【形態と波動】

【形態と波動】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 27 日の日記再掲)

高校時代は写真部に在籍し、将来は東京に出て写真家として身を立てようなどと、寝つかれぬまま自転車で夜明けの岸壁に行って横になり、豊年製油脇のテトラポッドに当たって砕ける生ぬるい波の波動を感じながら、いい加減な将来の展望を考えたりしたけれど、母の店に来る客に、
「写真家なんていうのは金持ちの息子で、少なくとも 3 年くらい遊んで暮らせるくらいの後ろ盾があるか、親のことなんて忘れて勝手気ままに暮らせるような大家族の末っ子でなければなれるもんじゃない(おめーなんかになれるわきゃねーだろーがーっ!)」
と一笑に付され、しょげた挙げ句に、それなら写真とさほど縁遠くない商業美術家を目指そう、と思い立ったのが高校 3 年生の夏だった。

静岡鉄道の音羽町辺りだったと思うけれど、美大受験のための学校があったので通うことにし、ポスターカラーを買ってこいというので清水銀座の踏切そばに 2 軒並んで営業していた大きな文具店『フシミ』『ワタイ』でそれを買ったのだった。

中学高校を通じて美術部に在籍したことがなかったので初めての平面構成実習であり、形態と色彩が意図する波動を発するように考慮してデザインした課題を提出したら、バイトで講師をしているムサビ(武蔵野美術大学)とタマビ(多摩美術大学)の学生が
「当たり前すぎて面白味がない」
とけなし、ゾーケー(東京造形大学)の学生が、
「当たり前の表現をしてどこが悪い」
と反論してくれ、それ以来ゾーケーのファンで、今でも仕事で知り合った人がゾーケー出身の人だと旧友に再会したように嬉しくなる。

Data:RICOH Caplio R1

静岡県清水上清水町。
『清水文化センター』斜め向かい、『清水中央図書館』並びの県道 197 号駒越富士見線沿いに立派な画材店が店開きしていて嬉しくなる。清水での新たな挑戦に心の中で拍手を送る。

Data:RICOH Caplio R1

『 Kiyono 』と看板にあるが、いったいどこから突如画材店が出現したのかとインターネットで検索したら、上清水町11番地、大小山慶雲寺近くの久能街道からちょっと入ったところに『清野画荘』という画材店が存在し、おそらくそのお店が文化センター近くにお店を出したのだろう。清水の町に文化の火が一つ灯ったようで嬉しい。

さらに自転車を漕いで県道 197 号駒越富士見線を南下し清水北矢部町 2 丁目に差し掛かったら「自家製天然酵母」の幟を掲げた新しいパン屋ができていた。

Data:RICOH Caplio R1

『ベルーフ』というお店でインターネット上にサイトもあるので訪ねてみたら、この建物は『形態波動エネルギー研究所』所長の足立育郎氏が設計したものだそうで同研究所のサイトを訪問してみた。この方はなかなかの話題の人らしいのでインターネット検索でトンデモナイほどにヒットする。

Data:RICOH Caplio R1

「形態波動エネルギー研究所は未来の時空間より情報を得、全ての存在(エネルギーも物質も)が波動から成り立っていることを宇宙の仕組みとして受けとめ現代科学の枠組みにとらわれず研究を行い科学的に検証し、地球という星の文化がより自然の法則に適って調和のとれた方向へ変換するための役割を行います」(形態波動エネルギー研究所設立主旨より) 

こういう口当たりが良いくせに噛み下しにくい理念の理解が苦手なのだけれど、かつて形態波動グッズなども販売されるというちょっとしたブームがあったそうで、『形態波動カード』なる素人にもわかりやすい商品も売られていたらしい。カードに描かれた図柄が波動を発しており、そのカードを見つめていたら頭痛が消えたなどという人もネット上にいた。

へぇ~と思うのは形態が波動を持つので波動を持ったカードをコピー機でコピーすると形態だけでなく波動自体もコピー可能になるらしい……ということはこの建物の形態もまた形態波動研究の成果を元に波動を発しているとすれば、日記に掲載したこの写真もまた波動を発していることになる。形態波動を感じる人は幸せなことにエネルギーを感じて頭痛が消えたり、自我が希薄になって良い人になったりするらしいので、この日記を見て波動を感じた人は「お気に入り」に登録するか自分のパソコンに画像を保存して毎日見ると良いかもしれない。

【ポケットの波動】


真夏のような日ざしにうんざりし、冷たいお茶でも買って休憩したいなぁと思うと、ついつい清水村松原の稲荷神社に足が向いてしまう。
境内が小高い場所にあり大楠が日ざしを遮ってくれるので非常に居心地が良く、心地よい風が吹いていることが多い。極小の地域気象のようなもので、どうしてかは形態波動の説明より楽そうな気もする。


Data:RICOH Caplio R1

年寄りや子どもにこれ程利用されている境内も珍しく、ゲートボールをしたり木陰で休息をして心からのんびりを楽しむお年寄りを必ず見かけるし、遊んでいる子どもたちはいつも笑顔でのびのびしている。本当に良くできた神社だと思うけれど、「のんびり」も「のびのび」も形態の波動より高次な理由でそこに存在しているように見える。

何だか眠くなってあくびをし、ベンチでボーッとしていたらポケットの携帯が波動を発し、それは本郷三丁目交差点近くの出版社からかかってきた仕事の督促電話だった。

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【ぶらり途中下車御門台 2】

【ぶらり途中下車御門台 2】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 26 日の日記再掲)

静岡鉄道狐ヶ崎・御門台(みかどだい)駅間の北側にこんもりとした大楠が見え、かなり大きいので古い神社がありそうに思えて以前から途中下車したいと思っていた。

なんとなく真っ直ぐ帰京したくない気分だったので思い切って途中下車して歩いてみる。

駅の横に大きな空き地があり、そこにはかつて『スーパーいやま』があった。「駅に隣接」より「駐車場完備のバイパス沿い」の立地条件が勝るような時代になり、それに機敏に反応して生き残りの道を選んだのかもしれなくて、南幹線沿いに移転して大きくなった『スーパーいやま』ができたので、ここは空き地になっている。

かつて清水市大内にあった祖父母の家では、本家の嫁だった叔母が毎日自転車で御門台駅前『スーパーいやま』まで買い物に出るのを楽しみにし「本当に便利になったやぁ」と喜んでいたのを思い出す。自転車を駆っても相当な距離であり、それでも便利さをありがたがった時代だった。

通り沿いのお宅の奥まった庭に大きな棕櫚 (しゅろ)の木があった。
清水では巨大椰子(やし)や蘇鉄(そてつ)を見ても驚かないので、大棕櫚(しゅろ)にもちょっとやそっとじゃ驚かないがノウゼンカズラ(凌霄花)が絡みついて花の塔になっているのが珍しくて、平安時代に渡来した中国原産の花が棕櫚 (しゅろ)の木と一体化しているのが、なんとなく「(ああ清水だなぁ)」と思う。

Data:RICOH Caplio R1

静岡県清水七ツ新屋(ななつしんや)。
静鉄電車から見える大楠のの方向を目指して右折したら、大きな棕櫚(しゅろ)のあるお宅があった。
清水で巨大椰子(やし)や蘇鉄(そてつ)を見てももう驚かないので大棕櫚(しゅろ)にもちょっとやそっとじゃ驚かないが棕櫚(しゅろ)の木にサッカーボールが引っかかったままになっているのがサッカーの町の面目躍如であり、なんとなく「(ああ清水だなぁ)」と思う。

Data:RICOH Caplio R1

こういう他愛ないことに心を動かすことは、取るに足りない些細なことにも「(ああ生きているなぁ)」という喜びを見いだすことの訓練となり、それをいつか苦しみに耐えがたい日が来たとき、人生を放棄しないことのかけがえのない杖となる。

【七ツ新屋の八幡神社】

静岡鉄道から見える大楠の森には八幡神社と春日神社が合祀されていた。

Data:RICOH Caplio R1

元々ここにあったのは八幡神社の方らしく、春日神社は明治31年に「春日の池近く」からこの地に移されて合祀されたという。『春日の池』がどこにあったのかは知らない。

 

Data:RICOH Caplio R1

境内に立つ八幡神社の解説板には次のように書かれている。

「祭神は譽田別命(ほむたわけのみこと)、後の応神天皇。仲哀天皇第四皇子、母は神功皇后。在位中漢字を広め、縫工・織工・鍛工・船工など百済新羅からの帰化人を優遇し、さらに中国人からは養蚕紡績の技術を学ばせた…(中略)…当七ツ新屋に於ては村落創成の頃、即ち安土・桃山あるいは江戸時代より産土の神として祭られる」

なるほどなぁ…となんとなく納得して帰京の途につく。

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【ぶらり途中下車御門台】

【ぶらり途中下車御門台】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 25 日の日記再掲)

静岡鉄道御門台駅ではじめて下車した。

自動券売機と自動改札機が導入されて実家最寄りの入江岡駅も無人駅になったけれどが、御門台駅もまた無人駅である。自動改札機を抜けて駅の外に出ようとしたら小さな遮断機が下りていてびっくりした。これは 4 輪や 2 輪の車両が踏切内に進入するのを妨げるのではなくて人が踏切内に立ち入ることを妨げるための遮断機なのだ。

Data:RICOH Caplio R1

言葉で書くと面倒だけれど写真を見れば一目瞭然であり、御門台駅はホームの端が改札口になっていて「上り」「下り」複線 の路線に挟まれた細長い島型の駅であり、改札口が道路に面しているのでこういう事になっている。上り電車が御門台駅を通過する際に下車した客は列車が踏切を通過するまで踏切内に入れない。こういう形式の駅では当たり前の話しだけれど、あらためてびっくりした。

Data:RICOH Caplio R1

郷里静岡県清水出身で東京在住の方からメールをいただき面白い話をうかがった。

静鉄電車は当然東京向きに走る新清水行きが「上り」で新静岡駅が「下り」だろうとばかり思っていたのだけれど、静岡鉄道の時刻表を見ると新静岡行きが「上り」なのでへんだなと思っていた。

お便りによると、通常は鉄道の「上り」「下り」は東京に近い方向へ走る電車を「上り」とするのだけれど、静鉄は「新静岡行き」が「上り」になっていて平行して走っている JR 東海道線とは逆なのだ。これは静鉄がそもそも「軌道」(=路面電車)だったため一般的な鉄道の原則が適用されなかったのだという。この話は講談社新書『鉄道ひとつばなし』原 武史著に掲載されているという。

列車が通過する踏切内に遮断機をくぐって入ってはいけないのは当然のことだけれど、踏切内を歩いていて遮断機が下りてしまったらちょっと嫌な気分である。しかも御門台駅から電車に乗りたい場合はこういう人も出てくるわけで気持ちはわかる。

Data:RICOH Caplio R1

気持ちはわかるけれど人の通行を遮断するためだけにしてはかなりの豪腕を備えた遮断機なので、懲らしめのために頭を痛打されて昏倒しなければいいな、などと心配しつつも笑ってしまう御門台駅前である。

【虹の美術館】

静岡鉄道御門台駅南側有度(うど)山麓に当たる部分は住所が有度本町になる。旧東海道から北の低地に向かう斜面であり市立有度第一小学校のある一角である。その有度本町の西端、御門台駅の踏切端に『虹の美術館』がある。

Data:RICOH Caplio R1

「靉嘔(アイオー)の「虹の部屋」を中心にして、20世紀後半の同時代に活躍した国内外のの現代美術家(瑛九・池田満寿夫・磯辺行久・アンディウォーホルなど)の作品を展示する私設美術館です」(『虹の美術館』サイトの解説より)

靉嘔は数少ない、出身大学芸術学科の先輩でもあるので一度見学したいのだけれどなかなか機会がない。機会などはあるものではなく作るものなので、近日中に再訪しようと思う。実は御門台駅でぶらっと下車するまで、この小さな駅前に小さな美術館があることすら忘れていたのである。

 
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【駿河区の青いラーメン】

【駿河区の青いラーメン】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 22 日の日記再掲)

静岡市が政令指定都市になり、清水区と葵区と駿河区に三分割された。

JR 静岡駅南口にある『清見そば本店』のラーメンが食べたくても食べられずに保留となっていたけれど、母の通院付き添いが週半ばにあったので運良く初対面が叶った。

午後 2 時を回って暖簾をくぐったら客は僕ひとりだけで、ラーメンを注文して席についたら遅れて入ってきたおっちゃんが、
「ラーメンの麺硬め!」
「後のお客さん麺硬め~」
などという会話を店員としている。出てきたラーメンを食べてみて「(なるほどなぁ)」と思う。

確かに麺硬めだと味の評価が上がりそうなラーメンである。

Data:SONY Cyber-shot T1

ちょっと「(いいなあ)」と思ったのは、よくあるありふれた中華模様が描かれたラーメンどんぶりなのに色が青いことであり、「(葵区だから青いのかなあ)」などと漠然と思い、調べてみたら所在地は駿河区だった。
我ながら非常にくだらない。

非常にあっさりしたラーメンでとても美味しい。インターネットで地元ラーメン好きのサイトを検索すると典型的な「そば屋のラーメン」と紹介されていて、確かにそば屋で食べるラーメンなので「そば屋のラーメン」で間違いではないのだけれど、僕が知っている昔ながらのそば屋のラーメンというのはもうちょっと違う。

Data:SONY Cyber-shot T1

店の隅の壁に「ラーメン」「大ラーメン」と大書された品書きがあって笑ってしまう。

かつて富山県富山市に『大喜』という美味しいラーメン屋があり今の小綺麗な店になる前は薄暗い不思議な店だった。壁に富山の売薬さんが配って歩いた錦絵が硝子ケースに入れられて飾られ、客はコの字型のカウンターに壁を向いて錦絵と正対するように座る。コンクリートの床は冬の雪の日など客が長靴につけてきた雪が溶けてビショビショであり、厨房と客の息と運ばれてきたラーメンの湯気で店内はモウモウとしていた。

人気の店なのでいつも満員であり、メニューはラーメンの大と小の 2 種類である。あまりの混雑で客の注文が錯綜し、店員がメモ用紙を片手に確認して歩き、壁を向いた人々に、
「あんた大け小け?」
と富山訛りで尋ね、客は壁を向いたままだったり振り向いたりして、
「小」「小」「大」「小」「大」「小」「大」「大」「大」「小」
と答え、僕は
「(この店は公衆〇〇〇みたいだ)」
と思った。それ以来ラーメンのメニューに「大」が添えられていると可笑しい。

ラーメンという大衆食の面白いところは「美味しい」「まずい」だけではなく、「突然、あああの店のラーメンが食べたいなぁ」と「思うか」「思わないか」という評価軸が別に存在し、「美味しい!と飛び上がるほど感動したわけではないのに、ふと思い出して食べたくなる味」というものがあるのが不思議だ。

僕が知っている昔ながら(昭和 30 年代)のそば屋のラーメンというのは、そばのダシをとった残りかすをさらに煮詰めることで時間をかけて最後の最後まで搾り取ったような味がして、微かにアンモニア臭かったりし、汁が濁って醤油がたまり醤油のように黒かった。

「(ひょっとして)」と良い意味頑固で時代に取り残されたような郷里静岡県清水のそば屋のラーメンを食べ歩いたら、昔ながらの濁って黒いスープのラーメンが多く、「(ああ、清水で黒くて濁った魚だしのきいたラーメンが食べたいなぁ)」と時折ひどく恋しくなり、それは突然「(ああ、赤だしの味噌汁が飲みたいなあ)」とか「(横浜中華街で肉の豆鼓(とうち)炒めが食べたいなあ)」とか「(遠州の浜納豆で一杯やりたいなあ)」と思うことに似ている。タンパク質が醗酵して高度に変性していく味わいへの郷愁だろうか。

そういうラーメンは「大」と「小」が非常に似合う気がし、下半身の力が抜けるように懐かしい時がある。

Data:SONY Cyber-shot T1

【まるしまのおにぎり】

静岡駅南口駅前。

幼い頃、祖父母に連れられて出掛けた浅間山にリフトがあった頃の静岡。今ほど東京の植民地のような浅薄(せんぱく)なブランドの町になる以前、清水とは違うハイカラさがありながらも、やっぱり清水と通底した情緒があった。そういう懐かしい静岡が残っている一角がある。

なぜか懐かしい『清見そば本店』『食堂いとう』の並びに『クリタパン』と『まるしまのおにぎり』を見つけて嬉しくなる。介護帰省帰りの土日では気づかない店である。

『まるしまのおにぎり』は奥に小さなテーブルがあって竹の籠にゆで卵が盛ってあり、おにぎり以外におでんも食べられるらしい。

Data:SONY Cyber-shot T1

「温かいおにぎりできます」
「一日の活力 朝食 おにぎり 2 味噌汁 おしんこ ¥300 6 時 30 分より」
貼り紙にはそう書かれていた。

 

静岡駅 8 時 54 分発の特急ワイドビュー東海 2 号で帰京するとしたら 8 時 15 分頃に暖簾をくぐれば良いわけで、いつか立ち寄れる可能性があるとわかって嬉しくなる。味噌汁が赤だしならかなり嬉しいのだけれど。

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【あった過去となかった未来】

【あった過去となかった未来】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 19 日の日記再掲)

ずいぶん前のことだけれど、豊島区大塚の居酒屋で飲んでいたら、隣り合わせた常連客らしいおじいさんが地元大塚の昔話をしてくれた。

かつて西武鉄道が池袋線を開業する際、都心側のターミナルを池袋ではなく大塚にしようと計画したのだけれど、鉄道開業により外部(郊外)から邪悪なものが入ってくるのが怖いと地域住民が反対して計画はご破算になり、大塚はその後の商業発展のチャンスを逃した、というのだ。本当の話かどうかはわからないけれど、似たような理由で鉄道が住民の激しい反対の対象となった事例が多いらしいので、そんなことも本当にあったのかもしれないと思って聞いた。

似たような話がわが郷里清水でもあって、新静岡と新清水を結ぶ静岡鉄道静岡清水線は現在の新清水ではなく旧東海道沿いの稚児橋や魚町稲荷辺りにターミナル駅(新清水)を持ってきたかったのだけれど住民の反対で潰えた……そんな話を誰かから聞いたことがある。誰から聞いたかも忘れてしまったくらいなので真偽のほどは全くわからない。わからないけれど、そうなっていたら清水の町はどうなっていたかと時折想像してみる。

伝言板で、狐ヶ崎駅あたりの路線の成り立ちにからめて、
「静鉄は昭和 11 年に改軌複線化し現在の路線になりました。それ以前は単線軽便で、東海道を走ってきて跨線橋の東側で鉄橋により国鉄を越えていたそうです。だから切通しも今よりも狭く、跨線橋も短かったのではないかと思われます。ちなみに入江岡駅北側の石垣も軽便時代の鉄橋の跡で、入江南町と淡島町の境が線路跡……」
という話を聞かせていただいた。( ※ その後ご本人から訂正情報を頂き大正 9 年 8 月 2 日に電化 & 1068mm 改軌、大正 13 年 10 月静岡側から複線化工事開始、昭和 9 年 2 月 11 日運動場前東寄りから複線化仮運転開始、昭和 9 年 8 月 21 日複線化正式営業運転が開始されたとのことだった。)

「知ってた?」
と友人たちに聞くと知っていたという者と知らなかったという者が相半ばする。

誰にでも生まれ故郷があり、誰にでもそこで過ごした少年少女時代があるならば、誰にでも通い慣れた馴染みの道があり、その道が実は遙か昔は鉄道の路線だった……そんな話しを突然聞いたら、齢(よわい)を重ねていればいるほど人は驚くのではないだろうか。

Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi

週末の介護帰省を終え、ぼんやり実家にほど近いローカル線のホームに立ち、線路際に枇杷の実がたわわになって根元の紫陽花が色づき始めたのを眺め、
「そうか。枇杷の実が食べ頃になる頃に紫陽花が見頃を迎えるのか……」
などとあらためて気づく。そういえば幼い頃から入江岡駅の線路の向こうのあの場所には立派な石垣があり、どうしてあんな草木に覆われた場所に、立派な石垣があるのだろうと疑問に思いつつ写真に撮ったりしていたのだけれど、それがなんと鉄橋の土台だったと知ってびっくりした。

旭町から千歳橋を渡って巴川を越え、作りかけの南幹線(県道草薙清水線)をウンウンうなって自転車で駆け上がり、入江岡跨線橋を越え、坂下の八百屋の角を左に折れて入江南町と淡島町の境となっている路地に入り、『中村タイプ』前を通り、ハワイ帰りのハイカラなおじいさんが教師を務めていた『松本英語塾』に通っていた中学生時代があったが、その道が軽便鉄道時代の静鉄路線跡だったというのだ。

軽便鉄道というのは一般鉄道より簡素な施設や規格で建設された地方鉄道で、幅の狭い軌道を小型機関車が走ったりしていた。1910 年に施行された軽便鉄道法によって敷設されたもので、同法は 1919 年に廃止されている。

過去に起きたことの結果として現在がある一方で、過去に起きたことによってなくなってしまった未来もある。もしあの場所に鉄道のターミナル駅が作られていたら、もし鉄道路線があの場所を通っていたら……と想像する未来が過去には可能性として存在した。

現在に目を転ずれば、巴川を渡って新清水駅に向かう鉄橋の耐震化という重い課題はどうなるのか、テナントが入居しなくなった新清水駅駅舎はどうなるのか、などという話を友人から聞くうちに、あるかもしれない意表をついた未来も思い浮かんだりする。あった過去となかった未来を知ることは楽しく有意義である。そして今現在進行しつつあることが、子どもたちが大人になる頃には、あった過去となかった未来の可能性の原点になる。

資料を教えていただいた。
『静鉄電車博物館』 
『静鉄静岡清水路線変遷』

   ***

【清水の夏祭り】
 
静岡鉄道草薙駅に『清水七夕まつり』( 7/7 ~ 10 )のプレートをつけた電車が入る。今年は木曜日から日曜日までの四日間が商店街の七夕まつりらしいとわかる。

Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi

清水銀座巴流(ぱる)大通りに「清水の夏まつり」と題されたポスターが掲示されて、『巴川灯ろうまつり』が 7 月 16 日(土曜日)午後 6 時 30 分から 9 時まで、稚児橋・羽衣橋間で開催されるという。稚児橋より下流で流された灯ろうは羽衣橋あたりで回収されると聞いたがそういう意味合いでふたつの橋の名が挙げられているのだろう。

幼い頃、澄んだ流れだった巴川が濁ったドブ川に変貌していく過程を目撃し、それでも暮れと三箇日には清らかな流れが戻ってくる巴川を見て汚染の本質を知っているので、何とも複雑な思いである。「大瀬大明神」と書かれた流し灯ろうを巴川に浮かべるとき、潮の流れに乗って西伊豆大瀬崎まで流れ着くかもしれないという魂の未来に祈りを込めた子ども時代もあったが、そういう夢も失われて久しい。

郷里を離れてから『巴川灯ろうまつり』になど帰省できた試しがなく、もう何十年も見ていないなぁと思うとき、今年は介護帰省の合間に見られそうであることが何とも複雑な、清水の夏がそこまで来ている。

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【白髭さんとカレーパン】

【白髭さんとカレーパン】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 18 日の日記再掲)

大型スーパーマーケットが消え去った後に感じる無情感は中生代に潰えた恐竜の栄華の儚さに似ている。

静岡県清水入江町。
恐竜のような大型スーパーが進出する前は個人商店がたくさん並んでいて、日常生活に必要なものは町内での買い物で済んでしまう町であり、さくらももこの実家である八百屋もあった。町内にスーパーマーケットやコンビニエンスストアができ、客を奪われた個人商店が店をたたみ、過当競争の果てに大型店が滅んでみたら、地域に残った店は数えるほどになっていた。

実家に最も近い肉屋となった『肉のタガヤ』。店頭に手作りPOPが張り出され、土曜日限定でカレーパンを揚げているという。

母に用事を言いつかって大曲交差点まで出掛けた道すがら、今日がその土曜日であることに気づき嬉しくなって寄ってみる。店頭の硝子ケース最上段に丸い物体が 3 個あり、あれが噂のカレーパンかと思い、買おうかな……と思って外から眺めていたらおばあさんが 2 個買っていくので、慌てて飛び込んで残りの 1 個をゲットした。

中年オヤジが道端でカレーパンにかぶりついていたりすると、毎週末東京から介護帰省しているバカ息子が道端で何かにかぶりついていて異様だった、などと近所の噂になりかねないので食べる場所を探してうろうろする。

Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi

旧清水市で一番多い神社は白髭神社で、八幡神社の 19 箇所を抑え 23 箇所もあって、数の上で最も盛んなのは白髭信仰であるとも言える。

白髭明神は漁業に縁が深いため入江町の白髭神社は中世の土豪入江氏が船倉の守り神として祀ったという説があるが、それではどうして両河内に白髭神社が 13 もあるのかわからない。

埼玉県入間郡高麗(こま)村一帯には白髭神社が多く、高麗人の長であった福徳王(高句麗好太王の子孫)を祀ったと伝えられ、福徳王は白い髭を蓄えていたという。

かつて駿河国に大勢やってきた朝鮮半島からの帰化人が、716(霊亀 2 )年に埼玉県入間郡高麗村に移住したという記録があり、清水の駒越という地名の駒は高麗を意味するそうなので、清水の白髭信仰は帰化人が伝えたものとも考えられるという。祖母の昔話を聞いてなるほどな、と思うこともあり、入江町にあるわが家の氏神は「白髭さん」である。

氏子といえば子も同様、氏神さまといえば親も同様なので、昼下がりの白髭神社境内に入り、木陰のベンチに腰を下ろして『肉のタガヤ』のカレーパンを食べる。

カレーパンと言えばラグビーボールを踏んばした(「踏みつぶした」の清水弁)形を思い出すが『肉のタガヤ』のカレーパンは丸い。
中のカレーは黄色系ではなく茶色系であり、大人のカレーの味がする。
パン生地がモッチリしていて、僕はパサパサ系の生地より好き。
大量に揚げ置きしていないようで、揚げたてのサクサク感がある。

ということでなかなか美味しい。

ベンチには働き者のアリが群がっているので膝にのせてカレーパンの写真を撮っていたら、おばあさんが怪訝そうに横目で見ながら通り過ぎた。

【クリーニング店の蒸気】

大曲交差点近くに動物の美容専門学校があり、母が具合が悪い時に犬を預かって貰えるか聞いてこいと言うので行ってみた。ペットホテルもやっているし、トリマーを目指す生徒たちのヘアカットモデルを希望すればシャンプーやトリミングも格安だという。

資料を貰って帰る道すがら、鶴舞町から追分 1 丁目に向けて歩いていたら、舗道脇の側溝の隙間から白い蒸気が上がっているのを見つけて子どもに還る。

子ども時代、クリーニング店の店頭でオジサンの作業を見ると、長いホースの付いたアイロンを操るたびにもうもうたる白い蒸気が上がり、作業場は当然のこと、屋外の壁にぶら下がったホースから熱い湯を滴らせつつ間欠泉のように白い蒸気が噴き出し、どぶ板の隙間からも蒸気が噴出しているのだった。

白い蒸気の噴出とアイロンを握ったオジサンの作業には当然ながら関連性があり、オジサンがサーッとアイロンを滑らすとシューッと水蒸気が噴き出し、水蒸気が噴き出すとオジサンがサーッとアイロンを滑らす、そんな繰り返しの光景を飽きずに眺め……などと夢中になって写真を撮っていたら、おばあさんが怪訝そうに横目で見ながら通り過ぎた。

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【水の出方】

【水の出方】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 16 日の日記再掲)

静岡県清水渋川。

第八中学近くの梨畑を眺め北に歩いたら小さな川があり、その名を谷津沢川といい巴川の支流大沢川のそのまた支流である。名前の「谷津」でわかるように古くから陸地化していた有度の山襞である谷戸から清水の低地に向かって流れ出していた川なのだろう。

ずいぶん流れに角度のある川で、この川は大雨になったら溢れそうだな、住民は大変だろうな、清水市はすすんで静岡市に併呑される前にしっかりこの辺りの治水事業をしたのかな、静岡市になってもしっかり管理して貰えるのかな、と心配になる地形である。

そういう町だからか、川沿いの道には『あいさつ通り』などという愛称が付けられ、手作りの立て札が渋川南福壽会から北脇自治会にバトンを受け渡ししながら、地域に安らぎと温もりを添えるように狐ヶ崎駅手前まで続いている。

川の勾配がきついので当然川沿いの道も上り坂であり、どんどん南西にすすんでいくとグイッと登り詰めて東海道本線と静岡鉄道を跨ぐ跨線橋になる。

そうか、この川は旧狐ヶ崎遊園地脇にある上原堤から流れ出す水なのかと思い、帰京して地図を見たらなんと狐ヶ崎からカクッと真南に折れて上原、馬走(まばせ)北、馬走を通り馬走沢と分岐する。馬走沢の上には馬走堤という池があるらしい。谷津沢川の方はさらに南下して船越堤公園裏手を通って有度山トンネル手前で消えている。水源地はずいぶん山深い場所にある。

Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi

なるほどなぁ、とぼんやり雨降りなので魚屋が調べた清水溝川地図を眺めたりしているうちに、どうしても解けない謎が浮かんできた。

渋川、北脇新田と狐ヶ崎に向かってグイグイ登って行った谷津沢川はなんと東海道本線と静岡鉄道の上を渡っているのであり川用の跨線橋があることになる。跨線橋手前の右手は吉川八幡神社のある高台になっており、東海道本線と静岡鉄道敷設のためにその 2/3 の境内を失ったという。ということは狐ヶ崎と吉川八幡は昔は高台として繋がっていたのであり、鉄道敷設で切通しとなった際に谷津沢川も断ち切られて跨線橋を渡る羽目になったように思える。

ということは魚屋の地図を見てもわかるように、古くから岬のように張り出した高台があり、その上を奇妙なことに谷津川は流れていたのかしら、と首をかしげる。

もしかしたらこの古くからある高台は谷津沢川が作った扇状地だったのかもしれないな、と思えてきた。扇状地を作った谷津沢川は高台の真上を水無川になったりしながら北脇新田や渋川に向かって急傾斜で駆け下りていたのかもしれない。

あるいはもっと思いがけない川の変遷があったのかもしれず、東京に戻って思いついたことを毎週末の清水帰省で確かめるといういつもながらの楽しい宿題がまた一つできた。

2005 年 6 月 17 日 金曜日 
【水の出方…追記】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 17 日の日記再掲)

金曜日の夜に帰省し清水で迎えた土曜日の朝、新聞受けに超ローカルミニコミ『清水の溝川を愛する会会報』が投げ込まれており前日日記に書いた谷津沢川の資料だった。

現在の清水地図に明治 23 年のそれを重ね合わせたものであり、馬走(まばせ)川と谷津沢川の流れによって相当の土砂が平川地を経て北脇、渋川方面に流出したであろう事がわかる。清水平野にはそうやって大量の土砂が南北の山地から流入したのであり、多くの川が天井川となって繰り返し洪水を引き起こしたのだった。

翌朝の新聞受けにさらに新しい『清水の溝川を愛する会会報』が投げ込まれており、追分羊羹の府川さんが書かれた『追分今昔記』の資料だった。

府川さんの資料には「谷津沢川」が「八沢川」と書かれていた。浅学を恥じずに言えば、この「谷津沢川=八沢川」が土砂を流し出すことによって生じた谷間は、「やち」とか「やちまた」とかの古い表現、時には女性の陰部を指して差別的に用いられたりした古語に基づき「やちさわがわ」から「八沢川」となり、谷の出口である「谷戸(やと)」や「谷津(やつ)」と結びついて当たり障りのない「谷津沢川」と表記されるようになったのではないだろうか。

と、前回の帰省で「谷津沢川」のことを考えながら歩いたのだけれど、今回いただいた府川さんの資料に「番太」に関する記述があり、「やちまた」と「番太」が奇妙に出会ってびっくりした。

   ***

谷津沢川に関しては伝言板にて現在この地域にお住まいの方からフォローして頂いた。

「八津沢川は跨線橋(通称小糸橋)あたりで狭くなっているため、それより下流は洪水の心配はありません。さすがに七夕豪雨時は危なかったですが、跨線橋の南側で決壊して線路に流れ込んだため助かりました。こんな八津沢川も七夕豪雨前までは整備されてなくて、汚いながらも蛍がいました」

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【そういえば鉄舟……】

【そういえば鉄舟……】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 11 日の日記再掲)

静岡新聞を読んでいたら袖師町の酒店店主方に江戸末期の幕臣山岡鉄舟直筆と見られる掛け軸があり、7 月 23 日午後 3 時から鉄舟寺で開かれる慰霊法要「鉄舟忌」で公開されることになったという。
 
新聞に掲載された写真を見ると、極太の筆で荒々しく 3 個の新タマネギのようなものが描かれており、「願いをかなえる宝の玉から火炎が上がっている様子を表す「宝珠の玉(ほうじゅのたま)」が書かれている」(静岡新聞より)のだそうだ。
 
そういえばわが家の近所、旧東海道沿い入江南町にある骨董品店店頭にも山岡鉄舟の書が飾られていたことを思い出した。
 
美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋で立ち話し、
「袖師の酒屋から鉄舟直筆の書が公開されるんだってね」
「読んだ、読んだ」
「うちの近所の骨董屋にも鉄舟の書が飾られてるよ」
「それは知らない」
「でも考えてみたら鉄舟の書って清水にはたーんとありそうだね」
「あるある」
「書きまくってたのかな」
「……たんでしょうね」
 
確か次郎長生家にも、追分羊羹の府川さん宅にも、桜井戸医院にも……と一つひとつ指を折るとあちらこちらに鉄舟の書がある。贋作も多いそうだし、鉄舟をかたって贋作を書いていた弟子に、今後はこれを押しておけと自分の印を与えたという剛気な話もどこかで読んだ。

Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi
写真上:骨董品店の飾り窓にある猿をモチーフにした刀のつば。
写真下:「難しすぎて何が書いてあるのかわかんねぇ」鉄舟の書。

母を見舞ってくれた友人を見送りながら美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋で買い物をし、港橋たもとに復元された船宿『末廣』に案内すると、2 階座敷に晩年の次郎長が開いたという英語塾が等身大の人形で再現されていた。

次郎長は文字の読み書きもできない無学な人だったが、学問の尊さは良く認識していたという。

その次郎長が山岡鉄舟の書を見て「先生の書くものは難しすぎて何が書いてあるのかわかんねぇ」という意味の事を言ったと読んだ記憶があるが、入江南町店頭に立って鉄舟の書を見ると、やはり
「先生の書くものは難しすぎて何が書いてあるのかわかんねぇ」
と言いたくなるのであり、鉄舟の書を前にすると無学の人であることは自分も次郎長と同等であることに気づく。何て書いてあるのだろう。

【祈り】

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に夕飯の買い出しに行く途中、村松原の原稲荷神社で祈る女性がいて、手を合わせている時間が余りに長いのに驚く。

そういえば家族が病に倒れてから、神社で手を合わせる時間は僕もかなり長くなったが、祈りの長さというのはきっと境遇に深い関係がありそうなので「(まだまだ若いのに……)」などという余計な感慨まで付加して勝手にしみじみする。

Data:SONY Cyber-shot T1

飼い主が長いこと祈っている間もコーギー犬はそっぽを向いており、犬という生き物に祈りはほとんどないのだろう。

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【サクライドキュウふたたび】

【サクライドキュウふたたび】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 7 日の日記再掲)

静岡県清水中之郷、JR 草薙駅近くにかつて桜井戸という場所があり、そこには駿河名物といわれたこともある灸所があり、母も母の兄弟姉妹たちもその『桜井戸灸』をすえてもらったことがあり、僕も幼い頃に祖母から桜井戸仕込みの灸をすえられたことがある、と 2005 年 5 月 17 日の日記に書いた。

桜井戸のあったとされる場所に行ってみたいのだけれど時間がとれず、JR 東海道本線からその場所とおぼしき地点を撮影して日記に添えておいたが、6 月に入ってようやくその場所に立つことができた。

「清泉湧出し、旱魃(かんばつ)にも涸れる事なく、夏冷冬温。芹早く生じ、八ツ目鰻を産す。」
『駿国雑誌・駿河誌料』にある桜井戸は、近隣住民の飲料水としてのみならず灌漑用にも用いられたというからかなり水量のある湧水だったのだろう。

そして「安政の大震災で丈余の櫻の古木も枯死に井戸もまた壊滅の大被害を蒙り爾来十有七坪の凹地を残していた。」と石碑にあるので安政元(嘉永 7 )年( 1854 )11 月 4 日の安政東海地震により水脈が断たれて涸れ、干上がった大きな窪地となったらしい。安政東海地震の震源地は遠州灘沖でマグニチュード 8.4 と推定され 2000 ~ 3000 人の死者が出たと記録にある。

Data:SONY Cyber-shot T1

写真上:桜井戸の碑

写真下:桜井戸の灸は『桜井戸医院』という内科医院になっている。
桜井戸灸創始者佐治右衛門氏のご子孫にあたるという。

「八ツ目鰻を産す」とあるのが気になり、海と川を行き来するヤツメウナギがとれたということは、桜井戸から流れ出す水は川となって巴川にそそいでいたのかしら、と調べてみたが「十有七坪」もの広さを持っていた桜井戸の湧水にはヤツメウナギ科のスナヤツメ(学名 Lethenteron reissneri )が生息していたのではないだろうか。

スナヤツメは通称スナモグリとも呼ばれ綺麗な湧水に生息し海へは下らない。生まれて 3 年間幼生(アンモシーテス幼生)として砂の中で暮らし、その期間は目がない。

4 年目の秋から冬にかけて変態して成魚となり、この段階で目が発生し、目の脇にずらっと鰓穴が並んで目がたくさんあるように見えるのでヤツメと呼ばれる。ウナギに似ていてもウナギの仲間ではない。

変態によって成魚となる際、目の発生と引き替えに消化管が退化して何も食べなくなり、昼間は水の底に潜み、夜間になると泳ぎ回って子作りに専念する。そんな暮らしぶりなので人目に触れるのは 5 ~ 6 月の産卵期のみであり、産卵後はすぐに死んでしまう。

桜井戸が今でも残っていたならちょうど「八ツ目鰻」が見られる時期である。

とげぬき地蔵で名高い巣鴨地蔵通り商店街にはヤツメウナギを食べさせる『にしむら』という店(ヤツメウナギの旬は 10 ~ 3 月)があるが、桜井戸で灸をすえてもらった後はヤツメの蒲焼きで一杯、などということはなかったのかしらと気になる。

スナヤツメはレッドデータブックに載るほどの絶滅危惧生物なので、体長 20 センチ程度のスナヤツメが食用になるかどうかなどというふとどきな記述は見つけられなかった。

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【鉄舟寺阿形】

【鉄舟寺阿形】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 6 日の日記再掲)

清水で最も文化財が多いのは鉄舟寺だそうで鉄舟寺の歴史は古い。

市立清水病院への通院付き添いが始まるので久しぶりに山門前に立ったら山門の金剛力士立像が白い包帯姿に見えてドキッとした。

石の地蔵尊が布でぐるぐる巻きにされた姿は見たことがあるがそういった宗教的な風習だろうか。それともシロアリ駆除など文化財保護の作業中だろうか。だとしたら本当の包帯姿である。

山門前に立った途端にドキッとしたので何を見てもドキドキし、タイポグラフィ作品のような貼り紙を見てもう一度ドキッとした。

Data:SONY Cyber-shot T1

どうやら鉄舟寺は寺の駐車場への違法駐車に腹を立てているらしい。
ゴシック体が効果的に配された文字による構成にも感心するけれど、阿形の金剛力士を動員する感性に脱帽し、その怒りの激しさを知る。

一方で夥しい数の猫が石段でのんびり股間を舐めていたりして、怒りのタイポグラフィと見事な対比になっていることで、この古刹が非常にメリハリの効いた寺であるように感じられ、山岡鉄舟自身がそういう人だったのかもしれない。

【言いなり地蔵】

鉄舟寺奥手にに「言いなり地蔵尊」が祀られている。

言いなり地蔵縁起を教えていただいたので PocketPC の落書きで紙芝居風にしてみた。

むかしむかし、平成の前に昭和の時代があり、その前が大正で、もっと前が明治時代で、もっともっと前の江戸時代、1616 年というから元和 2 年、清水村松の鉄舟寺北側の山裾にある白貝谷池(しらかいやいけ)という用水堤での出来事。

ある暑い暑い夏の日、旅の行者が焼け付くような日ざしの下、ふらふらになってこの地を通りかかりました。

旅の行者は白貝谷池のほとりまで来るとばったりと倒れ、びっくりした村人たちが集まってきました。
「だいじょうぶかね」
「どこからきただね」
「だれかみよりはないだかね」
親切な村人は口ぐちに尋ねました。この村の人々は皆優しい人ばかりだったので、近所の家に運んで夜も昼も交代で看病しましたが行者は痩せていくばかりです。

「わたしの命はこれまでです。あなたたちは日本一親切な人々です。ご親切は決して忘れません。実は私は人の姿を借りてこの世に現れた地蔵菩薩なのです。私が死んだらこの地に地蔵菩薩を立ててください。そうすれば祈る者の願いは何でも聞き届けましょう」そう言い残して行者は息絶えました。

村人たちは行者との約束を守り、ねんごろに葬って地蔵菩薩を建てました。その後、現代にいたるまで御利益のある『言いなり地蔵、言いなりさん』として深い信仰を集め、毎年 2 月 23 日には鉄舟寺住職と近隣住民によって供養が行われており、供えた団子を食べても願い事が叶うと言われています。

このお地蔵さん、昭和 10 年代まではお酒を供えると特に願い事が叶うので『酒飲み地蔵』とも呼ばれていたそうです。
おしまい。

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【友よ】

【友よ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 6 月 1 日の日記再掲)

昔のお母さんはとても早起きだった。

まだ電気冷蔵庫も、電子炊飯ジャーも、電気湯沸かしポットも、電子レンジもない時代には、家族の朝食を作るために早起きせざるを得なかくて、それが昭和三十年代前半では当たり前のことだった。

運動会や遠足の当日などは、夜明け前の闇の中でトントンと包丁の音が台所から聞こえてきて、柔らかな湯気と香気の中に母親がいた。

昨夜炊いたご飯が電子炊飯ジャーの中で保温されていたり、冷やごはんになっても電子レンジでチンすればすぐにアツアツになる時代以前、冬の朝、前日の冷やごはんを温かくして食べたかったら蒸し器で蒸すしかなかった。蒸して温めたご飯というのはどうしても蒸れた匂いが微かにして好きではなかった。

「昨日のご飯がちょっとしかないからお味噌汁にそうめんを入れてもいい?」
と母は言い、茶碗一杯のご飯とそうめん入りの味噌汁で朝食ということも多かった。

そうめんの入った味噌汁が好きだったのだけれどよその家で食べたことはない。そうめん入りの味噌汁を食べることが貧しい食事だとは思わなかったけれど、
「ねぇ、そうめんの入った味噌汁って食べたことある? あれ、美味しいよね!」
などと声高に話すほど豊かな感じもしないので、
「(ご飯が足りないからそうめんを味噌汁に入れたなんてわが家だけだったのかなぁ)」
と長いこと思い続けてきた。

[Data:SONY Cyber-shot T1]

毎週末に郷里静岡県清水に介護帰省し、帰省中は三食のご飯を作るので清水市内で買い物をする。

スーパーマーケットの棚に『味噌汁の友』という名の長さ10センチ弱のそうめんを見つけてびっくりした。味噌汁用のそうめんなのであり、60 グラムずつ 5 袋に小分けされていて分量も絶妙である。

「そうか!味噌汁にそうめんを入れるって普通のことだったのか」
などと他愛のない感動をし、清水市内のスーパーマーケットを回ったらどの店の棚にも「清水じゃあたりまえだよ」と言うかのように『味噌汁の友』があるので驚いた。青山・紀ノ国屋を気取ったような『静鉄ストア』にすら『味噌汁の友』があるのだけれど、東京都内では一度も見たことがない。

作っているのは三重県桑名市にある山庄食品であり地元静岡ではない。

山梨には『ほうとう』という練った小麦粉を味噌仕立てで食べる郷土料理があり、地元のテレビ番組を見ていると静岡でも山梨県境に近い山間部ではよく似た郷土料理が伝えられており、そもそも清水も小麦粉 + 味噌の文化が根強いのかもしれない。

三重や愛知も小麦粉 + 味噌の料理が盛んな気もするし、箱根や富士川を挟んだ西側が『味噌汁の友』の勢力圏なのかもしれない。

[Data:SONY Cyber-shot T1]

それにしても味噌汁の友のパッケージに描かれた女性が、落ち着いて食事をする暇さえないかのように立て膝でそうめん入りの味噌汁を食べているように見えるのが泣ける。昨年亡くなった本家に嫁いできた叔母を思い出して切ないし、頬がポッと赤いのはそうめん入りの味噌汁を食べる姿を見られて恥ずかしがっているようでもある。だが現在の正座が一般的になるのは歴史的に新しく、戦国時代あたりまではあぐらや立て膝が普通の座り方だった。

パッケージ裏面に 2 行の簡便な「お召し上がり方」が書かれているのだけれど、思わず背筋が伸びて身の引き締まるような名文である。

「◎みそ汁を沸騰させた中に味噌汁の友を投げ入れ二~三分煮立てお召し上がり下さい。」
 

凄い!「友を投げ入れ」るのであり、温め直した冷やごはんでは足りない分「友を投げ入れ」て腹の足しにしてまで生きた昭和の日々を思い出し、煮立つまでの二~三分ぼんやりと遠い日の思い出に耽る。

朝に夕に便利な!伝統の味
『味噌汁の友』
山庄食品工業株式会社
三重県桑名市友村359の2
電話0594-31-3531

【札の辻】

清水浜田町。
久能道としみず道が交差する場所は幕府の触書が掲示される「札の辻」だった。

[Data:SONY Cyber-shot T1]

上清水の望月家に保存されている「壱の札」には、

君に忠、親に孝、夫に従い、目上の人を敬い、友と仲良くし、身よりのない者と体の悪い者を哀れみ、人を殺さず、家を焼かず、他人の物を盗むな

と書かれている。

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