【魚と遊ぶ】

【魚と遊ぶ】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 10 月 28 日の日記再掲)

魚は食べるのも好きだが見るのも好きだ。

水槽というのは光学実験装置のようなもので、魚の表情が拡大されてよく見えるし、四角い水槽を対角線上斜め上から見ると、魚の左右側面が、左右それぞれの硝子に、上面が水面に映って、三面図のように見えたりする。

角を丸めた部分では光学的に歪曲されて、奇妙な顔になったりして大笑いする。

得意先、渋谷区代々木にある出版社のエレベーター・ホールに水槽があって、僕はそこの魚と仲がいい。
水槽の前に立つと、ぎょろっと横目で見て
「よっ、最近景気はどう? なにか、食べ物でもくれる?」
なんて言いたそうにこちらに寄ってくるので可愛い。

カメラを向けると、
「写真撮るなら面白い顔をしてやろうか? ほら、ビロ~~~ン!」
などとサービスしてくれる気のいい奴なのだ。

退屈な魚と、疲れた人間は、相性がいいのかもしれなくて、ただひたすらに和む。

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【贅沢な昼食】

【贅沢な昼食】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 10 月 6 日の日記再掲)

仕事帰りのお昼時、新宿思い出横町へ。
 
あそこに食堂が何軒有ったかなぁと気になり、昼食がてらふらりと立ち寄る。
“昼食がてら” などと書くと “しょんべん横町” と書きにくいのは、人間としての修行が足りないからだろうか。

端から順に数えていくと食堂は 5 件。昼間から焼き鳥で飲んでいるおじさん達の店と、立ち食い蕎麦や鰻専門の店を除いた数だ。昔仲間と入った大きな店以外、他に入ったことがないので、鰻の寝床のようなカウンターだけの店に入ってみる。 

注文して、露地を行き交う人々を眺め、耳を澄ます。
「よっ、おめでとうございます!」
「何が?」
「聞いたよ、とったんだってね!」
「んもー、耳が早いんだからっ!」
競馬好きの会話だろうか。
「あーら、パパっ、お久しぶり~っ! 入って入ってっ!」
正午から、副都心のど真ん中で “パパ” なんて呼ばれて飲むなんて、何と贅沢な人達だろう。

びしっとスーツで決めた若者が隣の席に座り、
「たらこ定食、頭切って」
などと注文する。“頭切って” とは何かと注意してみていたら、お櫃(ひつ)からご飯をよそうとき、どんぶりの縁から上に出たご飯をしゃもじでお櫃に戻す、要するに “ご飯少なめ” ということなのだ。
「たらこは生? それとも焼く?」
「軽くあぶって」

それにしても、お櫃で保温したご飯の美味しいこと。昔の昼飯は、こんなに美味しいご飯を食べていたんだなぁと、幼い頃が懐かしい。電気保温ジャーというのはやっぱり良くない。

猫の額ほどの広さの厨房で、たらこをあぶり、玉子焼きを焼き、マカロニサラダと大根おろしを盛りつける手際の良さにウットリ。


こんなに美味しいご飯と、公明正大、目の前で鮮度を確かめて注文できる安心さ。

若いくせに何と贅沢な昼食をとっている若者なのだろうと羨ましかったりする。
 
建物は汚くて古いけれど、こういう場所の常連になれるのはとびきり贅沢なことかもしれない。

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【随所ニ主トナレ】

【随所ニ主トナレ】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 10 月 6 日の日記再掲)

「随所ニ主トナレ」という言葉は『臨済禄』にある禅語らしい。

自分なりに解釈して勝手に好きでいる言葉なのだけれど、正しい解釈が知りたくて検索してみた。

常に自分が主役であり続ける事、逆境にあっても受動的にならず能動的に生きる事、などと解釈して座右の銘にされている方もいるようだ。勝手に解釈していればそれでいいのかもしれないけれど、ちょっと気になる。

司馬遼太郎『功名が辻』に「随所ニ主トナレ」が出てきた。

「いつ、どの時期、どの場所、どの瞬間でも、つねに自分が客観情勢の主人でいる、ということで、客観情勢のドレイにならない、ということだ。」(司馬遼太郎『功名が辻』文春文庫)

「客観情勢」とは何かと考える時、過去の総括も未来への予見も「客観」として頼らず、「今この時、その連続としての随所」にしか「客観」を信ずるなと、解釈したくて仕方なかったりする。この場合の客観は主観の認識・行為の対象となる「世界」のことだけれど。

例えばこんな事に日々の暮らしで出会う。

電車の車内に誰かが捨てていった空き缶が転がっており、電車が揺れるたびにカラカラと音を立てて転がっている。あの人の足元、この人の足元と転がっていくのだけれど、誰も見ないふりをしていて、「(自分の足元に来なければいいなぁ)」などと、ぼんやり考えており、幼い子どもが、大人が見ないようにしている缶の行方を面白そうに見つめていたりする。

下車時にひょいと拾い上げてホームのゴミ箱に「こんちくしょう!」とばかりに投げ込んでしまえば、すっきりしそうな気もするけれど、自分が捨てたのでもないのに他人の尻拭いをするようで癪だし、自分が捨てた犯人のように思われたりしないかと余計なことを考えたりする。だが、自分が潔く意を決して行動すれば、すっきり解決する「現実」が目の前にあるのだ。

「随所ニ主トナレ」、咄嗟に決断して飛び立ちさえすれば変えられる現実をとり逃すことの多い優柔不断で凡庸な自分への、ありがたい戒めの言葉と勝手に解釈している。

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【ヘチマの蔓】

【ヘチマの蔓】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 10 月 4 日の日記再掲)
 
自然の造形は素晴らしい。
 
仕事帰り、JR 駒込駅から『私の庭みんなの庭』に寄り道し、ヘチマ棚を見たのだけれど、ヘチマの蔓の先ってなんて凄いのだろう。
 
蔓が伸びて次々に突き当たるものに絡みついて、葉を繁らせ、太陽の光を受け、秋には見事なヘチマの実をたわわにつけるのだけれど、絡みつく対象を見つけられなかった蔓が、自らを始末するようすが美しいのだ。
 
 
「自然なカーブ」という言葉を誰でも口にする。
例えば、習字の時間、いけないと言われている二度なすりをした文字の不自然さは、誰でも気づいてしまうし、焼き物を見に行って曲面が気に入らないのは、自然なカーブでないことに、気づいていたりするのだ。
 
人間は自然が作り出す曲線の美しさを知っていて、数学の時間、グラフ用紙に座標点を打ち、繋いでいくうちに出来上がる曲線を、美しいと感じるような感性を誰もが持っているらしい。それが母胎に宿る以前、人間の遺伝子に書き込まれている知恵なのか、初めて触れる母親の身体のまろやかさに源を発する、学習の結果なのかは知らない。
 
 
ヘチマの蔓が描く曲線の美しさは、見ていても見飽きる事がない。アルファベットのスクリプト書体の美しさに似ているし、かな文字草書の流麗さにも似ている。
 
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