内と外1

2017年4月29日
僕の寄り道――内と外1

かつて定点をさだめて行われる気象観測を定点観測と言ったが、いまは定点観測という言葉だけが広義に用いられている。

馬齢を重ねて生きのびたことの褒美なのか、立ち止まってじっとしていることが苦にならなくなった。意味なくじっと動かない無用の者となる自由を、喜びとして感じられるようになってきた。いつか石ころに還るための訓練かもしれない。

定点から世界を観測するのは楽しいけれど、停止して世界を観察することの楽しみもわかってきた。いわば有用の定点観測ではなく、無用の停止観察である。

世界遺産の構成遺産である三保の松原。駿河湾から海の一部を抱え込んで湾を作っている砂嘴(さし)のことを三保という。

当然、波穏やかな湾内と、潮流が岸辺を洗う外海側では、寄せる波の性質も違っている。そのちょっとした違いこそが、大きな違いよりおもしろい。

三保の内海

そんな海辺に腰をおろし、三十分ばかり停止してじっと波音に耳を澄ませていると、自分の内側にちがった世界が開けてくる。

三保の外海

それが楽しくてたまらないので、帰省すると JR 清水駅に隣接した江尻船だまりから水上バスに乗って三保に寄り道する。

波打ち際に録音機を置き、三十分間と決めて波音を録音し、帰京してステレオ装置で再生してみるととても面白い。三十分間浜辺に腰を下ろしてじっとしているのも楽しいし、三十分間で録音されたものをじっと聞いているのも楽しい。

三十分間、海辺でじっとして録音をすることで得た教訓。

1 30分は長い
2 誰もいない場所を選んでもいつの間にか誰か来る
3 カラスが興味津々で録音機に寄って来る

 

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こざっぱりと城下町

2017年4月28日
僕の寄り道――こざっぱりと城下町

旧静岡市内での編集会議に出るため駿府城の周りを歩くと、派手ではなくこざっぱりとした住まい方をされているお宅を見かけて「いいなぁ」と思う。

城下町であるぶん背筋がしゃんと伸びているのではないかとも思われれるし、城下町であることの羨ましさにひかれた心理的かたむきかもしれない。

この近くに救世軍静清小隊静岡会館というのもあるけれど、あの建物もまたこざっぱりして気持ちのよい姿をしている。


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掃除の心得

2017年4月22日
僕の寄り道――掃除の心得

母親は掃除好きな人だった。小学生時代の日曜日は朝ごはんが済むと
「さぁ掃除を始めるよ」
と言い、はたきかけ、ほうきはき、ぞうきんゆかふきなど、午前中いっぱいをかけて手伝いをさせられ、遊びに行きたくても行けないので閉口した。

「ほら、スッキリした。きれいになって気持ちいいでしょ!」
などと言うのだけれど、どこがどう気持ちいいのか実感がわかなくてうんざりしたものだ。

汚れや散らかり状態は、掃除しなくては、片付けなくては、と思う人にしか見えにくい。母親がいかに掃除・片付けを頑張っていたかは、母親がいなくなったことで汚れ放題、散らかり放題になって初めてわかった。

春になって明るくなるのが早くなった。未明に目が覚めて眠れないと本を読み、外が明るくなり始めるとウォーキングやラジオ体操をするかわりに家の掃除をすることにした。少しずつ場所を変えながら丁寧にやると結構な運動になる。

きれいになって汗だくになり、朝食のとき「今朝はあそこを掃除した」と言うと、妻は「あ、そう」とそっけない。掃除前の汚れ具合を思うと奇跡のようにきれいになったと自分では思うのだけれど、そもそも掃除を思いつかない人に汚れは意識されないのだから仕方ない。

そういうものだと思って、褒められようなどと思わないのが掃除の心得だと思う。どうしても汚れの落ち具合に自分で納得がいかなくて、母は重曹を使っていたなぁと思い出したのでネット検索したら、重曹と炭酸ソーダを半々に混ぜたセスキ炭酸ソーダスプレーというのが良さそうだったので、530ml のを 2 本注文した。


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1930年あたりの人びと

2017年4月22日
僕の寄り道――1930年あたりの人びと

知らない人の本を読んで感心すると、あらためてその人の略歴をひいてみる。そうすることによってまた新たな人をみつけ、また本を読んで感心すると、あらためてその人の略歴をひいてみる。

そういうことをしながら阿弥陀籤(あみだくじ)のような読書をし、「おや?またか!」と驚くのは、そういう優れた本を書いた人たちに 1930(昭和5)年あたり生まれが多いことだ。あまりに逸材が多いので存在を知り得なかったということも、不勉強を棚に上げて言い訳する理由のひとつになるだろう。

1930(昭和5)年あたり生まれに優れた作家、評論家、学者などが多いのは、戦争中に少年時代を過ごしたから。「次はお前がお国のために死ね」と恫喝するような、軍国主義者と化した教師や大人たちが、終戦を境に手のひらを返して何ごともなかったかのような顔をするのを見て権威や権力のアホ臭さを知り、そういうものにおもねらない生き方をした結果である、という話をなにかで読んだ記憶がある。

不勉強を笑われるけれど、たとえば昨日からは秋山駿(あきやましゅん)という文芸評論家の『内部の人間の犯罪 秋山駿評論集』(講談社文芸文庫)と『人生の検証』(新潮文庫)を電子書籍で読み始めた。知らなかった、こんなすごい人がいたのかと感心しながら Wikipedia を引いたらやはり1930(昭和5)年生まれだった。

とはいえ 1930(昭和5)年生まれがすべて優れているわけでもなかろうと思うのは、できちゃった結婚で結ばれたわが両親もまた1930(昭和5)年生まれだからだ。この本はあの両親の同い年が書いたものなのかと思うと、なにはともあれ「ありがたいことです」と思ってしまう気持ちも少しだけある。


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ゆっくりの効用

2017年4月20日
僕の寄り道――ゆっくりの効用

 特養ホームの昼食食事介助に向かう妻にくっついて、週末は金魚の糞になっている。

 金魚の糞はお尻にくっついて行くくらいしか仕事がないので、ケアワーカーたちの介護風景を、ゆらゆら水中を漂う糞のようになって、特養ホームの隅からぼんやり眺めている。

 米寿を迎えた義母の誕生日にはささやかな祝賀会があり、進行役の男性ケアワーカーが
「娘さんが毎日かよって来られてお母さんの世話をされています。なかなかできないことですね。僕は自分の親がこうなったとき、はたしてできるかどうか自信がありません」
と妻をねぎらう。介護職が自分の親を看るときの気持ちはどうなのか、もっとゆっくり聞いてみたい。

 妻が誕生会のお礼あいさつをするのを、ゆらゆらと揺れながら聞いていたら
「ご主人にもひとこといただきましょう」
などと言う。介護職は介護職で、金魚の糞になって義母に会いにやってくる亭主の気持ちを、こんな場だからこそ、一度ゆっくり聞いてみたいものだと思っていたのかもしれない。

***

 介護の様子を眺めていると、いつも感心させられるケアワーカーがいる。その人はいつもお年寄りの正面から声掛けをし、目と目が合った瞬間からふたりだけの時間をつくってしまう達人である。

 食後の服薬介助のとき、床にかがんで目と目を合わせ、笑顔でゆっくり何度もうなずいていると、よだれを垂らしたおじいさんの口元がゆっくり動きはじめ、ふたりの《ゆっくり》が同期したように感じた瞬間、喋れないと思っていたおじいさんが言葉を話したのでびっくりした。
「こ…こ…は…ど…こ…だ」
「ここ? ここはね、○○○○」
「○○○○…じゃあ…むかえに…こられるな」
「誰が迎えにくるの?」
「むすこ…」
「息子さんか。いい息子さんだもんね。じゃあ、お薬を飲んで待っていようか」
おじいさんはゆっくりうなずいて、じょうずに薬を飲んだ。

特養ホームのハナミズキ

***

 妻が母親の体をさすりながら鳴らしている手づくりオルゴールをCD にしたので、差し上げますと前号で告知したら、たくさんの方からお便りがあって貰っていただいた。
「言葉や反応をなくしたお年寄りに聴かせたら突然発語がありました!」
などという報告は予想どおりないけれど、喜んでいただけたようで妻もうれしそうにしている。

 だんだん拘縮が始まって動けなくなる母親にたいして、引っ張ったりさすったりしてやる以外に、懐かしい曲を集めた手づくりオルゴールを聴かせるくらいしか、もうしてやれることはなくなった。15年間の在宅と入所介護を経ていまそういうところにいる。そういう手詰まり状態となって八年目に入った。

 ただゆっくりと流れる時の中で、妻は介護用ベットの上に乗り、足の筋肉を伸ばし、ゆっくりとさすり、爪を切り、顔を拭いて目やにをとり、耳垢をピンセットでつまみ出したりしている。

 そうやってただ向き合っているしかないからこそ、背景として流れるオルゴールを聴いて、義母に思いがけない反応や発語があるように、窓辺に腰掛けている金魚の糞には見えている。

 

▼雑誌 Bricolage 連載 老人ホーム寸描 旅路の果ての詩人たち 21回「ゆっくりの効用」より


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集合と風景の手ざわり

2017年4月19日
僕の寄り道――集合と風景の手ざわり

トライポフォビアというカタカナ状の言葉があり、漢字にして固めると「集合体恐怖症」という俗名になる。恐怖症とつくものの俗名なので病気と認められているわけではない。だが人間には病気と認めてもらえないからこそつらい症状というものがある。

プチプチした同じかたちの穴や粒状のもの、その集合した状態を見ると、身がすくみ、鳥肌が立ち、震えがこみ上げるように辛いらしい。そう書いてみると、自分の少年時代にもそういう体験の記憶があるし、妻はいまでもそういうものに身震いして嫌悪感をあらわにする。

近くの公園にある像の遊具

人間にはそもそも、「そういものを恐れて逃げなさい」という、身震いのような注意信号が原初的防衛反応として備わっているのかもしれない。そういう原初的な恐怖をやり過ごす方法を自分で獲得しながら大人になったように思う。いまはもう、やり過ごし方を知っているので、少なくとも他人の前で過剰に反応することはない。

ほとんどの人が自然に獲得する、そういう原初的恐怖への耐性は、さまざまな日常的経験を組み合わせて安全な網目状になっていく。それを「正常な発達」などと言ってしまうから、つらい人はなおさらつらくなる。

肌ざわりや手ざわりについて考えると人間の感覚はますますもって不思議だ。学生時代に買った現代美術における集合の魔術について、こころの構えをかえて読んでみたくなった。現代美術には集合の「魔」を利用した表現技法がある。全集が納戸にあるはずなので探してみる。


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最後部の眺め

2017年4月18日
僕の寄り道――最後部の眺め

大学を出て勤め人になったその年は、ひとつ年上の先輩と仕事帰りに連れ立って、毎晩のように都内の安居酒屋で飲んでいた。

渋谷駅近くの赤ちょうちんに入ったら、先輩が
「見ろ、田中小実昌が飲んでるぞ」
と肘でつついて小声で言い、さり気なく振り向くと、おなじみのニット帽をかぶったおじさんがひとり飲んでいた。ひとりであることが楽しそうに見える人だった。

その後 2000 年にひとりで他界されたが、亡くなる前は、弁当を持って都営バスに乗り、あてもなくちいさなバス旅を楽しむ姿がたびたびテレビで紹介されていた。そこでもまた、ひとりであることを楽しそうにされており、ひとりであることの楽しみは贅沢な愉しみであると教えられた。

乗り合いバスの最後尾、歩道側の席に座るのが好きだ。田中小実昌もたしかそう言っていた。その席がバスの中でいちばん視点が高い位置になっている。そして道を歩いていては得られない、ちょっとだけ非日常的な視点で街や人を眺めることができる。そういう街場のバス旅が好きなのだと。

都営バスがバス停のある歩道側に車体を寄せて停車するたびに、街路樹の枝先がバラバラと音を立ててガラス窓にあたる季節となった。木々も春を待ちわびて枝をのばしたのだ。

バスが停留所にとまるたびに街路樹の枝先が目の前に近づき、若葉のようすがつぶさに観察できるのが嬉しくて写真を撮っている。最後部にひとり座って観察者でいるのは、ひどく贅沢なことであると実感する春である。


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カチューシャ(Катюша)

2017年4月17日
僕の寄り道――カチューシャ(Катюша)

 

春になって老人ホーム庭のヒメリンゴのつぼみたちがほころんでいたが、今日(2017/04/16)は白い花が満開になっていた。何年か前には二本並んでいたうちの、奥側にあったヒメリンゴである。

その頃は手前側のヒメリンゴの元気がよく、手前側が満開でも奥側はさっぱり花がつかず、妻が別の種類だと言い張ったことがあったが、あまり覚えていないらしい。

そのうちに手前のヒメリンゴが忽然と姿を消したので、元気そうに見えたけれど治らぬ病いにかかって切られてしまったのだろうと、痛ましく感じたのでいまも覚えている。


今日の老人ホーム訪問でベランダに出たら、その場所に新たに木が植えられているのが見えた。

「新しい木が植えられているね」と言ったら「あらほんと」と妻が言うので「そのかわりプランターのサルスベリがなくなってるね」と言ったら、サルスベリがあったこともあまり覚えていないらしい。

ヒメリンゴがなくなってほどなく、大きなプランター入りのサルスベリが運ばれて来て、夏になると花を咲かせていた。ちゃんと植えてやればいいのにプランターのまま置きっ放しで、ずぼらなことをするものだと呆れていた。

「そういえば新しい苗木がサルスベリみたいね」と妻が言い、そう言われてみたら大胆に剪定されているが確かにサルスベリのような樹肌をしている。女性は思い出をもてあそぶより今の現実に注意が向くことで男より優れているかもしれない。

そう言われてみて長年の疑問が氷解した。二本並んでいたヒメリンゴは接近したまま大きく育ちすぎたので、元気の良い方を間引いてどこかへ移植し、そのあとサルスベリを持って来てプランターのまま過ごさせ、新しい環境に慣れたのを見計らって今春地面におろしたのだろう。

姿を見たことはないけれどちゃんと考えている植木職人がいて、年単位にわたる長い手順で庭の管理をしているのだろう。なるほどなあと感心し「きみなき里にも春はしのびよりぬ」という懐かしい歌を思い出した。


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回游社会

2017年4月16日
僕の寄り道――回游社会

友人の息子が大学に進学して都会暮らしが始まった。親子で訪ねて来たので、総勢5名がタクシーに分乗し、浅草の牛鍋屋で祝杯をあげに出かけた。

道路の混雑を避けて回り道した谷中も、 2000 円ちょっとのタクシー代で到着する浅草も観光客でごった返していた。土曜日であったせいもあるだろう。

ツーリズム(tourism)という語にあてられた日本語が観光だけれど、あらためて観光とは何かを問うときの適切な手掛かりにはなりにくい。もう日本という国は「観光立国」しか思いつかないのかと慨嘆させられるような有様を呈している東京である。

いまの賑わいを喜んでいるのも、他所から入り込んだ旅の商売人ばかりで、古くから定住していた人びとは都市の水面近くではなく、もう少し深い場所で息をひそめているか、喧騒を逃れて他所へ泳ぎ去ったか、歳をとってこの世から退出されたのかもしれない。そうでなかったらこの狂乱は耐えがたかろう。

ツーリズムには回游という言葉がしっくり来る。一部の富裕層に限らず、大衆が観光する社会、マス・ツーリズムが常態化した。ミクロな慨嘆から離れてマクロな経済的視点で眺めれば、この国は回游社会化しているのだろう。グローバル化などという考えもその内に含まれる。

回游を引くと『大辞泉』には「魚類や鯨などが定期的に海洋を索餌・産卵のため、あるいは適水温を求めて季節の移り変わりに応じて移動・往復すること」とある。むかしは「遊」ではなく「游」があてられていた。游泳(ゆうえい)と書いたとき游も泳もおよぐことなのだけれど、游は水面近くを浮いておよぐこと、泳は深く潜っておよぐことを意味する。

いずれにせよ回游的に游泳して、この時代を生きている人々も100年以内にはみなこの世を退出して泳ぎ去る。そのあとはどんな世界になるのだろう。

とうに創業家から営業権が他所者に移っていると聞く牛鍋屋を出て、回游する人々の流れに乗って商店街を歩き、二次会で潜り込める店が見つからないので雷門で解散し、派手な都営バスを乗り継いで駒込に帰って来た。


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「かわいい」のしくみ

2017年4月15日
僕の寄り道――「かわいい」のしくみ

人間の赤ちゃんもパンダの赤ちゃんも、産まれた直後はあまりかわいくない。だがカマキリやクモは産まれた直後からかわいい。赤ちゃんのくせにちゃんとおとなの縮小版になっているからだ。

美少女を、手のひらにのるような小さい人形にしてもかわいいとは思わない。願望の代償として所有欲の慰めとなっても「かわいい」とは違う。だが、横綱稀勢の里を、手のひらにのるような小さい人形にしたらかわいい。本物はいらないけれど、小さいのならひとつあってもいい。

朝日新聞の紙面は可愛くないけれど、縮刷版になったのをペラペラめくるとかわいい。国会図書館に行ってマイクロフィルムになったのを閲覧するともっとかわいい。

もともとかわいいものを縮小してもかわいくはならない。そもそもかわいくないものが縮小されるからかわいいのだ。

イチョウの葉は奇妙なかたちをしているけれどかわいくはない。イチョウの葉は薬となる一方で、いのちを害することもあるさまざまな化学物質を含んでいる。

都内の街路樹のイチョウがいっせいに芽吹きはじめた。ちいさな緑の若葉は、芽吹いたときからすでに大きなイチョウの葉の縮小版になっているのでかわいい。

この時期、やわらかな新芽をついばむ鳥たちをイチョウの枝に見ないのは、もしかしたら大きな葉の縮小版であることに関係があるかもしれない。


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遠くの櫻

2017年4月14日
僕の寄り道――遠くの櫻

幼いころ預けられていた祖父母の家から見える山の稜線には、この季節になるとぽつんと一本の櫻が咲いた。

「あの山のいっちばんたけーところが見えるっつら。そこからずーっと右のほうに目をずらいて見てみょう。さくらが一本咲いてるのが見えるっつら」

祖父が今では聞かれなくなった懐かしい清水弁で言い、言われたとおり稜線を目でたどると確かに櫻が一本ぽつんと咲いていた。

自分が行けない高くて遠い場所に櫻が咲いているのが不思議に思えたので今も忘れない。自分の手が届かないものに思いをめぐらすことは、子どもの心にもうひとつ別の思考回路を育むかもしれない。

忘れられない記憶がしだいに美しくなる。ビル街を歩いて、高く遠い場所にぽつんと咲いている櫻を見ると、そんなことを思いだして「ああいうのもいいなぁ」と思う。


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東京タワー

2017年4月1日
僕の寄り道――東京タワー

新しくつくっている本の打ち合わせで霞が関まで出かけたら、地下鉄に乗ってやって来た著者が道に迷ったという。霞が関、虎ノ門界隈は次々に新しい巨大ビルが建って街の風景がひどく変わっている。

自分もまた前回の打ち合わせ時に、永田町で地上に出て歩いたら道に迷った。古い建物が建て替わって高さを増したので、かつてなら道案内役になった国会議事堂や霞が関ビルといった目印が見えないからだ。

今日は新橋から歩いたけれど、霞が関までまっすぐな道を歩きながら、昔よく通ったあの店、あの団体、あの出版社に行くには、どの交差点を左折したらいいかわからなくなっていて驚いた。

交差点を通りかかって、その見え方が目印となっていた東京タワーがほとんど見えなくなっているからだ。東京タワーが見えなくなるというのは、昭和の時代が遥か彼方に遠ざかるようで寂しい。


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若葉のころ

2017年4月11日
僕の寄り道――若葉のころ

コケ植物の生命力は驚くべきものだ。通りを挟んだ向かいにあるバス停では、歩道に敷き詰められた敷石の隙間でかろうじてひとかたまりのコケたちが生息している。

晴天が続くと乾燥して茶色くなり、乾燥キクラゲのようになってへばりついているけれど、数日雨が降り続くと生気を取り戻し、鮮やかな緑色の塊となって隙間から湧き出しているようにみえる。

巨大な樹木もまた、マクロとミクロの視点を自在に行き来して眺めれば、コケたちとまったく変わらないやりかたで生き続けている。

冬の間、人間が侵食した市街地の隙間で枯れ木となって、へばりつくように息を潜めているけれど、春になるとむくむくと家々の隙間から湧き出してくる。

餅にカビが生えるように色とりどりの花が家並みのあいだを割って湧き出る季節になった。そして五月になれば若葉のころとなる。

亡き義父は窓辺に立って
「うわー、でかいと(たくさん)、芽がでてきたのー」
と富山弁で言い、息子は鼻歌で「若葉のころ」を口ずさむころに。


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瓶と底

2017年4月11日
僕の寄り道――瓶と底

資源ごみとしてリサイクルにまわす、という捨てかたができなくて、溜まって仕方がないのに手元においておきたい瓶がある。

そういう瓶たちはたいがい細部に気配りの造形があり、ちいさなイボイボの出っ張りや意味ありげな溝が掘られている。海外、とくにヨーロッパでつくられたジャムの瓶などにそういうものが多い。

イボイボはテーブルに置いたときクロスとの摩擦をつくって滑りにくくするため、溝はスベスベのテーブルに置かれたとき、底のくぼみに閉じ込められる空気を逃すことで吸着を防ぐためらしい。またイボイボは内容物に糖分を含むものの、液だれによる張り付き防止の役にも立つだろう。

ガラス瓶が緑色に見えるのは酸化化合物として不純物が含まれるからだと言うけれど、完全に無色透明のものより、清流の底に引き込むようなうっすらとした緑色が、人に「捨てたくない」と思わせる吸引力であるように思う。


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子馬と山羊と示現会

2017年4月10日
僕の寄り道――子馬と山羊と示現会

 

近所の散歩コース、駒込駅北口近くに示現会絵画研究所がある。正式には一般社団法人示現会(しげんかい)といい、昭和 22 年創立の美術家団体のひとつ。

この会についてまったく知識がないので、どんな歴史があるのだろうと公式サイトを見たら、創立メンバーの作品が紹介されており、それらの中に三頭の山羊を描いた作品があって「親仔」と題されている。

奈良岡正夫という人が 1996 年に発表されたもので、ご本人は 2004 に亡くなられている。まったく存じ上げない画家なのに「親仔」と題された絵に懐かしい既視感がある。

どこに懐かしさを感じるのだろうと絵をよく見たら、それは手前右にいる子山羊の後ろ脚だ。まだ危なっかしいその姿を見たら「あっ」とひらめくものがある。

たしか日記に書いたはずだと自分のブログを検索したら、2016 年 11 月 2 日に「子馬」と題した日記を書いていた。

「いつも通っている小さな診療所、その待合室の壁に小さな絵がかけられており、画面には子馬が一頭こちらを向いて立っている。」

 

あの絵を描いたのは示現会創設者で会長も務めた奈良岡正夫その人ではないかと思い、「子馬」の絵を見直したらちゃんと M.NARAOKA というサインがあった。間違いない。タイトルはきっと「子馬」ではなく「仔馬」なのだろう。

仔山羊と仔馬の絵の構図はまったく違うのだけれど、その幼いものを見つめる視線になんとも言えない優しさがある。そこに惹かれる。戦後は、放牧されている牛や山羊を好んで描かれたそうで、子煩悩でやさしいお父さんだったんだろうなと経歴を読んだら、なんと娘さんは奈良岡朋子だった。


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