【静岡西武屋上の人々】

【静岡西武屋上の人々】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 2 月 28 日の日記再掲

高校写真部の部活で一度だけ「美人モデル撮影会」というものに参加したことがある。

1970(昭和 45 )年 6 月に開店した西武静岡店が新規開店イベントの一環として屋上で無料撮影会を催し、タダだというので休日の部活として部員全員そろって出掛けて行ったのだ。

風景の写真はたくさんのネガを残しているけれど、人物の撮影があまり好きではなく、この「美人モデル撮影会」では 20 枚撮りの白黒フィルム一本しか撮影していない。やはり気がすすまなかったのだろう。

■ 1970(昭和 45 )年、西武百貨店屋上美人モデル撮影会はかなりアットホーム……というより、かなりダレた撮影会だった。このモデルのとなりにいる少年は彼女の息子ではなく美人モデル目当てに清水からやって来たトーサンの息子。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

ただ写真部に在籍しているだけというくらいに不熱心な同級生が、モデル撮影会では別人のように生き生きし、今でいえば女性風俗を撮影する時の荒木経惟のような大胆さで居並ぶ写真オヤジに笑われたりしており、「(そうか、こいつにはこういう才能があったのか)」と認識を新たにした。

「人が写っていない風景なんか撮ってどこが面白い」
と彼は言い、綺麗な姉をモデルにして写真を撮ってきたりした。
「綺麗なお姉さんがいて羨ましい」
と笑うと
「家族より他人の方が燃えるから、本当は他人の写真を撮りたいんだ」
と言っていた。

■1970(昭和45)年、西武百貨店屋上美人モデル撮影会。モデルよりもモデルを取り巻く余計なものが面白くてこんな写真ばかり撮っている。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

モデルは 3 人来ており、女性専科の友人は 3 人のモデルの間を蝶のように公平に飛び歩いて撮影していて「(あんなにマメッタイやつだったかな)」と呆れた。

■1970(昭和45)年、西武百貨店屋上美人モデル撮影会。高校生の自分は「(お父さんのネクタイを借りてきたのかな)」と思いながら撮影していたが、いまあらためて見直す自分は「(男がいたのかな)」などと思う。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

西武百貨店屋上の美人モデル撮影会に飽きてしまったらしく、20枚撮り白黒フィルムの後半は遊園地風景などを写している。

■開店当時の清水『花菱百貨店』屋上で友人が乗り物に乗る幼い頃の写真を見せてもらったことがあり、「(垢抜けない屋上遊園地だなぁ)」と思ったことがあるけれど、今こうしてみると『西武静岡店』の屋上遊園地も充分に垢抜けない。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

■だが、そもそも屋上遊園地というのは垢抜けていないからこそ惹かれるのかも知れなくて、駄菓子屋が垢抜けている必要がないのと同じであるような気もする。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

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【三保の給水塔】

【三保の給水塔】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 2 月 27 日の日記再掲

子どもの頃から塔というものに特別な思いがあったのは、地上にそそり立った塔を不気味に感じることが多かったからだ。

それは父親が古本屋から買って来た無人の灯台を題材にした恐怖漫画をこっそり盗み読みしたせいかもしれないし、白黒テレビで見たニュースの「煙突男」の、心の不安を煽るように陰鬱な映像が忘れられなかったのかもしれないし、もっと遡れば母親におぶわれ半鐘を打ち鳴らしにのぼった火の見櫓の記憶かもしれない。塔を見ると足が震えるのである。

■ 1970(昭和 45 )年、三保の給水塔。やはり写真に異様な物を見るような少年の恐れが感じられる気がする。上り下りするための梯子についている丸い輪は何のためのものなのだろう。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

郷里静岡県清水。
子どもの頃から三保というと給水塔を思い出すのは、日本中どこに行っても塔を見るとドキッとする性格だったからかもしれなくて、おそらく祖父に連れられて折戸の伯母を訪ね、帰りに寄り道して三保方面へ足を伸ばした際に、偶然見かけた印象が強烈だったのかも知れない。

■1970(昭和 45 )年、三保の給水塔。写真で見ると塔側面のひび割れから水がしみ出しており、この年にはまだ水を蓄えて実用にされていたらしい。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

三保の先端近くにある高校に通うようになった当初は自転車通学をし、朝は急ぐので三保街道を疾走したが、帰りはのんびり裏道を寄り道して帰った。その裏道沿いに幼い頃見たままの巨大な給水塔があった。

■1970(昭和 45 )年、三保の給水塔。ネガの最後のコマにある写真なので、今し方撮影した給水塔を振り返って撮影したものだと思ったが、どうも形が違うようで、一つの給水塔の撮影を終えて歩いていたらもう一つの給水塔が見えてきたようにも見える。。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

1970年に撮影した写真に写っているこの給水塔が三保のどの辺にあったのかが思い出せない。そして、こうやって日記を書き写真をアップロードする準備をしていると何となく思い出すことがある。僕の記憶では三保の給水塔は複数あったような気がする。ここに掲げた写真は撮影順に並べてあるのだけれど、上の 2 枚の写真に写っている給水塔と、最後の遠景に写っている給水塔は別なのではないだろうか。

胡乱な高校一年生の記憶も平坦だけれど、三保という土地もまた平坦で、残念ながら場所を特定するようなランドマークが見つからない。1970 年、僕にとっての三保のランドマークがこの(これらの?)給水塔だったのである。

■2006 年 2 月 27 日 月曜日 3:34:51 PM 追記

みほのお米屋さん、OBERIU さんが写真の給水塔がかつてあった場所に行って特定をしてくださった。給水塔のあった場所の地図は下記の通り。僕が通っていた高校から三保本町方向へ歩き、墓地の手前を左折して五中に向かって真っ直ぐ南下する道沿いにあったのだった。

老朽化が激しく災害時の崩壊によって被る被害を考慮して撤去されたという。
もともと灌漑用のため井戸水を汲み上げて貯水していたのだが、地下水水位が下がり塩分が混じるようになって水が灌漑に適さなくなったのも大きな原因の一つだという。

そして土地の人によれば僕が撮影した三枚の写真はすべて同じ給水塔のものだそうだ。

僕より11歳年下の OBERIU さんも給水塔をしっかり記憶しており、僕が撮影したもの以外に、三保第一小学校の敷地内に一つ、そして御穂神社脇から真南に向かう八木道沿いにももうひとつ給水塔があったという。後者は 2001 年版ゼンリン住宅地図にも「タンク"として載っていたそうで、つい最近まで存在していたらしい。

■2006 年 2 月 28 日 火曜日 8:26:43 AM 追記

昭和28年頃に潅漑用としては全国初の試みとして着工し、完成まで5年程かかったという。
1 号 三保真崎
2 号 僕が撮影した写真の給水塔
3 号 三保小
4 号 中道(八木道)
の 4 基が存在したと、お父様が当時潅漑事業の役員をされていた方から聞き取りをしてくださったという。

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▼豊島区の煙突

最近は煙突というと丸いコンクリート製ではなく、
ツルツルの金属製か多いような気がする。
建設と廃棄が容易なのだろう。

一方コンクリート製の超細型鉛筆ビルのような煙突も多く見かけるようになり、
そちらには小さな窓がついているのだけれど、
それが僕にはちょっと怖い。
無人のように思える塔でも、高い場所にある小さな窓から
今も誰かがこちらを見つめているような気がする。

給水塔でも煙突でも手摺りや梯子や窓があると恐怖が倍増し、
“塔”が怖いというより“塔”と人との関係が怖いのかもしれない。

おそらく恐怖の源泉は昭和三十年代、
烏のような煙突男と貸本用のB級恐怖漫画だろう。


【写真】東京都豊島区池袋。東口駅前広場から見る豊島清掃工場の煙突塔。
撮影日: 2006.02.14 1:19:26 PM
KONICA MINOLTA
DiMAGE Z3

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▼『選択の自由』と掃除

仕事で外出するたびにKioskで買って帰っていた「気軽なパソコン雑誌」が何冊も溜まっていたので、インフルエンザで起きられないの利用して、枕元に置いて隅から隅まで読んでみた。

健康な時は忙しさを理由に読み飛ばしていたような記事こそが、じっくり読んでみると面白くて役に立つことが、意外であり、興味深く、そして恐ろしいことだなぁと思う。そして体力が弱ったが故に取り戻した真摯な気持ちとともに、「起きられないのだからこれしかやることがない」と思いなして何かにあたることの有用性を実感する。気のすすまないことをがんばってやってみるとかなりの充電、心の基礎体力がついた気がするから不思議である。
 

【写真】東京都文京区湯島。見ていると何となく気持ちがよい風景。
撮影日: 2006.01.12 2:32:01 PM
RICOH
Caplio R3

選択できることの自由さを大切にすること、選択できない現実として気のすすまないことにも取り組むこと、そのふたつを行き来することの大切さを改めて病気をすることから学び、すっきり読み終えた雑誌を古新聞束に重ねておいたら
「あら病気なのにお掃除もしてエライ!」
と妻にも褒められた。

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▼『選択の自由』と掃除

仕事で外出するたびにKioskで買って帰っていた「気軽なパソコン雑誌」が何冊も溜まっていたので、インフルエンザで起きられないの利用して、枕元に置いて隅から隅まで読んでみた。

健康な時は忙しさを理由に読み飛ばしていたような記事こそが、じっくり読んでみると面白くて役に立つことが、意外であり、興味深く、そして恐ろしいことだなぁと思う。そして体力が弱ったが故に取り戻した真摯な気持ちとともに、「起きられないのだからこれしかやることがない」と思いなして何かにあたることの有用性を実感する。気のすすまないことをがんばってやってみるとかなりの充電、心の基礎体力がついた気がするから不思議である。
 

【写真】東京都文京区湯島。見ていると何となく気持ちがよい風景。
撮影日: 2006.01.12 2:32:01 PM
RICOH
Caplio R3

選択できることの自由さを大切にすること、選択できない現実として気のすすまないことにも取り組むこと、そのふたつを行き来することの大切さを改めて病気をすることから学び、すっきり読み終えた雑誌を古新聞束に重ねておいたら
「あら病気なのにお掃除もしてエライ!」
と妻にも褒められた。

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▼『加齢とカレー』と紅ショウガ

インフルエンザにかかる数日前。
仕事で東大正門前まで外出して、
大好きな『万定』でカレーを食べている。
意外に元気だったのだ。

とはいえ昔は『万定』に行くとカレーにしようかハヤシにしようかと迷い
「(人目がなければ両方食べちゃうのになぁ)」
などと思ったが、最近は出てきたカレーの皿を見ただけで十分な満足感があり、「(多いなぁ)」と思うこともある。年をとったのかな。
 
その翌日もまた仕事の外出帰りにカレーを食べている。
かなり元気だったのだ。

某大手早飯連盟店がカレーをメニューに加えているのでびっくりした。
大変なんだろうなと思う。



我が母はカレーというと福神漬けを添えるのが大好きで、
子どもの頃上野広小路に買い物に出ると、
必ず酒悦で福神漬けを買うのを楽しみにしていた。

僕は一歳年上の従兄の家の飛びきり黄色いカレーが大好きで、
ウスターソースをかけるのも好きだったが、
真っ赤な紅ショウガを添えるのが大好きで
あまりにも大量の紅ショウガを添えるので伯母は
「子どもがそんなにショウガを食べると馬鹿になるよ!」
とよく怒鳴り、実際その通りになった。

某大手早飯連盟店には紅ショウガがつきものなので
カレーに紅ショウガを添えるのが楽しみで入ったら
ちゃんと福神漬けを用意していた。
福神漬けを脇にどけて紅ショウガをのせていたら
ヘンな顔をして女子店員が見ていた。

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▼鰹だしのラーメン

仕事の打ち合わせで外出し、約束の12時半まで30分以上早く着いてしまったので、
以前から気になっていた鰹だしのスープであることを
看板に大書したラーメン店に入ってみた。

静岡県清水のラーメン店『丸金ラーメン』で
各種煮干しがそこ味になった美味しいラーメンを食べたので、
同じく魚介系のラーメンであることが以前から気になっていたのだ。

思うにラーメンのスープにおける煮干しや鰹節は
スープのそこ味になって旨味を下支えするものであり、
このスープの旨さは何だろう、とだしの取り方を聞いてみると
煮干しや鰹節がひっそりと材料に名を連ねている、
のが普通だと思っていたので
「鰹だし」を前面に出して謳い文句にしていることに興味があった。



むむっ!
食べた途端に清水っ子ならピンと来る味。
このラーメンはズバリ!「出汁粉(だしこ)」の味がする。
そこ味になっているからこそ「鰹だし」なのであり、
前面に強く出た鰹味は「出汁粉(だしこ)」の範疇に突入するのかもしれない。

結構常連がいて混んでいるので、
出汁粉(だしこ)てんこ盛りの清水のおでんややきそばやお好み焼きは
東京ど真ん中のサラリーマンにうけるかも知れない。

参考資料
もっと出汁粉!
http://blogs.yahoo.co.jp/tomoegawabora/archive/2006/01/10

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【荒神社の石柱】

【荒神社の石柱】

清水江尻東2丁目、荒神社の石の柵に「東京市浅草区森田町 曽田為治郎」と寄進者の名前がある。東京市浅草区森田町は新旅籠町、森田町、南元町中部、片町北部が統合されて浅草蔵前2丁目となっている。


KONICA MINOLTA DiMAGE Z3

柱の一本に「義勇會」と書かれており、インターネットで「義勇會」「義勇会」で検索すると様々な「会」がヒットするが、清水の荒神社とどういう関係があるのかないのか全くわからない。

「東京市浅草区森田町 曽田為治郎」さんが寄進した石の柵がある荒神社のある場所はかつて「伝馬町」という地名だった。

江尻地区まちづくり推進委員会が立てた解説板にはこう書かれている。

「ある夜、暴風雨で境内の樹木がことごとく倒れてしまいました。ところがその夜更け、あちらこちらからやかましい程木遣りの声が聞こえてきました。次の日見ると倒れた樹木すべてが元通り起き上がっていました。それはまさしく神霊の力によるものだろう。」ということから、木起神社とも呼ばれています。

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白子、出ました。

「白子、出ました。」
「ああ、そうですか。」

「白子、出ました。」と言われたら「ああ、そうですか。」
と答えるしかないと思うのだけれどひどくおかしい。


撮影日: 2006.02.16 5:08:50 PM
KONICA MINOLTA
DiMAGE Z3

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『心象の人』と後谷公園

埼玉県戸田市上戸田。
JRの不思議な送電用鉄塔眺めながら歩いていたら公園があった。

「後谷」と書いて何と読むのだろうと辺りを見回し
「後谷公園」以外にも「後谷児童公園」などもあるので
どこかにフリガナがないかと見回してみたが、
「後谷ぐらい読めて当たり前だろう」と言わんばかりにフリガナが見当たらない。
 
この後谷公園には豊かな水の流れがあり、流れの中央に盛り上がった築山があり、
これは古墳だろうか、いや戦国時代の城跡だろうか、いや某財閥の別荘跡だろうかと
気になるが全く解説板がない。
となりに戸田市文化会館があって文化の香りが微かにするのだけれど文化的な情報が何もない。


後谷公園をじーっと立ち止まって見ている女性二人連れがいた。
心象の人だろうか。
撮影日: 2006.02.19 0:31:13 PM
RICOH
Caplio R3

戸田市在住の友人にあったので
「後谷公園って何て読むんですか」
と聞いたら
「うしろやこうえん」
と答えるので
「小高い山に古い灯籠があったりして曰く因縁がありそうなのに全く解説がないんだよ」
と言ったら
「どっか適当なところから持ってきたのでそういうのはないんじゃないの」
と笑っていた。「(そんなことはないだろう)」とインターネットで検索してみたが
本当に曰く因縁が見当たらなかった。

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『街の記録』写真の記録

義父が通っているデイサービス、好例の都内ハイキングがあり、
晴天ならば湯島天神で梅見の予定だったが、
雨が降っていたので『文京ふるさと歴史館』で
「文の京の写真展―なつかしい昭和を訪ねて―」と題した写真展を見てきたという。



「昭和30~50年代のちょっと懐かしい写真」を一挙に公開したとパンフレットにあるが、
これはいい企画だと思う。なぜなら「ちょっと懐かしい写真」を懐かしく思う人が
今も生きている確率が高いからである。

パンフレット表紙の写真は湯島天神から上野広小路方面へ下りる男坂であり、
1964(昭和39)年の写真だが、変わっていないように見えて変わっているのが何とも言えず感慨深い。

パンフレットをめくっていたら本郷通りと不忍通りの交差点の写真があった。
六義園正門に裏手で接した角の区画はかつて三菱銀行だったという話しは聞いた記憶がある。
1968(昭和43)年撮影、その上富士前交差点の写真があってびっくりする。
今その場所で僕は家族と暮らしながら、こうして日記を書いているからだ。
都の庭園『六義園』は明治になって岩崎弥太郎の所有するところとなっていた時代があり
この辺一体は三菱財閥の所有だったのだろう。
それでいまだに三菱系列の施設なども多いのだ。
一枚のスナップ写真を残してくれた人、それらを収蔵して公開してくれる人がいて明瞭になる歴史がある。

   ***

2月17日はこのBlogにも書き込んでくださる友人たちに家内を加え、
久しぶりに東京都内で飲み会をした。
秋葉原電気街の真ん中にポツンとある居酒屋『赤津加』(昭和29年築)で飲み、
その後友人夫妻が行きつけの本郷の店で終電近くまで飲んだが、終わり頃の記憶がない。
家内によれば「ラーメンを食べて帰ろう」とうるさくて仕方がないのでタクシーに乗せて帰ったというが、
ぜーんぜん記憶にない。

デジカメの写真をパソコンに取り込んだら、どこの店だか知らないがメニューが写っているので、
これを見てラーメンを食べたがったのだろうと思う。



「25番」にラーメン400円があり「27番」にチャーシューメン650円があるが、
その間にある「26番」豚ラーメン500円というのは何だろう。
確かに今こうして写真を見ても頼んでみたくてたまらない。

記憶がないほど酔っていた割りにはまともな好奇心を維持していたんだなと安心する。

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【「一富士二鷹」三あわび】

【「一富士二鷹」三あわび】

「一富士二鷹」を入江岡跨線橋で見たので「三茄子(なすび)」はないかと静岡鉄道新静岡駅から歩いてみる。

清水に『なすび』という郷土料理の店があるのは知っているが、静岡の街は不案内なのでなかなかなすびが見つからない。

静岡市上石町(かみごくちょう)。『鹿島屋』の暖簾。読めない字が多いなあ。
SONY DSC-U60

静岡の裏通りを歩き昭和通りに出たら居酒屋『鹿島屋』があった。
創業77年というから相当なる老舗だ。

この店にも入ってみたいなあと指をくわえつつ通りかかったら暖簾に「あわび」の文字があったので「なすび」のかわりにすることにした。

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【清水みなとの旭川ラーメン】

【清水みなとの旭川ラーメン】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 2 月 14 日の日記再掲

子どもの頃、大好きなラーメンが郷里静岡県清水にあった。

清水はもちろん東京でも食べたことのない珍しいラーメンであり、それは醤油スープが透き通っていない、ややどろっとして濁ったスープだった。今では珍しくも何ともないけれど少年だったその頃には物珍しかった。

少し苦いような底味があり、かすかに四つ足動物ではなく魚介や昆布の味がしたように思う。 

母は他界する直前まで醤油ラーメン、一貫して澄んだスープのが好きな人だったので、そのお店のラーメンを好まなかったけれど、店主夫婦とは仲良くしていた。

ガスを用いず、スープの仕込みも麺茹でも薪をかまどにくべて行うのであり、毎朝薪を割る音が聞こえ、煙突から煙が吹き出すと、店の周囲にはスープのダシをとる良い香りが漂っていた。木材ゴミが出ると喜んで燃料にしてくれるので母はとても助かっていた。

住宅街の路地に行列ができるほどの隠れた人気店だった。小さな身体で小さな店をてんてこ舞いで切り回しつつ出前も厭わない働き者夫婦だったけれど、体力も衰え、店をたたまれて久しい。

■東京都千代田区神田鍛治町、旭川ラーメン『旭龍』。高架下というのはラーメンの激戦区である。
撮影日: 2006.02.10 11:53:40 AM
SONY DSC-F88

東京都千代田区神田鍛治町。数年前から人気の旭川ラーメン、旭川「加藤ラーメン工場」の直営店が東北上越新幹線ガード下にあると聞いて、仕事の打ち合わせ前に寄ってみた。

カウンターだけの小さなお店を若い娘さん一人で切り回しておられ、店内に入ってカウンターに座ると予想通り、子どもの頃清水で嗅いだあのスープの匂いがした。「撮影禁止」と店内にたくさん貼り紙があるのでカメラはポケットにしまってひたすら食べたけれど、味もまた懐かしい清水のそれだった。

「加藤ラーメン工場」の創業に源を発する家系図が壁に掛けられており、初代は子だくさんだったらしく、息子や娘が旭川ラーメンの名を全国に広めて行ったことがわかる。一度行ってみたい旭川『蜂屋』の名前がそこにあることにも驚いた。

■東京都千代田区神田鍛治町、旭川ラーメン『旭龍』の入口。店内は撮影禁止。
撮影日: 2006.02.10 11:53:52 AM
SONY DSC-F88

■東京都千代田区神田鍛治町、旭川ラーメン『旭龍』のメニュー。店内は撮影禁止。
撮影日: 2006.02.10 11:53:58 AM
SONY DSC-F88

そして撮影を遠慮したので記憶が頼りだけれど、五男は大阪で商売をされ、その店名が清水にあった僕の好きな店と同じなのにも「えっ?」と思った。ありがちな名前なので偶然だろう。

清水でまさに旭川ラーメンそのものの味で商売されていたご夫婦は、麺にもこだわって毎日手打ちされていた。母によればご夫婦は事情があって北海道から駆け落ちし、清水みなとにたどり着いて浜田踏切近くでラーメン屋台を引き、やがて店を構えられたのだという。

そんな話を聞かせてくれた母も他界してしまったのでさらに詳しい話は聞けない。
2月11日の帰省時に、閉店後のラーメン屋をしばらく引き継がれた方のご家族にお話をうかがいに行ったら、母に聞いた話しに間違いないという。

そして歳を取られたご夫婦は清水を引き払って北海道に帰り、数年前にご主人は北海道で亡くなられ、奥さんはいまも介護が必要にはなったが健在で北海道で暮らされているという。暖かな港町から北の国に帰られたわけだけれど、駆け落ちというからには後ろ髪引かれながら愛する故郷を出奔したに違いなく、北海道から振り出したラーメン人生のゴールが北海道で良かったな、と思う。

■東京都千代田区神田鍛治町、麺家『大勝軒』。なんと『大勝軒』がこんな場所にできて、いかにも『大勝軒』らしい匂いを漂わせていた。「九十九里産の煮干(片口鰯・真鰯・鰺・飛魚)」を使っていると大書しており、こちらも僕の好きな魚介系である。うーん激戦だ。
撮影日: 2006.02.10 11:57:41 AM
SONY DSC-F88

「どうして北海道から駆け落ちする先に清水を選ばれたのですか?僕を驚かせ、清水っ子を行列させたあのラーメン、実は今東京で評判の『旭川ラーメン』だったのではないですか?」
と聞いてみたい気もするけれど、もう声は届かない。

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【『北の国のラーメンと清水みなとで結ぶ恋』と丸金ラーメン】

【『北の国のラーメンと清水みなとで結ぶ恋』と丸金ラーメン】

懐かしい旭川ラーメンを思い出したら、急にラーメンが食べたくなり、市立清水病院の入院患者が、病室を抜け出して食べに行くくらいに美味しいと評判の『丸金ラーメン』に行ってみた。

SONY DSC-U60

店に入ったら昔の清水でよく見かけたような背中に排他的なムードを漂わせた(カウンター席をつめ合って譲ろうとしない)おやじが黙々と濁ったいかにもとんこつ風のラーメンを食べており僕はわけもなく濁ったスープの旭川ラーメン系を想像していたので、やっぱりこういうラーメンかと納得し醤油ラーメンを注文する。

SONY DSC-U60

チャーシューメンを頼んだらチャーシューをいったん湯通しして温めてからのせているのが見えた。
出てきたチャーシューメンが目の前におかれたらスープがすっきり透き通っているのにびっくりした。

三保街道の屋台から始めて四十余年。現在のスープは鶏ガラ、豚ガラ、ニンニク、人参、玉ねぎ、生姜、じゃがいも、昆布、魚(あじ、さば、いわし)、しいたけ……などとマル秘の何かからとっているという。

明らかに昆布や魚の味が優勢でとても美味しい。
久しぶりに空になったラーメンどんぶりのそこを掘ったらスープが湧いてこないかな……と思うほど美味しかった。
なるほどなぁと思い、清水っ子の噂が嘘でなかった喜びもまた大きい。

しかし、このスープで味噌ラーメンや塩ラーメンを食べたらどんな味なんだろう……
と思ったら丸金の思うつぼなのだろうな。また来たいってことだもの。

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【1971年東京・清水日帰り往復と日本カメラショー】

【1971年東京・清水日帰り往復と日本カメラショー】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 2 月 13 日の日記再掲

 

毎年春になると、東京日本橋のデパートで開催される日本カメラショーとフォトアクセサリーショーが楽しみだった。

会期中会場で配られるカタログは全国のカメラ店でも販売され、毎年改訂されるそのカタログを眺めるのを、何よりの楽しみにしていた学生時代がある。静岡県清水市内のカメラ店で買ったカタログを眺めているだけでは我慢できなくなり、「(やっぱ現場に行って直に見なくちゃだめだ)」などと妙な納得の仕方をし、母親を説得して日帰りで東京まで往復したのは 1971 年の春だった。

■東京へ向かう列車内にて。眠そうな乗客と窓外のあかりばかりを何枚も撮っている。

1971(昭和46)年

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

小学校を卒業するまで東京都内に住んでいたので東京こそふるさとのように馴染み深いはずなのに、大学時代など春夏冬の休暇でひと月以上清水で過ごし、再度上京して列車が東京駅に着くと、東京の町がひどくよそよそしく感じられ、異様な疎外感を感じ、有り体に言えば「(ああ、すっかり田舎者のおのぼりさんになったなぁ)」と感じたものだった。

もっと正直に言えば、社会人になってもなお、清水に帰省して再度上京するたびに東京という街に勝手に疎外感を感じており、そういう現象は母親が年老いて病にかかり、隔月帰省、毎月帰省、毎週末帰省と東京・清水間を激しく往復ピストン運動するようになるまで解消されなかったのである。都市は人を軽度の神経症にする。

■日本橋高島屋で開催された日本カメラショー、ミノルタカメラのブースにて。minolta SRT101を使ってminolta SRT101の展示を撮影しているばかばかしさがいかにも高校生である。

1971(昭和46)年

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

■ミノルタカメラのブースにて。僕は一番手前にある85mmF1.7と21mmF2.8が欲しくてたまらなかった。
1971(昭和46)年

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

■オリンパスカメラのブースにて。出るぞ、出るぞ、と噂されていたオリンパスのフルサイズ35mm一眼レフがひっそりと展示されていた。この時既に歴史的一眼レフ M-1(後に OM-1 )が開発されていたわけで、いわば見せ球のようになったカメラ。
1971(昭和46)年

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

一本のフィルムの最初と最後に夜汽車や夜道が写っているので、おそらく母が未明に飲み屋ののれんをしまう頃に起こして貰い、清水駅を夜汽車で発って朝の東京駅に着き、デパート閉店までカメラショーとフォトアクセサリーショーを見て、再び東海道線に乗って清水に帰ったのだ。帰り着いたらまた夜になっていたのだ。

■くたくたになって帰り着いた清水駅前銀座。今になって見直すと『こだからや』の前に『呉服の丸京』があり(いまもそうだったかな?)、『久松』の隣に『長崎屋』があってびっくりする。
1971(昭和46)年

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

張り切ってカメラをぶら下げて出かけて行ったであろう東京行きで、たった一本のモノクロネガフィルムしか撮影していない。その中にある 36 コマの記録はひどく寂しげであり、テレビ番組にたとえるなら『はじめてのおつかい、日本カメラショー編』みたいである。

 

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