町家の奥行き

2017年10月30日
僕の寄り道――町家の奥行き


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街道沿いの町家は間口の幅に課せられる税が比例するので、たいがい間口が狭く奥行きが深い。奥行きの深さは一定なので、縦横比の差がある間口が狭い家ほど深みを感じるようにできている。間口の広さはそのまま身代の大きさをあらわしている。

家の奥へと通じる「通り土間」は暮らしの生業(なりわい)によってさまざまな使われ方をしている。さらに清水旧市街地で、たとえば次郎長生家などに入ってみると、中程に坪庭のある構造になっており、同じ通りに面した魚屋も、昔は同じような坪庭のある構造になっていたという。

清水でも東京でも、奥行きの深い敷地の裏手が畑になっていたらしい家も見たことがある。家自体が兼業農家構造になっているわけで、家の裏手が畑であることはいろいろの恩恵があったように思う。

むかし塩釜の駅に近い小さな食堂で飲んだことがある。昼間から友人夫婦とおかずをつまみに酒を飲んだのだけれど、トイレを借りたら奥行きの深い敷地であることに驚いた。トイレは土間のかなり奥にあったが、通り土間は作業場も兼ね、農具も置かれていたので裏へ抜けて畑に通っていたのだろう。

そういう職住が合体した併用住宅では、「おく」の暮らしぶりの事情が見えてしまうので、奥深い町家を覗き込むのはためらわれる。由比の街道沿いにある魚屋で買い物をしようと思い、店の人がいないので遠慮がちに奥をのぞいていたら、昔は家の裏が浜に通じていたのだろうと思うほど深い。尾道の町家もそうだった。通りかかった女性と目があったら
「あ、わたしこの家のもんじゃないから。いまここの人を呼んであげるから待ってて」
と言って土間の奥にずかずか入って行った。

取材帰りに旧東海道沿いの『いちうろこ』で買い物をしたら、やはり店舗の奥が深い。じろじろ覗くのも失礼かと思ってためらっていたら
「この奥で自家製造しています」
と言う。説明があったので、安心して写真を撮らせていただいた。土間の突き当たりがビニールカーテンで仕切られた作業場になっているようにみえた。

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西山寺とヨメッコ道

2017年10月30日
僕の寄り道――西山寺とヨメッコ道


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由比西山寺。和瀬川にかかる橋のたもとに清水駅前銀座「石川ふとん店」(寝具ランド石川)の古い屋外看板がある。人通りの多い繁華な場所でもないのになぜこんな場所に掲示したのだろうと気になっており、こんど駅前銀座を通る時には、ご主人に聞いてみようと思っていた。

答えは思いがけないところにあった。由比にはイサバ衆という海産物を売り歩く商人がおり、彼らはザルに入れた海産物を天秤棒で担ぎ、隊列をなして甲州まで行商をしたという。ザルを提げて急峻な山道をゆくわけにもいかないので彼らは入山地区を経由する低い川沿いのルートを辿った。

それに対して塩などを牛馬で運搬する小荷駄(こにだ)の衆は、今宿の問屋を出ると西山寺から山道の登りに入り、尾根伝いの高みを辿り、興津から来る甲州道に下って合流するルートをとっていたという。浜石岳を挟んだ反対側にある村と由比は相性が良いと言われていたそうで、逢坂や坂本を経由する小荷駄の道は、興津川流域の村と由比とを結ぶ婚姻の道ともなっており、通称「ヨメッコ道」と呼ばれたという。

石川さんはこの道が「ヨメッコ道」であることを知っていて看板を出されたのだろう。たしかによく見ると「御婚礼には最新の寝具を」と書かれている。


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昭和三年の花電車

2017年11月26日
僕の寄り道――昭和三年の花電車

今年も11月26日がやってきて義母がめでたく89歳の誕生日を迎えた。老人ホームの昼食前にはケアワーカー手づくりのお誕生会があるので毎年欠かさず出席させてもらっている。

両脇に車椅子を並べたお年寄りたちがまく紙吹雪の中を入場し、ハッピーバースデーの歌をみんなで歌い、花束と色紙贈呈があり、くす玉を割って記念撮影をする。

司会のケアワーカーから誕生日を迎えた今日の主役について紹介があり、
「ちなみに今日生れた有名人は嵐の大野智さん、関ジャニ∞(エイト)の丸山隆平さん、プロ野球選手の筒香嘉智さんです」
などと言う。「へぇ〜」と驚くのは若いケアワーカーたちばかりなのだけれど、そいう和やかな雰囲気を感じてお年寄りたちも笑顔で拍手している。最後に娘である妻から、一緒に暮らすお年寄りたち、そして母親を介護してくれるケアワーカーたちへ感謝の挨拶が述べられて閉会となる。


嚥下が衰えてミキサー食になった義母も、誕生日は家族のリクエストで特別メニューの昼食になっている。今年は肉が多めの牛皿定食風にしてもらった。

最近、同じマンション内に仕事場のある女性編集者と知り合って飲み会をしている。先日玄関で会ったら
「最近安田武の本を手に入れて面白いのでそれを肴に忘年会でもしましょう」
と言う。なんで安田武なのかと聞いたら
「あの人巣鴨なんですよ」
と言う。安田武は読んだことがないので『昭和東京私史』中公文庫を注文した。

届いたので読み始めたら冒頭に昭和三年の話があった。その年は天皇即位の御大典で「花電車の波また波」だったと同い年の鶴見俊輔も往時を回想して書いていると言う。義母はそんな年に函館で生まれている。

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坂道の錯視

2017年11月22日
僕の寄り道――坂道の錯視

下町の商店街へ買い物に通う坂道にある石垣は地面に対して水平に積み上げられ、側面が崩落しないように固められた地面は水平に整地されて駐車場になっている。しかし坂の上から見下ろすと、石垣は遠くに向かって次第に高くなっているように見える。けれど駐車場は斜面ではなく水平なのである。

同じ石垣を坂の下から見上げると、石垣は遠くに向かって低くなっているように見え、言い方を変えれば石垣はこっちに向かって高くなっているように見える。けれど駐車場は斜面ではなく水平なのである。

「不思議だねえ」
と言うと、一緒に不思議がる人もいれば
「ぜんぜんそんな風に見えない」
と笑う人もいて、人それぞれ差がある錯視の方が面白い。



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つまずきと転倒

2017年11月21日
僕の寄り道――つまずきと転倒

 

目が見えない人が世界をどうやって見ているかについて書かれた本を読んだ。中途失明者へのインタビューにある、目が見えなくなったらかえって転ばなくなったという話が興味深い。

本を読みながら考えるに、自分は同年輩の仲間うちでも転びやすい方ではないかと思う。転ばないまでも歩行中にしょっちゅう何かに蹴つまずくのでカメラマンの友人に笑われている。

目が見えない人は足の裏で地面に触ることでたくさんの情報を読んでいる。足裏の感覚を使って世界に触れ、情報を読むことで世界を見ているのだという。

晴眼者でも真っ暗な小部屋に入ってみれば足裏の触覚に集中し、感覚を研ぎ澄ませている自分に気づく。世界が目で見えることによって、晴眼者の足からは触覚が減衰し、身体を運ぶ運動器官に過ぎなくなっている。

つまずきやすさの原因のひとつは視覚に頼りすぎることにより、思い込みという情報を信頼しすぎることにあるかもしれない。物にでも心にでも、人は自分自身に蹴つまずいている。昨日の夕方も、買い物に出た本郷通りの歩道で敷石に蹴つまずいて転びそうになった。

歩道の敷石にある段差を注意して見ていなかったというより、均一に敷き詰められた歩道の敷石に段差などあるはずがないという思い込みが、わずかな出っ張りにもつまずかせたのだろう。本郷通りの歩道では植えられた街路樹のイチョウが元気に根を張って、あちこちで敷石を持ち上げている。

そういう段差に蹴つまずいて冷や汗をかいていたら、塒(ねぐら)へ帰るカラスが頭上で「アホー」と笑っていた。そういえば、口ひげを動かして笑うカメラマンの友人も最近は転ぶらしく、
「○○ちゃん、歩道に置いてあるゴミ袋のカラス除けネットに足を引っ掛けて転んだのよ」
と奥さんが笑って教えてくれた。


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路上の版画

2017年11月18日
僕の寄り道――路上の版画

北区飛鳥山博物館で『縄文人の一生―西ヶ原貝塚に生きた人々―』という企画展を観た。ここの無料展示が好きで、行ってみれば必ず何かしら来てよかったという心のお土産がある。ただで得した分と思って 500 円の図録を買って帰る。

最近の考古学は興味深い理化学的調査も可能になっている。貝塚から出たイノシシの骨を分析すると、その個体の食生活がわかるらしい。山野でドングリなどの木の実を拾ったりする野生の食事ではなく、雑穀類を与えられて育ったと思われる個体があり、飼って育てる文化があった可能性があるという。

貝塚はゴミ捨て場ではない。貝殻だけでなく、土偶や土器などで行われた生命をめぐる祭祀の痕跡とともに、人間の遺体もまた貝塚に手厚く葬られているからだ。

そういう遺骨も貝塚内では良い状態で複数体が発見されており、やはり食生活まで踏み込んだ分析ができるらしい。同じ集落内では同じようなものを食べて生きるものだが、食べ物の好き嫌いという範疇を超え、まったく異なった食生活で育った人骨が一体あり、他地域と人的交流交流があった証拠になりうるという。

発掘された縄文人骨が展示されており、それを観ていた母子の会話を聞いていたら笑えた。
子供 「これなに」
母親 「縄文人の骨。ママもこういう骨をしてるんだよ」
子供 「ふーん」
母親 「◯◯君も大きくなったらこういう骨になるんだよ」
子供 「……」(微妙な沈黙)

遺跡の中でも、ひと続きの時層として生活の痕跡、日用雑器や装身具や素朴な道具、貝殻や獣骨だけでなく人骨までが、まるで時間が止まったかのように埋もれている状態を《遺構》という。そこでは時間が止まっている。発掘され保存された調査記録を見ていると、いったい彼らの身に何が起こったのだろうかなどと余計なことを考えてしまう。平穏な暮らしは未来に続いていくことで痕跡を残さないと思うのだ。

   ***

散歩を兼ねた見学帰りに、音無川沿いにあるサミットストア滝野川紅葉橋店で頼まれた買い物をして帰った。買い物袋を提げて紅葉橋を渡り染井方向を目指して歩いていたら歩道わきで美しいものを見つけた。

舗装された地面に落ち雨に濡れて貼りついた紅葉が、人の靴裏や車輪というゴムローラーに繰り返し踏まれることで、色づいたまま地面に転写されている。絵柄が反転せずに転写されているので、これは版画というより刺青(いれずみ)に近いかもしれない。歩いたおかげでよいものを見た。


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鳥のいた木

2017年11月18日
僕の寄り道――鳥のいた木

マンション正面玄関前にあるなんの変哲もないイチョウの街路樹が、夕暮れ時になるとまるで小鳥を集めて押し込んだような啼き声の塊となり、道行く人が驚いて見上げる姿を目にしていた。

玄関前ということで夜間も屋内から漏れる明かりがあり、となりは賑やかな酒屋の店頭であり、交差点角に近いので車両の往来と人通りが絶えない。そういう場所はかえって外敵の危険が少ないのでムクドリの集団塒(ねぐら)になりやすい。

家族に鳥アレルギーがいるので鳥さんには申し訳ないけれど、どこか他所へ行ってもらうわけにはいかないでしょうかという住人からの陳情があった。

郷里清水に帰省すると駅前広場街路樹がムクドリの塒になっており、下に停めた自動車が糞まみれになっている惨状をよく見かけた。糞害はないだろうかと木の下に行ってみると意外なことに糞が少ない。

それでもやはり啼き声の塊になっているので、理事会で管理会社に苦笑いしながら苦情の内容を伝えておいた。そのまましばらく忘れていたのだけれど、定例理事会に出たら管理人が
「ムクドリじゃなくてスズメでした。スズメはどこかへ行ってしまってもういません」
と淡々と報告するので妙におかしい。

ムクドリではなくスズメもまた集団塒をつくることを知らなかったので、ちょっと知見が広がって嬉しい。個人的には賑やかでおもしろいので、またやってこないかなと思っている。


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病室の絵

2017年11月18日
僕の寄り道――病室の絵

特養ホームに入所中の義母に熱が出てなかなか下がらず、総合病院に連れて行って診察を受けたら尿路感染だという。一週間の入院で熱も下がり退院ということになったが、腹部動脈瘤がかなり大きくなっており、いつ破裂してお迎えが来てもおかしくないという。

義母が入所ケアとなって足掛け 8 年目になる。入所当時にいたお年寄りも次第に姿を見なくなり、当時からの顔見知りは短歌を詠む女性の S さん、リコーダーが好きな男性の S さん、そしてやはり娘さんが足繁く面会に通って昼食介助をしている小さな女性の S さんという三人だけになった。

このところ小さな女性の S さんの姿を見ないと思ったら病院の廊下でばったり娘さんに会い、持病の心臓が思わしくなく同じ病院に療養入院中だという。親の歳が近ければ子どもの歳も近く、S さんの娘さんはわが妻と同い年ということで意気投合しメールのやり取りなどをしている。

老人ホームの数少ない生存者仲間にはまだまだ長生きして欲しい。病院の退院は、自分が残されるのも、他人を残していくのも辛いものだ。妻はひと足先に先に老人ホームに戻り、S さんが元気に戻られるのをお待ちしますと娘さんにメールすると言う。

この病院の四人部屋は廊下から見える突き当りに色面主体の抽象絵画が架けられており、まず目に飛び込む色の違いで病室を区別できるようになっている。義母の病室は青みがかったグレーであり、S さんの病室はブルーだと言うので、蒼い抽象画の架けられた病室を覗いてみたら S さんは苦しげな顔をして寝ておられた。



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秋葉原駅いま昔

2017年11月3日
僕の寄り道――秋葉原駅いま昔

幼いころのぼんやりした記憶の中で、やや大人びた陰影を伴って、記憶にある駅のひとつが秋葉原駅である。両親が勤めていた和菓子製造会社が急な整理に入り、父親の再就職先が北区で見つかり、王子に引っ越して小学校入学を待った春のことだ。

わりあい手厚い退職金をもらったそうで、両親は秋葉原で夏の扇風機と冬のこたつ、テレビと電気炊飯器を買った。少しでも安い店を探して夕暮れの雑踏を行ったり来たりし、それが人生最初のアキバ歩きだった。

神田の露天商たちが GHQ の規制により秋葉原駅高架下や高架線横などへ集まり、次第に電気街が形づくられたのが昭和 25 年なので、その 10 年後くらいにあたる。

かつては駅東側、今のヨドバシ Akiba あたりに神田川から掘割が引き込まれ、鉄道車両から水上輸送への貨物受け渡し場所になっていた。昭和三十年代には埋め立てられたというが、その頃の地図を見るとまだ掘割が描かれている。駐留米軍 GHQ 用の物資や人などを調達するために設置された機関を調達庁と言ったが、地図右下和泉橋近くにその文字が見える。

街の様子は電気街しか記憶にないけれど春まだ浅い頃だったようで、オーバーを着込んだ両親は配達を頼んだ買物とは別に、父親が電気こたつ、母親が電気釜の段ボール箱を抱え、薄暗くて大きな秋葉原駅構内を歩いて焦げ茶色の京浜東北線に乗り込んだ記憶がある。

増改築を重ねた秋葉原駅の基本構造は当時とあまり変わりないように見え、これから先もあまり変えようがないように思える。それでも電気街寄り 1・2 番線ホームで電車を待っていると、当時はジリリリ…と発車ベル音が鳴り響いたけれど、いまは京浜東北線大宮方面行きに「線路の彼方」、山手線内回りに「小川のせせらぎ」の発車メロディが流れる。


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街道の女子寮

2017年10月30日
僕の寄り道――街道の女子寮


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東海道由比宿、由比本陣跡と旧東海道を挟んだ向かい側には正雪紺屋、脇本陣饂飩屋、明治の郵便局舎が並んでいる。その斜め向かいの一等地に「和紙と錦織の館」という土産物店がある。

大きな木造建築で、店の名から連想して和紙や織物の工場跡かなと思う。だがそうであるとしたら屋根が採光を考慮した設計、たとえば桐生のノコギリ屋根工場のようになっていてもいいのにと思い、店番の女性に
「ここは何かの工場だったのですか?」
と聞いたら
「ここはね、缶詰会社の女子寮だったの」
という。

清水もそうだけれど、かつて由比にも冬になるとミカン農業に従事するために日本各地から援農者がやってきており、1972(昭和47)年の豊作で大暴落したあと1981年頃までは続いていたらしい。

缶詰工場はとくに女性の手を多く必要とし、従業員とは別にミカン缶詰シーズンになると期間限定の従業員を援農者として東北地方から受け入れたという。彼女たちの中にはその縁で由比に嫁いだ人もいると聞く。

中を見せていただいたらいかにも寮らしい座敷の部屋があった。朝ドラ「ひよっこ」でみね子が仲間と暮らした向島電気の女子寮を思い出した。合唱部の歌声が聞こえてきそうである。


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冬のソナタ

2017年11月2日
僕の寄り道――冬のソナタ

今から十数年前、静岡県清水で母親の介護やその後の実家片付けをしていた頃、暮らしを撮った写真の写り具合がとても良いので、どんなカメラを使っていたのだろうとファイルに書き込まれた情報を見たら、SONY の Cyber-shot DSC-L1 だった。

韓流ドラマ『冬のソナタ』が大ヒットしていた頃で、その主演男優ぺ・ヨンジュンを使った宣伝をしていた小さなカメラだ。

古い iPhone の内蔵カメラが 8 メガピクセルなのに対して 4.1 メガピクセルなのでスペックはスマホより貧弱だが、無理をしていないせいか自然で綺麗な絵を作る。ちょっと懐かしさが加勢しているかもしれないけれど。

引き出しを探したら出て来たのでバッテリーを充電して持ち歩くことにした。4.1 メガピクセルもあれば実用には十分だし、ちょっと寒くなって来たので街に白いカメラが似合い、なにより十数年後のヨンさまになった気分である。


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由比 正法寺で手島先生にお会いする

2017年10月30日
僕の寄り道――由比 正法寺で手島先生にお会いする


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旧由比町がのこされた資料集で由比町報を読んだ。なかでも昭和30年12月から手島日眞さんが連載された「由比郷土史の研究」が面白く、昭和38年4月まで計89回を通読させていただいた。

手島日眞さんは当然亡くなられているけれど、そのご子息である手島英真さんに「由比の先人を偲ぶ」と題して雑誌『季刊清水』50号に寄稿していただいた。

手島日眞さん、手島英真さんと親子でご住職をつとめられる日蓮宗正法寺をお訪ねした。ご住職がお留守と前もってうかがっていたのでご挨拶だけでもと思っていたけれど、思いがけず若い男性が応対してくださり、手島日眞さんのお孫さんだという。

「あの博覧強記、手島日眞先生のお孫さんですか」と聞いたら「そうです」という。名前も真の一字を受け継いで手島一真さんといい、いま立正大学仏教学部の教授をされている。

由比の生き字引のようだった日眞さんが実は北陸出身だったということにも驚いた。北陸から持って来られたという寺宝のような立体曼荼羅や経典を見せていただき、聞きたかった質問にも丁寧に答えてくださった。

 昼近くなったので礼を述べて本堂を出たら山門前に植木職人が入られており、まるで北斎が描きそうな構図で駿河湾と伊豆半島が見えた。


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