茶畑のある風景


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 2012年8月2日、西河内の茶専業農家を訪ね、緑の山々に向かって開け放たれた、縁側のある部屋に座ってのんびり話をうかがった。
 平地がほとんどないこのあたりでとれる山の産物といえば、昔から茶、毒荏(どくえ)、竹木、炭程度しかなくて、たいそう貧しい暮らしだったという。昔も貧しかったけれど、3.11 以降はますます苦しいと言いながら、
「まあ苦しいのは日本経済も同じだから仕方ないですけどね」
などと屈託のない笑顔で話す。都会も田舎も貧しい人は貧しいけれど、都会で貧しさを語るのとは違う心の余裕はどこから来るのだろう、きっと自然の豊かさが人の心を破綻させないための支えになっているのだろうと、同行した編集者と話した。

|布沢川に面した山の斜面に開かれた茶畑で農作業する人|

 2012年8月22日、奥津川支流布沢川に沿った山間にある布沢集落にやってきた。地元の人たちは「のんざわ」と呼ぶ。日当たりのよい明るい場所だけれど、ここも平らな耕地は少なく、茶以外の農作物はほとんど自家消費用であるよう見える。四十坂めざして布沢川沿いに遡ると、わずかな平地と山の斜面に見事な茶畑が広がっており、ここもまた経済的な面からだけでは計量不能な、自然の豊かさという祝福を受けた土地なのだろうなと思う。

|四十坂に向かう道沿いの茶畑|

 子どものころから、何かを一所懸命にやっている人の姿を見るのが好きで、魚影のない川で魚など釣れないかも知れないのに、熱心に竿を振り続けている釣り人を見ていても、けっして見飽きることがなかった。
 平地にも、急峻な斜面にも、茶畑には働く人の姿が見えてうれしく、ずっと見ていたいと思いながらも、自然に囲まれたよい暮らしだなと思う気持ちと、ここの暮らしもまた大変なのだろうなと思う気持ちが相半ばし、いつまでも突っ立って見ている不審者とも思われそうなので先を急ぐ。

|茶畑の施肥をしているお百姓|

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布沢川の盆


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 土(ど)バス停から布沢川に沿って歩く。土を「どんむら」と呼ぶように、布沢は「のんざわ」と地元の人は呼ぶそうなので、この布沢川は「のんざわがわ」と呼ばれているのだろう。河原をよく見たら積み石の卒塔婆があり、樒や花が供えられ、線香や松明が焚かれた跡がある。土村に知り合いがいる清水の友だちに確かめてもらったら、この集落では8月16日に河原で送り火を焚くという。

 岩田重則「『お墓』の誕生——死者祭祀の民俗誌」岩波新書を読んでいたら、静岡県東部から伊豆にかけての地域では盆の13日夕方だけでなく14日も15日も迎え火を焚く事例が採集されており、もしかしたらと確かめてもらったら、この集落でも13、14,15と家の前で迎え火を焚き、16日の朝、河原で送り火を焚くのだという。卒塔婆づくりを任された子どもたちは、上手に多くの石を積めるよう競い合うそうで、川辺で死者の霊を弔う川施餓鬼の習俗も一緒になったのかもしれない。

 清水区渋川の友だちにしつこくメールを書いて、本当に毎日迎え火を焚くのかと聞いたら「この辺と同じ」で毎日焚くのだという。なんだ、郷里清水の町中でも毎日迎え火を焚くのかと驚いたので、入江の友人のお父さんに聞いたらやはり毎日焚くそうで、国吉田出身のお母さんも迎え火は毎日焚くという。
 ネット検索すると相談コーナーで、迎え火を焚くのは盆入りの夕方だけ、毎日焚くなんて聞いたことがないという書き込みが多く、全国的には珍しいけれど、静岡県内では広い範囲で、毎日迎え火を焚く風習があるのだろう。

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土(ど)村


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 但沼車庫から乗車した土(ど)行きのバスは20分弱で終点土バス停に到着する。「土(ど)」では地元の人も言葉にしづらかろうと思ったら、バス停前に土村の観光掲示板があった。なるほど「どむら」なら言いやすいと思ったが、ブログで地元の人たちは「どんむら」と言うと教えていただいた。

|土バス停前|2012年8月22日|

 土バス停より先、大平まで行くバスもあり、その先が山梨・清水間を繋いだ古道徳間峠になる。徳間峠が開かれる前は樽峠が使われていたそうで、山梨側から樽峠越えで中河内に入り、そこから西河内側に入ってここまで来るには、いったいどこを通ったのだろうと調べたら元沢峠らしい。元沢峠もいちど歩いてみたいと思っている。
 土(ど)という大字にも驚いたけれど、このあたりは不思議な読みの地名が多く、土村対岸の葛沢は「つづらさわ」ではなく「とずらさわ」だし、樽峠方向からこのルートに接続していたらしい元沢峠は、「もとざわとうげ」ではなく「もんざわとうげ」と言うらしい。

|この道が大平を経て徳間峠に向かい途中から元沢峠に分岐する|2012年8月22日|

 土バス停でたった一人の乗客を降ろした静岡市自主運行バスは布沢川沿いに左折し、どこへ行くのだろうと見ていたら酒屋脇に入って休憩し、但沼車庫行きになって帰って行く。なんともかわいらしい光景だ。

|布沢川|2012年8月22日|

 この布沢川に沿ってどこまでも行くと、甲斐の武田が駿河に侵攻するために拓いたという言い伝えのある四十坂になる。山並みを越えた向こう側にある目的地をめざす心境には、都会暮らしで忘れた面白さとわくわく感がある。

|この先、布沢集落を経て四十坂へ|2012年8月22日|

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但沼車庫から


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 興津駅前を午前8時17分に出たしずてつジャストラインバスは8時36分、但沼車庫に到着する。子どもの頃は夏になるとよく興津川上流まで遊びに行った。興津川に沿って身延道国道52号線を北上すると但沼で県道75号線が分岐し、数百メートル先にしずてつジャストラインバス但沼車庫がある。そこから先の西河内・両河内が子どもたちのお目当てだったのだけれど、残念ながら今はそこで終点になってしまい、そこから先は静岡市自主運行バスしかない。

 子どもの頃の但沼といったらまだ興津川のほんの入口という感じだったなぁと、乗り継ぎのバス待ちで思う。8時42分発和田島経由土行きバスを待ちながら蝉の声に耳を澄ます。かつて興津川下流に小島藩という石高一万石の小藩があった。大正時代に今のような道ができるまで、小島からこれから向かう布沢集落に行くとすると、一端東海道を西に辿り、庵原、伊佐布、吉原を経て四十坂経由で遠回りするしかなかった。遠回りの原因は但沼から先の道がなかったということだろうか。ちょっと調べてみたい。

 8時42分発和田島経由土行きバスが来て、乗り込んだのは若い女性と僕の二人だけだった。ローカルバスの極み。但沼車庫を出ると長又、雨乞、清地、高瀬、和田島となる。次郎長ものなどを読むと和田島が頻繁に登場するが、江尻から和田島まで、江戸時代はどのルートを通ったのだろう。JA両河内支所前で女性は降りてしまい、茂の島東、茂の島、前沢口、大網口と山道を分け入り、次が終点「土」になるわけだが、恥ずかしながら車内アナウンスで「次は終点、どです」というのを聞くまで、「ど」ではなく「つち」だと思っていた。9時01分、無事に土(ど)バス停に到着した。

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興津駅前


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 2012年8月22日午前8時17分、興津駅前発但沼車庫行きのしずてつジャストラインバスに乗るため、東京駅5時20分発の下り東海道線に乗った。列車は興津駅8時11分着なので、改札を出て6分のあいだに何か買おうと思ったら売店が見あたらず、かつて駅舎内にあったはずなのだけれど閉店してしまったらしい。
 戦前、海辺の別荘地として人気があった頃が、おそらく興津駅前の最盛期だったのだろう。僕が子ども時代を過ごした昭和三十年代、興津駅はとうに静かな駅だったと思うのだけれど、駅に降り立ったことは昭和四十年代になるまでないので、正確なことはわからない。1993年に2,923人だった一日平均乗車人員は2010年で2,329人なので、今はもうなだらかな右肩下がりで田舎化しているにすぎない。

 駅前広場に売店もコンビニもない駅というのも、ないものと諦めてしまえばかえって潔く清々しい。1981(昭和56)年10月完成の駅舎前に女子中学生が腰を下ろし、山の上にわき上がる入道雲が眩しくて、ああ、これが2012年興津駅前の夏なんだなと思う。
 定刻通り但沼車庫行きのバスが来たので乗り込み、駅前から国道一号線へ左折したら、何のことはない、サークルK興津駅前店があって拍子抜けした。ただし乗り継ぎ時間6分では買い物も厳しかったなぁと思い、バス乗り継ぎ時間がのんぴり20分もあれば、興津は駅前にコンビニもある今風の田舎町である。

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カレー南蛮百連発:番外編

 学生時代、北区西ヶ原に4年間住んでいたので、最寄り駅は主にJR駒込駅を使っていた。そんなわけで学校帰りによく寄った懐かしいラーメン屋。おそらく当時と経営者一家は同じだと思うので、開業して半世紀以上経つのではないかと思う。
 最近は年をとったせいもあってか、若者のドロドロした足し算系ラーメンが苦手であり、昔ながらの味が恋しくて久しぶりに寄ったら、チャーシュー麺もモヤシソバもみな美味しい。昔ながらのまま時代に取り残されていたら、いつのまにか珠玉の味(オジサンおばさん向け)になっているような気もし、この店なら注文を受けてからササッと作る当座のライスカレーが出てくるのではないかと思って、カツカレーを頼んだら希望のものが出てきた。

 

|豊島区駒込2丁目『林来』のカツカレー|2012年8月9日|

 見ての通りのやるせない黄色いカレーなのだけれど、昭和の黄色いカレーは記憶色ならぬ記憶食なので、
「こういうカレー、懐かしいなぁ」
と思える人には美味しく、そうでない人にはあまりお勧めできない。こういうカレーを懐かしいと思う人が食べたら、無性に食べたくなるときが定期的にやってくる味だとおもう。義母がお世話になっている老人ホームの施設長が、
「もっと昔のカレーを作らなくちゃ、お年寄りは喜ばないよ」
と若い調理師に言い続けているのは、きっとこういうカレーなのだろう。 

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カレー南蛮百連発:038

 JR宇都宮線東大宮駅近くにある蕎麦屋『山茂登』。入院中の義母に面会するため、東大宮まで通ううちに見つけた店。座敷に上がると滝のある庭が見えて心和み、「いらっしゃい~」という女性店員の声が神田やぶのようで風情がある。十割蕎麦も打っていてなかなか美味しい。この駅に縁があるうちにカレー南蛮を食べてみたくて注文してみた。

 豚肉と根深葱が入っていてあまり黒くなく、カレー南蛮としては凡庸で “カレーライス風蕎麦” といった味わい。だから悪いとは思わないし、このような “カレー南蛮” を出す店が増えているということは、昔ながらの黒いカレー南蛮より、こういう味が支持されつつあるということなのだろう。

 ビールのつまみに頼んだ板わさ。両側に錦帯橋、真ん中に富士山があるような素朴な趣向。本わさびのとなりにあるのはわさび漬け。

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塩と茶

2012年8月10日

 

 宮本常一『忘れられた日本人』の中で語られている塩入りのお茶が妙に気になった。

 茶はよくのみましたのう。茶はもとからつくっておりました。五月になると芽をつんでみな手もみでつくりました。それで、どこの家にも茶桶がありました。その茶桶の中へ茶の葉をいれて、すこし塩もいれて、あつい湯をいれて、茶筅(ちゃせん)でかきまわします。あわのよくでるのがよいので、十分泡をたてたものを、茶柄杓で茶碗にくんで飲んだもんです。茶筅はポン(山窩)が売りに来ました。茶筅といっても大きなもので、長さが七、八寸もありましたろう。(宮本常一『忘れられた日本人』岩波書店より)

 

 愛知県北設楽郡旧名倉村(現設楽町)のお年寄り四人に座談会形式で話してもらうことによる聞き書きなのだけれど、こういう塩分を加えたお茶の話しをどこかで聞いたことがあり、仕事をしながらそれが何だったかを丸一日考えた。
 家内が富山出身なのでそのふるさとに関する本を読む機会があり、富山県内の山村に残る「ばたばた茶」を飲む習俗がとてもよく似ており、塩を加え茶筅でかき混ぜて泡立てて飲むというお茶の飲み方に驚いたことを思い出したのだと夕方になって気づいた。 

|豊島区駒込『私の庭・みんなの庭』にて|2012年8月9日|

  子どもの頃、友だちの家に行って砂糖入り麦茶が出てきたのに驚いたことがあるが、塩入りの麦茶を飲む家庭もあったようで、地域固有の風習というより塩分補給が欠かせない労働をする家庭の事情によるのかもしれない。宮本常一が聞き書きした人たちは厳しい農作業をしてもなお貧しい山村の古老であり、流す汗に見合った塩分を補給する必要があったのだろう。 

|豊島区駒込『私の庭・みんなの庭』にて|2012年8月9日|

 清水で瓦工場を営んでいた祖父は、徹夜の窯焚きや、高温の窯に入っての作業が多く、鰹の塩辛を家の常備菜にしていて
「朝、鰹の塩辛で飯を食うと汗が目に入らない」
と言っていた。朝食前にお茶を飲むときは、梅干しに白砂糖をまぶして食べるのを楽しみにしており、種は湯飲みの中に入れて、うっすら塩味がでたお茶を飲んでいた。幼いころ飲まされたそのお茶の味も、また同時に思い出していた。


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カレー南蛮百連発:番外編

 通所事業所「井戸端げんき」の伊藤英樹さんが昼食に連れて行ってくれた中華料理店のカツカレー。入った瞬間に、この店は注文を受けてからささっと作る、懐かしいカレーが出てくるのではないかと思って注文してみた。

千葉県木更津市矢那『華連』のカツカレー|2012年7月25日

 中華鍋で野菜を炒めカレー粉で香りを付け、スープと小麦粉でとろみを付け、あっという間につくる “ラーメン屋の当座のカレー” が期待通りに出てきた。インスタントカレールーが登場する以前の昭和、缶入りカレー粉を使って家庭で作られるカレーライスは、こんなカレーだったのだ。世の中には「懐かし美味しい」ものがある。

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カレー南蛮百連発:037

 根津交差点近くの不忍通り沿いに小さな蕎麦屋があり、入口脇の品書きにカレー南蛮があるので気になっていた。
 カレー南蛮は下手とされるので本格派を気取る蕎麦屋ではメニューにないし、メニューにはあっても玄関前に書き出されるような食べ物でもないので。よほど自信の一品なのかしらと思い、仕事で出かけたついでに寄ってみた。

根津2丁目『杉むら』のカレー南蛮蕎麦|2012年7月24日

 郷里静岡では当たり前の、蕎麦つゆにカレー風味を加えてとろみを付けた、黒い正統派カレー南蛮が出てきてびっくりした。しかもちゃんと豚肉ではなくカシワ肉が使われている。かなりスパイシーなので、正統派とはいえ今風な感じもする。これはなかなか美味しい。

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祭りのあと

2012年8月8日

 2005年の清水みなと祭りは8月5日金曜日に始まり、6日土曜日に総踊りとなり、7日日曜日の海上花火大会をもって閉幕し、翌8日の朝早く病院から電話があって駆けつけたら母が他界していた。そんなわけで毎年清水みなと祭りが始まると聞くと祭りの流れとともに母親の命日を思い出す。今年の清水みなと祭りは3日が金曜日だったので5日で終わり、終了3日後の墓参り帰省になったが駅前にはまだ祭り提灯が残っていた。

順調に育つ大内田んぼの稲穂|2012年8月8日

 病気で臥せっているときも
「お母さんは賑やかなのが好きだから友だちを連れておいで」
などと言っていた母だった。いよいよ在宅での看取りが困難になり、病院に移ってからも祭りのことばかり気にしており、
「花火大会が始まるからもう帰りな」
というのが最後の別れの言葉になった。いま思えば、あの夜は病室に泊まっても良かったな、病院からも花火が見えたかもしれない、そうすれば翌朝親の死に目に会えたのにと、今になってときどき悔やまれて、まさにあとの祭りになっている。

鎌倉時代はここしか通れなかったと思われる古い東海道|2012年8月8日

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24年目の夏

2012/08/02

 他界した母の元へ、手押し車を押した白髪の老婆が香典を持って現れ、足が不自由になったので上がって焼香ができないと言う。
「あの、失礼ですが母とはどういうお知り合いなのでしょうか?」
と尋ねたら斜め向かいに住むおばあちゃんだと言う。

木更津にて|2012年7月25日

 24年前の夏の日、生まれて初めて清水みなと祭りを見に来た妻が浴衣を着ると言い、母は着物の帯しか締めたことが無く若い娘の浴衣の帯など締められないと言うので、このおばあちゃんにお願いしたのだった。おばあちゃんはニコニコしながら若い娘風に帯を締めてくれたのだけれど、その後一度も姿を見かけたことがなく、体調を崩されてあまり外を出歩かなくなったのだと聞いていた。そのおばあちゃんが突然現れ、24年も前すでにおばあちゃんだった人なので、とうに他界され二度と会うことはないだろうと思っていたので、腰を抜かしそうなほど驚いた。

 あの夏の日から24年経って母はガンで他界し、あの夏の日から24年経って妻は当時の母の歳に追いつき、あの夏の日から24年経っておばあちゃんは、生き返ったようにニコニコ笑いながら現れ、もうすぐ100歳になるという。

(2005年8月26日の出来事より)

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八月の狂詩曲

2012年8月1日

 本川達雄「ゾウの時間 ネズミの時間」がベストセラーになってからはや20年も経つことを、八月の狂詩曲にのってせわしなく動き回るコバエを見ていて思い出した。テーブル上の微小な水たまりに落ちてあえなく落命していたりするコバエは、生命サイクルの儚さゆえに生き急ぎ死に急いでいるのだろう。人間の子どももなぜか危ないとわかっている場所に引き寄せられてしまうもので、そのため命を落とした友だちもおり、生き急ぎ死に急いでしまうものなのかなと思う。

2012年7月26日|静岡県静岡市清水区の塩田川にて

 夏休みが始まって一番嬉しい時期が七月で、来月がまるまる休みであることの幸せを噛みしめて毎日を過ごしたものだったが、八月になるとさみしさの陰りが差して落ち着かなくなり、ひたすらせわしなく遊び回ったものだった。「八月の濡れた砂」や「八月の狂詩曲」などの定番ではなく、「八月の」を冠したもっとしゃれたタイトルはないかしらと検索したら、一番胸にしみたのは「八月の予定」だった。

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