【柊鰯】

【柊鰯】

「鰯の頭も信心から」という。節分の鬼除けである「柊鰯(ひいらぎいわし)」を戸口に飾りつけた家を久しぶりに見た。東京では焼いた鰯の頭と柊、そこに豆柄(まめがら)が加わる。

この地域では日当たりの良い台地上にある家々より、坂を下った低地に密集する家々の方が、鰯の頭に対する信心が深いように思われる。写真は文京区内にて。

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【あんぐりと angry 】

【あんぐりと angry 】

 “An angry man is again angry with himself when he returns to reason. ” 

という箴言(しんげん)があって、これは「怒った男は理性的になると自分自身に腹を立てる」と理解すればいいのだろうか。

紀元前 85 年から 43 年にかけて生きた古代ローマの喜劇作家で詩人のプブリリウス・シルス(Publilius Syrus)がのこしたことばで、彼は

He who runs after two hares will catch neither.(二兎を追う者は一兎をも得ず)

とも言っていてこちらは有名だ。

 “An angry lover tells himself many lies.  ” 

というのもあって「怒れる恋人は自分自身にたくさんの嘘をつく」と言っている。

西欧人は angry(怒る)ということに関して日本人と感じ方が違うのだ。中島義道はウイーンで怒りながら怒り方を学び、理想的な怒り方として、

(一)すぐに怒りを表出すること。
(二)以前の怒りを根にもつことが少ないこと。
(三)怒りははげしく、しかしただちに収まること。
(四)怒りの表出が言葉中心であること。
(五)個人的に怒ること。
(六)演技的な怒りであること。
(『怒る技術』)

と言っている。読めばわかるように、怒ることとキレることは明らかに違う。怒りながら考える、ということは大切だ。

柔らかく考えをあらためれば、 “angry ” は 「あんぐり」に似ている。「あんぐり」は類語「ぽっかり」の「穴などが急に開くさま。また、穴があいて空白な部分ができるさま。」という意味とひとしい。ギリシャ語で言えばエポケー(epochē)で判断停止のようでもある。

瞬間の発動と瞬間の停止。瞬間湯沸かし器的人間と、瞬間冷却機的な人間が、瞬間的にチカチカとオン/オフを繰り返して並存し、テレビ映像的残像のように、穏和で理知的な人格が錯視的に出現することこと、それが理想的な怒りの演じ方だろう。

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【新型ウイルス禍と二度目の春】

【新型ウイルス禍と二度目の春】

ご近所さんである友人が梅の枝をたくさん抱えているので
「あ!」
と言ったら
「盗んできたわけじゃなくて近所の友だちが、たくさん咲いた庭の梅を切ってくれたの」
と言う。ひと枝もらったので仕事場に飾った雛人形脇に活けた。

今年は梅だけでなく、蝋梅(ろうばい)も辛夷(こぶし)も木蓮(もくれん)も木瓜(ぼけ)も菫(すみれ)も油菜(あぶらな)も早咲きの桜(さくら)も、みんなたくさん蕾をつけ花が元気よく、ミツバチが狂ったようにブンブン羽音を立てて飛び回っている。コロナ禍による経済活動沈滞が大気を浄化し積算日照量を増やしたことも遠因かな、と思う。

郷里清水の友人から届いたメールに


「隣に枝垂れ梅と椿の花がたくさん咲いているので、ご主人にお花が綺麗に咲いてますねと言うと、今年は例年よりたくさん花が咲いてびっくりしていると言ってました」

とあった。昨日届いた朝刊に、今年は桜の開花が早いとも書かれていた。

夕飯の買い物に出たら、同じくご近所さんである亡き友人の息子が
「石原さーん!」
と大声で呼ぶので、
「仕事は大丈夫?」
と聞くと、航空機関連の企業に勤める彼は
「福利厚生も賞与も賃上げもすべて止まってマジやばいっす」
と言う。「マジやばいっす」という緊張感が全身に生気を加えているようにも見えた。よし、頑張れ。

夕方になり、別のご近所さんがやってきて亡くなったご主人の遺品を見にこないかと言う。
「じゃあちょっとだけ」
と言って女性の一人暮らし宅に初めてお邪魔したら、大手出版社勤務だったご主人の遺品に、故人となった超有名作家や画家の直筆原稿と原画があって驚いた。残業仕事で持ち帰り、自宅に保管したまま関係者がみな他界されて返し損ねたらしい。
「まさか本物を手に取って見られるとは思いませんでした」
と笑い、これもまたコロナが流行ると桶屋が儲かる式の僥倖だなと思う。

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【自転車とアシスト】

【自転車とアシスト】

文京区は坂が多いせいか電動アシスト付き自転車に乗る人が多い。興味がないのでくわしい事情を知らないけれど、高かった価格が次第にこなれてきたのだろうか。

上り坂を歩いているとき、平然と座り漕ぎで追い越していく女性は登坂力をアシストされている。平坦な本郷通りの歩道を歩いているとき、チャイルドシートに幼児をのせ猛スピードで爆走して行くヤンママはスピードをアシストされている。コロナ禍が始まって仕事で自転車を使う人が増えており、ワーキングウェア姿の彼らは楽に走行できる距離をアシストされている。

のんびり、長い距離を、とぼとぼ歩くのが好きなので、自転車に乗る機会は少ない。のんびり長い距離をとぼとぼ歩くこと、それによる疲労感が好きなので、たとえ持っている自転車が電動であってもアシストされるものがない。たぶん健全な疲れはアシストされない。ゆえにアシストはいらない。

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【モノクロネガとカラーネガ】

【モノクロネガとカラーネガ】

デジタルな写真しか撮ったことのない人が増えて、ネガティブ・フィルムを略した「ネガ」ということばは死語になるかもしれない。辞書には、

撮影・現像してできた、明暗や色相が実物と反対のフィルム・乾板の画像。陰画。ネガ。

と解説がある。

フィルムを使わなくなっても「ネガ」を見ることはできる。子どもの頃から自分の中に「ネガ」をつくって遊んでいた。電車内でも室内でもいい、明るい窓とそこから見える景色をじっと見つめてから目を閉じると、光の強弱による残像が見え、明るいところが暗く、暗いところが明るい陰画すなわち「ネガ」になっている。

夜明けが早くなり、早起きしてカーテンを開けると地平線に太陽が顔を出す。東京都では、きょうの日の出時刻が 6 時 16 分になっていた。

早起きしてベランダの鉢植えに水をやり、つれあいが玄関にまとめて置いたゴミ出しをするため共同廊下を歩くと、床に緑色のものがこぼれている。誰かが液状のものをぶちまけたのかと、覗き込もうとすると緑色の液体は先へ先へと逃げていく。

人間の目が残像によってつくる「ネガ」は、光の明暗に関してはモノクロだが、朝日のように強烈な赤を見つめたあとでは補色の緑が見えるのだ。廊下を逃げていく緑色した朝日の残像を追って歩く、また楽しからずや。カラーフィルムのネガもちゃんと脳内で見ることができる。

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【桜満開】

【桜満開】

桜の季節が近づいたなと染井橋を渡りながら思う。

そして請求書を投函しに出たついでに、富士神社境内を歩いたら桜が満開になっていた。ここの桜は例年こんなに早く開花しただろうか。

あまりに長いこと外出を控えているので、季節感が狂っているかもしれない。人間の方の。

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【清水銀座の四葉】

【清水銀座の四葉】

友人宅に電話をかけ、本人が出たので挨拶を述べ、要件を切り出したら話がかみ合わない。おかしいなと思ったら
「わたし〇〇〇の父ですが」
と言うので慌てて
「失礼しました、〇〇〇くんをお願いします」
と言いなおした。息子と父親は骨格が似ていると声も似ている。

つれあいが 20 音オルガニートの自作音楽 CD をつくって友人たちに発送したので、手紙や電子メールで礼状が届く。電話をくれる人もいて、応対したつれあいが
「お待ちください、いまかわりますね」
と言うので電話に出たら清水の従姉だった。娘と母親も骨格が似ていると声が似ている。伯母は百歳近いが、近況を尋ねるまでもなく元気な姿が目に浮かんだ。

「電話したついでに聞きたいことがある」
と伯母の声で従姉が言うので話を聞くと、わが家から送る郵便物の手書き文字は何を使って書いているのかと聞く。0.3 ミリの製図ペン(顔料インク・直液式のファイバーチップペン)だと言ったら
「ありがとう、清水銀座の四葉に行ってみるよ」
と言う。

午後になって櫻珈琲の女性店主から電話があり、応対したつれあいが
「お待ちください、いまかわりますね」
と言うので電話に出たら午前中に送ったデータの礼で
「ありがとうございます、さっそく清水銀座の四葉に印刷用紙を買いに行ってきます」
と言う。

同じ地域で暮らした人が思い浮かべる町の骨格はみな似ている。電話をしながら清水銀座の文具店『四葉』、その店内の様子が目に浮かんだ。

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【君といつまでも】

【君といつまでも】

「しあわせだなぁ」と思ったり口走ったりしてしまうときの自分と、「ぼくはきみといるときが、いちばんしあわせなんだ」と意識的にことばとして言うときの「自分」には、あきらかなズレがある。前者は動物的であり後者は人間臭く、前者は直感的であり後者は意識的だ。

「しあわせだなぁ」は自分がそう言う限りにおいて疑いようのない事実でありえるけれど、「ぼくはきみといるときが、いちばんしあわせなんだ」はウソでもありえるし、ウソがまぎれこめるほどに言っていることの構造がゆるい。後者をよく読めば、前者の自分とズレた自分が、うまいぐあいにかくされているともいえる。

「しあわせだなぁ」という澄みきった実感につづいて、「ぼくはきみといるときが、いちばんしあわせなんだ」が加えられたとたん台無しになる瞬間が、東宝映画『エレキの若大将』で主人公が歌い 1965 年のレコード大賞を受賞した曲には封じ込められている。加山が演じる若大将のエレキ的自己分裂を、疑いもなく受け止めるヒロインの名が「澄子(スミちゃん)」だった。

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【回想のピアノマン 2】

【回想のピアノマン 2】

定期的に勧誘セールスの電話がかかってくる。興味がないとぶっきらぼうに言って電話を切っても、しばらくすると懲りもせずまたかけてくる。またあの会社かと思い「株式会社〇〇〇〇」という社名で検索すると水ビジネスから不動産取引まで、なんでもあつかう気味の悪い企業のサイトがヒットする。

しつこく電話してくるもうひとつの会社は、ルーツをたどれば渋沢栄一までたどり着く大企業なのだけれど、やっていることのブラックさにおいてなんら変わるところがない。ノルマを課し、手に入れた電話番号リストを渡して、若者たちに電話をかけまくらせているのだろう。

『逃げ出せなかった君へ』と題されたこの作品は KADOKAWA で文庫版化される際に『六畳間のピアノマン』と改題されている。未明にスマホで購入した

そう昨日の日記に書いた本を一気に読み終えた。

NHK 総合の土曜ドラマ 『六畳間のピアノマン』脚本と原作とは、テレビドラマ化の限界もあってか、かなり筋がいじられている。テレビドラマの内容に共感したなら、原作のほうもぜひ読んでみる価値がある。

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【回想のピアノマン】

【回想のピアノマン】

このところ酔っ払って就寝する 21 時ころの記憶が飛んでいる。昨夜も飲んで盛り上がっているうちに 21 時から録画予約しておいた NHK 総合の土曜ドラマ 『六畳間のピアノマン』が始まってしまい、古舘佑太郎が歌うビリー・ジョエルの楽曲「ピアノ・マン」が流れるので、
「今夜は土曜日だし、録画してるけど生で見ちゃおうか!」
と言ったら、つれあいも酔った勢いで
「嬉しい、見よう見よう!」
と言う。

見終えて寝たはずなのだけれど、未明に目が覚めたら第三話がどんな内容だったかまったく記憶にない。録画してあるので見直せばいいのだけれど、覚えているつれあいに笑われるのが癪なので、安藤祐介の原作を読むことにした。『逃げ出せなかった君へ』と題されたこの作品は KADOKAWA で文庫版化される際に『六畳間のピアノマン』と改題されている。未明にスマホで購入した。

明け方になって、思い出そうと頑張ったら、記憶喪失…子ども食堂…3台のビートル…家族からの捜索願い…という言葉が点として浮かび上がり、やがて繋がって線となることでおおまかな筋書きを次第に思い出した。酔っ払うことで記憶が生じないのではなく、酔っ払って寝たことで、起きたときの回想がうまくいかなかったのだろう。すべての記憶は必ず行われる。けれど、さまざまな原因で回想されないだけなのだ。

 

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【囚人】

【囚人】

1995 年の刑法改正以来「囚人」ということばは法律上で使われない。辞書には

1 獄につながれている者。
2 刑務所・拘置所などの刑事施設に収容されている受刑者・被疑者・被告人などを意味する古い用語。

と書かれている。

時間に囚われたり、思い込みに囚われたり、家庭に囚われたり、学校に囚われたり、会社に囚われたり、誘惑に囚われたりして、人は強制的にであれ自滅的にであれ、さまざまに囚人を演じている。そういう観点から言えば社会自体が牢獄になっている。

そもそも、生きている限り囚われ続ける「時間」とは何か、「私」とは何かという究極の問いを突き詰めると、この世界は不自由の牢獄であり、生物だけでなく物質も含むすべてのものが囚人なのだろう。囚われているから、ものとしてのかたちがある。

酔っ払って笑いながらする夫婦の会話は、最後に決まってナンセンスの彼方に雲散し霧消する。ニュースを観ながら火星探査機に課せられたミッションの話をしていたら、囚人による世界からの脱獄という遠大な笑い話にいたって御開きとなった。ユクスキュルの話をしたら気に入ったらしい。

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【渋沢栄一と滝乃川学園】

【渋沢栄一と滝乃川学園】

「聴くことを多くし、語ることを少なくし、行うことに力を注ぐべし」

というありがたいおことばを見つけ、感心したのでメモしておいた。日本女子大創設者である成瀬仁蔵の言葉で、成瀬もまた渋沢栄一に連なっている。

渋沢栄一と学校教育を調べると数多い足跡の中に滝乃川学園の名が出てくる。

社会福祉法人滝乃川学園は一八九一年にキリスト教精神に基づき石井亮一が創設した、日本初の知的障がい児者のための福祉施設です。(滝乃川学園サイトより)

現在は東京都国立市にあるが、創設地が滝野川であったことからその名がある。渋沢邸との位置関係を調べるため明治時代の地図を開いたら、大好きな散歩コースにその名があった(地図上では瀧野川学園)。現在の豊島区巣鴨5丁目にあたり、のちに移ってきた曹洞宗白泉寺がいまあるあたりだ。飛鳥山にあった渋沢邸からも近い。

旧東京外語大学にも近く、外語大がそこに移ってくる前は下瀬火薬製造所であり、その軍需工場ができたことを嫌ったのも移転の一因らしい。(そうではなくて北側の雷汞所=らいこうしょのことかもしれない。2021年4月8日追記)

ちょっと歩いてみようかと昼食後散歩に出たら、寒いので染井橋を渡ったところで引き返した。この「ちょっと歩いてみよう」につけた打ち消し線を室町時代の昔から「見せ消ち」といい、英語だと Strikethrough という。

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【あやまち】

【あやまち】

以下はラ・ロシュフコーの言葉で、この十七世紀に生きた人は、あの三銃士に出てきたリシュリュー枢機卿と対立していた。きょうの箴言(しんげん)に、

We forget our faults easily when they are known to ourselves alone.
La Rochefoucauld

とあり、難しい単語はないので訳してみたら全然違っていて恥ずかしい。

正しい訳を読んでみた後でなら「ああそうか」と思うのだけれど、答えを読む前に自分で相撲を取ってみることは大切だ。

「私たちは自分の犯した過ちをいともたやすく忘れてしまう」まではいいとして、when 以下、they である「犯した過ち」が犯した当事者である私たち自身だけ「ourselves alone 」にしか知られていない(自分以外、だあれも知らない)場合、という但し書きになっている。ああそうか。てへぺろ。

***

著名な医師がむかし書かれた本を最近読んで、おなかを抱えて笑ったのと同じようなことが、また英国で行われるらしい。

健康な人を意図的に新型コロナウイルスにさらす「チャレンジ試験」が世界で初めて承認された(今朝のニュースより)

これ、むかし英国でインフルエンザ研究のため、健康なボランティアを募って実際に行われたことがある。鼻の奥に直接ウイルスを塗りたくり、それでも発症しないので裸にして冷水につけるなどという酷い実験をしたらしい。そもそも健康な人に試しても健康な人はなかなか発症しないのだ。酷い話になりませんように。

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【新貝ふとん店】

【新貝ふとん店】

昨夜は一杯やりながら録画しておいた NHK 『プロフェッショナル仕事の流儀』「誰にでもできることを、とことん〜布団職人・新貝晃一郎〜」を観た。

木綿布団づくりに人生をかける職人。腰痛などに悩む全国の人々から注文が入り半年待ち。客の体型などに合わせフルオーダーで作られる。天然の木綿布団にこだわり、世界中から選(え)りすぐりの木綿だけを仕入れ、独自の配合で調合。理想の弾力と肌触りを追求している。工房の壁には己を鼓舞するさまざまな言葉が手書きのチョークで書かれている。「誰にでもできることを、誰にもできないくらいやる」。布団に魂を込める職人に密着(NHK のサイトより)

晩酌しながら観ていたら、この現代の名工は郷里清水の布団屋だというのでびっくりした。
「知ってる?」
とつれあいが聞くので
貝(しんがい)ふとん店…前を何度も通ったことがある気がする。確か興津方向に旧東海道を歩いたあたりにあるんじゃないかな」
と答え、終了後に調べたら住所はやはり清水区興津清見寺だった。

二十年近く前、インターネットが普及して郷里清水にたくさんの友だちができ、ウェブサイトをつくり、頻繁に帰省して街歩きしたころ、面白い屋号だなと思い写真を撮って掲載したこともあるはずだ。年齢はどうも美濃輪町で魚屋を営む友だちと同世代らしい。

あらためて二十年前を振り返り、この人も頑張ったんだなあと感慨深く観た。
「誰にでもできることを、誰にもできないくらいやる」
つれあいが「う〜〜ん」と唸っており、登場する地元の人たちが話す清水ことばも懐かしい。

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【ワタシたちは ガイジンじゃない!】

【ワタシたちは ガイジンじゃない!】

昨夜は録画しておいたNHK〈一人芝居〉、【作】宮藤官九郎、【出演】イッセー尾形、『ワタシたちは ガイジンじゃない!』を観た。感動した。観終わって、つれあいはテレビに向かって拍手していた。「人を人とも思わない仕儀」とはどういうことか、それが今も進行中の島国に住んでいるのだなと笑いながら泣いた。

このところたのしみに観ている NHK 『六畳間のピアノマン』も同じように「人を人とも思わない仕儀」とはどういうことかという視点からよくできている。段田安則っていい役者だったんだなあとあらためて思う。同様に NHK『ここは今から倫理です。』もいい。人を人とも思わない時代の風潮に警鐘を鳴らしている。

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