造物として保存されていることを前回初めて知った。解説していただきながら見学したことが忘れがたく、後ろ髪引かれるように再訪した。

旧五十嵐歯科医院前景

旧五十嵐歯科医院の概要は以下の通り。

旧東海道蒲原宿の街道沿いにたたずむ旧五十嵐歯科医院は、大正期以前に町家建築として建てられ、当主の故五十嵐準氏が東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業した大正 3 年(1914)頃に歯科医院を開業するにあたり、町家を洋風に改築しました。その後、西側部分を増築、さらに東側を増築し、一体的な洋館として現在の形になりました。町家の骨格にガラスと下見板をはめ込むなど洋風の意匠を取り入れています。在来の町家の特徴を残しながら外観が洋館というユニークな点が評価され、平成 12 年(2000)に国登録有形文化財となりました。(旧五十嵐歯科医院パンフレットより)

購入してきた資料によると、この建物は一棟ではあるものの増改築順に三つに分かれ、最も古い中央部分は開業以前からあった町家を改築したものだという。その後、東側と西側を増築して昭和 15 年頃までに現在の形になった。旧五十嵐邸内の様子は『旧五十嵐邸を考える会』サイトの「国登録有形文化財 旧五十嵐邸 ギャラリー」で美しい写真が公開されている。

旧五十嵐邸についての概要は上記サイトにある通りで、改めてここに書くこともないので、再度見学したくなったささやかな個人的興味についてメモしておく。

   ***

旧五十嵐邸の外壁は下見板(したみいた)貼りになっている。文字通り外壁の下見に張る板で下見とは木造建築外壁の横板張りのこと。上の板の下端を下の板の上端に少し重ねて張り渡し、ところどころ押さえの竪桟(たてさん)を上から当てて押さえている。子どもの頃は下見板貼り壁の民家をよく見たが、最近はあまり見かけなくなった。その子どもの頃よく見た下見板張りの民家は、押さえの竪桟の間隔が密だったが、洋風でハイカラな旧五十嵐邸のそれは竪桟が目立たない。あれで強度的にもつのだろうか、なにか他の工夫があるのだろうかと見上げてみたが、見ただけでは素人に分かるはずがない。竪桟が少ない方が洋風でハイカラに見えることは確かだ。

   ***

旧五十嵐邸内には階段がふたつある。正面玄関を入ってすぐにある中央の手すり付き洋風階段、そしてもうひとつは東部分にあって手すりのない「箱段」になっている。前者は当然、二階の歯科治療室に患者が出入りするための営業用階段であり、後者は家族用のものだったと思われる。

旧五十嵐邸歯科医院増築過程の図面を見ると、大正 3 年創建時は現在の中央部分だけで一階は玄関から奥までまっすぐな土間があり、土間左側に「みせ」「なかのま」「ぶつま」「おかって」があるだけで、二階の診療室へは土間の中央近く「なかのま」の向かいあたりから二階に上る階段がある。土間を突き抜けた奥には庭を通っていく外便所があったと思われる。大正 7 年、西側に第一次増築が行われ、増築された一番奥、かつての「おかって」左側西隅に階段がもうひとつつけられている。上記の「手すりのない箱段」である。

第一次増築の和室 右に電話室

第一次増築の和室 突き当りが中庭 左に箱段がある

二階診療室

二階診療室

昭和13〜14年にかけて第二次増築が東側に行われて現在の形になった。「手すりのない箱段」を下りてそのまま奥に内廊下が作られ、突き当たりに便所があるのでこの時点で外便所でなくなったらしい。便所への廊下の上にあたる二階に「離れ」が増築され、資料によると子ども部屋として作られ、かつては歯科技工士が住み込んだこともあったという。その急な階段上に蓋があって二階の階段開口部を塞げるようになっている。丈夫な板の蓋で塞ぐと階段がなくなって廊下になり、「離れ」に渡ることができる。廊下奥は畳敷き洋窓という和洋折衷、採光の良い洒落た小部屋になっている。階段が使われているときは廊下がないに等しく、子どもには危ない。

箱段から見上げる二階

二階から見下ろす箱段とその蓋

この階段兼廊下で仕切られた不便な小部屋は、実際どういう風に活用されたのだろうか、そういうことをもう一度現物を見ながら考えてみたいという、些細な興味が再訪の理由になっている。色々な運用の仕方が日常生活の中で思い浮かび、おそらく実際に生活されたご家族しか正しい答えを知らない。そういうわかりきったことを確かめに行ったという満足も、贅沢の極北にあるものだろう。

手すりのある来客用階段

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◉充分に贅沢

2019年7月27日
◉充分に贅沢

 
 

未明に目が覚めたので、蒲原の旧五十嵐歯科医院について書き始めたけれど、自宅に資料を忘れてきたので、もうこれ以上記憶を頼りには書けないところまで来てしまい再度就寝。(2:49)

   ***

Paris 1994

今日の名言にこんなことが書かれていた。
「今では享楽者とか快楽主義者という誤解された意味でのみ使われている“エピキュリアン”という言葉だが、その語源となった古代ギリシアの哲学者エピキュロスは、生きていくうえでの快楽を追求した。そしてたどりついた頂点が、満足という名の贅沢だった。その贅沢に必要なものは、しかし多くはなかった。すなわち、小さな庭、そこに植わっている数本のイチジクの木。少しばかりのチーズ、三人か四人の友達。これだけで、彼は充分に贅沢に暮らすことができた。」(ニーチェ)

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◉蒲原駅前で買った昔懐かしい麦わら帽子

2019年7月26日
◉蒲原駅前で買った昔懐かしい麦わら帽子

 
 
戸田書店発行の郷土誌『季刊清水』2019 年版の特集が蒲原に決まったので、月一度の編集会議往路で途中下車して歩いている。記事にはならないけれど、歩きながら考えたことについて書き始めた。未明に目が覚めたので今日は蒲原城について書いた。床屋談義的な歴史からは忘れられがちな落穂を拾って積んでおく。
 
 
Paris 1994
 

書きながらふと思いついたのだけど、次回は旧東海道間の宿(あいのしゅく=宿場間にあって宿泊を禁じられた休憩用の場所)である岩渕駅(1970 年 6 月、富士川駅に改名)で下車し、旧東海道を蒲原まで歩いてみようと思う。(3:09)

   ***

お米がなくなったので向丘の堀江米店までミルキークイーンを買いに行ってきた。

蒲原駅前で買った昔懐かしい麦わら帽子を東京まで持ち帰ったら、妻が、「いい、すごくいい。山手線内でそういう帽子は珍しいのですごくいい!」と言って、飛ばされないよう首紐をつけてくれた。若者はこういう帽子は機能的だけど、かぶって都内を歩くのは「ハズい!」と言う。「恥ずかしい」の略だろう。還暦過ぎのおじさんは「ハズい!」とも思わないので、それをかぶって本郷通りを往復した。

米屋やコンビニや横断歩道の信号待ちや、マンションのエレベータ内で色々な人に「暑いですね!」と声をかけられた。懐かしい麦わら帽子をかぶった顔に「暑い!」と書いてあったのだろう。(14:33)

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◉蒲原城址から

2019年7月26日(金)
◉蒲原城址から


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静岡県静岡市清水区蒲原城山(旧蒲原町)にある戦国時代の城跡である蒲原城は静岡市指定史跡になっている。

支配者たちが勢力争いに明け暮れた事実を辿って歴史を組み立てること、そういう歴史について学者以外の素人がする床屋談義にはあまり興味がない。それより一部の権力者以外、われわれほとんどの祖先であった人々が、家を焼かれ、田畑を踏みしだかれ、戦いに巻き込まれながらどう生きたかの手がかりを、歴史の落ち穂拾いとして、史家たちが残してくれた資料にその手がかりを探すのが楽しい。

戸田書店発行の郷土誌『季刊清水』2019年版の特集テーマが蒲原と決まり、静岡で毎月開かれる編集会議の往路で蒲原に途中下車する楽しみを得た。2019 年 7 月 24 日の編集会議前、午後一時から地元酒店でお話をうかがう約束をし、その前、新蒲原駅で下車し、旧東海道蒲原宿の家並みから山道にそれ、蒲原城址に登ってみた。

 

山城を登る

この山城と、城をめぐる戦いについては、蒲原城で検索すれば談義の種に事欠かない。おそらく千人単位の人々が大挙して攻め入り、命を落とし、傷つき、命からがら落ち延びていった光景を、山道を登りながら想い浮かべてみる。

 

北曲輪(善福寺曲輪)

蒲原城を巡る歴史について『蒲原町史』で興味を惹かれた記述について転記しておく。2017 年の『季刊清水』では由比を取り上げ、由比の山間部を歩いた。その際に親しんだ地名、事柄が蒲原町史にたくさん出てくる。地域も歴史もちゃんと山を越えて地続きになっている。

 

本郭 南曲輪

松野の六人衆

 永禄十二年十二月四日、信玄は岩淵、蒲原の人家を焼払い、本陣を六本松に置き、勝頼の手勢を善福寺陣出ケ谷に潜伏させ、五日未明城内の内応者の相図によって谷を出、善福寺から善福寺曲輪下の登り口に突入、ここを突破口として善福寺曲輪に取り付き、落城の決め手としたのであるが、この泣き所は、城の背後地に潜行できないとできない芸である。それには、先ず南松野から血流川沿いに中山街道に出、大丸山の東側背後地から善福寺に抜ける方法しかないようである。陣出ケ谷の谷は案外に深く、数千の甲胃武者を入れるに事欠かない。もう一のルートは富士川町側の小池もしくは四十九からの潜入だが、狼煙場(のろしば)の眼下になるので、夜の集団行動しかない。このルートは岩淵の宿が壊滅状態のため集団行動は容易であり、道は急峻だが距離は余りないので、地形的にみてこの方を採るとみたが、松野の六人衆の武田勢誘導の話を現在に伝えている南松野のルートを採用したとみるべきが妥当でめろう。当時松野村には六人衆と称する土着の豪士たちが、武田家の下で松野村を治めており、勝頼軍の入村によって蒲原城の間道案内を強要され、松野から山越えに蒲原城の背面に武田勢を導入したのだが、この合戦には城方として蒲原伝馬衆、土着豪士団により編成された蒲原衆が入城し、戦斗に参加しているので、自警的な観点からは治領者に対する自治的な配慮と隷属者の立場で、あるいは積極的に参加したことも考えられよう。
 元亀元年(一五〇七)万沢遠江守君泰の子主膳に与えた信君の「知行充行之書」によれば、松野六人衆とうかがえる南松野郷の内西郡与兵衛尉に六貫六百文、上野文七郎に二十九貫七百五拾文、木節彦左衛分二十四貫八百八拾四文の土地が与えられ、分割所領されることになったが、このことは単なる論功功賞ではなく、在地土豪・地侍と治領者をふくめた領国経営のあらわれとみるべきで、同じ年守城側の蒲原衆の一人神沢志田平七郎の弟と妻が捕れの身を解除され、武田方の蒲原衆に再編成されることになったのと、全く規を一つにしているのであろう。

落武者、討死者とその子孫

 永禄十二年十二月の合戦は、北条方が潰滅的な打撃を受けただけに、城兵のことごとくが討死か、捕われるか、あるいは四散し、山野に潜んだ。由比町桜野在に住む大家を鈴木伝吉氏、新家を鈴木運作氏というが、この二軒の先祖は、蒲原城落城の折桜野に落ち、復城の機会をうかがったが、その気配のないままに帰農したと伝え、新家側に猫足のかん子★1と今川の当て小判が遺されており、同家は次のような家伝譜を伝えている。
 蒲原落城の場合の逃走経路はあらかじめ打合せられていたごとくで、橋台と呼ばれる城の裏側の高台から栗木平に布橋をかけ、寺平に抜けて、裏山伝いに入山字山内(やもうじ)を通り、大日影の沢に分散するというルートで、ほぼこの逃走経路中の由比の裏山から西山寺、桜野にかけて、北条、鈴木等の姓が分散したことでも知られるのである(由比町東山寺の林香寺の過去帖に寛保三年(一七四三)西山寺北条利助、宝歴五年(一七五五)西山寺北条利平の北条姓を名乗る壇中をみる)。
 興津川上流小河内川東には、北条姓を名乗る家が二十数戸あり、その全てが甲斐北条といひ、ひとり旧家小野間家の北条家に、永禄十二年十二月五日の合戦の城主北条新三郎の妻子を家に迎えた伝説を、現在に伝承している。県史料二巻、庵原郡北条文書にみる小野間家は、永禄十二年己巳五月十六日穴山信君より興津方ノ知行ヲ充行したほどの武田家旧知の家柄で、当面の敵将の妻子の落人伝説は合点がいかないが、ただ小田原北条が解体した天正十八年(一五九〇)の小田原合戦後の秀吉の敗軍処置は、それまでの処置より極めて寛大であったので、由比西山寺及び小河内の北条諸氏、桜野の鈴木氏等は、小田原一門の解体後、旧縁の地を求めて、徳川氏の行政区を離れた疎遠の地に落ちついたものと思われる。

(蒲原町史編纂委員会編集・静岡県蒲原町発行『蒲原町史』昭和四十三年十一月三日発行・非売品より)

 

本郭 南曲輪からのぞむ駿河湾 由比、薩埵峠、日本平、三保が見える

「南松野」「桜野」「入山」「西山寺」「東山寺」などが登場し、山の道、山の集落、山の伝承はわれわれの血肉に通じる歴史の脈動として今も生々しい。(2019/07/26 2:37)

★1 猫足のかん子(ねこあしのかんす)…青銅・真鍮などで作った茶釜で「上部がふくらみ中ほどがやや細くなり下部が丸くなった猫の足の形に似た脚」がついたもの。

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◉クリスマス特別版

2019年7月25日
◉クリスマス特別版

 

昨日は蒲原に行き、猛暑の中を汗だくになって歩き、駿河湾を見下ろす山城跡まで急峻な斜面を登ったりしたので、いつもなら足が攣って顔をしかめながら起きるはずの朝だけれど、ツムラの 68 番芍薬甘草湯を朝夕服用しておいたせいか、疲労による筋肉痛もなく快適な朝になった。漢方偉大なり。

ミャンマーと東京を行ったり来たりして暮らしている隣人が、幼い息子さんを連れて帰国されていたので、朝一番であれこれ土産物を届けた。(9:33)

Paris 1994

   ***

かつて義父母が暮らしていた、介護用にバリアフリー化した住まいに引っ越した。自分たち夫婦が暮らしていた住まいは処分することにして引渡しの日が近づいた。荷物をすべて運び出して掃除をし、35年ほど前の空っぽだった状態に戻すと、物音が室内に響き音響的にライブな状態になっている。

Paris 1994

面白いので妻が編曲した 20 音手回しオルゴール用に編曲した聖歌集、そのクリスマスにまつわる 20 曲を選んでライブ録音をした。自動車の騒音は極力避けながら、六義園内の鳥の声が入るのはご愛嬌と考えて録音したが、クリスマス聖歌の後ろでミンミンゼミが鳴いているのが笑える。冬になったらクリスマス特別版として聴いてくれる人たちにお送りすることになるだろう。(17:05)

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◉蒲原はかんかん照り

2019年7月24日
◉蒲原はかんかん照り

 
 
日記らしい日記のために今日の天気アイコンを並べ始めて十日あまり。ようやく太陽がアイコンに顔を出した。今日は趣味の郷土誌編集委員として蒲原町出身の動物写真家田中光常(たなかこうじょう 1924年 - 2016年)の取材で蒲原まで出かける。
 
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6 時 32 分新宿発の小田急線急行小田原行きに乗車した。(6:33)
 
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終わったことを思い出してはうじうじ考えがちな性格なので、それをプラスに転じるため、最近は未来完了形で後悔するようにしている。
「明日は反省と後悔で身悶える自分になっていることだろう」
と未来を反省すれば、明日そうならないよう今を修正できる。未来に先回りして後悔していると、過去のことを掘じくり返したり、他人と自分を比べたりといった無意味なことをしている暇はない。自分が今日できることを今日の自分がやる、というのはそういうことだ。
 
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8 時 17 分小田原発熱海行に乗車した。(8:15)
 
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8 時 47 分熱海発沼津行に乗車した。6 両編成ふたつドアの不思議な車両がやってきた。ホームライナー沼津 2 号に用いられる車両のようで、ふたり掛け 2 列のリクライニングシートになっている。東海道本線でロングシート以外に腰掛けたのは久し振りだ。(9:02)
 
 
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9 時 10 分沼津発島田行に乗車した。原駅と東田子の浦駅間の線路沿い海側で遺跡発掘調査がまだ続いている。たしかかつて製鉄や鍛治が行われた跡だったと思う。意外な場所で大規模な製鉄が行われていたのだなと奇妙に思うけれど、かつて富士川は今より東側に広大な氾濫原を持っており、河口のデルタ地帯だったこのあたりは、原料となる砂鉄を多く産出し、燃料の調達や製鉄した鉄を運搬するのにも富士川水運が役立っただろう。間もなく新蒲原。(9:34)
 
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蒲原はかんかん照りの猛暑。駅前のスーパーで麦わら帽子を買う。五十嵐歯科医院を見学し徒歩で蒲原城址にのぼる。13 時から蒲原の『銘酒市川』で市川祐一郎さんに田中光常について取材。新蒲原駅まで送ってもらい 13 時 42 分発の豊橋行に乗る。(14:44)
 
静岡駅南口、水の国ビルの会議室が使用不可だったので、いつもの静岡駅構内にある居酒屋でビールを飲みながら編集会議をした。18 時 53 分静岡駅発こだま 672 号で帰京した。
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◉国全体にカビが生えそう

2019年7月22日
◉国全体にカビが生えそう

 
 
やはり総務省のまとめによると、今回の参議院選挙投票率は48.8%で、戦後2番目に低い投票率だったらしい。投票した候補者は落選していた。今日もまた灰色の朝で、こんな状態では国全体にカビが生えそう。読書会のレジュメで第 41 節のまとめが上手くないのでこれから読み直して書き直す。(8:38)
 
 
Paris 1994
 
書き直した。この辺でよしとして皆の指摘をもらって修正する。(10:12)
 
 
Paris 1994
 
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◉投票

2019年7月21日
◉投票

 

未明に目が覚めたので、自宅でキーボードを叩きながらショーペンハウアー・アワー。第 48 節まで読み終えてまとめ資料を作り終えた。読書会でもなかったら「あーめんどくさい!」ととっくに放り出していただろう。ありがたいことである。(5:36)

Paris 1994

耳鳴りかと思ったら六義園内でセミが鳴いている。選挙の街宣車が消えたら蝉の声だけでなく小鳥のさえずりもよく聞こえる。昼前に投票に行ってくる。(9:41)

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正午前に昭和小学校まで投票に行ってきた。人がまばらでびっくりした。投票率はどうなのだろう。投票後、本駒込 5 丁目のラーメン店『自家製麺 ほんま』に初めて行った。醤油ラーメンと塩ラーメンをそれぞれ注文して両方味見したが、非常にユニークな中華そばだった。妻は美味しいと言っていた。その後、買い物をして一旦帰宅し、本駒込 5 丁目の『花登利』をのぞき、明日の読書会後の飲み会のため本駒込 1 丁目の『ナポリの窯 文京店』で宅配メニューをもらってきた。

郷里清水の保蟹寺(ほうかいじ)住職が亡くなる直前にくぐったはずの吉祥寺の山門を眺めていたら奇妙な感慨があった。(17:03)

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◉おとうさんのしごと

2019年7月20日
◉おとうさんのしごと

 
 
今年一月から参加している哲学の読書会がおもしろくて、一度わがマンションの住民交流室で番外の懇親会をしませんかと提案したら、だったら毎月の定例会をそこでやろうという話になった。というわけで明後日 22 日月曜日の会から毎回「ここで」ということに決まった。特定のテキストを事前に読んだ上で毎回決めた担当者が司会となって読み合わせ、皆で意見を述べて検討を行う方式になっている。いまは西尾幹二訳『ショーペンハウアー 意思と表象としての世界Ⅱ』中公クラシックスを読んでいる。今回、担当を初めて引き受けたので第 39 節から 48 節を読んでいる。進行役として飛ばし読みはできないので、自分なりに「わかった」と思えるところまで読み込んでレジュメを作っている。自分一人では投げ出したくなるような本を丹念に読み込む体験は楽しい。ようやく第 45 節まできた。もう一息。(10:12)
 
 
Paris 1994
 
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土日は「おとうさんのしごと」をする日と決めたので、東京メトロ南北線に乗り、図書印刷本社近くの大きなホームセンターまで買い物に出た。広大な売り場を歩いたら週末なので若いカップルの客が多く、若い夫が妻の相談相手をしながら忍耐強く「おとうさんのしごと」をしていた。あれこれ買い込んで帰宅し、大汗をかきながら開封し、組み立てをし、設置を完了し、出たゴミを捨てて「おとうさんのしごと」を終えた。(16:03)
 
 
取り替えてほしいと言われていた「ふきん掛け」を買い忘れたので、『レック SG ふきん掛け ウルトラ マグネット』をネット注文した。(16:57)
 
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