【とんもろこし】

【とんもろこし】

住民の自主管理による驚異の空間『私の庭みんなの庭』に行ったら「とんもろこし」が植えられていた。ここにも小さな夏がある。


「駒込七軒町」の碑

茄子もアスパラも立派に稔っていて、淡々とした地域活動の成果をふらりと立ち寄って眺めるだけでも心洗われる。


『私の庭みんなの庭』の「とんもろこし」

1852(嘉永5)年の古地図を見ると、この場所はまさに「駒込七軒町」とあり『私の庭みんなの庭』前にある石碑のとおりりである。中央を流れる川が藍染川で、巣鴨地蔵通り商店街近く染井霊園内を水源として谷中・根津・千駄木を抜けて上野不忍池まで流れていた。右の太い道が本郷通り・岩槻街道・日光御成道であり左にカーブして飛鳥山に向かう。その曲がり角、「茶屋」と書かれている場所がいまの旧古河庭園である。


1852(嘉永5)年の駒込界隈古地図

寺や武家の下屋敷以外の土地には「百姓」と書かれていて、農地が多かったことがわかる。「とんもろこし」は16世紀に日本に渡来しているので、このあたりでも栽培されたことがあるのかもしれない。小さいながらも立派に実をつけ始めた「とんもろこし」を見ていたら「とんもろこし」が食べたくて仕方なくなった。

郷里静岡県清水で暮らしていた頃はトウモロコシをトウモロコシとは呼ばず「とんもろこし」と呼んでいた。トウモロコシをトウモロコシと言わずに「とんもろこし」と言うのはわが地方の方言であると各地のサイトに書かれているけれど、トウガラシを「とんがらし」と呼ぶのと同じく、日本全国にごくありきたりにある訛りだろう。僕は「とんもろこし」や「とんがらし」と言いた方が食に弾みがつくので好きだ。

本郷通り・岩槻街道・日光御成道が藍染川と交わる場所を霜降橋と呼ぶ。その交差点近くにあるスーパーマーケットは、冬場には焼きたての石焼きいも、夏場には茹でたての「とんもろこし」と枝豆を100円で売って客寄せをしているので(2003 年当時)、「とんもろこし」を買って帰ろうかと思ったのだけれど、ふと思い出したことがあって染井銀座に行ってみた。


茹でた「とんもろこし」

先日帰省した際に、清水江尻東にある『海蜻』という居酒屋に行ったら、新じゃがいもの小さいやつがおつまみとしてカウンタの上に置かれ、乾いて見えたので油で素揚げしたのかと思ったら蒸かしたのだという。茹でた新じゃがいもも美味しいけれど「蒸かしたら味ゃあまた格別だんてね」と言われて食べたら本当に美味しくて、「蒸かす」と「茹でる」とでは味に違いも出るのだなと認識を新たにした。


蒸した「とんもろこし」

染井銀座にある八百屋では、いつもサツマイモと「とんもろこし」を蒸かしているので(2003 年当時)、2 本買って帰ったが粒のプリプリ感が茹でたのとは微妙に違うような気がして、おいしいと家族にも評判だった。ただ、あまりにも「やっぱり蒸かしたのはおいしい!」と言われるとどうかなぁと思うのは、本当に味が違うかは同時に食べくらべないとわからない程度のような気もするのだ。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 7 月 3 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【『季刊清水』2021 通巻54号発売】

【『季刊清水』2021 通巻54号発売】

戸田書店発行、雑誌『季刊清水』54号が戸田書店江尻台店店頭に並びました。

◉目次

 

巻頭詩 春の幻想………岩崎和子

【特集1】
清水の食材を楽しむ
はじめに………鍋倉伸子
食材の王国、静岡………佐藤洋一郎
清水の水産業史………中田元比古
日だまりの食感………浅野 竜
ミカン産地・清水再発見!………杉山滋朗
折戸ナスの科学と羽衣に秘められたコード………丹羽康夫
おきつの朝市………杉山万珠子
「ツナ缶」と「トンボ」………溝口康博
興津のTEA豚、北川雅視さん………豊田久留巳
無農薬野菜・烏骨鶏・ジビエ ………山本麻未
イルカの食文化 ………松田香代子
三保・駒越地区の枝豆………北村昭夫
ここならではの確かなものをつくりたい  大石章博さんに聞く………松下光惠
「朝鮮通信使饗応料理」を再現する………AYUドリーム
写真で振り返る港湾都市の外食文化―高度成長期の面影―………石原雅彦

【特集2】
山梨志賀子の人と歌………桜井 仁

【特集3】
ある総領の甚六さんの話………江口敏郎

補遺 巴川の河童と天女………豊田久留巳

■清水と私
告白! 映画の青春………菅 勝成
江尻駅の変遷と標識………影山芳郭
地域に守られ、いつかは守る側に………大澤裕香
清水みなと祭りと少林寺拳法神輿………平井富士雄
清水の街の戸田画廊さんとの出合い………望月淳子

■編集後記

表紙画……松井正之「ソルダム」(油彩)
表紙デザイン……石原雅彦

店頭での購入は

戸田書店江尻台店
柏屋瀬名店

お取り寄せは『季刊清水』ブログから

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【食三題】

【食三題】

【朝の燕下】親たちの要望により朝食がパン食になって久しい。とくにパーキンソン病の義父は、朝食が箸やスプーンではなく手づかみで食べられるものが嬉しいという。パンにはカップスープをつけるのだけれど今朝は昨夜のクリームシチューが残っていたので牛乳を加え薄めてスープにしてみた。

年をとると人間は必ず正直者になるようにできているのかもしれなくて、口は嘘がつけても表情は必ず正直な気持ちをあらわしてしまうように思う。年寄りが
「おいしい」
と言って本当においしい時は満面の笑顔になるけれど、家族の調子に合わせるようにして
「おいしいよ」
と言ったときは嘘の程度により眉間の皺の本数が増えるのである。

いつものインスタントカップスープよりおいしいと子ども夫婦は御機嫌なのだけれど親たちの様子がおかしく、あまり嬉しくないらしい。どうしてだろうと観察していると、親たちは味わいを楽しむより、口にいれたパンを喉の奥に流し込むためにスープが必要なのであり、いつもより粘度の高いスープに困惑しているのだ。義父のスープの飲み方がおかしいのでどうしたのと聞くと
「熱くてトロッとしとる」
と言う。

年寄りにとってスープ、とくに朝食のそれは唾液代わりなのかもしれなくて、同じくコンソメスープの評判が悪いのは、コンソメスープが唾液代わりとしてはサラサラ過ぎるのかもしれない。唾液代わりとして、味噌汁というのはよくできた料理なのかもしれないなと思う。


DATA:OLYMPUS C755UZ

【食の気合い】母は若いころからご飯の盛りの多い少ないにうるさい人で息子がご飯をよそってやると
「多い多い、そんなに食べられない、もっと少なく!」
などと甲高い声で叫び
「これくらい?」
とシャモジで削ってやると
「そう、それくらい、それでいい」
と言うのだけれど、腹立たしいのはその削ったご飯の量というのが、茶サジ一杯、ほんの一口ぐらいの量なのである。どうしてそんな鼻糞くらいのご飯の量で大騒ぎするのかと文句を言うと、そのほんのひとくちが食べられないのだと言い、そういえば母は昔から
「だめだ、このひとくちが食べられない」
と言ってご飯を残す人だった。

わが母だけがそうなのかと思ったら義母もまたそういう人で、ほんの一口を多いと大騒ぎして娘に叱られているのを見て笑ってしまう。どうして叱られてまでしてひとくち程度の多い少ないにこだわるのかというと、ほんの気持ちひとくち減ったことによって自分に気合が入り、食欲のなさを克服しているように見える。

自分はというと、若干食べ物の量が多いと感じても、削ってもらったり残したりするのが嫌なので、えいやっとひとくちで丸呑みしてでも食べてしまう。けれど、ほんのひとくちのことで大騒ぎし他人の手をわずらわせてまでしてなんとか食べる気に自分を仕向けている親たちも、つまるところ気合の問題であるという点で、どっちもどっちなのかもしれない。

【お茶の間合い】富山出身の妻が静岡出身の夫と結婚して驚いたことのひとつは、静岡の家庭では食事を食べ始めるときすでにお茶が食卓にあり、食べながら何度もお茶のお代わりをすることだという。上京したのち介護が必要になって同居が始まった義父母も、食事の前にお茶を入れるという習慣にとても戸惑っていた。戸惑う親たちに
「ね、変わってるでしょう? 静岡では食事前にお茶をいれて、食事中もがぶがぶ飲むんだよ」
などと妻が説明しているのだけれど、僕はそういう食事が当たり前だと思って育ったので、お茶は食事がすんでからいれるものというのがどうもぴんと来ない。

静岡県にガンの発生率が非常に少ない地域があり、調べてみたらその地域は食事中にがぶがぶ緑茶を飲むことがわかったというニュースを何年か前に見た。そういう当たりまえだと思っていた暮らし方自体を大発見であるかのように報じられると戸惑いを禁じ得ない。

最近はものを飲み込むことが少しずつ大変になってきている義父母に、お茶を飲みながら食事をすることを勧めるのだけれど、食後のお茶を食中にとることはどうしても抵抗があるらしい。年寄りも食習慣も頑固である。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 7 月 2 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【駒込富士山開き】

【駒込富士山開き】

東京都文京区本駒込五丁目。
6 月 30 日、富士神社参道奥の石段を、幼い子どもたちの手を引いた若いお母さんが一目散に登っていったのは、この日が駒込富士神社お富士さんの山開きだからである。

郷里静岡の富士宮では、富士山本宮浅間大社の開山式が行われ、テレビでもニュースとして報じられていたけれど、静岡の富士山も東京のお富士さんもそろって山開きである。

ふじ‐もうで【富士詣で】(‥マウデ)
(1)近世、陰暦6月1日から21日までの間に富士山に登り、山頂の富士権現社(祭神は浅間大神、木花開耶姫命(このはなのさくやびめのみこと))に参詣すること。富士参り。
(2)陰暦6月1日の前後、江戸の浅草・駒込・高田など各地に分祀した富士権現社に参詣し、富士塚に登ること。(広辞苑第五版より)


駒込富士山頂より登山道を見下ろす
DATA:RICOH Caplio GX 


駒込富士神社の富士塚は、富士塚になる前は古墳時代の円墳であり富士神社古墳という別名もある。規模の大小ではなくこの駒込富士が、数ある富士塚より妙に魅惑的に感じて登ってみたくなるのもそのせいかもしれない。


駒込富士山頂にて
DATA:RICOH Caplio GX 

 中世まで富士登山というのは山伏と修行を積んだ道者だけしか許されていなかったが、江戸時代に入ると一般民衆の自由な登山が、山伏や道者を先達としてできるようになる。
 旧五月末になると富士講仲間は六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、先達を中心に木花咲耶姫命の軸や富士曼荼羅などをかかげ旅壇具による祭器を飾り斎戒沐浴をする。そして山開きには講の代参人を送り他の者は江戸の富士に詣でるのである。
 こうして富士講の流行とともに江戸の市中や近郊に「お富士さん」が五七か所も出現するようになる。(江幡潤『文京区史跡散歩』学生社より)

昔の祭日は旧暦五月晦日と六月朔日であり明治以降富士山の山開きは新暦七月朔日になったのである。お富士さん山開きには植木市がつきもので、お富士さんで買った植木はよくつくといわれ、浅草浅間神社の植木市は大規模なことで名高い。

駒込のお富士さん山頂と社務所では駒込名物『麦らくがん』と『麦わら蛇』のお守りが売られている。


駒込名物麦らくがんの袋
DATA:NIKON COOLPIX S4


駒込名物麦らくがん
DATA:RICOH Caplio GX 

『麦らくがん』は大麦粉と砂糖で作られた素朴なものだ。
「ひとつください」
と言ったら売り子を務める祭り装束のお年寄りが
「試食してください」
と言うので
「いいです」
と言ったら
「順番が違う」
と笑うのでお金を引っ込めて試食してから購入した。隣の男性は試食品の『麦らくがん』の白砂糖でお化粧したやつをつまみ上げ
「あっ、それはアタリです」
と言われていた。

『麦わら蛇』は宝永年間(1704年3月13日~1711年4月25日)駒込の百姓喜八が夢のお告げにより創作し、疫病除け・水あたり除けの御守りとして広まったものだといい、かつては浅草のお富士さん山開きでも売られていたという。


麦わら蛇。檜葉の枝と麦わらによる具象的すぎない素朴で非常に美しい造形。ちょっと感動する
DATA:RICOH Caplio GX 


蛇の頭部と尻尾とおぼしき部分に使われた赤がとてもよく効いている。細部にとても手がかかっていて粗末な片手間仕事でない
DATA:RICOH Caplio GX 

一時期作り手がいなくて途絶えていたというけれど、最近は復活されて山開きの日に頒布されている。江戸最古の郷土玩具は非常に美しく、いつまでも後世に伝えられて欲しいと思う。

疫病除けとのことなので、急性白血病で免疫力が衰えた義母の夏のお守りとしてひとつ買って来た。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 7 月 1 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【まにあうかもしれない今なら 2】

【【まにあうかもしれない今なら 2】 

六義園内から飛んできたイロハモミジの種子がベランダの排水溝に吹き溜まり、黒く腐食した枯れ葉の中から発芽し、貝割れ菜のように弱々しい芽が雨に打たれて力なく倒れ伏しているのを見ていられなくなり、「♪まにあうかもしれない今なら まにあうかもしれない今すぐ…」となつかしい吉田拓郎の歌を口ずさみながら思い切って移植した。


2022 年 6 月 8 日

園芸用針金で「 y 字型」の松葉杖をそれぞれの株に添えてやり、ひと株くらいぶじに育つといいのだけれど思った。そう2022 年 6 月 8 日の日記にある。


2022 年 6 月 30 日

数日前、吉田拓郎引退のニュースが流れていた。「♪まにあうかもしれない今なら まにあうかもしれない今すぐ…」という決断の甲斐あってか、わが家のイロハモミジはひとまず元気さを取り戻して夏へと向かう。

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【祭りのあと】

【祭りのあと】

難病にかかって、わが母と手紙で励まし合っていたいた 12 歳年下の従妹が母の死の翌々日、あとを追うように他界した。

そしてその夏、叔父の家の縁側で従妹が遺した中学生と小学生の姉弟がする花火を見た。人生で一番美しい花火だったような気がして、今年の夏も姉弟がおじいちゃんの家で過ごすなら、花火を買って持って行こうかな、と思ったりする。むかし大人たちが子どものする花火を遠くから楽しそうに見ていたけれど、そういう花火がいいと思える年齢になってきた。


DATA:RICOH Caplio GX

仕事帰り、東大正門前からバスに乗ったら駒込富士前バス停で子どもたちがおおぜい降りるので何だろうと思ったら、都立駒込病院脇を通って藪下通りへと続く古道沿いに夜店が建ち並んでいるのが見えた。駒込富士神社の夏祭りなのである。


DATA:RICOH Caplio GX

若い頃はいい大人のくせに楽しみの中心にいたい自分がいた。
 
友人たちと飲み会をし、神社に祭礼の夜店が出ていると酔った勢いで繰り出し、射的に夢中になってひとり一万円以上もつぎ込んで撃ちまくり、帰宅して撃ち落としたココアシガレットやフルヤキャラメルの箱を山積みにして大笑いしたこともある。そして花火をしようかといえば度を過ぎた大人買いをして騒いでいた。


DATA:RICOH Caplio GX

大人になってから、思い通りにならなかった少年少女時代の怨念の憂さを晴らしがしたい時期があるのだろう。そして子ども時代の夢がお金でたやすく買えてしまう、つまらない大人になったことを自覚し、子ども時代の夢がお金でたやすく買えないからこそもっと得難いものだったことを思い知る。そしていい大人になる。


DATA:RICOH Caplio GX

富士神社参道を歩き、夜店を眺めていら、友人の子どもでもいいから、子連れで歩いたら楽しいだろうなと思う。そして祭りの空間で夢中になっている子どもたちを眺めていると、花火に興じる子どもたちを見守るのが楽しいように、ひとつ外側の世界に身を退いて若い命の輝きを眺めることこそが楽しく感じられるようになっている自分に再び出会うのだ。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 6 月 30 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【記念メダル】

【記念メダル】

高さ 147 m、地下 3 階地上 36 階、日本初の超高層建築「霞が関ビル」が竣工したのは 1968(昭和 43 )年 4 月 12 日。今では当たり前になったセルフクライミング方式タワークレーンもこの時導入された新工法であり、施工は鹿島建設だった。

高校時代、完成して間もない霞が関ビル最上階の展望台に行って来たと記念のメダルを見せびらかす友人がいた。ずいぶん幼い高校生だなと今では思うけれど、地震国日本では不可能とされていた初めての高層ビル建設を柔構造理論を用いて成し遂げたわけで、まさに戦後日本経済復興の象徴であり、日本の技術力の高さが、当時の高校生にとっても誇らしかったのかもしれない。


Data:MINOLTA DiMAGE F100

大学を卒業した翌年、霞が関ビルに隣接したビルから雑誌デザインのアルバイトをいただき、それ以来、毎日のように霞が関通いをした時代があった。霞が関ビル最上階には展望台があり、レストランも併設されていて、何度か食事をしたり酒を飲んだこともあった。

久し振りに霞が関まで打ち合わせに出掛けたので、36 階展望フロアにでも行ってみようかと直通エレベーターに乗ったら、通常の企業が入居しており、展望台は消滅していた。考えてみれば、霞が関ビルより高いビルも今ではいくらでもあるし、直通の高速エレベーターが使える 36 階は好条件の賃貸物件になるわけで、1989 ~ 94 年にかけて行われたリニューアル工事の際に展望台はその役目を終えたのかもしれない。


Data:MINOLTA DiMAGE F100

霞が関ビル展望台にまだ記念メダル販売機が残っていたら買ってみようか、などと考えていたのだけれど、何とものんきな考えで恥ずかしい。それにも懲りず、東京タワーの記念メダルは今でも買えるかもしれないから今度行ってみようかな、などと考え始めている幼稚さは更に恥ずかしい。

けれど、やっぱり誰でも人生を振り返ってメダルが欲しいのだ。それというのも、あの時代の日本の若々しさと活力が、自分の失われた青春と妙に同期しているように思えてならないからだ。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 6 月 29 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【 80.6°F 】

【 80.6°F 】

浴室で壊れかけたデジタル時計は落下破損の危険のない室内に置き場所を見つけて延命させることにした。

時計以外に湿度と温度が表示されて便利ではあるのだけれど、米国向け製品なのか温度表示が摂氏ではなく華氏で表示されているので摂氏のつもりで見るとギョッとする。

本日の東京地方における最高気温 35°C は華氏の温度計だと 95°F と表示される。華氏の温度から 32 ひいて  1.8 で割れば摂氏が出るのだけれど計算がめんどくさい。

室内の快適温度を摂氏 27°C ということにすると、華氏の快適室温は 80.6°F なので、「華氏 80.6度は暑さ涼しさ、快・不快の分岐点」と覚えることにした。節電目安にもなるかもしれない。

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【 AA 電池】

【 AA 電池】

浴室用の時計が壊れる寸前になっている。シンプルでしっかりした防水構造のものを探して注文した。吸盤やマグネットのフックにぶら下げるだけでなく、タオルハンガーなどに巻き付けるアイデアに感心した。

注文し終えてから写真を眺めていたら、平べったい円筒ケース内にありふれたクオーツムーブメントが入っているのだけれど、電池が「 AA 電池」だと書いてある。そういう表記を初めて見た。

単5形のような手に入りにくいサイズだとイヤだな、失敗したかなと思って調べたら、JIS 規格の単1形・単2形・単3形・単4形を、海外ではそれぞれ D・C・AA(ダブルエー)・AAA(トリプルエー)と呼ぶのだという。かなり前からそうらしいのだけれど知らずにいた。AA(ダブルエー)はよく使う単3形だったので安心した。

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【寇と冦】

【寇と冦】

19 年前、2003 年 7 月 2 日 に【寇と冦】と題してこんな日記を書いていたので再掲。

   ***

「元寇(げんこう)」と「和冦(わこう)」と打ったら、ATOK 15 for Macintosh では「こう」の字が違って変換されることに気付いた。
「寇」とは外部から侵攻すること、もしくは侵入する敵を指し、訓は「あだ」である。
鎌倉時代、日本に来襲した元軍を「元寇」といい、「和冦」とは13~16世紀、朝鮮・中国の沿岸を掠奪した日本人に対する、朝鮮・中国側の呼び名である。

この変換に従えば大陸から日本を攻めた海賊は「寇」であり、日本から大陸を攻めた海賊は「冦」となっている。「寇と冦」の使い分けに深い含意があるのだろうか。

旧版JISコード、「冦」は「514E」、「寇」は「5564」である。この異体字、一覧表などでは「冦」を親字としているものがありコード値が上位にあるのが理由だったりして笑えるのだけれど、正しくは「寇」が親字であり、「冦」は俗字なのである。

「寇」の「宀」が「冖」に換わっているのであり、こういうのを「意符書換字」という。「富」と「冨」、「寫」と「冩」などがネット上で表示できる例である。

で、ATOK 15 for Macintosh で更に変換候補を表示させたらちゃんと「倭寇」が出て来た。日本を「倭」ではなく「和」と表記する場合は俗字を組み合わせ、「和」のかわりに「倭」と表記する場合はちゃんと親字の「寇」が用いられているのだ。

それでは俗字「冦」に付随する「和」とは何者ぞや、との疑問が思い浮かび、その答えは遙か昔に本居宣長先生が書かれているので引用する。

「問ひて云はく、「倭」を「和」とも書くはいかが。答へて云はく、古來「倭」の字を用い來しかども、これもと異國より名づけたる字にて、「倭奴」などともいひて、美名にあらずとてにや、後に此方にて「和」の字に改められしなり。ゆゑに唐の書には後世までも「和」の字を用いたることは見えぬなり。さて「和」の字も國號にするによしあることかと尋ぬるに、ただ「倭」と同音にて、好字なるを取られたるまでのことなるべし。それも上古はただ「夜麻登」といふ言をむねとして、文字は借り物なればその沙汰にも及ばず、あるにまかせて「倭」の字を用い來たれるに、後には文字の好惡を択むことになりて、好字には改められたるなり。しかるに「和」の字の義につきて、「大きにやはらぐはわが御國の風俗なり」などといふは、また後の付會の説なり。文字は借り物なりといふことを知らぬゆゑにかかる説は出で來るなり。」(『石上私淑言』より

DATA : SONY Cyber-shot DSC-WX300

人間が外部を侵略すると、必ずヒステリックな残虐行為を働くものらしく、司馬遼太郎によれば倭寇に襲われた地域は「倭が来た!」と逃げ惑い、その所業は凄惨を極めたらしい。やっぱり「倭寇」と表記するのが正しいように思う。

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