【奇妙な譲り合い】

【奇妙な譲り合い】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 5 月 23 日の日記再掲)

僕が子どもの頃は、電車に乗った際、余程のがら空きでない限り座席に座ることは許されなかったものだ。最近は先を争って自分の子どもを座らせる母親が多いのに驚く。

子どもをめぐる奇妙な席の譲り合いを見てしまった。あまり変なので日記に書いておこう。

JR の通勤車両には多くの人間をつめ込むのに特化していて、ラッシュ時は座席が跳ね上げられていて客全員立ったまま護送されるという車両システムがある。ラッシュ時を過ぎて座席を降ろすと大人三人がやっと腰かけられる堅いシートが現れる仕組み。入ったことはないが本で見た監獄のベッドのようだ。

その三人がけ席の端に座っているご婦人がしきりに子どもに席を譲ろうとしており、その反対端に腰かけているお母さんが、
「いいんです、子どもは立たせておいてください」
と、執拗に断っている。

これだけなら、いまどき珍しいしっかりしたお母さんだなぁと感心してお終いなのだけれど、珍妙なのは「譲ろう」「断ろう」としている二人の間は、なんと空席なのだ。空席に子どもを座らせればいいようなものなのに、なぜご婦人が更にもう一つ席を譲ろうとしているかというと、断ろうとしているお母さんの膝におばあさんが腰かけているのだ。要するにこの一家は、祖母・母親・孫の三世代連れなのである。

ご婦人は、「多分この三世代家族は三人並んで三人がけ席に座りたいのだ」、それができないので子どもは立ったまま、おばあさんは「膝に座るなどという不自然な状況」になっているのだろうと類推しているらしい。

で、いまどき珍しいしっかりしたお母さんの方は「子どもは座らせるべきではない」、そして「大人がふたりでひとつの席を共有すればその空いた空間に誰かもうひとり座れるではないか」と、さらに高度な譲り合い精神を実践して子どもに見せているのだ。倫理、道徳の実践授業である。親亀の膝に祖母亀乗せて、いつかこけても孫亀が、美しい日本人の心を受け継いでくれる事にかけた壮大な構想があってのことなのだ。子どもにはわかりそうもないし、大人でもよくわからないけれど、立って見ているだけで頭が下がる思いである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【永遠の息子】

【永遠の息子】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 5 月 19 日の日記再掲)

天井の高い倉庫のような場所、漆黒の闇の一角に裸電球で照らされた場所があり、数人の男がモツ煮の大鍋を囲んで酒を飲んでいる。セピア色の世界だ。

そんな夢をよく見るのは、古くて汚い飲み屋好きの友人のせいばかりではなく、小学校一年生頃まで父親に連れられて行った大衆酒場や簡易宿泊所などを思い出しているようなのだ。

昭和三十年代初頭、なぜ小学校一年頃までと限定するかというと、それ以降、父は風の便りで死んだと聞かされるまで家に帰らなかったのである。

父は幼い僕を連れてよく外出した。息子を連れて外出すれば、僕の食事代を酒代に充てるのに好都合だったからである。菓子パンを一個買い与えられ、父について場末の酒場や立ち飲み屋を渡り歩き、時には酔いつぶれた父と簡易宿泊所の棚で眠ったこともあった。

菓子パンで済ます夕食はそれなりに嬉しかったし、酒場の酔っぱらいにちやほやされるのも楽しかったので、夕飯は何を食べたかと聞く母に、
「僕は菓子パン、お父さんはお米のジュース」
などと正直に報告してしまい、わが家では両親の掴み合いの喧嘩が絶えなかった。

すでに父が死んだくらいの年齢まで生き延びたので、朧気な父の面影に語りかけて、「いくら好きだからといって、妻を泣かせ家庭を打ち捨てて、のたれ死にするほどの酒好きには育たなかったぜ」、と言ってみたりするが、実のところはわからない。僕はとうとう父親にならなかったし、今生きている社会の表層は、夢に現れるあの時代より脳天気に明るいのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【太股の屈辱】

【太股の屈辱】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 5 月 18 日の日記再掲)

JR の駅に設置され始めた自動改札機を通り抜ける際、規定の運賃に満たない切符を放り込むと、左右の扉が勢い良く閉まって、太股あたりを叩かれる仕掛けになっている。

大の男がそんな部位を叩かれるのは何とも情けない話だが、たとえ故意ではなかったとしてもルール違反を犯したのだから仕方がないと諦めるより仕方ない。

許し難いのはその馬鹿機械が誤動作することがあるのだ。
今日だって池袋駅の改札を出ようとしたら不意に太股を叩かれた。腹立たしいので有人の改札口にいって、
「駒込・池袋間って 150 円じゃなかったですか?」
と尋ねてやったら、駅員が気怠そうに切符を手に取って一瞥し、
「どぅおぅぞー」
と、顎をしゃくり上げて通っていいよの合図をしてお終い。確かに切符を瞬時に読みとる仕掛けはそこそこ優れているかもしれないが、客扱いに関しては出来損ないのシステムなのだ。

以前、同じ池袋駅で、見るからに「丸暴」風のおっさんが同じように太股を叩かれるシーンに遭遇した。
夏用ゴルフズボンの出で立ちだったので、叩かれた拍子に「パン!」と妙に安手の音がしたのが、たまらなくおかしかったが、さすが「丸暴」風だけあって無理矢理「バキッ!」と音を立てて突破してしまったのが凄い。更にそれだけでは怒りが収まらないらしく、振り向いて
「ぬぁんだぁ、こんのやろぅ!」
と捨て台詞を吐いたので、後ろに続いた人々は恐怖で凍り付いていた。

「丸暴」と平和市民の決定的違いは「ぬぁんだぁ、こんのやろぅ!」と咄嗟に言えるか言えないか。そこに、不条理な客扱いをされた事の溜飲が下がるか下がらないか、損得の分かれ目があるようにも思える。だが、冷静になって考えれば、出来損ない機械で不正乗車を取り締まろうという鉄道側も、その出来損ない機械に凄んでみせる「丸暴」も、どちらもひどく間が抜けているという、ただそれだけの話だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【カレーうどんを食べるまで】

【カレーうどんを食べるまで】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2001 年 5 月 12 日の日記再掲)

何年か前、郷里の母親が上京した際、近所に旨い「カレーうどん」を食べさせる店を見つけたと大喜びで帰ってきた。おいしいから行ってみろとしきりに勧めるのだけれど、もたもたしているうちに有名店になってしまい、マスコミの宣伝もあって毎日行列ができているという。そうなると、行列してまで「カレーうどん」を食べる気もしないのでうっちゃっておいた。

妻とふたり近所まで出かける用事があり偶然思いだしたので、意を決して入ってみることにした。正午まで三十分もあるというのに長蛇の列。二十名も入れない小さな店なのでなかなか順番が回ってこない。

ガラス越しに背中が見える店内手前のカウンターに座っている常連風の若いデブが、カレーうどんをすすりながら隣りの女性に頻りに話しかけているのを見ていたら腹が立ってきた。

大体、麺類というのは急いで食べないとのびて味が損なわれるので、黙々と手際よくドンブリ → 口 → 胃袋、ドンブリ → 口 → 胃袋と送り込んでやるべきものなのに、そのデブは女にちょっかい出すのに夢中でうどんが延びているのか、いくらすすり込んでもドンブリからうどんが出てくる。もしかするとドンブリ → 口 → ドンブリ、ドンブリ → 口 → ドンブリと外の順番待ちの人々を焦らせるために、うどんのピストン運動をしているだけじゃないかとも思えてきた。

順番待ちの人々が苛ついているのを見て、隣りの中華料理店のおばちゃんが出てきて
「そっちより、こっちのほうが栄養があって旨いよ!」
と盛んに客の引き抜きを仕掛けてくるのがせめてもの退屈しのぎ。

四十分ほど待ってようやくカウンターに座らされ「カレーうどん」を注文。カレーうどん一杯 1200 円也。エビ天入りのやつは 1800 円。これだから商売というのは面白い。もし、順番待ちしなくて済む席数と、一般的な蕎麦屋の「カレー南蛮」の価格と、不快なピストン・デブが常連に居なかったら、この店はもっと繁盛するかというとそうでもない。疲労と散財と不快が豪華三点セットになっているからこそこの店の特異性は高まり、こうして毎日「上客」が行列するのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )