電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
▼黒にどぎまぎ
特別養護老人ホームで家人が親しくなった高齢のご婦人は、下着だけは他人任せが嫌なので自分で洗濯をしており、そのため好きな下着を着けているのが自慢だそうだが、見せてくれたのが黒なのでちょっと驚いたという。
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2010年5月30日、JR田端駅にて。
毎週末、特養に入所した義父母を訪ねるので、山手線で田端に出て京浜東北線を利用する。東京駅を起点とするなら大宮通いは、東海道線下りの大船通いよりほんのちょっと近いくらいの距離であり、駒込からだと乗り継ぎが良ければ1時間程度で着いてしまう。
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2010年5月30日、京浜東北線車内にて。
週1回京浜東北線に乗るようになってちょっと驚いたのが、車内の吊革が真っ黒なことで、他の路線では見たことがないので異様に感じてしまい、いまだに掴むことに抵抗がある。濃い色でも無難なグレーにしておけば良いのにと思うのだが、黒の方が好きな人もいるかもしれない。
【外食のこと】
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昭和30年代の我が家は外食の多い家庭だった。家庭といっても母一人子ひとりの母子家庭で、外食といっても場末の安い蕎麦屋やラーメン屋だったのだけれど。
家庭の事情は我が家以外、親戚や配偶者のものしか知らなかったけれど、親しい友人ができて立ち入った話を聞けるようになると、子ども時代頻繁に外食体験のある人を捜すのは思ったより難しいことがわかった。
昭和30年代はじめ頃の我が両親を一言でいえば流れ者だったのだと思う。
田舎を出奔し、仕事と住む場所を求めて都会をさまよっていたのであり、外食の文化はそういう流れ者たちが育んだものだと思う。
母親に連れられて生まれ故郷静岡県清水に戻ったのは1966(昭和41)年の事だった。
当時の清水は東京下町の工場地帯より遙かに繁華で、中でも飲食店等の外食産業が盛んなことに驚いたが、新たに飲食店を開こうとした母は、
「清水のええ時代は、はあ終わったよ。あんたはちいっと遅いっけね」
などと言われたという。だが母の店は予想に反して繁盛し、一人息子も学校を出して自立させ、自分の持ち家も持つことができた。
それでも1900年代が終わる頃には、
「こう暇だと清水の町ももうだめだ、夜になると人が歩いてない」
とため息をつき、70歳になるのを区切りに店をたたんだ。
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2010年5月25日、静岡市清水区、新清水駅前さつき通りにて。
驚くほど外食産業が衰退した今の清水を歩き、古くからある寿司店でお話を聞いた。
「昔っからこの辺に住んでる人っちは外食でお金を使うような習慣はもともとないっけだよ。たまに寿司をとるにも、隣近所にこうこうこういうわけで今日は寿司をとらなくちゃなんない、いやくなっちゃうよって言い訳しなきゃなんない」
景気が悪くなって外食するような人たちが清水から離れて行ったのが、清水の飲食店がたちゆかなくなった一番の理由だと言い、
「あたしらっちみたいな商売人は商売柄つき合いも兼ねてよく外食するもんで、清水の町から飲食店がどんどんなくなっちゃってびっくりするけど、普通に暮らしてきた衆は大して不便も感じてないじゃないかね」
と付け加えられた。
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2010年5月25日、静岡市清水区、新清水駅前さつき通りにて。
それでも夫婦揃って外で働く時代だから、外食する家庭も増えただろうにと言ったら
「たまの外食は隣近所のうるさい年寄りのいないしぞーかにでも行ってせーせー羽をのばして来るじゃなーいー、あたしらだってそうするもん」
と言い、いつか店をたたみ旧静岡市のベッドタウンと思って暮らすなら、海も山も近くてこんないい町はないと明るく笑っておられた。
【ボサのこと(つづき)】
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「ボサボサ」より「ボサ」や「ボサをかぶる」という言葉を聞いて育ったので、「ボサボサの頭」をうっかり忘れていて、そういえば子どもの頃
「こらっ、そんなところにボサっと突っ立ってるじゃないよ!」
などとよく叱られたことを思い出した。
「ぼさぼさ」を広辞苑で引くと
(1)頭髪などが乱れているさま。
(2)すべきことをせずぼんやり立ち尽しているさま
とあるのだけれど「ぼさ」の語源がわからず、当然「ぼさ」も載っていない。
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2010年5月25日、静岡市清水区大内の塩田川。夏になったらボサかぶりそうな水辺。
それでも時折「ボサ」という言葉を懐かしく耳にするのは河川や湖沼での漁業に関するニュースなので「ボサ(ぼさ)」と「漁」を組み合わせてネット検索したら思いがけないページがヒットした。
事例紹介(現場ルポ)[巴川流域麻機遊水地自然再生協議会][自然再生ネットワーク]南沼上柴揚げ漁保存会の活動ページに「ぼさ」を用いた漁の事例が写真入りで紹介されていた。麻機は巴川の上流域であり、下流に当たる能島や鳥坂もかつてはこんな風景が広がっていて同じような漁が行われていたのかもしれない。
もう一軒は天然うなぎの漁法 三島 うな繁さんのページで、やはりボサを使ったウナギ漁が紹介されていた。
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塩田川上流方向。造成かと思ったら土をとっているのだという。
その他に神奈川県に関する漁業調査資料に「ぼさ縄漁」とあるのも同じ漁法のような気がする。「ぼさ」を縄で縛って沈めておき、それを引き上げて中にいる小エビや小魚を捕る漁が東京湾や千葉県の湖沼で行われていた気がする。
「ボサ」や「ボサをかぶる」という言葉を良く用いた祖父重太郎の父親は國太郎と言って清水次郎長の時代に生きた人だが、渋川の國太郎と呼ばれ川魚漁で名が知られた人だったという。
【ボサのこと】
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清水区鳥坂について「一方その反対側、北街道沿い鳥坂方向は商家もほとんど無く真っ暗で、幼心に寂しく暗い地域という印象が強かった。その向こうに明るい静岡の町があるなどとはわかっていても想像することが難しく、人外魔境のように怖くさえあった」と書いたら、やはり能島で生まれ育った方が、夜の鳥坂あたりはとても暗くて怖いところだったと話していた、というメールを貰った。
幼い子どもというのは自分が暮らす狭い地域の外側を怖がるものだけれど、どんな場所で暮らしていても童心が創りあげてしまうそういう恐怖とは別に、物語が作られやすい風土というものがあの地域にはあったと思い、それは殺伐とした都市化が進む現代にあっては、むしろ得難い地域特性だったように懐かしく鳥坂を思い出す。
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清水区鳥坂。かつて水鳥が群れ集い、それらの鳥を狩って生計を立てる人が暮らしたという鳥坂にある鳥料理店が微笑ましい。
祖父母やその子どもである母方の兄弟姉妹は、子どもの髪の毛が伸びてくると
「やい、ボサかぶってないで床屋へ行ってこい」
とよく言った。ボサをかぶるという言葉の本来意味するところが長いことわからずにいたが、介護中の母が読んでみろと言って手渡してくれた狩野幹夫さんの本にその言葉が出てきて驚いた。
狩野さんは大正14年に旧安倍郡麻機村に生まれ、麻機小、旧姓静岡中学を卒業され、復員後東京美術学校油絵科で絵を学ばれた。画家としても活躍されたけれど郷里静岡を舞台にした本も何冊か書かれている。そのうちの一冊の中に、子ども時代の川遊びの話しがあって、岸辺の草が伸びて川面の方に生い茂り垂れ下がって暗がりを作っている場所を、ボサが覆い被さった場所と呼んでいたらしい。
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清水区鳥坂にて。ここもまたかつてはボサがかぶった水路だったのかもしれない。
祖父母やその子どもたちは、髪の毛が伸びで目や耳に覆い被さっている様を「ボサかぶってる」と呼んだのだが、それが静岡で一般的に用いられた言い回しかどうかはわからない。インターネットで検索するとやはり草むらをさす言葉としてボサを使っている方をわずかに見つけるけれど、それが銃や鷹を使って狩りをする人たちなのが面白く、祖父母の家もまた川魚や鳥獣を狩る家族だった。
そして巴川上流方向、鳥坂あたりにはそういうボサがかかって澱んだ水辺がたくさんあり、幼心に暗い場所と感じる心の翳りになっていた気がする。
【永久アンカーのある古道】
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中学時代に社会科を教えていただいた恩師であり、我が夫婦の仲人もしていただいた岡部芳雄先生を清水区押切に訪ねた。
帰省するたびに墓参りする曹洞宗保蟹寺(ほうかいじ)は清水平野に面した標高304.3メートルの帆掛山に抱かれた山懐にある。山から豊富な水が流れ出して沢を作っており、土砂崩れも心配される地域のせいか斜面に竹林が多い。
わが家の墓は墓地の山側にあるため、夏は竹林のおかげで日陰ができ、風が渡る音も清々しく、掃除が大変なこととひきかえによい環境だと喜んでいたのだけれど、なぜか斜面に繁茂する竹の伐採が始まっている。
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清水区大内。保蟹寺墓所脇の斜面。
竹林は土砂崩れによる地盤崩落防止に役立つのになぜだろうと思いこんでいたのだけれど、実は竹の根は浅く土砂崩れ防止にはあまり役立たないらしい。そんなわけでもう少し恒久的な工事が行われるのかもしれない。
保蟹寺前から東に向かって山裾に沿い、高部ゴルフセンター脇を通って塩田川土手にいたる古い道があり、幼い頃良く通った。今回恩師に会いに行く際も通ったので
「子どもの頃からあの道が大好きなんですが、あれはそうとう古い道ですよね」
と言ったら、やはりかなり古く、かつて大湿地帯だった清水平野を通過する際に、あの道くらいしか通れる道がなかった時代があったというお話をうかがった。
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清水区大内。保蟹寺から高部ゴルフセンター脇に向かう古道。水がとても冷たい。
その古道沿いの急斜面はコンクリートで固められゴム製の蓋が規則正しく並んでいる。通るたびに何だろうと気になるので調べてみたら、VSL永久アンカーといい、偏土圧や水圧などでコンクリート壁が剥がれ落ちないよう、深いアンカーを打ち込んで固定する工法らしい。
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清水区大内。VSL永久アンカーが打ち込まれた古道壁面。
あの道を一緒に歩いてお話が聞きたいと言いたいところだけれど、夏のような日射しが降り注ぐ日なので言い出しにくく、秋になって涼しくなってからの楽しみに保留した。
辞去する際、外まで送ってこられ
「帽子を持ってきていないなら貸そうか」
などと言われてしまった。いつまで経っても師の恩はというのは深くてありがたい。
【いい加減なメモ】
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清水まで日帰り出張をし、『季刊清水』がらみの会合まで時間があるので、桜橋町にある珈琲焙煎工房『櫻珈琲』を訪ねた。
中学校の一年先輩に当たるご主人とビールを飲みながら極小地域経済の話しをしていたら、大森だか大井町だか忘れたけれど、高齢者の利便性を考慮した営業戦略で、活路を見いだしている老舗百貨店があるので情報収集して来いと言う。名前は確か「ダイシン」だったという。
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静岡市清水区桜橋町にて。
早口で聴き取りにくいのでメモしようと思ったら紙とペンがないので、CLIE TG50 のメモソフトでメモをとった。帰京してパソコンに「大森 ダイシン 高齢者」と入力して検索したら大森のダイシン百貨店が一発でヒットした。
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ほろ酔いでとったいい加減なメモ。「老舗」が書けなかったらしい。
「現在では、高齢者社会を見据えて社会的弱者に軸足を置いた大手チェーンストアでは出来ない小回りのきく経営を心がけており、高齢者向け無料宅配サービス、『大森山王俱楽部』と呼ばれる健康支援サービス、他では扱わない旧製品等の仕入れの継続等、堅実にリピータを獲得する戦略をとっている。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より)
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静岡市清水区桜橋町にて。
どうせいい加減な聞き間違いに違いないと思っていい加減にメモしてきたが、意外にいい加減じゃない先輩を持ったんだなとちょっとだけ嬉しい。
【北街道の酒屋】
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静岡県静岡市清水区鳥坂、北街道沿いにある水上酒店となりに古い商家が残っており、おそらく旧店舗なのだと思う。
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北街道沿いにある清水第11分団鳥坂の火の見櫓。
街道沿いの古い町並みを保存して観光資源に役立てている地域があり、そういう観光的な意図など全くなく近代的な市街地化が進む地域に、ポツンと一軒だけ古い建物が残っていることがある。たった一軒でも残っているということは、その建物を心の中で増殖させ得るということであり、そういう建物が軒を連ねていた時代を想像する手がかりを保存してもらっている事になる。
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北街道沿いにある旧商家(2010年5月25日)。
祖父母が能島で元気に暮らしていた昭和三十年代、北街道は未舗装デコボコのひどい道だった。
「♪田舎のバスは おんぼろ車 デコボコ道を ガタゴト走る…」
という三木鶏郎作詞・作曲『田舎のバス』は、北街道を走る静鉄バスのために作られた歌だと本気で思っていたことがある。それでも多少なりとも繁華な区間には、こんな商家が北街道沿いにも軒を連ねていた。
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北街道沿いにある水上酒店(2010年5月25日)。
母親がまだ健在な頃、バスで通りかかるたびにこの旧店舗を見かけ、まだ残っているかな、大変だろうけどいつまでも残って欲しいなと思っていたので、今もそこにあることにほっとし、人が生きていてさえくれればよいのと同じく、あってさえいてくれたらそれでいいと祈る気持ちになる。
【清水区鳥坂今昔】
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5月25日、戸田書店発行の雑誌『季刊清水』の会議があったので日帰りで墓参り帰省した。
新幹線で静岡駅に出てしずてつジャストラインバス北街道線清水駅行きに乗ろうとしたらバス停がわからず、静岡音楽館AOI前の20番乗り場だと教えてくれる人があった。墓参り用の生花を買わなくてはいけないし、ちょうど昼時だったので清水区鳥坂のバス停で降りてみた。
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静岡音楽館AOI前20番乗り場より。
祖父母が瓦工場を営んでいた能島の家は巴川沿いに開けた田んぼの真ん中にあった。月のない夜などは漆黒の闇につつまれ、遠く国道1号線沿いを行き交う自動車のライトと変電所の灯り、そして北街道押切あたりの民家から漏れ来る灯りだけが2等星のように遠くで瞬いていた。
午後になると叔母が自転車で押切まで買い物に出るのが日課で、古びていたとはいえ今よりもっと多くの商家が北街道沿いに軒を連ねていた。昭和20年頃の押切地図(『続高部のあゆみ その一 わがまち思い出ばなし』高部まちづくりの会)を見ると役場や銀行とともに商店が集まっていたことがわかる。
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左:昭和初期の鳥坂、右:昭和20年頃の押切(『続高部のあゆみ その一 わがまち思い出ばなし』高部まちづくりの会)
一方その反対側、北街道沿い鳥坂方向は商家もほとんど無く真っ暗で、幼心に寂しく暗い地域という印象が強かった。その向こうに明るい静岡の町があるなどとはわかっていても想像することが難しく、人外魔境のように怖くさえあった。
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鳥坂にあったラーメン屋『一元』。食べてみたら煮干しだしが底味にきいた昔懐かしい中華そばだった。
そんな鳥坂に大きな商業施設ができ、そのまわりに小さな店が集まって賑わっている。それでも昔と変わらない背後の山並みを見ていると、あの鳥坂がこんなに賑やかな街になったかと感慨深い。
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墓参用の生花も買うことができた鳥坂の大型商業施設より。
かつて鳥坂の田んぼは深田として有名で、この辺りの沼には水鳥が多く集まっていたという。鶴や白鳥を捕獲してはならないという触書が古文書として残っているというが、山の端に鳥打坂という坂道があり、その辺りで水鳥を捕らえて生業を建てていた人のいる村という意味で鳥坂となったのではないかと上記参考資料にある。
▼染井霊園の芍薬
買い物に出て染井通りから染井霊園内を抜けて近道したら、芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓がある慈眼寺門前、一種(ロ)12号角に芍薬(シャクヤク)が見事に咲いていた。
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一種(ロ)12号角の芍薬。
人通りが少ない墓地の片隅に豪華な花が咲き乱れているのを見ると、一瞬造花ではないかと疑ってしまうのは、最近墓に供えられている花に造花を多く見かけるせいかもしれない。
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見事に咲いた芍薬。
谷崎潤一郎は1886年生まれなので1892年生まれの芥川龍之介より6歳年上だけれど、1965年まで存命だったので1927年に他界した芥川龍之介より38年も長く生きている。1965年といえば東京オリンピックの翌年、ビートルズ来日の前年であり、喧しかったあの頃まで谷崎潤一郎が存命だったことを意外に思ったりする。
芍薬で両文豪を連想する理由は思いつかないけれど、静かに咲く姿を見てふとそんなことを思い出した。
▼花に埋もれて
花好きの女性は多いので、
「花に埋もれて暮らしたい」
などと心の中で思ったりする人も多いんだろうなと思う。
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花に埋もれたクリーニング店。
義父母が入所して暮らすことになった特養近くのお店。ここまで花に埋もれた暮らしを具現化している人に出会うのは珍しい。
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遠眼にはタバコ店のようにも見える。
秋から冬にかけてはどうなるのだろうと心配になるけれど、いつまで経っても花に埋もれたままなので、そばに行って確かめたら造花だった!などという意外な結末も楽しいので、あまり近くに寄らないで夏の終わりを楽しみにすることにした。
▼屋上の菜園
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広大な屋上ウッドデッキ。
天気がいいから屋上菜園でひなたぼっこでもしながら、のんびりしてくるといいと施設長が言ってくださったので、広々とした屋上ウッドデッキに義母を連れ出して持っていったコーヒーを飲んだ。
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屋上菜園の作物たち。
施設職員と入所者が一緒に作業して丹精したネギやジャガイモなどが育つ菜園があり、
「おかあさん、ジャガイモの花が咲いてる!」
と言ったら
「ほんとや、かわいらしいね」
と富山弁で笑顔が出た。
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屋上には託児施設もあってウッドデッキとつながっているので幼児とのふれあいもできる。さっそく姿を見つけた幼児が挨拶に来て義母も喜んでいた。託児所からの通路にて。
日光に当たることは骨粗鬆症の進行を抑えるのにも良いので、これから面会の際は、屋上菜園を見学しながらコーヒーを飲むことを日課にしようと思う。日傘を忘れずに持っていくこと、と予定表にメモした。
▼田端駅の鑑賞池
義父母が揃って埼玉県内の特養にお世話になることになり、週末になると面会に通うことをリズムにした暮らしが始まっている。離れていても両親を暮らしのリズムに組み込んでおくことが、残された数少ない孝行だと思う。
駒込駅から山手線外回りにひと駅乗り、田端駅で下りて京浜東北線に乗り換える。京浜東北線赤羽・大宮方面行きが発着する1番線ホームは最も山側にあるので、電車到着待ちはその石垣を眺めて時間潰しすることになる。
かつて芥川龍之介も暮らした山の手の高台、その崖線を削って作られた駅なので石垣には水抜き用の穴がたくさんある。石垣を眺めていると苔などが元気に繁茂している箇所があり、そういう場所は水がたえず流れ出しているのだろう。
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田端駅1番線ホームにて。
線路脇に「鑑賞池」と書いた札が添えられた四角い池があり、大きく育った金魚が泳いでいる。水抜き穴から流れ出る水をホースで導き入れているそうで、水質が良いのか気持ちよさそうに泳いでいる。
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1番線ホーム脇の鑑賞池。
このまま無理して在宅介護を続けていては年寄りの尊厳が保てる生活水準を維持することが困難になった、と判断したことで入所介護の決断をしたわけで、金魚たちはこの四角い水槽の中で幸せなのだろうか、などと考えないことに慣れるためのありがたい慰めとなっている。
▼昔の唄
長いこと忘れていた昔の唄がふと口をついて出ることがある。
インターネットに情報があふれる時代になったので、曲名やうろ覚えの歌詞などを組み合わせて検索すると、正しい曲名、作詞作曲者、歌詞などの情報を確かめることができるが、時折どうしても情報が見つからない唄があり、そんな時はこの国でこの唄を覚えているのは自分だけではないか、などとふと思ったりする。
そういうネットでまったく情報が見つからないケースの意外さを雑誌連載中の雑文に書いたら、それを読んだ高齢の女性から編集者あてに電話があり、インターネットなどを真に受けるのが悪い、本当に知りたいことがあるなら国会図書館に行ってちゃんと調べろと、間接的にお叱りを受けたという。
中学時代、音楽の授業で歌った懐かしい唄のことを2004年7月27日の日記に書いた。
教科書に載っていた曲なのでネット上に正確な歌詞くらい見つかるだろうと調べたら見つからないことの意外さを書いたのだけれど、6年経って同じように検索して同じ意外さに驚き、その日記を読んでメールを下さった方がいる。
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巣鴨地蔵通り商店街にて。
僕の年齢に近い世代でインターネットを活用し、メールで連絡をくれる友だちはとても少なくて、最もそういう関係の濃い世代は干支でひとまわり近く若い世代になっている。だから、子どもの頃に唄った歌を今でも覚えていて、時折口ずさんだりする人がいても、インターネット上でつぶやかれることが少ないのも、情報が見つからないことの一因かもしれない。
そうやって人々の口の端にものらずやがて消えゆく運命とも思えるあの唄この唄が、自分にとって忘れがたい名曲と思えるほど意外さに胸打たれる度合いが大きい。
国会図書館や教科書専門図書館「東書文庫」にでも行けば、その唄の詳細を知ることはできるけれど、そういうことではなくて、懐かしい唄を口ずさむ自分がインターネットの世界ではポツンと孤立しているような一瞬の感覚に、人は心震え、思わず仲間を捜したくなるのだと思う。
巣鴨地蔵通り商店街、昼間から歌えるカラオケの店があり、店内からは昔懐かしい唄を選んで歌う人々の声が流れ続けている。
▼秋葉原駅前で考えたこと
戦前・戦中・戦後と物のない苦しい時代を体験した母は、精神的ではなく物質的な物の品質にうるさかった。
困るのが衣料を買って貰うときで、流行りの服を欲しがっても、やれ布地が粗悪だ、やれ縫製がいい加減だと文句をつけ、結局古くさいデザインの物を買わされることが多かった。質の良い物を長く着ろと母は言い、最近はようやくそういうことの良さがわかりかけてきたけれど、若い頃は低品質であろうが粗悪であろうが他人と同じ流行りの物を着たいので、そんな親に腹を立てることが多かった。
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ホテルの窓。
高校生だった頃、母親が夢中になっていたテレビドラマがあり題名を『細うで繁盛記』といった。静岡県熱川温泉にある老舗旅館「山水館」を舞台にした熱血商売物で、母親の隣でご飯を食べながらよく見た。番組内で、旅館というのは安普請にしてある程度古くなったらさっさと建て替えるのが商売繁盛のコツだというので、ほら見たことかと母親の顔を横目で見たけれど、残念ながら流行の衣料と安普請の旅館は母の頭の中で結びつかなかったらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/16/0026401ad0a5630a8a11f9e8f823c88c.jpg)
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ホテルの窓。
秋葉原駅前にワシントンホテルがあり、赤煉瓦風のなかなか洒落た建物に見えたので時折写真を撮った。1980年創業というので築30年ほどだったと思うのだけれど、きれいさっぱり解体されて新たなホテルが建ち、 2010年5月15日(土)にリニューアルオープンした。
まだまだ綺麗なホテルに見えたけれど、ホテルというのも建物に関しては旅館と同じような考え方なのかもしれない。
▼赤
町を歩いていて郵便物を投函するために郵便ポストを探すことが多い。
最近はコンビニでも郵便物投函ができるのだけれど、一度近所のコンビニで大きめの荷物を手配したら先方に届かず、コンビニに確かめに行ったら店主が集荷の際に渡し忘れていた、という珍事があって以来信用できず、どうしても赤いポストを探してしまう。ポストが赤いというのはとても目立って良いことで、遠くからポツンと赤いポストがあるのを見つけるとホッとする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/99/3bdfd09d9132b8fa43eda12689ea401a.jpg)
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5月17日、赤パンツのマルジ店頭にて。巣鴨の赤が眩しい。
赤いパンツが有名になってからというもの、巣鴨というとイメージカラーに赤い色が浮かんできて、巣鴨に行く用事を思い出すたびに心の中に赤い色が点灯する。
5月17日の黄昏時、巣鴨3丁目真性寺(しんしょうじ)前で信号待ちしていたら突然赤い消防車が現れ、家人が
「あっ巣鴨の消防車だ」
と言っていたが巣鴨で赤い消防車を見ると確かに「巣鴨の」とつけたくなるのが面白い。
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