▼燕湯




仕事の打ち合わせを終え初めて通る裏通りに、素晴らしい風情の銭湯を見つけてびっくりした。台東区上野3-14-5、1950年(昭和25年)建造の建物は国指定登録有形文化財になっており、名前を燕湯という。面白いことに午前6時から営業しているそうで、その分閉店が午後8時と早くなっている。




燕湯玄関。



国指定登録有形文化財というと、文京区内でわが家に近いところでは千石の蕎麦屋「進開屋」と米穀店「伊勢五」があり、国指定登録有形文化財の指定を受けると、固定資産税の減額や改修費の半額負担などの補助があるらしい。文京区内では49棟が指定されているそうなので、折りを見て全て回ってみたい。

 
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▼洗濯日和

 


電通の資料によると日本で最初のコインランドリー設置は1966年のことで、北区王子本町2丁目の加賀浴場だったという。大学に入学し北区西ヶ原のアパートで暮らし始めた1974年、近所の銭湯にはまだそれがなかったので母親が二層式洗濯機を買ってくれ、1981年に三鷹で所帯を持つまで使った。




洗濯日和。



一気に症状が加速した義母の認知症の原因が、8年間服用を続けた精神安定剤と睡眠導入剤そして義父との暮らしのストレスにあるような気もし、大学病院主治医の勧めに従って長期検査入院とそれに続くリハビリメニューが始まった。洗濯好きだった義母が、もう一度自分で洗濯をしたがる日が来るだろうか。

 
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▼武蔵境


中央線武蔵境駅。となりの三鷹駅南口からバスに乗ってやや武蔵境寄りに行った辺鄙な場所にある木造アパートで新婚生活がスタートした頃、自転車に乗って買い物に出掛けた懐かしい町の駅だ。義母が長期入院したので、これから数ヶ月間、家人は一日おき、僕は毎週末、義母に面会するため通うことになる。




昨年末に上下線高架化が完了した武蔵境駅中央線ホーム。
久しぶりのせいもあって地上駅だった頃が思い出せない。



その頃、富山から上京した義母を上野駅まで迎えに行ったら、行方不明になって駅構内放送で呼び出して貰う騒ぎになった。結局、娘夫婦を見つけられずパニックになった義母は三鷹駅まで迷走していたのだった。30年近く前の大騒ぎに近い症状が呆けた義母に現れたのも不思議だし、入院の地も妙な因縁だ。

 
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▼写真現像

 


わが家に初めてやって来たカメラはペンEEというハーフサイズのカメラで、36枚撮りフィルムを詰めると倍の72枚撮れた。その方が得だと言うのだけれど、フィルムがもったいないから全部撮り終えてからでないと写真屋には出さないと言うので、秋の写真が春の写真に混じって出来上がってきたりした。




2009年9月17日、六義園上空の夕暮れ。



母親はフィルムをカメラに詰めたままナフタリン臭いタンスに保管したりするので、フィルムが変質して妙な色合いに仕上がることもあった。引き出しからメモリーカードが出てきたのでカメラに入れて撮影し、取り込んだら昨秋の写真が出てきた。デジタルが変質するはずないのに色あせて見えるのが不思議。

 
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▼夕空の象


空に浮かんだ模様を見て何かに似ているように思ったら、他人より先に言葉に出して言ってみると、自分の見え方に他人を引き込んでしまえることが多い。義母の検査及びリハビリ入院の手続きを終え、病院の中庭に出て空を見上げたら、雲の切れ間が象に見えたので「あっ、あそこに象がいる」と言ってみた。




象に見えた夕空。



雲に空いた穴の向こうに青空がある。その穴の形がハンティングワールドの商標にある象に見えたので「あっ、あそこに象がいる」と言ってみたのだけれど、「また明日会いに来るからね」と母親に言って病院を出た家人が再び空を見上げて「もう象はいない」と言ったので、彼女にもそう見えていたのだろう。

 
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▼湯島の緑萼梅

 


湯島の出版社で打ち合わせを終え、天神男坂38段の石段を登って湯島天神境内に出た。境内の梅はまだ咲いている物が少なく、梅まつりの準備が進行中だった。帰るには必ずどこかで本郷台地に登らなくてはいけないのだけれど、ここで登るのもいいなと思う。江戸時代は本郷と広小路を繋ぐ間道だったのだ。




写真上段左:天神男坂、写真上段右:萼の赤い梅(染井霊園にて)
写真下段:湯島天神境内の緑萼梅。



梅の花というものは裏側から見ると可愛いものだなと今年初めて気づいた。梅の裏側が気になるようになったら、萼(ガク)の色は赤いものとばかり思っていたのだけれど湯島天神境内ですでに咲いている梅のそれが黄緑色なのに気づいた。調べたら緑萼梅(リョクガクバイ)という中国原産の梅なのだという。

 
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▼銀のコリヤナギ

 


正月の生け花飾り用として用いられる金や銀に塗られた柳の正体は中国原産ヤナギ科コリヤナギなのだという。玄関先に置かれた花瓶に松とそれだけが残っていたのだけれど、一週間ほど前に見たら発芽しているのでびっくりした。銀色の枝から緑の若葉が芽吹く様は新春にふさわしいめでたさを体現している。




写真上段:1月15日の銀染め枝垂れ柳、写真下段:1月22日の銀染め枝垂れ柳。



発芽から一週間後の今日になったら葯が割れて黄色い花粉が露出し、飛ばす準備が整っている。おそらく花瓶の中では根も出ているのかもしれなくて、ずいぶん長いこと観察させて貰ってありがたいことだと思う。ありがたいと言いつつ、思わぬ変化に気づくと「わっ気持ち悪い!」などと騒いでいるのだけど。

 
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▼雪国の方角

 


東京都北区王子で過ごした小学生時代、跨線橋上から上野駅方向に向かって通過していく列車を眺めていると、屋根の上に雪をのせた列車が通りすぎることがあった。そんなときは、列車がやってきた方向を振り返って、そうかあの方向に雪国があって今も雪が降っているのかな、とぼんやり思ったものだった。



上越新幹線高架。JR田端駅前にて。



そんなふうに冬のある日東京の町に突然、雪を屋根に乗せた列車が現れることでイメージが飛翔し、子どもながらに雪国の方角を実感していたものだった。上越新幹線が開通し高架がよく見えるようになってからは、雪国の方角が矢印として都市の空に書き込まれてしまった気がし、幼い頃のような情趣はない。

 
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▼ロウバイ


義父がショートステイに持っていく12日分のおやつをデパ地下に買いに出た帰り、電車内があまりに暑くて汗だくなのが気恥ずかしく、ひと駅手前の田端駅で下車して歩いた。住宅街の小道で良い匂いがするので見回したらロウバイが咲いており、立ち止まるだけで不審に見えそうな狭い路地で写真を撮った。




田端のロウバイ。



夢中になって写真を撮っていたら後方で「あらっ!」と声がするのでドキッとし、のぞき野郎と間違えられたかと振り向いたら、道行姿で太地喜和子似の女性が笑顔で立っていた。どぎまぎして「ロウバイです」と言ったら「ロウバイですね」と笑い「携帯持ってまた来なきゃ」とけらけらと笑って歩き去った。

 
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▼三組坂(みくみざか)

 


2002年8月、義父母が同時に倒れてから足かけ八年。義父は毎日デイサービスに、義母は家事をしながら在宅で過ごしてきた。義父の身体・排泄介助が困難になり、ホームヘルパーが入ることを頑強に拒まれ、義母に痴呆が始まり、徘徊も始まって眼が離せなくなり、とうとう在宅介護の壁に突き当たった。



三組坂 文京区湯島3丁目
元和2年(1616)徳川家康の死去にともない, 家康お附きの中間(ちゅうげん)・小人・駕籠方「三組の者」に, 当時駿河町といわれていたこの地一帯を与えた。その後, 元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして 町名を「三組町」と改めた。この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。元禄以来, 呼びなれた三組町は 昭和40年4月以降 今の湯島3丁目となる。(文京区解説より)



今日、1月22日から義父は板橋区にある特養に12日間ショートステイすることになった。その間、義母は大学病院の主治医が副院長をつとめる別の病院に、ショートステイを兼ねて検査入院することになった。頑強に拒んでいた外での宿泊を納得して貰い支援に組み込めたことで、また新たな介護が始まる。

 
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▼あゝ上野駅

 


井沢八郎が歌った『あゝ上野駅』という歌が好きで、今でも聴くと「あゝ」という感慨がある。静岡県清水生まれなので、心の駅と言えば東京駅と郷里の清水駅であり、「あゝ東京駅」とか「あゝ清水駅」と溜息と涙が出るような思いでのひとつやふたつはあるけれど、上野駅は好きなのにその「あゝ」がない。



上野駅広小路口前のガード下にて。



『あゝ上野駅』が流行ったのが1964(昭和39)年。上野駅自体に「あゝ」という溜息と涙がない者でも「あゝ東京オリンピック」「あゝ高度経済成長」「あゝ集団就職列車」「あゝ昭和三十年代」という思い出があるに違いない。けれど、きっと一番多いのは「あゝ『あゝ上野駅』」なんだろうなと思う。

 
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▼落語のような実話を聞く


昔、秋祭りに呼ばれてお年寄りを紹介され、村にいち早く野菜の無人売店を広めた篤農家だという。国内旅行をした際に無人売店という販売方法を知り、これはいいやと帰ってからやってみたら、よく売れるのだけれど、売上金泥棒に閉口したという。仕方がないので鍵をつけたが、つけてもつけても壊される。



初めて見た漫画本の無人売店。



根負けして鍵はつけず、盗られる前にこまめに覗いて売上金を回収することにし、ある日回収に行ったら唖然とした。何と見知らぬ新しい鍵が料金箱に取り付けられていたのだった。こんな話を村で尊敬されるお年寄りから面白おかしく話されると、実話であることにより、落語とは違う可笑しみ哀しみがある。

 
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▼夢のポケット


最近母親が夢にちょくちょく顔を出すのだけれど、ほどよく太ってきてよく笑う。あれ?病気はどうなっちゃったの、と思うけれど本人が病気を忘れているならそれが一番だし、食欲もありそうなのでこのまま長生きするかな、と思う。そういう夢を見るということは生きている側の心の修復も進んだのだろう。



北区西ヶ原の東京ゲーテ記念館。



一方、健在の両親二人を同時介護中の家人は見る夢も生々しい。昨日も未明にうなされていたので起こして水を飲ませたら、呆けてきた母親がよせととめるのに台所でお湯を沸かす夢を見たという。「それがでっかい!薬缶なの!」と言い、うなされ具合と説明の口振りからして相当巨大な薬缶だったのだろう。



東京ゲーテ記念館前ポケットパーク。



かと思えば介護のために5時半起きした今朝は、新潟の友人夫婦にまた子どもができる夢を見たと笑っている。また子どもと言ったって孫が産まれてもおかしくない友人の妊婦姿を夢で見たと爆笑しているわけで、現実的な悩み苦しみと奇想天外な夢とは頭の中で全く別のポケットに入っているのかもしれない。

 
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▼義父の髭をめぐる買い物

 


営業前の銭湯で行われているデイサービスに通う義父が、デイサービスで髭を剃ってもらう際に使用する電動シェーバーが欲しいと言い出した。「だってお父さん前にも買ってこんなもんじゃ剃れんって放り投げたんだよ」と言ったら、剃れる電動シェーバーもあることがわかったので使ってみたいのだという。



日光御成道北区西ヶ原一里塚。



パンツの上げ下げさえ自分でできない義父が、ひげ剃りだけは洗面所に立って自分でやっていたのは、電動シェーバーをいやがるので安全剃刀を自分で使わせるしかなかったからだ。何でもやってもらうことになれた義父は、ひげ剃りも大儀になったのかもしれないし、剃られ心地が気に入ったのかもしれない。



日光御成道北区西ヶ原七社神社。



「じゃあ雅彦さんに選んで買ってきてもらおうか」と言ったら「うん」と答えたと言うので、デイサービスで使っている機種のメーカーと型番を聞いてもらった。上手く使いこなせなければ「デイサービスのと違うからだ」と機械のせいにするのが義父の性格なので、「同じですよ」と言ってもらいたいからだ。



日光御成道飛鳥山下の飲食街。



パナソニックの製品だったのでインターネットで検索したら、カタログページに生産終了と書かれていた。よく似た後継機種があるかもしれないけれど、市場流通在庫があるはずだと検索しAmazonにあったのでワンクリックで購入した。自由時間の少ない在宅介護者にとってインターネットは味方になる。



日光御成道本郷郵便局はもう桜の飾り付け。



と、昨年の12月31日にtwitterに書き込んだがちっとも荷物が届かず今日11日で注文はタイムアウトになった。生産中止になったのにカタログから削除してなかっただけだったということだ。仕方がないので自転車で秋葉原に行き、型番末尾に「P」のついた新機種を探したら全く同じ外観だった。



日光御成道を走って買って帰った義父が欲しがった髭剃り。



対面販売なら「モデルチェンジがあったんですがデザインも機能も値段も同じです」と言ってくれれば「ああ、だったらそれでいいです」で商売が成り立つところだけれど、うんともすんとも連絡がなく待たされた訳で「自由時間の少ない在宅介護者にとってインターネットは味方になる」とも一概に言えない。

 
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▼自転車3


霜降橋に出ましたら自転車屋が店を開けていたので家人用に小さいのを買ってそれに乗り、岩槻街道に出て古河庭園前を曲がり、飛鳥山を下って王子に出まして、母校王小を見て跨線橋を渡り、赤羽台に出て再び飛鳥山、旧外大から染井を経て六義園に戻る頃には、あたしはくたびれたが自転車はくたびれない。



購入したての自転車で東京都北区王子三丁目の王子医院前まで来た。
小学生時代病気になって熱を出すと母に背負われてこの病院に担ぎ込まれ
院長先生は王子小学校の校医だった。
この建物は1930(昭和5)年からずっとここにある。


 
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