【母と歩けば犬に当たる……88】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……88】
 

88|ユリイカの時代

 東京で過ごした小学生時代、母は北区梶原にあったガソリンスタンドで店員を兼ねて経理事務をしていた時期がある。
 勤めていた和菓子製造会社、アパレルメーカーが次々に倒産して苦渋の転職をしたのであり、それでも前の勤め先で覚えた経理の腕が役立った点において、母は運のよい人だったかも知れない。
 毎週末になると退社時に灯油配達用の黒塗り自転車、いわゆる実用車を借り出し、ダイナモのランプを灯し、都電の走る電車通りをたどって帰宅することになっており、それは自転車を欲しがるのに買ってやれない息子への小さなプレゼントだった。
 日曜の朝、早起きしてアパート脇に止められた自転車にまたがり、遠く荒川沿いの工場地帯まで走るのがなにより楽しみだったということは、あの頃すでにペダルに足が届いて三角乗りをしなくても良い身長になっていたのだろう。
 そのガソリンスタンドでは、常連客に名入れをした自動車運転免許証入れをノベルティとして配っており、母はそれを貰って帰って知り合いの自動車所有者にも配っていた。
 実家の物置でその懐かしい自動車運転免許証入れを見つけた。当時の輝きを失わない箔押しの文字を眺め、革製二つ折りのパス・ケースを開くと、アンコとして折り畳んで詰められた古新聞が出てきた。
 今でこそかなりの古新聞だけれど、詰められた当時はさほど古くなかったはずで、まるで大切な記事を保存したかのように、綺麗に折り畳まれている。几帳面な革細工職人が詰めたのだろうなと思いながら、真っ直ぐな切り口の紙片を開くと、昭和38年7月5日(金曜日)付けの読売新聞夕刊だった。
 「ある「出版屋」の死」と題して詩人の大岡信氏が寄稿しており、それは雑誌『ユリイカ』(★1)とその発行人への鎮魂歌とも呼べるものだった。
 『ユリイカ』は学生時代に何度か買ったことがあるし、いまもあるはずだけれどと大岡氏の原稿を読むと、知らなかったもうひとつの『ユリイカ』、そして母が頑張って生きた昭和という時代のかけらが書き留められていた。
 
彼はとてもやせて、背が高かった。いつも少しがっかりしたような顔つきをして、猫背の姿で足早に歩いた。彼の事務所は東京神田神保町の、界わいでそこだけ舗装していない見捨てられたような路地の二階にあった。狭い急な階段を上がってガラス戸をあけると、八畳ほどの板敷きの事務所の四隅に事務机が置かれ、そのひとつひとつが別々の出版社の事務所なのであった。床は少し傾斜がついていて、この部屋にはいると反射的に、大地震が起きたら生きちゃあ帰れないぜ、という考えが頭をかすめるのである。この建て物の持ち主はMさんという年とって少し縮んだバルザックのような顔をした出版社主でS社というその社名をとって「S社ビル」(★2)と通称されていた(大岡信)
 
 雑誌『ユリイカ』を発行していたのは伊達得夫という人物であり、

詩は売れない。よろしい。それなら、売れないことに徹することで、売れるもの以上のことをやろうじゃないか(大岡信)

というアウトサイダー的発想のできる気概ある若者だったらしいが、1961(昭和36)年41歳の若さで亡くなっている。肝硬変だった。その結果「書肆ユリイカ」はつぶれ『ユリイカ』は廃刊になった。
 十年後、青土社を興した清水康雄氏が復刊した雑誌が現在の『ユリイカ』なのだ。
 自分が9歳だった時の新聞を読み、中央の写真をよく見たら唖然とした。大学を卒業し、会社員になったばかりの頃、酒好きの友人と神田神保町書泉グランデの裏手にある『ラドリオ』や『ミロンガ』でビールを飲んだくれていたが、なんと写真のキャプションを素直に読めば、伊達得夫=書肆ユリイカの出版社は『ミロンガ』二階の四隅のひとつに置かれた机の上にあったらしい。
 40年以上の歳月が流れ、30代だった母は70代になり、幸いにも大地震は起こらず、いまだに往時のままの『ミロンガ』があるわけで、あの店の片隅でベルギー産の白ビールでも飲みたいなぁ、とふと思った。

(2004年12月20日月曜日の日記に加筆訂正)

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★1 ユリイカ
「ユリイカ」とはアルキメデスが入浴中にアルキメデスの原理を発見して裸で表に飛び出し、「余は発見せり(=ユリイカ)」と叫んだという逸話に基づいている。
★2 ミロンガ
「S社ビル」は多分「昭森社ビル」だったのではないかと思う。

【写真】 母が持っていた運転免許証入れから出てきた新聞。

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