【相生町のヘソ】

【相生町のヘソ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 29 日の日記再掲

静岡県清水。銀座の大踏切、波止場踏切脇の三角形の土地に新しい舳先ができていた。

友人に見せていただいた昭和 63 年の住宅地図には『富士屋食堂』と書かれている土地である。当時『富士屋食堂』の向かいは『ふしみ画房』であり、その場所は最近まで『居食工房さくら邸』だったが、昭和 63 年住宅地図では『ふしみ画房』になっているので、『居食工房さくら邸』は 1988 年以降にできて 2005 年までその場所にあったことになる。新しくできた舳先は移転した『居食工房さくら邸』だ。

JR 東海道本線波止場踏切脇に現れた舳先
RICOH Caplio R1 

なるほど、ああいう土地にこう建てたか、と興味深い。
RICOH Caplio R1

Super Mapple 静岡県道路地図を見て「おやっ?」と思うのは、清水島崎町がヘンな形をしていることで、江尻船溜まりの岸壁からどんどん西に張り出して波止場踏切を両手で抱え込み、中央銀座『高田アイスクリーム店』(昭和 63 年住宅地図ではそういう名前になっている)前からずうっと東海道本線沿いをグルメ通りの裏を通り清水駅手前まで町域が延びている……ように見えることだ。昭和 63 年住宅地図をあらためてよく見て気づいたのだけれど、実は波止場踏切を両手で抱え込むように飛び出した三角形、喩えて言えば「マグロのヘソ(心臓)」は島崎町の臍の緒のように見えた町域が清水橋という産婆によってちょん切られた事によってできた「相生町のヘソ」なのだった。

「相生町のヘソ」には昭和 63 年住宅地図を見ると 4 軒の飲食店が並んでおり、西から『富士屋食堂』『鬼無里』(きなさと読むのかな)『ばらあど』『孝寿司』である。『富士屋食堂』さんが店をたたまれて寂しくなったヘソに新たな舳先ができて何となく嬉しいのは、街というものが哺乳類である証かも知れない。えっ?

 

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【小さな人生の小さな願いと小さな正月】

【小さな人生の小さな願いと小さな正月】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 28 日の日記再掲

静岡県清水辻で見つけた清水で一番小さいパンの店。西日が差し込んで、早く帰宅しなくてはと心がせくけれど、いつまでもそこに立って覗き込んでいたくなる。

RICOH Caplio R1

プラタナスが冬の日を受けて壁に落とす影が美しい。この壁沿いの左にあるショーウィンドウ、その片隅に清水で最も小さなパンの店がそっと飾られている。

RICOH Caplio R1 

静岡県清水辻。『池上金物店』の窓際に飾られた、小さな小さなパンの店。驚くほど精巧なミニュチュアの世界。

RICOH Caplio R1

小さいものにはなにか作り手の小さな願いが込められていることが多い。逆に願いは小さいものにこそこもってしまう面があり、それが小さいということの魔法かもしれない。

子どものいないわが夫婦が、年老いていく親たちと迎える正月は、いつまでも変わらずにと願いつつも毎年毎年、少しずつ小さくなっていく。今年もまたひと回り小さくなった家族で迎える小さな正月がやってくる。

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【港の抵抗学】

【港の抵抗学】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 22 日の日記再掲

文化系なので電子も機械も詳しくないけれど……と逃げをうちながら日記を書くというのは退却時の後駆(しんがり)のように難しい。逃げると見せかけつつ攻めたいからである。

子どもであれ親であれ、人が家族と共に生きるということは重荷を背負うように人生の流れの中でさまざまな抵抗を受け止め、それに臨機応変に対応しながら前へ進むということである。

静岡県清水江尻船溜まりに停泊中の小型タンカーの船首。遠洋漁船もそうだが荷を下ろすと船の前部は船底が空中に出るほど持ち上がっている。
撮影日: 2005.12.17 8:52:02 AM
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静岡県清水江尻船溜まりに停泊中の独立行政法人水産総合研究センター 遠洋水産研究所所属の調査船『俊鷹丸(しゅんようまる)』の船首。今日の日記のイラストにも描いたが船の船首に描かれているこの「くつした」のようなマークはなんだろう。「この船はしゃくれアゴですよ」という合図なのではないかと思うのだけれど違うかしら。

撮影日: 2005.12.17 9:22:04 AM
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静岡県清水、江尻船溜まり。
母の看取りを終え、とうとう両親ともにいなくなり「う~~ん」と背伸びをしながら帰京する朝は、寄り道をするなと指図する母もいないので、抵抗もなく港の岸壁に足が向く。清水駅に海側の東口ができたことにより、人が街を自由に回遊することの抵抗が緩和された効能でもある。

「(そうか、船の舳先の下にある部分は下顎のようにこんなにしゃくれていたんだなぁ)」
とあらためて気づき、
「(でもどうしてこうなっているんだろう)」
と腕を組んで考える。

船の舳先は鋭角状に尖っている。
それは水を切り裂くようにして前へ進まなくてはならないからで、水を切り裂くということは左右に波を起こすことであり、それにはかなりの力が必要である。それを船が受ける「造波抵抗(ぞうはていこう)」という。水泳の平泳ぎを思い浮かべるとよくわかり、水をかき分けるのはかなり疲れる。

水面近くでは「造波抵抗」と戦いつつ、船は水面下に沈んだ部分で水の粘り気と戦っている。水泳をする人間が前へ進むのに苦労するのは水に粘り気があるからで、進行方向に向いた身体の表面は水の圧力を受けるし、側面は水との摩擦を受ける。前者を「粘性圧力抵抗」といい後者を「粘性摩擦抵抗」という。舳先のアゴのしゃくれは「粘性圧力抵抗」と「粘性摩擦抵抗」をかわしつつ高速航行して船首が浮き上がりすぎないことも考慮されてこんな形になっているのではないだろうか。

打てば響く港町(笑)アップロードした途端に明快なコメントをいただいた。嬉しいな。どうも有難うございます。

「水面下の靴下は『球状艦首(バルバス・バウ)』です。戦艦大和が最初に採用したことで有名でして、艦首が水を切ることにより出来る波に球状艦首で起きた波が干渉し、造波抵抗を減衰させる働きを持つとされています。今では小型船でも、靴下を付けてますね。」 [12/22 09:18 一本釣り漁師の末裔さんより]

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【秋葉さん言葉を燃やす年の暮れ】

【秋葉さん言葉を燃やす年の暮れ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 17 日の日記再掲

秋葉さんの大祭に行ってみた。

物心ついたかつかなかったかの頃、秋葉さんのお祭りでサーカスを見た記憶があるだけだから、四十数年振りの秋葉さん夜祭りである。

火は人から言葉を奪う。夜祭りから一晩明けて帰京し、写真を見直しても、感動の大きさにに反比例して書くべき言葉がない。

火は人を詩人にする……というのはちょっと違うと思うけれど、火は人を寡黙にさせると言ったら外れていないような気がする。言葉を発見する以前の原始時代があるなら、その時代の人々は焚き火を囲んでいるときは、言葉を持たないことも不自由と感じなかったのではないだろうか。

天に立ちのぼっていく火の粉を見ていると、この一年で蓄積した言わずもがなの言葉が「嫌な自分」の拘りからすり抜けて闇の中に消えていくようで、何とも年忘れに相応しい祭りのような気がする。

火渡りは決して熱くなかったけれど、ズボンの裾をまくり上げて裸足になって歩く際の、砕石砂利を踏む足裏の痛さには閉口したした。

山伏に頭をポンと叩かれ、火渡りを終えたら煩悩も雲散霧消した気がするけれど、足裏で聖なる火を踏んだ御利益か、足裏に食い込む砕石砂利の痛みに耐えた御利益かは判然としない。

「もっと熱い火の上を歩け」と言われるより「もう一度砕石砂利の上を歩け」と言われる方がイヤだ。

そして 「もっと火をくべようか?」と山伏に言われたら「もうちょっとお願いします」と答えたかも知れない。

撮影日: 2005.12.16
Panasonic DMC-FX8

 

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【清水橋と富士見大橋】

 【清水橋と富士見大橋】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 16 日の日記再掲

完成間近の清水橋沿いを歩いていたら、先に完成した西側車線の盛り土に石垣があるのが意外な気がする。

新しい清水橋も故あって東西半分ずつ建設したけれど、最終的にはかつての清水橋のように上り下り一体となった橋の完成を想像していたので、まもなく完成する東側車線の盛り土にも石垣が作られて東西が二つに分離した橋になるのだろうか、と細部の仕上げが気になる。でもなんかヘンだなぁ。

清水橋架け替え工事現場の謎の石垣。なんか古そうで、もともと古い清水橋の真ん中に存在したものが出土したようにも見える。
撮影日: 2005.11.30 1:23:51 PM
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2005年12月18日追記
「清水橋は元々静鉄清水市内線の専用橋で昭和 8 年 4 月に完成し、後に道路部分が拡幅されました。今見られる石垣はその専用橋のものです。昭和 38 年に書かれた資料では清水橋は富士見大橋という名称になってます」(静鉄調査隊さんより情報提供いただきました)

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【冬のらいおん】

【冬のらいおん】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 10 日の日記再掲

JR 興津駅前。
時の流れがある日突然止まり、その場所で変わり行くことを拒んで、ひっそりと佇んでいるような風情の店がある。

正午近くになると白地に黒文字の暖簾が入り口に掛けられて営業中とわかり、止まったように見えた時計の針が動き出したのに気づく。暖簾だけが時の流れの証である。

店内に入り隅のテーブル席に腰を下ろし、中学時代の同級生から美味しいと聞いていたオムライスを注文する。

午前 11 時 50 分。デジカメのタイムスタンプは 11 時 37 分になっているので見直したら僕のデジカメの時計が狂っている。時計もまた人が維持する方が正確だったりする。デジタルが当たり前の世の中になったからこそ気づくことだ。
撮影日: 2005.11.27 11:37:21 AM
Panasonic DMC-FX8

こういう三和土(たたき)を見ると、母の手伝いをして床掃除した中学・高校時代を思い出して年甲斐もなく泣きたくなる。
撮影日: 2005.11.27 11:32:42 AM
Panasonic DMC-FX8

熱いお茶の入った湯飲みを両手に包んで一息つき、店内を見渡すとそこもまた時の流れが止まっているかのように静まりかえって見える。

時の流れが止まっているような状態を維持することは意外にも難しい。

8 月の暑い朝に母がこの世からいなくなり、通夜と葬儀が終わって無人になった実家が残った。
時折帰る片づけ帰省では、玄関の鍵を開けて室内に入ると、まず淀んだ空気の匂いが鼻につくので、カーテンを開けサッシの窓を開けて空気を入れ換える。そして前回戸締まりして帰ったその日から、時の流れが止まったような家の中を見回して「ふっ…」とため息をつく。

だが、淀んだ空気の匂い、テーブルの上にうっすらと積もった埃、足裏にざらざらと感じる砂や土、塗り壁から剥がれ落ちたきらきら光る粉、洗い忘れたカップの中で干上がったコーヒーの茶色いシミ……など、時の流れは止まったように見えて実は無人の家の中でも流れ続けている。本当に流れが止まったような状態をちりひとつなく綺麗な状態で維持するのは手間のかかる仕事である、ということを生まれて初めて実感する。

風が吹くたびに「バンッ、バンッ」と音をたてるガラス戸。サッシになって久しく忘れていた。時間の斜面を滑り落ちたような感覚があり、寝つかれない一人の夜に、眼を閉じて聴いた風の音を思い出す。
撮影日: 2005.11.27 11:32:56 AM
Panasonic DMC-FX8

宗像神社の「輪くぐりさん」がここにもかけられている。その下に戸田書店刊『季刊清水』第 31 号があって発行年は 1994 年。その下の興津商工会の冊子は平成 7 年とあるから、その辺で時は歩みを止めている。
撮影日: 2005.11.27 11:33:27 AM
Panasonic DMC-FX8

母が飲み屋を営んでいたので、開店前の手伝いをよくやらされた。
三和土(たたき)を箒(ほうき)で掃き、酔っぱらいが落としていった割り箸や爪楊枝やタバコの吸い殻などをちり取りに集め、時折落ちている小銭をポケットに入れ、掃き掃除が終わった、と言うと母は打ち水をしろ、それが終わったら雑巾がけだ、休んでいる暇なんてないよ、と言いたげに畳み掛けるように言ったものだった。

打ち水をして水がかかるためか、鉄製のテーブルや椅子の脚はよく錆びた。
コンクリートの三和土もまたひび割れ、欠け、ゴミが溜まった。椅子の座面も古びて穴があくのでカバーを掛け、小さな座布団を結わえ付け、母は日々古びていく物を騙しだまし使っていた。

冷暖房兼用エアコンではなくクーラーの時代があった。
冷房はともかく、暖房は灯油の方が安かったので、冬場はストーブの出番となった。夏の勤めを終えたクーラーの室内機はきれいに掃除して新聞紙やビニールで覆いをされ(専用ビニールカバーというものもついていたっけ)、そういう夏の後始末をするのも季節の仕事のひとつだった。春が来ればストーブもまた同じように掃除をして梱包し、物置へと仕舞うのであり、膨大な仕事を季節の変わり目ごとにに営む暮らしがあった。

また来る夏まで大切に梱包されたクーラー。
撮影日: 2005.11.27 11:35:04 AM
Panasonic DMC-FX8

オムライスが出てくるまでの間、丁寧に冬支度されたクーラーの室内機を見上げて少年時代を思い出す。

12 月 9 日、NHK 総合テレビ「特報首都圏『いまなぜ昭和ブーム?』」に海老名香葉子さんが出演されていた。息子さん(正蔵?)もまたブームの中で「昭和は良かった」と言うので「昭和が良かったのではない。だって昭和には戦争があったんだよ」とそのたびに答えるという。昭和が良かったのではなく「情のある暮らしが営まれていた時代」が良かったのだと。

情のある暮らしの面影はまだまだ身近な暮らしの場に残っており、古びてしまった家並みも実は「情」によって維持され続けている。まるで時の流れが止まったような状態こそ、実は人が生きてそこにいて辛くとも維持しつづけていることを示しているのだと思う。

海老名香葉子さんは、古びた身近な暮らしを笑い嫌悪しつつ手軽な昭和ブームの中にそれを見に行くという、歪(いびつ)な「情のない時代」を嘆いているように見えた。

評判のオムライス。奥の厨房で時間をかけ丹念に作られている音がする。懐かしい昭和の「情のある暮らしの真っ只中へ迷い込んだ時の旅人」になったような気分を楽しめる人なら、この時この場所を含めて珠玉の味わいのある昼食になると思う。800円。
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美味しいオムライスを夢中で食べ終えて顔を上げると、目の前に熱いお茶の入った急須が置かれていた。

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【興津で汽笛を聞きながら】

【興津で汽笛を聞きながら】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 9 日の日記再掲

旧東海道・国道 1 号線、興津の街を歩くと通りに面した家々の間に路地があり、南東の海側へと続く道は、埋め立てられて公園やバイパスや埠頭が出来る前は、海辺へ通う道だったんだろうな、と思えるような風情を未だに残している。

子どもの頃、日本地図を見ると日本中何処へ行っても線路の幅は同じだと思いこんでいたので、地図の鉄道路線を辿ると、自分で運転できる小さな機関車があれば日本中線路が続く限り何処までも行けると信じて感動していた頃がある。

静岡県清水興津清見寺町。線路際へ通う道?

撮影日: 2005.11.27 10:49:36 AM

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線路ではなくて道路だって何処までも行けるわけだけれど、線路と道路とは兵隊の位で言ったら線路の方がエライので(山下清風)道路は線路に通せんぼされることがあり、続いている限り何処までも行けそうな夢を見させてくれるのは何と言っても鉄道路線だった。

興津の街を歩いていると、南東側の海辺へ通う道ではなく、北西側の山に続いているように見える路地もあるので、入ってみると東海道本線の線路に突き当り、鋭利な刃物で断ち切ったようにスパッ!と道が尽きていてドキッ!とする。

線路際まで登るための 17 段の石段まであるので明らかに人が通ることを意識して作られた路地だけれど、何の必要で作られたものなのだろう。保線作業用だろうか。

静岡県清水興津清見寺町。路地の突き当たりから見た清水方向。

撮影日: 2005.11.27 10:49:58 AM

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静岡県清水興津清見寺町。路地の突き当たりから見た由比方向。

撮影日: 2005.11.27 10:50:02 AM

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その場所からちょっと由比方向へ行くと古刹清見寺があり、清見寺踏切がある。
『山下清――東海道五十三次』毎日新聞社を開くと、山下清は興津で東海道本線線路脇から見上げた清見寺の風景を描いている。

静岡県清水興津清見寺町。『清見寺踏切』

撮影日: 2005.11.27 11:02:56 AM

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「清見寺という名だな このお寺は 古っぽしいけど上等に見えるな お寺の前のところを汽車の東海道線が走っているのは どういうわけかな お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな」(山下清『山下清――東海道五十三次』毎日新聞社より)
 
線路際から見上げた清見寺は何処から描いたのだっけ、と画集を開いたら踏切脇から描いたのがわかり真正面に「ふみきりちゅうい」の文字がある。

静岡県清水興津清見寺町。清見寺踏み切りから見た清水方向。

撮影日: 2005.11.27 11:03:08 AM

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静岡県清水興津清見寺町。清見寺踏み切りから見た由比方向。

撮影日: 2005.11.27 11:03:22 AM

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踏切の警報機が鳴り、列車が轟音を立てて通過した直後の踏切に入り、線路を踏んでみるのが好きだ。足の裏から懐かしい「コツンコツン」という音が聞ける。

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【興津の若栗さん】

【興津の若栗さん】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 8 日の日記再掲

旧東海道・国道1号線を歩き波多打川を渡って興津の街に入ると、街道に面した家々の玄関に藁で編んだ小さな輪が吊り下げられているのが気になる。

蘆崎神社(いほさきじんじゃ)で土俵を見てきたばかりなので、相撲大会参加記念のミニ土俵にも見えるし、ひょっとして興津の人はスイカ好きで「うちはスーパーで切ったやつじゃなくて、ちゃんと丸のスイカを食ったぞ!」という自慢のためにスイカの下に敷く輪を飾っているのかな、などと首をひねりながら歩く。

静岡県清水興津清見寺町。民家にも商家にも、玄関先にはこの輪が飾られている。
撮影日: 2005.11.27 10:45:29 AM
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ここにも輪、ここにも輪……と次々に目に入るので何なのかを確かめたくて仕方ない。いきなり玄関を開けてリュックサック姿で「ごめんください!」などと言ったらテレビ東京『田舎に泊まろう』と間違えられそうなので、誰かいないかしらと路上の人影を探す。

清見寺前まで来たら『魚格出口』のホッペが赤い元気なとーさんがいるので、
「この辺の家の玄関に藁で編んだまーるい輪がかかってるけど、あれなーにー?」
と聞くと
「はっはっは、あれか、あれは『輪くぐりさん』って言って神社でくれるだよ。怪我や病気をしないためのおまじないだよ」
と言う。

【写真】静岡県清水興津清見寺町。元気で働き者で魚河岸のちょいちょい(じゃんけん)が強い一家で営む魚屋『魚格』。
撮影日: 2005.11.27 10:53:03 AM
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どこの神社で貰えるのか聞こうかと思ったら、
「そんなことより、これ喰ってみな、うちのオリジナルの鯖の薫製、試食して美味かったら買ってきな、それと名物の揚げはんぺんはどうだ、ほれこういうのもみーんなうちで作ってるだよ、あ、それは桜海老の粉、焼きそばに入れるとうんみゃあぞー、あ、それは……ペラペラペラペラ……∞」
と止まらないので神社名を聞けないまま手土産を買って店を出ようとすると
「あ、うちも『輪くぐりさん』飾ってるよ」
と奥の厨房を指差すので引き返して覗くと棚の上に『輪くぐりさん』があった。
「あはは…」

静岡県清水興津清見寺町。「長」がつく家は心持ちしっかり飾っている気がする。
撮影日: 2005.11.27 10:45:02 AM
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さらに街道を行くとやっと道端で立ち話をしている中年の男女がいるので
「この辺の家の玄関に藁で編んだ丸い輪がかかっていますが、あれは何ですか?」
と何も知らない旅人を装って尋ねると、女性の方が
「ああ、あれは『わかぐりさん』」
と言う。

思わずずっこけそうになったけれど、ずっこけると『輪くぐりさん』と知ってるのがばれてしまうのでこらえたら、男性の方が
「あっはっはっ、違う違う『輪くぐりさん』だよ」
と訂正し、女性も
「あっはっはっ、そうそう『輪くぐりさん』って言って神社でもらうのよ」
と笑う。『わかぐりさん』も若くて青くてクリクリした『若栗さん』みたいでいいなぁ、と思う。
「どこの神社ですか?」
と尋ねると、毎年 7 月 31 日に行われる宗像神社大祭の茅の輪(ちのわ)くぐりで貰えるのであり、茅の輪くぐりは夏越し(なごし)の祓(はらえ)なので、貰った『輪くぐりさん』を玄関に飾って一年の無病息災を祈るのだと言う。

静岡県清水興津清見寺町。「長」がつかない家は心持ちざっくばらんに飾っている気がし、ツバメが軒先を借りて巣を作っていることが多い……気がする。
撮影日: 2005.11.27 10:47:10 AM
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『輪くぐりさん』という小さな飾り物は初めて見たので、興津の人々が考えた可愛い民間伝承なのかしらと調べてみたら、厄除け祈願「茅の輪神事」の由来として各地に語り伝えられている昔話にちゃんとこの『輪くぐりさん』のようなものが出てくる。

旅の途中の須佐之男命(すさのおのみこと)が宿を乞うと裕福な兄の巨旦将来は断り、弟の貧しい蘇民将来は快く受け入れた。後に須佐之男命が巨旦将来を攻める時、蘇民将来に巨旦将来の娘が嫁いでいることを知り、茅の輪をその娘の腰に付けさせて目印とし、彼女以外の巨旦将来一族を滅ぼす。そして須佐之男命は今後茅の輪を腰に付けて「自分は蘇民将来の子孫です」という目印にすれば災厄から逃れられると教えたという。この話が実は全国各地にある茅の輪くぐりの元になっているのであり、娘が腰に付けたという『輪くぐりさん』の方が信仰の元々に近い。

泊める泊めないの恨みというのは恐ろしいものかもしれなくて、玄関先の『輪くぐりさん』は「どうぞお泊まり下さい」の宣言とも言えるわけで、助け合い精神に富んで人情に厚い人々が住むという蒲原・由比・興津は街道難所の宿場町であるが故に、こういう故事に基づいた伝承が綿々と受け継がれているのかなぁ、と思えたりする。

玄関先で笑っていた『若栗さん』も、「泊めてください」と言ったら泊めてくれそうな気もするざっくばらんな人だった。

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【てなもんやリュックサック】

【てなもんやリュックサック】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 7 日の日記再掲

山下清『山下清――東海道五十三次』毎日新聞社を見返すと学ぶことがたくさんあり、たくさん画集を買ったけどその中で宝物と思えるのはこの一冊だけだな……と山下清風に思う。

ちょっとだけ本気で絵を描いたことがある人ならわかると思うけれど、例えば由比の町に来て何か絵を描こうとしたら何を描くだろう。

「ここの峠は「さった峠」だな 昔の人はこの峠から富士山だの海だの見たのに いまどうしてそこへいけないかというと がけくずれのためだな そのがけくずれを描くかな」(山下清『山下清――東海道五十三次』毎日新聞社より)

などと山下清は言い、海に迫る急峻な山とそこにへばり付いたような家並みと国道と路線バスの走る圧縮された由比の町を描くのであり、気の遠くなるような面倒くさい景色に正対して絵に取り組むのである。結果として由比の地勢を知る者にとっては「ああ由比!」と胸に迫る絵を描くのであり、絵にとって、面倒くさいと思うことは凡人における最大の障害であること、それが人を感動させる絵が描けない理由なのだ、と山下清は教えてくれるのだ。

山下清も愛用していた、「リュックサック」は清水帰省の必需品である。

母の存命中はあれこれ何か母が食べられるものがないかと見繕っては詰め込んで持ち帰り、泊まる日数分の着替えも持たなくてはならず、おまけに仕事の資料を持ったりするので、行き帰りともリュックサックははち切れんばかりだった。母が死んでからの片付け帰省では多少荷物は減ったけれど、やはりリュックサックが必要な程度の荷物はある。

リュックサックを背負うことの効用のひとつに旅人然として見えるという事があり、旅人然として見えるということは土地の人に優しくしてもらえる可能性がある、ということである。

静岡県清水横砂東町。延命地蔵尊前は旧東海道国道1号線である。
撮影日: 2005.11.27 10:35:41 AM
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地蔵堂内。8体の像が安置されている。
撮影日: 2005.11.27 10:31:33 AM
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静岡県清水横砂東町。旧東海道に面した延命地蔵尊の扉が開け放たれて掃除でもしているようなので中を覗き込んでいたら、リュックサック姿に興味を持たれたらしく、
「どこから来なさった?」
と掃除をしていた土地の人が聞くので、「(入江南町から)」と答えそうになるのをすんでの所でこらえて、
「と、東京から!」
と答えると
「せっかく歩いてきたんだから、遠慮しないで上がってお地蔵様を拝んであげてください」
などと言う。

地蔵堂前の記念写真。今、こんなに大勢のおばあちゃんたちがきちんと雛壇になって「さあ、撮しますよ」などと準備をしていたら国道1号線を行き交う自動車に轢かれてのしイカになってしまう。明治、大正当たりの風景だろうか。
撮影日: 2005.11.27 10:33:58 AM
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真ん中が延命地蔵菩薩座像。ずっと堂内に安置されていたので綺麗な姿だがわかっている資料では300年前には既にこの場所に鎮座されていたという。右側の厨子の中に十一面観音座像がある。300年も座っていたいほどにこの地蔵堂は心地よい。
撮影日: 2005.11.27 10:34:45 AM
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昔、テレビの『てなもんや三度笠』で、藤田まこと演じる「あんかけの時次郎」(沓掛の時次郎のパロディ。いいなあ)が地蔵堂の扉を開けて出てきて、軽い立ち回りをし、「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」と見得を切るシーンが大好きで、一度地蔵堂の中に入ってみたかったので嬉しい。ちなみに『てなもんや三度笠』の財津一郎も「ひじょーーーに」好きだったが、彼の役は「清水一角」のパロディで「蛇口一角」だった。なんというセンスだろう。

時代劇を見ていると、旅人が雨に降り込められて地蔵堂に泊まったりしていたけれど、この延命地蔵尊があるお堂は南向きなのでポカポカと暖かくて居心地が良く、昼寝でもさせて貰ったら最高だなぁと堂内から旧東海道を眺めて思う。

ポカポカのミカン山。
撮影日: 2005.11.27 10:43:46 AM
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JAしみずのカレンダー、大川晴広さんが描く 11 月の絵は大平配水池と横砂東の家並み、清水市街地、清水港、日本平まで見晴るかす絶景だが、このミカン山の上にある道路から見た景色ではないかしらと思い、登って写真を撮ってみようと思ったが何となく面倒くさいので見上げるだけにした。写真もまた面倒くさいと思うことが凡人にとって最大の障害である。

   ***

日記を書く中で蒲原に面白い酒屋を見つけたので、年末年始用に麦焼酎の一升瓶を半ダース注文してみた。

母と由比の町を歩いて感動し「由比はいい町だね」と言ったら「由比はいい町だけど蒲原はもっといいよ」と言っていた、とメールを書いたら、是非遊びに来いと返事があり「泊まってください!」と書かれていた。嬉しい。実は母も蒲原の町を歩いたら、街道沿いの旧家の方が「上がっていってください」「休んでいってください」と声をかけてくれ、旅人に優しい町であることに感動したと言っていた。山下清は蒲原の町をこんな風に書いている。

「そばに山があって 道があって 道のそばににぎりめしをくれそうな家があって 海岸がちかい町というのは いい町だと思うんだけど ふつうの人はどう思うかな」(山下清『山下清――東海道五十三次』毎日新聞社より)

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【角力(すもう)と袖師】

【角力(すもう)と袖師】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 6 日の日記再掲

母親に 手枕されて寝し夜の 心の安らぎ 永遠に忘れじ

袖師ふるさとの路 23 番医王山東光寺門前にそう書かれていた。
河野宗寛老師と署名がある。老師になっても永遠に忘れないのだから、きっと体重 200 キロに迫る巨漢力士であっても母の手枕で寝た夜の安らぎというのは、永遠に忘れられないものなのだろう。

清水横砂本町。医王山東光寺門前。

撮影日: 2005.11.27 10:08:44 AM

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清水横砂本町。蘆崎神社へ左折直後。

撮影日: 2005.11.27 10:11:21 AM

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静岡県清水横砂本町。旧東海道を上り行くと左手に小高い丘が見え、麓に鳥居が立っている。

左折して鳥居を目指して歩くと行く手は国道1号線静清バイパスに遮られ、横断用の地下道がある。スロープが緩やかで使いやすい地下道であり、神社前というのは子どもにとって駆け出したい場所なのでこれでよいと思う。

神社にトンネルを抜けて入っていくというのはまるで胎内くぐりのようだ。

地下道に掲示されていた「すもう大会」のポスター。

撮影日: 2005.11.27 10:12:08 AM

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地下道内に子どもが描いた手作りポスターが貼られており、神社の名前は蘆崎神社だとわかる。何と読むのかな?と思ったら「いほさきじんじゃ」と描かれたポスターもあり、この地域の子どもは親切である。

「蘆」に「いほ」という読みはなく、近いものでは「葦蒲」があってこれは「いほ」と読み、葦(あし)と蒲(がま)のことなので、この辺はかつて一面に葦と蒲が生い茂った場所だったのだろう。

清水横砂本町。蘆崎神社胎内くぐり。安産守護の神様なのでこういうのも相応しいかも知れない。

撮影日: 2005.11.27 10:12:31 AM

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清水横砂本町。蘆崎神社鳥居前。

撮影日: 2005.11.27 10:26:19 AM

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それよりも「すもう大会」という文字に驚き、ワクワクして境内にドスドスと踏み入ったら屋根付きの立派な土俵があった。砥鹿神社、鹿島神社、神明神社に続いて郷里清水で見る4つ目の土俵である。境内にはこんな解説が掲示されていた。

青年角力(すもう)の歴史
 
袖師村は昔から角力の盛んな土地で、盛大な奉納相撲が行われていた。
角力は台覧を行った輝かしい経歴を持ち番付には賜台覧の文字が大きく書かれている。
明治四十五年(一九一二年)井上別荘の庭で維新の元勲井上馨侯爵七十七歳の祝賀会が催され、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)がご臨席になった。
この時、袖師村と飯田村の青年が角力台覧にお供した角力甚句は袖師村青年団が担当することとなり、小長井啓作さん(当時二十八歳)の作詞した角力甚句を滝甚太郎さん(当時二十一歳)の音頭で披露した。
「アアー目出度、目出度や 今月今日はエー 侯爵閣下の七十七の御祝い日 前に眺める三保の松、清水港の帆かけ舟、左手に控ゆる清見潟 景勝すぐれて名も高し、波多打川の清流に添って小糠山 殿の銅像は建てられた、身の丈一丈六尺(約5m)に重みは一千八百貫(約6t)左手についたは、ステッキよ、右手にささげたは、礼帽よ、身には礼服いかめしく立ちし栄士の男々しさは、国の鎮めのヨホホイ、アー守り神エー」
 
この角力は好評を拍し、皇太子殿下より金五拾円也、井上侯爵より金五拾円を戴き青年団の基本財産に繰り入れた。世情が幾度遷しても依然として賜り台覧の文字を掲げて継続されている。
 
「コリャ 引き割りご膳の炊き立てで コリャ 一時過ぎればパラリパラリ」
 
引き割りとは(引き割り麦)の略称で、臼で引いて割ること

清水横砂本町。蘆崎神社境内の土俵。

撮影日: 2005.11.27 10:17:21 AM

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祖父は大相撲中継が見たいがために大枚はたいて白黒テレビを買った人なので、僕も子どもの頃から大相撲が好きだが、砥鹿神社の祭礼でちびっ子相撲を見てから、テレビで見る大相撲より、地域の草相撲観戦の方が面白いし、詰まるところは地域の人になって自分が相撲を取ることこそ、実は一番楽しいのではないかしら、と思えてきた。

「礼」に始まって「礼」に終わる肌のふれ合い力のぶつかり合い、その「礼」と「礼」の両端をつないだ丸い土俵がある「地域」というのは、今のような時代だからこそ子どもたちにも親たちにもいいんじゃないかな、と思う。

蘆崎神社の「すもう大会」でこの地域の子どもたちも相撲を取るのかしら、見に来てみたいな、と思ったが残念ながら開催日がポスターには書かれていない。

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【サボテンの花】

【サボテンの花】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 5 日の日記再掲

鼻歌は旅人の杖である。
鼻歌交じりなら足の疲れも心の憂さも忘れてどこまでも歩ける気がしてしまうから。

帰京の時刻が気になり始め、少し足早になって歩く。
民家の庭先の洗濯物とサボテンが目に入り、そこから先はチューリップの『サボテンの花』を口ずさみながら歩く。

清水袖師町。母と暮らした夏が終わり、あの入江の家でまた来年の夏を迎えるならタオルケットなども洗ってしまっておかなくては、と気づく。「暮らし」を維持するのは大変な仕事だ。

撮影日: 2005.11.27 9:37:46 AM

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清水袖師町。母はアロエが好きで良く植えていたし、静岡市にあるアロエ製薬株式会社の『「間宮」アロエ軟膏』を荒れた手に必ず塗っていた。ガン治療のため東京に出てきて過ごした冬も駒込アザレア通りの薬局で「『「間宮」アロエ軟膏』をください」などと言い、本当に棚から出てきたときは驚いた。『「間宮」アロエ軟膏』というのは全国的に有名らしい。

撮影日: 2005.11.27 9:37:42 AM

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「編みかけていた手袋」とか「洗いかけの洗濯物」とか、この「○○かけ」というものほど遺された者にとって辛いものはない。「○○かけ」たものが人の実在と不在の分かれ道であり、そこで時が止まっているからだ。

息子が 18 歳になって東京の大学に進学し、おそらくもう生まれ故郷清水に帰ってくることはないだろうと覚悟してひとり暮らしになった母にはどんな感慨があったのだろうかと、母に旅立たれて取り残された実家の片づけをしていて思うことがある。

清水袖師町。南向きに植えられたサボテンは元気だ。

撮影日: 2005.11.27 9:37:50 AM

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清水袖師町。袖師ふるさとの路 27 番「子授け地蔵」。非常に素朴であるが故に味わい深い、良い姿をしたお地蔵さま。

撮影日: 2005.11.27 9:38:27 AM

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片づけが終わった生家をどうするのか、清水に住まないなら売るのか? という問い合わせが来るようになった。思い出が詰まった家だからという未練はなく、築 50 年を過ぎた木造二階建住宅をそのままにしておくわけにもいかないから、早晩取り壊して更地にするのがよいと思うが、そこから先はまだ考えられない。

祖母はサボテンが好きな人で、ポロポロと落ちる小さなサボテンの子どもみたいなやつを、次々に小さな器に入れて増殖させていた。卵のカラが出ると必ず植木鉢の土の上に並べ、牛乳を飲み終わると水道の水で濯いで白濁した水をかけ、米のとぎ汁もまた桶に取り分けてサボテンにかけていた。そして大切にしていたサボテンの花が咲いたと大喜びで電話をかけてきたこともあった。

子どもの頃は、サボテンの花は何十年に一度しか咲かないので、それを目撃することは貴重な体験であると教わった気がするが、最近しょっちゅう花をつけたサボテンを見るのは、品種改良なのか、そういう品種が好まれて植えられているのかよく知らないが、ちょっと意外な気もする。

清水袖師町。神明川と庵原川の合流地点。合流地点直下の庵原川は魚影が濃い。

撮影日: 2005.11.27 9:46:04 AM

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鼻歌を歌うと深い考え事をするのが困難になる。だからふと気づくとあっという間に思いがけない距離を歩いてきたような錯覚をしてしまう。初めて初代ウォークマンを買ったときは「(これは自動鼻歌器だ!)」と感動し、ヘッドホンをつけ、カセットテープをたくさんカバンに詰めて町を歩き回ったものだった。

本を読んでいたら考え事に耽ってしまい、目はしっかり文字を読んでいたはずなのに数ページ分が全く頭に入っていないことに気づき、「(これはダメだ)」と本を閉じることがある。音楽も同じで、聞いているうちに考え事に耽ってしまい、まったく音楽が聞こえていなかったことに気づいてスイッチを切ることも多い。

母はテレビで映画を見るのが好きで、予約録画をして膨大に録り溜めをする人だったが、末期ガンの宣告を受けてからは「ドラマは見ていても頭に入らないからもういい」と言い、最末期は「テレビもラジオも頭に入らないからもういい」と言っていた。

清水袖師町。庵原川沿いの遊歩道。今年の四月には桜が満開で「庵原川桜祭り」が開かれ、その様子を友人が紹介していたのを思い出した。花が咲き、若葉が繁り、秋が来て紅葉し、木枯らしに吹かれてはらはらと舞い落ちる季節になった。

撮影日: 2005.11.27 9:46:04 AM

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思い出に耽りそうになっては鼻歌で振り払いつつ歩くうちに庵原川沿いの道に出る。
 
たえまなく降りそそぐ……のは雪ではなく、汗ばむほどに暖かい清水の陽光である。

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【神明山で前方後円墳をふんばす】

【神明山で前方後円墳をふんばす】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 4 日の日記再掲

道は土地の成り立ちに沿って出来ている。そういう意味で道は歴史の羅針盤といえるのかもしれない。

稚児橋で巴川を渡り旧東海道から魚町稲荷前で分岐して県道 75 号清水富士宮線を歩く。

秋葉山入口を過ぎ三和酒造前を通って北上する道は小高い山沿いを行くように感じられ、それは郷土のもう一つの羅針盤、戸田書店刊『わが郷土清水』の図を引けば、嶺西久保浜堤という約 6000 年前に現れた高台に沿う道なのである。うーん、社会科だ。

東名清水インターから国道 1 号線静清バイパスに入り北東に 600 メートルほど行くと右に折れる広い道があり、それは袖師船溜まりに向かう県道 338 号清水インター線である。その三叉路が出来ることによって県道 75 号清水富士宮線は奇妙な形に分断されている。

その分断地点にちょっと削り取られた格好で小高い丘があり、冬の日ざしを浴びてススキの穂が揺れていた。神明山古墳である。古墳南東側に神明宮(神明神社)があり、境内の石碑には次のように書かれている。

県道 338 号清水インター線。左手が神明山古墳。
撮影日: 2005.11.27 9:21:49 AM
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袖師ふるさとの路30番の神明宮参道。
撮影日: 2005.11.27 9:23:26 AM
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神明宮と古墳の由来
神明山古墳は庵原の三池古墳に匹敵する典型的な前方後円墳で紀元五世紀末の豪族の古墳である 此の古墳は「いほはら乃国」の主権者の死に当り神明山に壮大な墓を造って葬り円立の表面を丸石で敷きつめた非常に立派なものであったと思はれる その後次々と支配者が葬られ 神明東築山古墳 神明神社本殿前古墳 神明神社西古墳となった 歳月は流れてこの祖先の眠る神聖な場所え祖先を崇拝するため神明神社が祀られて一族の氏神となったと考えられる これは私達の祖先が上嶺一帯の地に住居を営んだことを証すもので浅間山とともにこれら丘陵地帯は袖師文化發祥の地とも言える(仮名遣い原文ママ)

神明宮の鳥居をくぐり、参道の真ん中を避けて端を歩き、手水舎で右手左手を洗い、左手にに水を受けて口をすすぎ、本殿に私人として参拝しポケットから小銭を取り出して賽銭箱に入れ二拝二拍手一拝(神明宮でそれでよいかは知らん)し、無礼のないように配慮しつつ(ガンとわかってからの母は異様にそういうことにうるさかった)社殿裏手に回って高台へと続く道をスタスタと上る。

神明宮境内の土俵。
撮影日: 2005.11.27 9:32:56 AM
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神明山古墳上にて。
撮影日: 2005.11.27 9:29:22 AM
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手つかずの鎮守の森がそうであるように、古墳上の木立はくねくねと身をよじらせ、このまま保全されれば(清水では開発のために今も平気で古墳が削られている)いずれは名だたる古社の末期林みたいになるのかも知れない。それでも樹間を渡る風は轟々と音をたてて神々しく、ただならぬ気を発散している。巨樹を撮したデジカメ画像の発色も妖気漂う乱れを生じている……ように見えたりする。

 

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【平成 17 丁目の朝日】

【平成 17 丁目の朝日】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 3 日の日記再掲

いつまでもあると思うから大切に出来ないものの筆頭は「親」かも知れない。

親に限らず失って初めて魂の底から哀惜の念が沸いてくるものは意外と多く、「(しまったなぁ、もっと大切にしておけば良かったなぁ)」などという愚かしい自戒の念に苛まれつつ、人は性懲りもなくそういう愚行を繰り返して生きる定めなのかも知れない。

実際、失ったからこそ「(しまったなぁ、もっと大切にしておけば良かったなぁ)」と思うものの、実際そこにいたりあったりすると「(どう大切にすればいいんだ!)」と答えが見つからないことの方が世の中には多いのだと思う。

【写真】静岡県清水西久保の『岩本電気店』。母は「モーターがいいから冷蔵庫は絶対日立がいい」と言って聞かない人だった。だったらモーター内蔵の電気製品はすべて日立にすればいいのに、掃除機は三菱、洗濯機はナショナルと一貫性がないのであり、その一貫性がないが故に神話は実話と一線を画していたのだろう。
撮影日: 2005.11.27 9:13:12 AM
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静岡県清水西久保。朝の県道 75 号清水富士宮線を歩くと懐かしい日立のお店があり「(お店を大切にされているなぁ、ありがたいなぁ…)」と嬉しくなる。わざわざ映画館や博物館に足を運ばなくとも、想像力さえあれば小さな日だまりのような場所から広がる、失われてしまった善き時代の思い出で世界を覆って見ることもできるのだから。

街は無料の映画館であり博物館である。

【写真】「♪ひたちのおみせをのぞいてみませんか~」は「♪あかるーいなしょなーる」とか「♪しあーわせーはみーんなーのみつびーしでーんーき~」とか「ひかーるひかるとーしば~」より新しい気がするのだが、新しいとしたら古いのはあったのだろうか。
撮影日: 2005.11.27 9:13:00 AM
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そういう場所を通過したときの写真を後になって見返してみると、通過した直後に必ず振り返って眺めているのに気づいておかしい。

今見た光景が振り向いた瞬間に跡形もなく消えてしまっているのではないか、という気がするのであり、そうやって振り返りつつ振り返りつつ遠ざかっていく対象というのは、いつの日か「(もっと大切にしておけば良かったなぁ)」と思い出すものであり「(でもどう大切にすれば良かったんだろう)」と自戒の念に煩悶したりするものであるのかもしれない。

【写真】日立のお店ほど朝日と夕陽が似合う店はないんじゃないかな。エスパルスも真ん中辺の順位が一番似合わない気がし、ミカン色というのはそういう色かも知れない。
撮影日: 2005.11.27 9:13:42 AM
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【臥龍梅と鶯宿梅】

【臥龍梅と鶯宿梅】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 2 日の日記再掲

祖父も本家を継いだ叔父も日本酒党であり、今思えば二人とも浴びるように日本酒を飲む人だった。

茶の間の隅にある黒光りした食器ダンスの一番下にある開き戸には必ず日本酒の一升瓶が何本も入っていて、封を切ったものにはおまけで付いてくる樹脂製の注ぎ口がついており、それがあると徳利に酒を注ぎやすいのである。祖父も叔父も季節に関りなく酒は必ず燗をして飲んでいた。

三和酒造。山と呼べないような小高い裏山を背負っているが、吹いてくる風が清涼で気持ち良い。
撮影日: 2005.11.27 9:08:27 AM
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清水西久保。最近「臥龍梅(がりゅうばい)」で全国に名を馳せている三和酒造の酒蔵にも遅い秋が訪れていた。

祖父や叔父が毎晩飲んでいた日本酒は何だったのだろうと思い出そうとするけれど、幼児が酒の銘柄など覚えているはずがない。三和酒造の酒を飲んでいたことがあるのだろうかと同社の歴史を調べたら、昭和 46 年に「鶯宿梅酒造」「小泉本家」「清水酒造」の 3 つの蔵元が合併してできたできたのだという。その 3 社とも江戸時代の創業とのことなので三和酒造も古い蔵である。

杉玉と臥龍梅。母が病気になった見舞いに『臥龍梅』をいただいたことがある。母はガンとわかってからほとんど酒を口にしなかったので「あんたが飲みな」と言い、友人たちの集いに手土産にして飲んだらとても美味しい酒で喜ばれた。
撮影日: 2005.11.27 9:08:03 AM
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「臥龍梅」で有名になる以前、「静ごころ」という名の酒を出されていてそれはよく目にしていたのだけれど、祖父や叔父が「静ごころ」を飲んでいたか否かはわからない。ただ「鶯宿梅」という名に記憶があり、小学生になっても「鶯宿梅」がどうしても読めずに祖父か叔父に「おうしゅくばい」と読み方を教わった記憶がある。

三和酒造のあるこの場所こそが創業貞享年間「鶯宿梅蔵元」らしい。初代市兵衛さんがお稲荷さんに「酒造りのうんまい水を授けてくりょうよ~」(清水弁)と祈願したら、稲荷大明神が鴬に変身して満月の夜にやって来て「ほけーと!じゃなかった、こけーと井戸を掘ってみょーよ」と裏の浅間山麓の梅の枝にとまって市兵衛さんに清水弁で伝えたのだという。奇跡が起きた年は 1686 年と言うから貞享三年のことである。

三和酒造脇の坂道。「鶯宿梅蔵元」の言い伝えによればこの裏山を浅間山ということになる。石蔵の奥にある立派な家はは蔵本さんの自宅かと地元の友人にメールで尋ねたらそうだと言い「一度だけ入ったことがあります」などと言う。僕や友人のようなつましい暮らしをしている者が「一度だけ入ったことがあります」というと、どう考えても空き巣に入ったとしか思ってもらえないほどの豪邸である。裏山がそのまま庭になっているらしい。入ってみたい、玄関から。
撮影日: 2005.11.27 9:10:57 AM
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祖父も叔父もとうに物故して文句をつけられることもないので、
「ぼくのおじいちゃんとおじさんは、まいばん『おうしゅくばい』というおさけをばかのみしていました」
という風に幼い頃の思い出を完結させておくことにした。その方が郷土の酒に愛着が湧く。

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【清水富士宮線の秋】

【清水富士宮線の秋】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 12 月 1 日の日記再掲

実家片付け帰省帰り、旧東海道も県道75号清水富士宮線も、歩いて北上して清水市街地を離れるとき、振り返ると道の彼方に日本平が見える。
 
東京への手土産に『みのや栗田菓子店』で何か買って帰ろうかと思ったのだけれど、早朝なのでまだ予約の御菓子が包装されて店の隅に置かれ、「ちいちい餅」がガラスケースにあるだけだった。

母親の百箇日法要に使う御菓子を持ってくるよう寺の住職に言われ、知ってますよという顔をしつつ「はい!」と答えたものの、御菓子というのはたぶん母が好きだった「栗田の(割れ)せんべい」ではないだろう、くらいしかわからない。入江二丁目の「竹翁堂」さんで聞いたら「積み団子ひと組、焼き饅頭10個、ちいちい餅10個」なのだという。四十九日餅は確か餅が四十九個あったような気がし、おそらく百箇日は御菓子を百個用意するところを 10 × 10 で省略しているのだろう。菓子だけに、うまいなぁと感心した。

『みのや栗田菓子店』 
撮影日: 2005.11.27 8:50:38 AM
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『みのや栗田菓子店』前から県道75号清水富士宮線を振り返る
撮影日: 2005.11.27 8:51:18 AM
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歩いていくと住所は清水西久保になる。

鹿島神社の石段を登り、お賽銭を入れガラガラ大きな音を立て鈴を鳴らして手を合わせ、静寂が戻ると境内に何かがポトリ、ポトリと落ちる音がする。

鹿島神社参道にて
撮影日: 2005.11.27 9:05:44 AM
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頭にコツンと当たったものがあったので境内を見回すと、ギンナンが落ちているだけだった。

鹿島神社のギンナン。
撮影日: 2005.11.27 9:04:52 AM
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いまごろ夏の思い出が落ちてくる。

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