電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【空へ】
【空へ】


清水区桜橋町、『櫻珈琲』女性店主のブログを見たら Google のクロームブックを使い始めていた。どうして苦労して Windows を使い続けているんだろうといつも思っていたけれど、Mac 以外のもうひとつの選択肢に気付いてくれて嬉しい。
やっと出口を見つけたようで、雲の上には自由な青空が広がっているはずだ。残念ながら Chromebook のスペルが間違っていたので、勝手にブログ管理ページに入って直しておいた。
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【うぐいすあん】
【うぐいすあん】


三上修『スズメ』岩波書店と、『身近な鳥の生活図鑑』筑摩書房 の2冊が書店に届いたというので受け取るため外出した。
コロナ禍のミャンマーにご主人を残し、息子と二人で一時帰国した友人と交差点で会った。ミャンマー情勢がさらに激変し、帰るどころではなくなったので息子を近所の保育園に通わせ始めていたが、もうこの春は就学年齢に達するので近所の小学校に入学させるという。彼女は 3.11 でいわき市の実家を流されており、激動の人生を生きている。
本を受け取って坂下の商店街に寄り道したら、白髪で長身のご老人が黒の上下で颯爽と歩くうしろ姿が見えた。芸能人みたいだ。髪型がユニークで滅多にないタイプなので、すぐにかかりつけ医院の先生だとわかった。こんなに遠くまで往診するのかと驚いてあとを追ったら、自分が目指すスーパーマーケットに入っていく。「先生!」と声をかけようと思ったら、青果コーナーの焼き芋器を覗き込んで真剣にイモ選びをされているので遠慮した。看護婦への手土産だろうか。
郷里清水の寺の住職も好きだった和菓子屋が、うぐいすあんをつくりはじめていた。春である。
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【点取りゲームと公平】
【点取りゲームと公平】


ネット上でサッカーの記事を読んでいたらスポーツ報知に「(2〇0)」とあり 、日刊スポーツに「(3〇1)」とあるのを見て、「(点)対(点)で(勝った)」ということをあらわしているのだな、とようやくとわかった。最初「〇」は誤字だと思い、複数社がこういう書式で書いているので、そういう決まりができているのだろうとわかった。
2チームの間で一方の側に立って記事を書く場合において、「点取りゲーム」ではこういう簡潔な表現が可能になる。なるほど、この記事は一方の側に立って書かれた記事なのだ。スポーツ記事で、読んでいてなんだか面白くない記事があるのはそういうわけだ。
だからニュースアプリに、あらかじめ応援するチームを選んでおく初期設定項目があるのだなと理解した。人間の頭に、「公平」さはパスして自分に都合の良い話だけ聞くためのフィルターがあるのと同じだ。
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【遅れて来る春】
【遅れて来る春】


雨の交差点、お父さんに付き添われて園通いする女の子がいて、歩きながらしくしく泣いている。行きたくないのだ。自分もそういう園通いで泣き通しになってまわりを困らせる子どもだった。
自分の場合を思い出すと、行きたくない先は「園」ではなく、お父さんお母さんのいない「世界」だったのだと思う。「園」という「場所」がいやなのではないのだ。「園」に着いてお父さんお母さんが帰ってしまったら、そこは自分一人しかいない「世界」になる。子どもの哲学的に「世界」がいやだったのだ。だから送り届けた親が帰ってしまったとたん、先生もたくさんの園児も人間の心を持たないゾンビに見え、カラーの世界が一瞬にしてモノクロになったような気がした。そういう子どもだった。
若かった当時の親たちを愛情を込めて責めるが、蓄積日射量として、親から子へそそがれる愛という陽光が足りなかったのだと思う。だから皆のような年齢期に咲けなかった。わが両親は夫婦仲が悪く、喧嘩をしてはどちらか一方が家出しているといった崩壊家庭だったので、ひとりぼっちにされることが多く、そういうひとりぼっちがとても怖かったのだ。
でもだいじょうぶ。春は遅れても必ずやってくる。やがて先生にも園の仲間にも血色が戻って世界はカラーに戻る。みんな泣かずに通えるようになる。信号が青に変わり、女の子は泣きながらも、お父さんの隣りを手もひかれずに歩いていった。
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【勤勉と工業】
【勤勉と工業】


今日の箴言(しんげん)アプリに
Lovers are commonly industrious to make themselves uneasy.
というのがあり
「恋人たちは一般に、懸命になって、自分自身を不安にしようとするものである。」
という対訳が添えられている。
この「懸命になって」にあたる「industrious」が最近読んでいる本に出てきて、その仲間らしい「工業」や「産業」をあらわす「industry」はたぶん多義的なことばなんだろうな、と思ったことを思い出した。「思ったことを思い出す」という瞬間は、自分の中で外れていた関節がパチンと音をたててはまったようで嬉しい。
やはりそうで、もうひとつ「勤勉」という意味があった。だから形容詞になると「工業の」は「industrial」、「勤勉な」は「industrious」に分かれる。
語源はラテン語の「 industria (勤勉)」までたどれ、読みかけの哲学書にラテン語でひかれているのを読み、この言葉を源にして「industry」に「工業・産業」の意味が多義的に派生したのかもしれないなと思った、そのことを思い出したのだ。
恋人たちが自分自身の不安をつくり続けようとする内部の懸命さ「 industria 」が、産業革命を経るうちに人間の外部へ出て、機械的な「industry」という意味を持ったのだ。
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【鳥のいる場所】
【鳥のいる場所】


空が薄暗くなる頃を「雀色時(すずめいろどき)」という。夕暮れに交差点近くのポストまでハガキを投函しに出たら、交差点にあるイチョウの街路樹にスズメが集まって賑やかに鳴き交わしている。対角線上にある2本が人気で、他のイチョウは見向きもされていないように見える。どうしてあの2本でなくてはいけないのだろうと不思議だ。
鳥たちを眺めるのが好きだ。眺めていて見飽きることがない。超望遠レンズ越しに観察したり撮影したりということには興味がなくて、鳥たちが暮らす世界の同居人として、ぼんやり「どうして……」を考えるのが好きなのだ。
三上修『スズメの謎』誠文堂新光社を読んでみようと思ったら紙書籍が欠品中なので、同じ著者の『スズメ』岩波書店、『身近な鳥の生活図鑑』筑摩書房 の2冊を注文した。
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【柊鰯】
【柊鰯】


「鰯の頭も信心から」という。節分の鬼除けである「柊鰯(ひいらぎいわし)」を戸口に飾りつけた家を久しぶりに見た。東京では焼いた鰯の頭と柊、そこに豆柄(まめがら)が加わる。
この地域では日当たりの良い台地上にある家々より、坂を下った低地に密集する家々の方が、鰯の頭に対する信心が深いように思われる。写真は文京区内にて。
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【あんぐりと angry 】
【あんぐりと angry 】


“An angry man is again angry with himself when he returns to reason. ”
という箴言(しんげん)があって、これは「怒った男は理性的になると自分自身に腹を立てる」と理解すればいいのだろうか。
紀元前 85 年から 43 年にかけて生きた古代ローマの喜劇作家で詩人のプブリリウス・シルス(Publilius Syrus)がのこしたことばで、彼は
He who runs after two hares will catch neither.(二兎を追う者は一兎をも得ず)
とも言っていてこちらは有名だ。
“An angry lover tells himself many lies. ”
というのもあって「怒れる恋人は自分自身にたくさんの嘘をつく」と言っている。
西欧人は angry(怒る)ということに関して日本人と感じ方が違うのだ。中島義道はウイーンで怒りながら怒り方を学び、理想的な怒り方として、
(一)すぐに怒りを表出すること。
(二)以前の怒りを根にもつことが少ないこと。
(三)怒りははげしく、しかしただちに収まること。
(四)怒りの表出が言葉中心であること。
(五)個人的に怒ること。
(六)演技的な怒りであること。
(『怒る技術』)
と言っている。読めばわかるように、怒ることとキレることは明らかに違う。怒りながら考える、ということは大切だ。
柔らかく考えをあらためれば、 “angry ” は 「あんぐり」に似ている。「あんぐり」は類語「ぽっかり」の「穴などが急に開くさま。また、穴があいて空白な部分ができるさま。」という意味とひとしい。ギリシャ語で言えばエポケー(epochē)で判断停止のようでもある。
瞬間の発動と瞬間の停止。瞬間湯沸かし器的人間と、瞬間冷却機的な人間が、瞬間的にチカチカとオン/オフを繰り返して並存し、テレビ映像的残像のように、穏和で理知的な人格が錯視的に出現することこと、それが理想的な怒りの演じ方だろう。
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【新型ウイルス禍と二度目の春】
【新型ウイルス禍と二度目の春】


ご近所さんである友人が梅の枝をたくさん抱えているので
「あ!」
と言ったら
「盗んできたわけじゃなくて近所の友だちが、たくさん咲いた庭の梅を切ってくれたの」
と言う。ひと枝もらったので仕事場に飾った雛人形脇に活けた。
今年は梅だけでなく、蝋梅(ろうばい)も辛夷(こぶし)も木蓮(もくれん)も木瓜(ぼけ)も菫(すみれ)も油菜(あぶらな)も早咲きの桜(さくら)も、みんなたくさん蕾をつけ花が元気よく、ミツバチが狂ったようにブンブン羽音を立てて飛び回っている。コロナ禍による経済活動沈滞が大気を浄化し積算日照量を増やしたことも遠因かな、と思う。
郷里清水の友人から届いたメールに
「隣に枝垂れ梅と椿の花がたくさん咲いているので、ご主人にお花が綺麗に咲いてますねと言うと、今年は例年よりたくさん花が咲いてびっくりしていると言ってました」
とあった。昨日届いた朝刊に、今年は桜の開花が早いとも書かれていた。
夕飯の買い物に出たら、同じくご近所さんである亡き友人の息子が
「石原さーん!」
と大声で呼ぶので、
「仕事は大丈夫?」
と聞くと、航空機関連の企業に勤める彼は
「福利厚生も賞与も賃上げもすべて止まってマジやばいっす」
と言う。「マジやばいっす」という緊張感が全身に生気を加えているようにも見えた。よし、頑張れ。
夕方になり、別のご近所さんがやってきて亡くなったご主人の遺品を見にこないかと言う。
「じゃあちょっとだけ」
と言って女性の一人暮らし宅に初めてお邪魔したら、大手出版社勤務だったご主人の遺品に、故人となった超有名作家や画家の直筆原稿と原画があって驚いた。残業仕事で持ち帰り、自宅に保管したまま関係者がみな他界されて返し損ねたらしい。
「まさか本物を手に取って見られるとは思いませんでした」
と笑い、これもまたコロナが流行ると桶屋が儲かる式の僥倖だなと思う。
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