銚子口の滝を、いちおう見に行った話

2017年8月29日
僕の寄り道――銚子口の滝を、いちおう見に行った話


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8月23日の訪問時に寄り道を断念した銚子口の滝は、ゆいばす山内朝日堂停留所の次のバス停が最寄り停留所になる。上り坂なのでいったん桜野会館まで行き、山を下りながら槍野(うつぎの)集落に寄り、桜野沢沿いを下る帰路に立ち寄ってみることにした。

桜野沢は雨上がりなのに水量も少なく、緩やかに流れていてすばしこいサカナたちの魚影が濃い。川が曲がる箇所の内側にはちょっと耕作に適した土地があって、畑に通うための丸木橋がかかっている。

そんなのどかな川を眺めながら緩やかに下っていくと、急に川底が深くなって岩の隙間を水が駆け下っていく。いよいよ滝が近いのだなと思う。

高校時代は地学が好きで、大学も理科は地学で受験し、入学後も一般教養で地学を受講したが、地向斜のあたりは苦手で困った。

この桜野沢は由比川に合流する直前まで他の支流とは川底の高さがかなり違っており、その差が地すべりによって削り取られることで、名前にある銚子口となって滝と化し、100メートル以上も落下して下の由比川に流れ込んでいるらしい。

たぶんそういうことなのだろうと思うと、自然のもつ力の巨大さがなんだか恐ろしく、滝壺に100メートル近く下りていくのだろうかと思っただけで足がすくむ。人がいないし、高所恐怖症だし。

山道を下っていっていよいよ運命の滝壺降下口に近づいたら鉄柵が設けられており、遊歩道は崩落して通行不能になっているという。それは大変だ!といちおう思いつつ、内心「ああ良かった、寄らない口実ができた…」とほっとした。


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ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 3

2017年8月29日
僕の寄り道――ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 3


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桜野集落へ登る手前に桜野沢を渡る橋があり、平成7年竣工のその橋を槍野(うつぎの)橋という。槍野橋を渡ってのぼっていった先が槍野集落であり、ゆいばすのバス停名は槍野会館になる。

ここもまた山上にひらけた集落であり、狭い耕地を利用して様々な農作物が植えられている。

櫻野の地名は『太平記』「薩多山合戦の事」に登場する。
南北朝時代の1351(正平6/観応2)年、薩埵峠で足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とが行った合戦で、兵の少ない尊氏が薩埵山上に陣を置いて体制を整え、兵力にまさる直義が東より包囲して睨み合う。そこへ尊氏が頼みとする宇都宮氏綱が後詰として参戦し、桜野の地で山上戦が行われたとある。
「児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩埵山へぞ寄せたりける」(太平記)
太平記には桜野とあるが実際の戦場は槍野だったとする説もあるらしい。

槍野会館前に石碑があり、

  是
皇道を報じ報徳の教に従ひ土に親み村を愛し相互克く和親共存同栄を励む事
昭和拾四年初夏 槍野農事実行組合

と刻まれている。ここもまた報徳思想を心の支えとし、勤勉と助け合いを重んじる人びとが支えてつづけてきた村なのである。

『古街道を行く』静岡新聞社の中でこの芭蕉天神道を歩かれた著者である鈴木茂伸氏によれば、桜野からは清水区の上倉や逢坂、槍野からは坂本へ、いずれも興津から甲州へ向かう身延道沿いへと下りる古道もあるらしい。

名のある道だけではなく、暮らしのために踏み分けられたすべての道が「塩の道」であるのは言うまでもない。


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ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 2

2017年8月29日
僕の寄り道――ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 2


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 火曜・木曜運行のゆいばす「桜野・阿僧コース」は山奥の桜野会館へ向かう。興津から興津川に沿った身延道ではなく、岩渕からの富士川に沿った身延道でもなく、途中まで由比川に沿っているものの西へ折れて山中に分け入り、桜野集落を経て内房(うつぶさ)へと抜けていく山上の身延道である。不安定な川沿いではない最も古い身延道なのであり、いわゆる塩の道だった。バスはその道を桜野集落まで辿り、槍野(うつぎの)会館まで引き返してそこが終点となる。

雨上がりということもあって桜野会館前はきりに包まれており、早朝で人影もなく天空の仙人郷に降り立ったように幻想的な風景だった。会館前バス停には仙人ではなく杖をついたおじいさんがひとりバスを待っておられた。

桜野会館まで登る道が深い谷に沿っているので驚いた。谷というより山塊にできたひび割れのようであり、桜野や槍野がある桜野川流域は薩埵峠などとひとつながりの地すべり地帯なのである。急峻な山道を登り切った尾根に農地を拓き、家を建て、人々が集まってつくった集落である。

農地脇にある村墓地のような場所には、辛うじて江戸時代の年号が読み取れる石造物が集められていた。寄進者の名に他地域の名も見えるので、古くから交通の要衝として用いられてきた道であることがわかる。

仙人のようなおじいさんを乗せたバスが山道を下って行ってしまったので、いったん先程登ってきた山道を下って槍野集落への分岐点があった場所まで下る。

あまりに静かでクマでも出ないかと心配になり、口笛を吹きながら山道を下った。


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ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 1

2017年8月29日
僕の寄り道――ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 1


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早朝の電車で東海道線由比駅前に降り立つと8時15分発のゆいばす桜野・阿僧コース行きが停車していた。桜野・阿僧コースは火曜日と木曜日に運航されている。

定位置で発車待ちしているコミュニティバス

 先週の水曜日に乗った香木穴・倉沢コースで見かけた顔ぶれが駅前から数人乗り合わせたけれど、彼らはみな由比生涯学習交流館までで下車してしまい、運転手ひとり乗客ひとりの二人旅となる。

 

コミュニティバスの助手席から

県道76号線を北上し、東山寺自治会館を過ぎたところでバスは山側に右折し、この先にある東内と大門のバス停に回り道する。細い山道の上りとなり、こういう道の先に暮らす人々がいるならコミュニティバスは欠かせないなと思う。

 

バスは暮らしのある方角を目指してどんな悪路でも分け入っていく

平面の地図を見ていても人が体感する生身の距離感はわからない。紙の地図上で見たほんのちょっとの回り道が、そこで暮らす人の生活が成り立つか成り立たないかの生命線になっている。

 

午前8時28分、コミュニティバスの車窓を一瞬よぎって消えた山里の風景。犬も退屈なのだろう

自分がこういう場所に暮らし、家族が次第に親元を離れていき、自分の運転免許証も返納せざるを得ない歳になったら、コミュニティバスなしでは暮らしていけないなと思い、そんなことを考えているうちにバスは山を下って県道に戻った。


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用事と楊枝

2017年8月26日
僕の寄り道――用事と楊枝

由比の町を歩きまわって帰京し、実際に現地を見ながら考えたことを整理していたら、書籍で確かめたいことがいくつかあり、答えのありそうな本を検索して二冊見つけた。

一冊は由比町誌編集委員会による『由比町誌』で静岡県立中央図書館にもあるけれど国会図書館でデジタル化されていて手軽に閲覧できる。

もう一冊は金井重道、望月政治共編著による『望月氏の歴史と誇り』で、かろうじて国会図書館に収蔵されていた。

こういう用事でもないと脚が向かない国会図書館なので日曜閉館であるのを忘れており、あわてて土曜日を潰して出かけてみた。

国会図書館で書籍を閲覧したのは二十代の頃に一度だけで、その頃はコンピュータなどなくて紙のカードをひたすら探したものだった。国会図書館内のコンピュータ検索は家庭でもやっているけれど、国会図書館の機械で検索しつつ閲覧請求をするのは初めてなので、いかにも素人のおじさんですといった風体を装い「は〜い」と手を上げて若い女性案内係に教えてもらった。

なんとか請求した『望月氏の歴史と誇り』がとどくまで30分ほどあるというので 6 階の食堂に行ってたぬきそばを食べた。あまりに塩辛くて喉が渇いたので自販機でお茶を買い、飲み終えてペットボトルを捨てようとしたらキャップの分別回収をしている。

注意書きを読んだらアルミキャップも分別の対象になっており、さらに食事を終えた男たちが咥えている爪楊枝が分別回収対象外になっているので笑った。


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坂の上の雲――朝日堂まで

2017年8月23日
僕の寄り道――坂の上の雲――朝日堂まで


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脚を引きずるようにして県道76号線を歩いていたら、入山親水公園手前の道端に標識があり「銚子口の滝→」と書かれている。県道から右手に折れた山中に滝があるらしい。

疲れているとはいえ滝を見落としたら、滝だけに気持ちが落ち込みそうな気がする。「1.1km 30 分」と書かれており、たかが 1 キロ強を歩くのに 30 分もかかるもんか、ここであきらめたら男じゃないだろうという意地もあり、ためらわずさっさと心を決めて寄ってみることにした。

NHKでドラマ化された司馬遼太郎『坂の上の雲』の冒頭で流れたナレーションが好きで、ちょっときつい道のりを歩くときなど、頭のなかで再生して自分への応援にしている。

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。「小さな」といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。

で始まるアレで、

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。

のところで涙腺が緩み胸がキュンとなる。

うるうるとし、キュンとしながら坂道を登っていくと 1.1km は遠い。上り坂の 1.1km は平地の 1.1km と違うのだ。もうそうとうのぼって来ただろうと立ち止まると標識があり、残り「0.9km 25分」などと書かれている。

来た道を振り返ると由比川対岸にも同じような坂道が見え、山の稜線には励ますように白い雲が沸き立っている。

上り行く先に視線を戻すと朝日堂と書かれたお堂がある。何処かで聞いた名だなと思い、バス停らしきものがあるので思い出した。この道は来週の編集会議帰省時に、乗ってみるつもりでいたゆいばすの櫻野・阿僧コースなのだった。

コミュニティバスで櫻野まで運んでもらい、そこから坂道を下りながら槍野、銚子口の滝、朝日堂を見ながら下りてくることにしていたのをやっと思い出した。

とんだ無駄足を踏んだわいと、自分自身に呆れ、脚をひきずりながら、もと来た道を県道まで下る。

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歩き疲れて望遠レンズ

2017年8月23日
僕の寄り道――歩き疲れて望遠レンズ


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山間部のどん詰まりまでコミュニティバスで運んでもらえば、海辺の駅までは下り坂なので楽勝だと思い、実際、想定した時間より二時間も早くふりだしに戻れはしたのだけれど、下り坂を歩くのがかなり脚にとって過酷であることを思い知った。

由比川に沿って県道76号線を下っていたら、入山橋を渡ったあたりで対岸に神社が見える。社殿脇にご神木なのか杉らしい大木が見える。興味深いので普通なら入山橋まで引き返し、橋の向こうの対岸を辿って行ってみるのだけれど、両太腿が攣ってしまってそういう気力がない。

仕方がないので望遠レンズで撮影し、帰京後拡大して細部と位置を確認したら入山八幡宮らしい。住所は清水区由比入山になる。

その並びに丹念に石を積んで作られた棚状の畑が見え、なにやら樹木の苗が植樹されているようにみえる。これも本来なら実際その場に立ってみるのだけれど気力と脚力がない。

さらにその並びの中腹に公民館のような建物が見え、石仏が並んだ神社のようにも見える。やはり自分の主義として何なのか確認せずには帰れないところなのだけれど、とうとう足を引きずらないと歩けなくなってきたので、望遠レンズで撮影してあとで解明することにした。

 

庚申堂神社と地図にあり、おそらく昔の人びとが心待ちにした庚申講の夜明かしをするためこもったお堂が、庚申待ちが行われなくなった現代まで大切に引き継がれ、そのまま神社になったのだろう。境内裏手にたくさん並んでいるのは、おそらく青面金剛(しょうめんこんごう)を彫りつけた庚申塔なのではないだろうか。「ないだろうか」という望遠レンズによる極めてズボラな類推である。いつか実際に歩いてみたい。


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香木穴から桑木穴へ

2017年8月23日
僕の寄り道――香木穴(かぎあな)の石垣


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香木穴(かぎあな)の集落からさらに北東へ向かう道は富士市南松野に通じており、富士市域に入ると地名は桑木穴(かぎあな)となる。猛暑を忘れるように涼しい林道の、木漏れ日の中を抜けていくと集落がある。

 

地区集会所のあるあたりで細かな道が分岐しており、人にいたずらされない高みに持ち上げたかたちで牛頭天王と彫られた石柱があり、宝暦六年(1756)の年号が見える。

 

このあたりも斜面に拓いた土地を住民が大切にまもられていることが感じられ、人が通う道もしっかりと取り付けられている。

 

木立の中に冷気が流れる風の通り道があり、そういう場所をえらんで、しっかりとした作りの炭焼き窯がすえられていた。


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香木穴(かぎあな)の石垣

2017年8月23日
僕の寄り道――香木穴(かぎあな)の石垣


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香木穴の集落内を歩いたら消防団の倉庫があり、隊員の名札があるので数えたら望月姓が三分の二を占めている。信濃国の佐久郡望月地方を本貫地とした望月氏が滅亡したのち、子孫が甲斐国南部の河内領や静岡県富士市から静岡市清水区あたりに身を隠し移り住んだと言われているけれど、このあたりも望月さんが非常に多い。

 

 昔から甲州には、望月、深沢(昔はみさわと云った)、佐野、馬の糞といわれるほどこの三姓が多くそして望月と深沢は信州、佐野は群馬県がその発祥地と言われる。
 由比町でも望月姓が圧倒的であるが、その時代差と、本系筋傍系筋甲州からの移住筋、従者筋等数流がある。
 北田の望月氏は、信州望月城主の第六男が北田へ移住したとの説があるが、之は嘘で望月城と云うのは天正十年(一五八二)七月、徳川勢によつて攻められて落城し、望月氏は越後方面へ避難した史実があるのだから、望月氏の本系ではあっても信州の豪士の八男であつたであろう。
 初代の望月八郎左衛門勝命と云う人は、元禄十年(一六九八)頃、信州望月村から多勢の従者を連れて由比郷に遷徒したことが正法寺の過去帳によつて知られている。そしてその初代が醸造業を開業されたことも明らかである。
 最初から北田の殿様格であつた。(『由比町報』昭和30年4月1日)

由比町の戸数2696戸のうち望月姓を名乗る世帯491戸、そのうち入山が120戸(昭和35年)
「但し、移住に際して異姓の従者、豪士級の縁組に、新婚や花嫁について来た異姓の従僕も、自然にその主家について同姓し、水呑百姓として、その地におちついた事も、勘定に入れておいて良いのである」(手島日真)

望月さんばかりであることには慣れているので驚かないけれど、集落内を歩いたら斜面に建つ家々の基礎となる石垣積みが見事なのでびっくりした。山間地の斜面に石垣積みは欠かせないので、永年にわたる地道な苦労の結果として素朴な石垣積みを見ることは多いけれど、ここの石垣は城郭の石垣のようにきちんと施工されており、緻密に作られた山城の中を歩いているような気分になる。

山里で誇り高き望月性を名乗り続ける気概をあらわしたものであるにせよ、よほどの技術を持った人びとが、かなりの計画性をもって作り上げたとしか思えない。ひなびた山奥の集落にとって、かなり不釣り合いに感じたので驚きながら感心した。

余談だけれど清水区大内にある保蟹寺(ほうかいじ)にわが家の墓はある。檀家総代は設楽さんで、墓地も設楽さんの墓が多い。設楽姓は三河由来だといい、三河より移り住んだ設楽氏が開いた寺だという。数年前に寺の駐車場を作った際に、檀家の設楽さんたちが業者に頼むまでもなく、力を合わせて石垣を積んでくれたという。

住職は「この辺の人は石垣を積むのが得意なので」とおっしゃっていたが、どうして石垣積みが得意なのかの理由を聞き損ねた。この寺は鎌倉時代あたりの古道である山沿いの東海道に面しており、実は高部・押切・能島あたりを歩くと、道端の古い石垣が非常にきちんと積まれた形跡があって興味をひかれることが多い、そんなこともあって石垣積みの技術というものに関心がある。ここ香木穴の石垣についてもちょっと調べてみたい。

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香木穴(かぎあな)と台風

2017年8月23日
僕の寄り道――香木穴(かぎあな)と台風


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 大城からバスでのぼってきた山道をふたたび引き返し、福沢橋から渓谷沿いの登りにはいり、それが香木穴集落へ向かう道である。美しい小渓谷だが土石流警戒地域でもある。

道の途中に苔むした石碑があり、昭和33(1958)年の台風により、この地域は甚大な被害を被ったという。

その年の台風は記憶にあり、富山市で神通川近くに住んでいた妻は、母親が編んだニットの水着を着て、空気を入れた浮き輪に身体を通し、川の氾濫にそなえてまんじりともしない夜を過ごしていたという。

僕はその年の春、東京で交通事故に巻き込まれて九死に一生を得、静岡県清水市在住の祖父母宅に引き取られて高部幼稚園に通っていた。朝起きて寝ぼけ眼で階段を降りようとしたら、階下で大人たちが
「来るな、二階でじっとしていろ!」
と叫び、台風で巴川が溢れ一階が床上浸水していたのだった。

その年の台風は狩野川台風と呼ばれて歴史に名を残したので、記憶の中であの台風は《狩野川台風》だったとずっと記憶していた。苔で判読が容易でない碑文を読んでいたら、上陸は八月で上陸地点は富士川地区、そのまま北上して舟場や香木穴を直撃したらしい。11号台風だと書いてある。

狩野川台風は九月という記憶があり、気象庁のサイトで調べたら22号だった。その年に静岡県に上陸した台風を調べたら21号も同じようなコースを辿っていて、静岡県は台風の当たり年だったわけだ。

これが九月の狩野川台風で22号

これが同じく九月の21号

これが八月の11号

逆に八月に上陸した台風を調べたらまさに11号がそのルートを辿っており、おそらく富山市民を震え上がらせたのもその台風だったと思われる。思いがけないところで記憶の修正ができた。

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大城と大代

2017年8月23日
僕の寄り道――大城と大代


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届いた雑誌原稿にある由比山間部の地名、入山、櫻野、福沢、香木穴(かぎあな)などが気にかかり、コミュニティバス「ゆいばす」の運行経路図を見たら、ありがたいことにそれらの地域はすべて網羅されている。

香木穴・倉沢コースは月・水・金曜日、櫻野・阿僧コースは火・木曜日の運行になっている。問題は由比駅朝8時15分発に間に合うかどうかで、幸いにも東京の駒込駅4時32分発の山手線外回り電車に乗れば間に合うことがわかった。

由比駅前 8 時 15 分発のゆいばす

8月23日は水曜日なので香木穴・倉沢コースに乗車した。福沢橋を過ぎた由比バスは坂を登って大城(おおじろ)に向かい、そこが旧由比町と富士町の町境になるので引き返し、再び福沢橋を経てやはり山奥の町境である香木穴に向かう。香木穴から引き返して山道を下り、そのまま福沢橋に折れずに舟場入口へ着いて終点となる。

由比駅前からは6名の乗客がいたけれど、5つ目の停留所である由比生涯学習館でみんな降りてしまったので運転手さんとの二人旅である。
「帰りのバスの時刻は調べてありますか」
と聞くので、帰りはバス路線を引き返しながら由比川沿いの暮らしを眺めて由比駅まで歩いて帰ると言ったら驚かれていた。

終点まで行ってしまうと山道を逆にたどり、香木穴、大城といま来た道を引き返さなくてはいけないので、大城で下車してしまい、その先のバスルートは歩くことにした。運転手さんにそう言うと「それがいいでしょう」とのことだった。

大城停留所で唯一の乗客を降ろし香木穴に向かうゆいばす

「おおじろ」の集落は山の峠に当たる場所なので旧由比町と富士町の町境線で分断された形になっており、旧由比町側は大城、富士町側は大代と書き、ともに「おおじろ」と読む。どうして大城と大代というように字を書き分けるようになったのかはよくわからない。行政上の都合だろうか。

富士市境の道標。向こう側が大代、こちら側が大城

県道76号線はきれいに整備された道で、由比から富士川沿いの松野に抜ける峠道になっている。峠に少し開けた宅地と農地がある。

峠に立ってのぼってきた山あいを見下ろすと風が通って気持ちがいい。

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◉戸田書店発行『季刊清水』取材メモ

【2021年】

◉写真で振り返る港湾都市の外食文化 ―高度成長の面影―

【2020年】

◉「二代目清水次郎長像と清水市公会堂のレリーフ」補遺

◉さつき通りを中心とした彫刻群……13

◉さつき通りを中心とした彫刻群……12

◉さつき通りを中心とした彫刻群……11

◉さつき通りを中心とした彫刻群……10

◉さつき通りを中心とした彫刻群……9

◉さつき通りを中心とした彫刻群……8

◉さつき通りを中心とした彫刻群……7

◉さつき通りを中心とした彫刻群……6

◉さつき通りを中心とした彫刻群……5

◉さつき通りを中心とした彫刻群……4

◉さつき通りを中心とした彫刻群……3

◉さつき通りを中心とした彫刻群……2

◉さつき通りを中心とした彫刻群……1

【2019年】

◉富士市中之郷寄り道

◉旧五十嵐邸のトランスパレントスター

◉蒲原と北条新三郎の墓

◉蒲原の城山隧道

◉旧五十嵐歯科医院

◉蒲原城址から

◉蒲原へ

【2018年】

◉興津と福山

◉日本裏山辞典――興津七面山

◉牛と道草と汽車の旅

◉興津氏の居館跡を見に行く

◉徳丸

◉村誌町誌

◉皇紀西暦換算

◉貸し借りあれこれ

◉中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫

◉魚の話あれこれ

◉松原入口と和田英作

◉瀬織戸と折戸

◉土俵

◉日本史と市史

◉柴田家と三保街道

【2017年】特集「由比を体感する」

 →『季刊清水』特集「由比を体感する」地図 PDF ダウンロード

山で暮らす――薩埵山合戦補遺

真珠院の扁額

町家の奥行き

西山寺とヨメッコ道

街道の女子寮

由比 正法寺で手島先生にお会いする

由比 地持院の襖絵を見に行く

朝の由比駅

由比町誌を読みに

山峻険にして谷深し

ポポーとポッポの木

由比阿僧―暮らしと歴史

坂の上の雲 西山寺阿僧地区

禅の心と入道雲

秋に昇る

生産と競争

銚子口の滝を、いちおう見に行った話

ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 3

ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 2

ゆいばすで桜野・阿僧コースをゆく 1

◉坂の上の雲――朝日堂まで

◉歩き疲れて望遠レンズ

◉香木穴から桑木穴へ

◉香木穴(かぎあな)の石垣

◉香木穴(かぎあな)と台風

◉大城と大代

◉白鬚神社と海岸寺

◉由比往還

◉小野十三郎と薩埵峠

◉由比地すべり対策事業

◉コミュニティバスと巡回販売と宅配

◉寺尾と西倉沢の時計つき掲示板

◉由比東倉沢の八阪神社

◉海と山のあいだ

【2012年】特集「興津川を流れ下る」

◉神沢川

◉庵原の杉山青年夜学校

◉禅寺の先生

◉川が痩せる

◉小島に生まれて小島に眠る

◉和田島メモ

◉新東名高速道路を見上げて

◉四十坂

◉炭焼き小屋のある風景

◉茶畑のある風景

◉布沢川の盆

◉土(ど)村

◉但沼車庫から

◉興津駅前

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昭和時代回想

2017年8月18日
僕の寄り道――昭和時代回想

夏がくるたびに、いちど小学生時代見上げた見事な入道雲を、ちゃんと写真に撮ってみたいものだと毎年のように思う。

ジリジリと照りつける太陽の下、ランニングシャツ一枚で遊びに出て、汗を拭いながら見上げた空に、もくもくと湧き上がる入道雲を見た記憶があるのだけれど、あれからとんとお目にかかれずにいる。

遊びに出る機会が減ったから、無心に空を見上げることなどなくなってしまったから、高い建物がたてこんで空が狭くなってしまったから、などとあれこれ理由をつけてみる。どれもあっていそうだけれど、本当の理由は違うような気もする。

絵に描いたような入道雲は、心のなかでつくり上げた見たこともない夏景色なのかもしれない。記憶の中の入道雲の話をすると「そうそう、夏はいつでもそうだった」と同年輩の友人は言う。だが、おとなになり、時代が昭和から平成になってからというもの、一度もそういう爆発的な入道雲を見ていない気がする。

好きな関川夏央『昭和時代回想』を読み返すたびに、あの夏の入道雲は、昭和の時代が見せてくれたありえない風景、美しいまぼろしだったのではないかとも思うのだ。薄暗い平成の八月に入って半月以上も雨が降り続くと、昭和の時代のスカッとした夏が恋しい。


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さらば和風照明器具のナツメ球

2017年8月9
僕の寄り道――さらば和風照明器具のナツメ球

白熱電球にせよ蛍光灯にせよ、夜の就寝時は部屋が明るいと眠れないし、眠れるとしても電気代がもったいないので、たいがいの家庭では「おやすみなさい」で灯りを落としている。かといって深夜の御不浄行きなどに真っ暗では不便なので、小さな常夜灯をつけたままにし、その薄明るく黄ばんだ光を放つ電球をナツメ球という。幼い頃は寝付かれないと布団の中で仰向けになり、小さな月のようなナツメ球の常夜灯を眺めていたものだった。

なぜかナツメ球はよく切れる。ちいさくて値段が安いので、たびたび切れて買い換え需要がないと電球屋の利益が上がらないのかもしれない。そんな理由で切れやすいのではないか、などと邪推したりするのだけれど、考えたら「おやすみ」から「おはよう」まで、ナツメ球は毎晩まいばん過酷な長時間労働に耐えている。人が眠っている間働きづめに働いているのだ。そんなわけでナツメ球の死は過労死であると言えるかもしれない。

わが家の寝室にある照明は、親と住宅金融公庫に頭を下げて借金をし、頑張ってマンションを買ったときに取り付けたものなので、すでに四半世紀を経過している。そういう古い和風照明器具なので、蛍光管やナツメ球の交換が面倒くさい。脚立に登って複雑な構造の傘を外し、溜まったホコリの掃除を兼ねて作業する。蛍光管の交換は年末の大掃除を兼ねているし、夜の明かりは生活に欠かせないので我慢できるけれど、小さくて暗くて、しかも電球が働いている時に人は眠っているので働く姿のありがたみが薄いナツメ球の交換をひどく面倒に感じる。

3.11 の大災害をきっかけにして家庭用照明器具の LED 化が加速している。わが家でも少しずつ切り替えているけれど、ゆいいつナツメ球が必要な寝室のそれが時流に乗り遅れたままになっている。いつかナツメ球だけでも交換の手間を忘れていられる LED にしてやろうと思いつつ数年が経過している。切れた時にすぐ交換しないと不便なので、安いナツメ球はかなりの量を買い置きしてある。それがようやく最後の一個を使い切って交換が必要になった。

つとめを終えて点かなくなったわが家の最後のナツメ球

いつか LED のナツメ球にしようとスーパーのレジ近くにあるのを横目で見ていた。レジそば商品化しているのだから、いつかその日が来たらコンビニでも手に入るだろうと思い、昨夜いよいよ、就寝前にコンビニへ買いに出たら LED のナツメ球など見当たらない。それどころか電球や蛍光管売り場自体が縮小して見つけるのに苦労する。

そうなのだ。世の中は照明器具の買い替えが進み、LED の照明器具には LED のナツメ球がついているはずなので、単体の LED ナツメ球は過渡的な商品だったのかもしれない。しまった、書いそびれたなと思い、諦めて帰る道すがら、本郷通り沿いにある小さなコンビニに寄ってみたら目当ての LED ナツメ球があった。ナツメ球ではなく「 LED 小丸電球」という名前になっていた。

そうそうこれこれ、小丸電球がないと困るんです、などと洒落を言っている場合ではない。ああよかったと胸をなでおろしながらレジに持っていったら 600 円弱だった。果たしてこれで困ることもなくなるだろうか。

  ── と、そこまで 考えたとき、わたくしのこころは千々に乱れ、偉大なものを失ったものだけが 知るめまいにも似た虚無感と、怒りにも似た悔恨の念とが激しく胸のうちを去来するのであった── と、椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』最後の数行を思い出した。

さむい夜もあった。 ひもじい秋の夜更けもあった。しかし黙々と古臭い木目調行灯の中に小さなからだをうずめていた和風照明器具のナツメ球こそ、 まさしく日本のトモシビのような存在だった…… のである。
すまなかった和風照明器具のナツメ球。
そして、さらば和風照明器具のナツメ球。



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ふっておいしいカルピスゼリー

2017年8月5日
僕の寄り道――ふっておいしいカルピスゼリー

八王子の古道「絹の道」の峠道を歩いて鑓水(やりみず)にくだり、資料館を見学して外に出たら谷戸の田んぼの緑が清々しい。清々しいのは良いけれど汗をかいて水分不足気味であり、見渡しても自販機のない自然豊かな場所に来るときは、水筒くらい持ってこなくちゃだめだなと思う。

田んぼ脇の道をくだってのぼった場所に公民館らしきものがあり、水飲み場がないかしらと行ってみたら、清らかな鑓水(崖などに竹を差し込んで水を滴り出させる仕掛けをやりみずという)の写真が貼ってあるが、閉まっていて人の気配がないし水飲み場もない。振り向いたらありがたいことに石垣前に自販機があり、ちゃんと電気が通じていて、缶入りやペットボトル入りの飲み物が湧いていた。

なにを買おうかと思ってサンプルを見ていたら「ふっておいしいカルピスゼリー」というペットボトル入りの見慣れない商品があり、義母が暮らす特養ホームのスポーツドリンクゼリーを思い出したので買ってみた。

年寄りには水分補給が欠かせず、脱水して発熱すると認知症も深くなる。消化吸収の良いスポーツドリンが冷蔵庫に大量に作り置きされていて、ケアワーカーはどのメーカーのスポーツドリンクも「ポカリ」と呼んでいる。

ポカリをすすめても飲まないお年寄りのために、ゼリーで固めたポカリゼリーが冷蔵庫にあって、器に盛り付けスプーンを添え
「はいデザートです」
と目のまえに置くと年寄りは喜んで食べている。

水分補給だけでなく、食事を終えた後も満腹感がなくて「食べてない」と騒ぐお年寄りや、食欲がありすぎて他人の食べものを盗み食いするお年寄りにも、小腹を満たすよい食のツールになっている。

ボカリゼリー自体が袋状の容器に入って市販されているけれど、容器代のぶん割高な気がしてあまり買う気がしない。こうして既存のペットボトル入り飲料を、ゼリーで固めたところが手軽な感じで気に入った。嚥下の悪い人や、小腹を満たしてダイエットしたい人にとても良いのではないかと思う。

その後、街を歩いて汗をかき、水分補給で自販機前に立ち止まったり、体全体を冷やしたくてコンビニに入るたびに、カルピスゼリーがないかと探してみるが、その後、見かけたことがない。

発売したものの売れなくて撤退してしまい、田んぼ脇の自販機に売れ残って入っていたのだろうかと思い、検索したら、まだ今年4月に発売されたばかりの商品らしい。ぜひどこでも買えるようになればいいなと心待ちにしている。


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