▼カレー南蛮百連発:027


 学生時代はいつも腹ぺこだったので、「食べ放題」の看板を見つけると嬉しくて、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅前のビル二階にかつてあった『ピザハット』のピザ食べ放題にはよく出掛けた。


 街を歩いていたら、カレーライスの食べ放題があり、カレーライスがいくらでもおかわり自由というのは初めて見たのでびっくりした。
 680円でカレーが食べ放題とあり、しかもサラダバーと味噌汁と珈琲がつき、こちらの疑念をはらうように「ごはんもおかわり自由です」と書かれている。学生時代にこういう店があったら入っただろうか。
 カレーライスの食べ放題の看板を見たらカレーライスが食べたくなった。
 最近は外食でカレーライスを食べるなら、インド人が作る郷土料理的カレーにライスをつけて貰うか、蕎麦屋の昔懐かしいカレー丼しか食べたくない。けれど、初めての店でカレー丼を頼むのは勇気が要る。まともなカレー南蛮の蕎麦や饂飩を出す店なのに、カレー丼になると普通の家庭でインスタントカレールウを使って作るようなカレーをかけた丼が出てくることが多く、ひどいときはレトルト臭までするからだ。




4/30。JR駒込駅近くの蕎麦屋にて。



 このお店のカレー丼は、先日恐る恐る「かけそばとミニカレー丼セット」を注文したら美味しかったので、ちゃんとミニじゃないのを食べたいと思っていた。
 昭和三十年代、まだインスタントカレールウが登場する以前は、各家庭で缶入りのカレー粉を使って個性溢れる黄色いカレーを作っており、あの時代のカレーは美味しかったなと思う。
 けれど、S&Bや、オリエンタルや、ハウスや、グリコや、明治キンケイなどのインスタントカレールウを美味しいといって母親にねだったのも、他ならない当時少年だった僕たちであり、おそらく甘くてわかりやすい味で子どもを陥落させることにより、家庭の黄色いカレーは駆逐されていったのだろう。子どものみならず年寄りも甘くてわかりやすいインスタントカレールウのカレーが好きで、我が家でも年寄りが喜ぶので家人もよく作るが、甘くてくどい味だなぁと思う。
 この蕎麦屋のカレー丼が食べ放題なら、頑張ってもういっぱい行けそうな気がする。

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▼花の季節の歌



 町のいたるところに花を見るようになると「(ああ、花の季節になったな……)」と思う。


 若き日の国吉良一が編曲者として参加していた及川恒平の『名前のない君の部屋』(1974)というアルバムに『花の季節の歌』という作品がある。久しぶりに聴いたら、なんとなく「花の季節」という言葉が心の片隅に引っかかったままになっていたので、その言葉を打ち込んでネット検索した。

 まだ中学生だった1969年、メリー・ホプキンが歌ったデビュー・シングル『悲しき天使 』(Those Were the Days)という歌について書かれたブログがヒットし、『悲しき天使 』は『花の季節』という歌が原曲かもしれないという話につづき、そのページのリンクをたどったら別の方のブログに誘(いざな)われ、どうやらロシアの流行歌『長い道』が原曲であるというのが真相らしい。花の季節の小さな散歩を、ネット上で興味深い話しを聞きながら、させていただいた気分になる。

 花の季節になると友だちのブログに花が登場するようになる。
 彼らは多少年齢の上下はあってもみな同世代であり、若者のブログ、特に男性のそれには滅多に花など登場しないので、人間半世紀も生きると女性はもちろんのこと、男性も花が好きになるらしい。
 ネットにサイトを開設して日記を書き始めたおかげで、10年前の自分に会いに行けるタイムマシンになっているけれど、開設当時は花の造形的なおもしろさに惹かれて写真を撮っていただけのような気がし、そういう意味では50歳を過ぎて少しはましな花好きになったのだと思う。




岩槻街道・日光御成道・本郷通り六義園脇にある
タバコ・雑貨・園芸用品店店頭。
その上の写真は近所の高台から咲いていたヤマブキ。



 街角で見事な花を見つけると写真が撮りたくなり、写真を撮っただけではもの足りなくて長いこと眺めていたりし、突然後ろから
「ほんとうに見事に咲いてますね」
などと、声をかけられると嬉しい。
「ええ、ほんとうに」
などと答えながら振り向くと、そういう人たちはみんな同年配なので「(なるほど……)」と思う。
 ネット上の友だちに限らず人間は誰も、半世紀も生きると、望むと望まざるに関わらず、花に心が共振しやすい生き物になるのかもしれない。

 
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▼板前の技と柿の種

 


 小学生時代、知り合いに若い板前がいて、1966年、静岡県清水市に飲み屋を開いた母がプロの料理の基本を教えて貰った恩人であり、あんなに腕の良い料理人に会ったことがないと思い出すたびに話していた。
 小学生時代、その板前がいた店の従業員と常連が集まって、温泉とスキーを兼ねた旅行をしたことがある。飲んべえ仲間の旅行なので当然夜は大酒飲み大会となり、ヨッパライの悪い癖で、眠る前に何かが食べたいという。
 板さんが笑いながら、残っていたお櫃のご飯でお茶漬けを作ってやるといい、ご飯以外に調味料すらないのでどうするのかと見ていたら、酒飲みたちが食べ散らかしたおつまみ珍味の中から、鱈や昆布や乾燥小魚など、だしと塩味の出そうなものを拾い集めて小さくちぎり、ご飯にのせてお湯を注ぎ、京料理でいう“ぶぶづけ”を作り、“ぶぶあられ”のかわりに新潟銘菓柿の種を砕いて散らしたのだった。食べさせて貰ったらそれがたいそう美味しくて、プロの料理人とはすごいものだと子どもながらに感心した。




新潟土産の『柿の種ふりかけ茶漬け』。




 藤山寛美に良く似たその板さんは、数年後ホームから落ち電車にひかれて若くして亡くなったが、不慮の事故だったかどうかは謎だと聞いた。今でも父親似の女優藤山直美をテレビで見ると、藤山寛美似の板さんと柿の種入りのお茶漬けを思い出す。
 上京した新潟の友だちが『柿の種ふりかけ茶漬け』という物をくれたのでびっくりした。子ども時代に柿の種入りのお茶漬けは体験済みなので驚かないけれど、そういうものが商品化されていることにびっくりしたのだ。

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▼歩きながら

 ラジオを聴きながら勉強したり、テレビを見ながら食事をすることを「ながら族」と言った時代があった。



 今でもテレビを見ながら食事をするけれど、ラジオを聴きながらの読み書きは苦手になってほとんどできなくなった。「ながら族」的な能力というのは日々実践していないと加齢とともに衰えるのではないだろうか。電車の中でヘッドホンをして音楽を聴きながら本を読んでいる若者がいるけれど、若い頃なら自分もできたそれが今はできなくなっていて、音楽でも話し声でも、何かが聞こえていると読み書きに集中できない。


 「ながら族」という言葉の解説を読むと、何か別のことをしながらでないとあることに集中できない神経症を指した造語とあるのだけれど、もしそうであるなら自分は「ながら族」ではなかったのかもしれないと思う。なぜならラジオを聴きながらの勉強は、気の進まない学習に集中したくないがための逃避だったし、食事をしながらのテレビは、食事中、あまり愉快でない思念が心をよぎることへの自己防衛的逃避のような気がするからだ。

 誰でも考えたくないいやなことの一つや二つは心の中にある。
その究極のものは、深夜に目覚めて横になったまま考えたりすると「わっ」と叫んだり、身をよじりたくなるようなものであるはずなのだけれど、そういういやなことが、あることをしながら同時に思い浮かべることが不可能であると気づいた子ども時代がある。そしてその「あること」は加齢とともに数を増すことに、年をとって気づいた。




岩槻街道・日光御成道・本郷通り六義園脇にて。



 たとえば歩きながら考えるということを深く観察するとおもしろい。
 歩きながら、「わっ」と叫びたくなるようないやなことを考えるのは難しくて、立ち止まったり、腰を下ろしたり、横になったりすればできるそれが、歩いている最中に試してみるとどうしてもできない。人間何もしないでじっとしているから、つい否定的で消極的なことを思い浮かべてしまったりするのかもしれない。逆に言えば、歩いている最中に思い浮かべられる程度のいやなことというのは、たいがい解決可能なことばかりであり、そういうことはさっさと片付けてしまうべきだと、歩きながらの思考は教えてくれる。

 
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▼押し売りとゴムひも

 


 子どもの頃、町を歩くと家々の玄関先に「押し売りお断り」と書かれた札が貼られているのを見た。

 相手が望まないのに無理矢理売りつけることを押し売りと言い、相手が望まないのに無理矢理買い取る押し買いと対になった言葉で説明される、なんともおかしな商売だった。


 突然風呂敷包みを持った男がやってきて玄関先に座り込み、
「奥さん、おれは今日刑務所を出たばかりで金に困ってるんだ、ゴムひもを買ってくれ」
と凄んで、欲しくもないゴムひもを無理矢理売りつけるといった手口なのだけれど、実際にそれを見たことはない。

 木造賃貸アパートの共同玄関に座り込んででは押し売りがしにくかったのかもしれない。あるいは昭和三十年代も後半になると、立派な一軒家で暮らしていても、夫婦共稼ぎで出掛けてしまう家が増えてきたので、
「奥さん、おれは今日刑務所を出たばかりで……」
と凄みたくても、奥さんが留守の家が増えて、次第に押し売り商売がしにくい世の中になりつつあったのかもしれない。

 それなのにどうして手口を知っているかというと、テレビで見たり、マンガで読んだりしたからで、そういう押し売りはみんな、今日刑務所を出たばかりで、ゴムひもを商品にしていた。というわけで子どもの頃は、刑務所に入れられると囚人は毎日ゴムひもを作らされ、出所時に、
「まずはこれを売って生計を立てろ」
とゴムひも入りの風呂敷包みを持たされるのではないか、と思っていた。

 テレビで見たり、マンガで読んだりするたびに、押し売りが微笑ましく思えてしまうのはゴムのゆるんだパンツを思い出してしまうからであり、どんな家庭の裁縫箱にもゴム通しとゴムひもが欠かせず、昔のパンツはよくゴムがゆるんだ。そういう実用的な品物を持ってくるのだから、子ども心には、ある意味良心的なおじさんである気もしたのだけれど、どこの家にもお断りの札が貼られていたという事は、要求する金額がゴムひもの値段としては法外だったのかもしれない。

 新潟からやってきた友だちを上野駅まで見送る道すがら、昔ながらの民家を利用し、奥の洋室に客を通して、1杯500円の珈琲を飲ませているお宅があったので、上がり込んで珈琲をいただいた。年季の入った家のあちらこちらに昭和の面影が残っていて懐かしい。

 民家に上がり込んだというのがふさわしい喫茶店なので、支払いの時に玄関先に座り込んで小さな風呂敷包みを開け、この民家の主の前で、
「奥さん、おれは今日刑務所を出たばかりで珈琲代にも困ってるんだ、ゴムひもを買ってくれ」
と言ってみて、冗談が通じたら愉快だろうなとふと思う。

 
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▼チェンバロの鍵盤の黒白

 


 チェンバロの鍵盤の黒白はピアノのそれと逆になっている。
 チェンパロの前に座ってみたら、鍵盤にのせた自分の手がずいぶん白く見えるので、どうしてチェンバロの鍵盤は黒白逆なのだろうとあらためて不思議に思う。ナチュラル・キーとシャープ・キーをそれぞれ黒と白、すなわち見慣れたピアノと逆にするのは18世紀フランスで一般化したのだという。


 きっと18世紀フランスでは、白鍵に使う象牙が貴重で手に入らなくなったので、黒鍵に用いる黒檀を多く使うよう、経済的な理由で逆転させたのではないかと思ったのだけれど、調べてみたらそうではなかった。

 チェンバロを演奏する貴婦人の手が白く見えるようにという説もあるらしいけれど、テコのようになっている鍵盤部の重心バランスの問題らしい。

 支点の手前、象牙や牛骨を指が触れる鍵盤部分におくと重くなって慣性質量が増し、支点の向こう側の部分が弦を弾いたあとの戻りが遅くなって、繊細なキータッチが損なわれるから、軽くするためにナチュラル・キーに木を使うのではないかという。実際に演奏してみた友だちは、生まれて初めて弾いたチェンバロが、触れなば落ちんとばかりに鍵盤が反応するので驚いたと言うが、なるほどな、と思う。



4月22日。
チェンバロの響板に描かれた絵柄。



 目白にある株式会社ギタルラ社 東京古典楽器センターのチェンバロ、ボックスオルガン付き貸しスタジオでチェンバロをいじっていたら、響板に描かれた絵を見て新潟からやって来た友だちが
「わぁ、毛布みたい」
と言うので笑ってしまった。幼い頃
「あんたは赤ちゃんの頃、この毛布かけて寝てた」
と母親から笑って見せられた毛布には、確かにこういう女用とも男用ともつかない、奇妙な雰囲気のある絵柄があったのを思い出す。


 歌手の布施明が若いころ、自分のマンション内にグランドピアノを置き、そのまわりで酒を飲みながら仕事の打ち合わせするのに憧れて、ピアノでなくチェンバロを買ったのだけれど
「あれは失敗だった」
と話しているのを聴いて笑ったのを思い出す。チェンバロを囲んで酒を飲むのは、ピアノのそれほど安らがない気がする。

 1時間1,500円の練習時間内に、演奏できるわけでもないので、所在なくイスに腰掛けてチェンバロを眺めていたら、自宅に欲しいなんてちっとも思わないけれど、響板上のブリッジも共鳴弦も、ギターやハープと同様、弦を爪で弾くように鍵盤で演奏するために工夫された、良くできた道具であることに感心した。

 練習を終えた帰り道、女性たちが
「うーん、チェンバロを弾いて練習できて、1時間1,500円なら高くないかも」
と言うので、
「そりゃそうだよ、パチンコで玉を弾(はじ)いてたら1,500円なんてあっという間に終わっちゃうから」
と言ったら、チェンバロのありがたみを解さない無粋さを呆れられたらしい。

 
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▼サイモンとガーファンクル

 夕刊を開いたら全10段抜きでサイモンとガーファンクルの広告があり、16年ぶりに来日し、7月10日、11日と東京ドームでコンサートがあるのだという。


 サイモンとガーファンクルのデビューアルバム『水曜の朝、午前3時』が発売されたのが1964年、『サウンド・オブ・サイレンス』『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』が1966年、『卒業』『ブックエンド』が1968年、最後の『明日に架ける橋』が1970年なので、僕は中学生だった1969年に、清水駅前銀座にあったレコード店『あかほり』で、『水曜の朝、午前3時』から『ブックエンド』までをかき集めるように買い、1970年の春に、新しいアルバム『明日に架ける橋』を買い、それを聴きながら中学校を卒業したことになる。
 サイモンとガーファンクルより前にレコードをかき集めていたのがボブ・ディランで、発売になっていたアルバムすべてがそろってしまったので、ボブ・ディランからサイモンとガーファンクルにかき集めの対象が移っていたのだった。


 中学三年生だったその年はレコードばかり買っていたわけで、いったい1969年に何枚のレコードアルバムを買ったのだろうとあらためて思うに、買ったといっても親の金をせびっていたわけで、よく親がハイハイと買ってくれたものだと感心するけれど、1967年、静岡県清水市旭町に飲み屋を開いた母にとってその頃が、商売が軌道に乗り、もっとも羽振りの良かった時期にあたっていたのかもしれない。それまでの貧乏暮らしで手にできなかった幸せをかき集めるように、あの頃の母は生きていたように思う。

「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」
というありがちなキャッチコピーがその新聞広告に添えられており、漫才なら、
「何処で何をしてようとオレの勝手だろ!」
と切り返すところだけれど、そうかあれから40年も経ったのかと、言われてみれば感慨深い。
 わが親だけでなく誰もが、気がついたら手が届くようになっていた幸せをかき集めるように生きたのが、1960年代後半から大阪万博が開かれる1970年頃までの日本だったんじゃないかと、40年後のいま、当時を振り返ってあらためて思う。

 
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▼待合室にて

 義父母がまだ東京に出てきたばかりの頃、義母が急に熱を出し、ちょうどその日が休日だったため、区の休日診療当番医を捜し、大通りから奥まった場所にある小さな診療所を見つけた。その時の先生が、それ以来わが家のかかりつけ医になっている。義父がデイサービスに通い始めたら、介護職たちから往診してくれる熱心な医者だと評判がよいのも、そのままお世話になっている理由のひとつになっている。

 そんな診療所なので、限られた地域の住民が主な患者になっているようで、待合室では
「あら、まあ!」
「おや、ひさしぶり!」
「やだわ、こんなところで!」
などという会話が始終飛び交っている。

 血圧の薬をもらいに行って待合室の長いすに腰掛けていたら、90歳近いおばあさんと付き添いの娘さんが診察を受けにやってきて、おばあさんは「(よく歩いてこられたな…)」と感心するくらいの身体状況になられている。
「あら、まあ!」
と、待合室にいた娘さんと同年配の女性がすかさず声をかけ、娘さんがお母さんに
「ほら、お父さんがお世話になった○○さんのお嬢さんよ。よく遊びにいらっしゃったでしょう」
とぼんやりした母親の記憶を呼びさますように声かけをし、押しがけでエンジンが動き出した自動車のように、
「あ……ああ、わかりました」
とようやくお母さんのまなざしに焦点が結ばれる。


 棒のような二本の足を交互に動かし、がんばって病院までやってきたお年寄りを褒め、いたわるように
「ちゃんと歩いて病院に来られてお偉いですね」
と知り合いの女性が言う。
「もういつお迎えが来てもいいと思っているのに、情けないですね、痛いのはいやなの。我慢できなくて、こうしてみんなに迷惑をかけています」
とお母さんが言うので
「とんでもない、痛いのと、苦しいのと、痒いのは人間誰でもつらいですもの。我慢なんかしちゃいけませんよ」
とこたえ、痛いのと苦しいのに続いて痒いのが出てきたので「(えっ)」と思って耳を澄ましていると、
「そうですか、じゃあ痒いときは我慢なんかしないで掻いていいのね」
とお母さんが言い、女性が慌てて
「いえ、掻いちゃだめです、お薬をいただきましょう」
と手を顔の前でひらひらさせながら慌ててこたえた。




4月20日。診療所待ち合わせ室にて。不眠に悩む人は3人に1人の割合で存在し不眠が原因で「うつ」になる人も多いという。それは苦しいことだろう。



「ああ……やっぱり我慢もしなくちゃいけませんのね」
と、お母さんはがっかりしたように、肩を落としてため息をつかれた。
 お母さんは、痛いのと同時に痒いのも悩みの種であるらしく、痛いのは我慢できないので医者に薬を貰いに来るけれど、痒いのは薬を塗るより思い切り掻いてしまいたい衝動を我慢して、日々暮らされているのだろう。

 
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▼詩を書く夢

 


 中学生時代、明治チョコレートの包装紙を集めてもらった、グループサウンズ The Tigers のソノシートが4枚ある。
 5人組のうちジュリー、タロー、ピー、サリーはあるのだけれど、包装紙集めが締め切りまでに間に合わなくて、トッポの分だけない。のちにトッポの The Tigers 脱退事件が起こるだけに、ちょっとだけ惜しかったなと思う。


 そのうちの一枚、「あなたにささやくジュリー」は、女性の部屋を訪ねたジュリーが、請われるままに自作の詩を暗唱して披露したりする。ジュリーは驚くべきことに高村光太郎の詩が好きで、以前はたくさん暗唱できたのだと女性に自慢している。

 そんな古いソノシートを懐かしく聞いてしまったせいか、負けずに詩を書いている自分が夢の中にいた。夢の中とはいえ、詩を書くなんて三十数年ぶりだけれど、夢の中なので他人が書いたようでさほど気恥ずかしさもない。

 ジュリーが女性に語り聞かせた、チョコレートのように甘ったるい詩とは似ても似つかない詩なのだけれど、目が覚めてすぐ、枕元にあった携帯電話で、記憶の片隅で消えずにいた一節メモしてみた。

   春は 帰省みやげの相談をしている野ねずみの
   ひそひそ話まで 一言一句たりとも聞き漏らさないよう
   道ばたにそっと 自転車をとめなくてはならない

他人には何を言っているのかわからないような言葉の連なりが、メモしてみると、自分にはわかる気がするところが、いかにも自己満足的で詩らしいけれど、これではジュリーのようにはもてない。

 
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▼もんじゃの時代と主客

 


 何十年ぶりかで、友だち夫婦と一緒に鉄板に向かってもんじゃを焼き、焼きながら、そして翌朝になって酔いから覚めてからも、ベタベタとしたもんじゃ焼きに絡みつくようにして、いろいろなことを思い出した。
 昭和三十年代、東京都北区の工場地帯では、外から見るとごく普通の家が、玄関を開けて奥に上がると座卓のある座敷ごとそのまま駄菓子屋になっていたりし、初めて連れて行かれたときはびっくりしてめまいがした。
 座卓の上面は鉄板になっていて、その上でもんじゃを焼かせて貰える仕組みになっており、店主にとっても客の子どもたちにとっても、隠れ家的な場所に上がり込んで、こっそり間食として食べたのがもんじゃ焼きだった。
 当時の子どもの平均的な小遣いは10円銅貨一枚で、基本になるもんじゃは7円くらいだったと思う。アルミの器に少量の小麦粉を入れ、そこに水道の水をジャッと入れ、千切りキャベツをパラパラと数本入れたのが基本のもんじゃで、紅ショウガや天かすや刻んだイカの足を追加すると、一円ずつ値段が上がって、上手に子どもが握りしめた10円を消費させるようになっていた。追加の具を頼まず、基本のもんじゃで我慢して、おつりに貰った一円玉でばら売りのキャラメルを買うのが、デザートまで考慮した賢い買い物術だった。
 時々、高校生のお姉さんたちが先客として奥の座敷で座卓を囲んでおり、彼女たちは追加の具を全部入れた上にさらにお金を払って小麦粉を足して貰っており、そうやって焼いたものは立派なお好み焼きになっていた。お金さえあれば、お好み焼きになってしまうのがもんじゃだとも言え、ドロドロのもんじゃを焼きながらお姉さんたちのお好み焼きとを羨ましげに見比べていると、彼女たちも小学生のドロドロを見てくすくす笑っていたものだった。

 




4月18日正午。
人混みでごった返す上野駅公園口にて。



 東京下町で、駄菓子屋の店番をしていたのはおばあちゃんばかりで、働きに出ている家族の留守を守りつつ、小遣い稼ぎに始めたのが駄菓子屋だったという事情が多かったのかもしれない。おじいちゃんたちはどうしていたかというと、奥の仏壇に位牌となっておさまっていたり、倒れて寝たきりになっていることも多かった。
「お菓子をあげるから、おじいちゃんの枕元で話しを聞いてやって」
などと頼まれることも多く、今にして思えば、座敷や縁側を利用した民家駄菓子屋で、年寄りと子どもが10円銅貨一枚を介して、主客逆転しながら介護や保育をし合って過ごしたのが、僕にとって三丁目の夕日的なもんじゃ焼きの想い出になっているのかもしれない。

 
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▼国宝阿修羅展と電球

 

 4月18日、東京国立博物館で開催されている興福寺創建1300年記念国宝阿修羅展を見るため静岡県清水の友人夫婦が上京されるので昼食をご一緒することにした。


 昨年二月に、奥さんが階段で転んで膝を骨折する大けがをされ、治っても後遺症が残りそうなので、楽しみにされていた旅行もできなくなったと嘆かれていたのだけれど、奥さん同伴で上京されるという思いがけない便りが届き、思ったより回復状況が良いと聞いて安心した。
 その奥さんが、上京したら一度もんじゃ焼きが食べてみたい、などと言っているという。小学生時代、家の引き出しを引っかき回して見つけた数枚の一円玉で「もんじゃくらいしか食べられない」と肩を落として食べた思い出の食べ物なので、「(えっ?せっかくの晴れの上京なのに、お昼ご飯がもんじゃなんかでいいの?)」と驚きつつネット検索し、座敷でなくイスに座って、もんじゃ焼き“以外のものも”食べられる店を昼食の場所に決めた。

 何十年ぶりかで食べるもんじゃ焼きはともかくとして、元気になられた奥さんに東京で会う思いがけなさに感謝したい。北陸から清水に嫁いで、お義母さんの世話もしつつ働くがんばりやだったので、きっと
「まだまだ!」
とリハビリも人一倍がんばられたんだろうな、と思う。
 阿修羅と聞いて思い出したけれど、幼い頃、家にあった電球はどれも丸にマツダと書かれたマークのある電球で、自動車のマツダが家庭用電球も作っているんだろうかと不思議に思っていた。いまの子どもたちは不思議を見つけたら、コンピュータで検索してすぐに答えを知ることができるけれど、
「ねえ、マツダ電球って自動車のマツダが作ってるの?」
などと大人をつかまえて聞くこともできず、そうしているうちにマツダ電球も店頭から消えてしまい、不思議が不思議として心の片隅に残ったまま大人になった。
 阿修羅がゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダー (Ahura Mazda)に対応し、東芝が提携していたゼネラル・エレクトリックの電球ブランド名や、自動車のマツダの「MAZDA」のロゴにつながっているということを、ようやく知って不思議を一つ解決するまでに半世紀かったことになる。よくわからないけど、がんばったなと思う。

   ***




チーズもんじゃのキャベツの壁を破壊して、
内部にたまった糊状物質と混合し、
カリカリ焼きにして極小へらで食べるための準備



追記:
清水からやって来た阿修羅展観覧夫婦ともんじゃを焼き、昔取った杵柄でドロドロの物体をかき回しつつ四人で食べたら意外に評判がよく、
「五十数年待った甲斐があった、うまい~っ!」
と奥さんが叫び、確かにそう言われてみたら、東京下町、戦後の貧乏食もんじゃ焼きは意外に悪くない。どうしてなんだろうと思うに、ピールともんじゃの組み合わせが悪くないのであり、小学生時代も、ビールを飲みながら食べたらもっと美味しかったんじゃないかなぁと思う。昭和三十年代のそれの10倍くらいの値段なのでおいしくて当然という面もある。

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▼あなたの大切なしぞーかは何ですか?

 10回目の連載記事を書いた季刊誌『sizo:ka(しぞーか)』の通巻10号が送られてきた。

 10号の節目にあたって、季刊誌として年四回発行という決まりを見直して、身の丈相応の発行方法を見つめ直してみたいという。これだけのクオリティを10巻貫いて維持してこられたことに敬意を表するなら、ご苦労様さまでした、今後のさらなる展開を期待してお待ちします、ということになる。

 1999年に何となく自分のサイトをつくり電脳六義園通信所(清水目玉焼)と名付け、10年間ほぼ毎日他愛のない日記を書き散らしてきた。このサイトをつくったことで季刊誌『sizo:ka(しぞーか)』発行人の本間さとるさんとも出会ったのだった。
 当時はまだブログシステムなどなかったので、自分がもっとも好ましいサイトシステムを構築したら、登場したプログシステムがそれに酷似していたのでびっくりしたものだった。ブログに良く似た自作ウェブ・システムではすべての作業が自動ではないので手作業になり、毎月始めには10年分4000ページ以上を書き換えアップロードしなくてはならず、毎日の日記更新ですら午前中まるまる潰れてしまうようになったので、10周年を区切りにブログシステムに日記を移行した。



2004年11月27日、静岡県清水、
久能道入江岡駅跨線橋からの富士山。



 雑誌『sizo:ka(しぞーか)』通巻10号の特集は「あなたの大切なしぞーかは何ですか?」というもので、県内在住の人もそうでない人も、出身者の人もそうでない人も、自分にとって大切な「しぞーか」を語っていて興味深い。
 さて、僕にとって大切な「しぞーか」とは何かと考えていたら、すでにこの世にない祖父母はなんと答えるだろう、母はなんと答えるだろうということが気になってたまらず、聞けるものなら聞いてみたいけれどもう叶わない。それよりも、いまこの時、この世界にいるたくさんの友だちに、その答えを聞きたくてたまらなくなった。そういう答えを聞きたくてたまらない人の存在こそが、僕にとって大切な「しぞーか」の実体だったのだと思う。
 
ねぇ、あなたの大切なしぞーかは何ですか?

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▼芸術と枠組み

 


休とか織部とかのレーベルをひっぺがしてしまえば、欠けたりひび割れたりした茶碗はただのがらくたにすぎない。
美術館から引きずり出してしまえば、意味ありげなオブジェも粗大ゴミにすぎない。知っていてあえてレーベルを貼ったり美術館に持ち込んだりするのが芸術の楽しみで、それがわからずに真に受けてばかりでは芸術は楽しくない。そういう意味で芸術はいたずらや冗談に似ている。



場末芸術祭2009参加作品 春♯1



 枠組みを通してものを見るという行為は、人が必ずしてしまう行為だし、それなしでは生きていけないのが人間かもしれない。けれどその枠組みの枠が、とったりはめたり自在であることをわかっていないと、人はものごとを見誤るんじゃないかと思う。



場末芸術祭2009参加作品 春♯2



 雑誌の主張校正に向かう道すがら、鉄道高架の側壁にコンクリートの額縁があって、その中で超自然派の活け花展がひらかれていた。ひょろりと生えた雑草が、薄汚れたコンクリート製の展示場におさまっただけで、一瞬芸術作品のように見えたりするのは視覚のいたずらであり冗談であり、それゆえにそれは芸術作品になっている。

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▼特有なものが普通にあること

 

 富山県で生まれ育った家人は、おにぎりを握ると大皿に敷き詰めたとろろ昆布の上をゴロゴロところがし、海苔のかわりにとろろ昆布に覆われたおにぎりを作る。初めて食べさせられたときは、変わった食習慣の家庭だと驚いたけれど、富山のコンビニに行ったら普通にとろろ昆布をまぶしたおにぎりが売られていた。
 北海道で「アズキのドン」でお赤飯を炊く光景をTVで見て、そういえば北海道ではアズキの甘納豆でお赤飯を炊くと聞いたことを思い出して日記に書いたら、メールが届いて、北海道ではコンビニで普通にアズキの甘納豆のお赤飯でつくったおにぎりが買えるという。



富山のおにぎりのイメージ図



 地方特有の食文化が、地域ごとに普通に手に入る常識的なものとなっていることが、日々画一化していく世の中にあって、かけがえのないものと感じられる。
 関西や九州出身の友だちは上京してそば屋に入り、そばやうどんのつゆが真っ黒であることに驚いたという。妊娠中だった女性など、真っ黒で甘じょっぱいつゆのうどんが出てきて、とても食べられなかったという話も聞いた。
 そういう関東特有な真っ黒で甘じょっぱいつゆのそばやうどんが、東京でも郷里静岡でも普通にそば屋で食べられることが、かけがえのないものであることを再確認したら、たまには真っ黒いツユでのばしたカレー南蛮が食べたくなった。

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▼一筆箋

 仕事で何かを相手先に郵送するときは、必ず一筆箋にひとこと添えて送ろうと思っているのだけれど、忙しいとついつい面倒になってさぼってしまう。

 メールも同様で、忙しいといきなり要件を書いてしまうので、読み直してあとから一筆箋を書くようにひとこと添えることが多い。そういう申し訳のないおざなりなメールの返信に、思いがけないひとことが添えられていると妙に嬉しい。




しだれ桜観光の人混みが去った六義園。
秋の主役たちはこれから葉を茂らせる



 今日の午後に送信したメールにひとこと

「久しぶりに雨になりましたね。
了解しました。
明日の朝までに再プレゼンをお送りします。」

と書き添えたら

「ありがとうございます。
8坪ほどの畑をやっているのですが、たまの雨はめぐみの雨です。
来週あたりナスを植えようと思っています。」

というひとことが添えられていた。
知らなかった相手の一面が見えてとても得した気分になる。

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