【不思議なふたり】

【不思議なふたり】

山の寂しい湖に無人のボートだけが浮かんでいたら、男女が手に手を取って入水(じゅすい)したのではないかと思ってびっくりする。

いくらなんでも上野不忍池(しのばずのいけ)に浮かんだボートから男女が入水するなどということはなさそうな気がするけれど、それでもやはり無人のボートを見ると不吉な気配を感じてしまう。


東京都台東区。不忍池にて
NIKON COOLPIX S10

どうしたんだろうと眺めていたら二十歳前後の男性が起き上がったので「(なぁーんだ)」と思う。

地方出身者の友人が
「東京の街はごろっと横になって昼寝ができる場所がないから困る。たまにそういう場所を見つけるとすでに本気で寝ている人がいる…」
とぼやいていたのを思い出した。お金はかかるけれどボートを漕ぎ出して、水面を渡る風のにおいをかぎながら池の真ん中で昼寝をするのは良い考えだと思う。


実は無人ではない貸しボート
NIKON COOLPIX S10

そう思って眺めていたら二十歳前後の男性が起き上がった下からもうひとり起き上がるので「(なぁーんだアベックか)」と思う。


男性的な雲がもこもことわき上がる季節になった
NIKON COOLPIX S10

…と思ったら、起き上がったもうひとりもなんとサングラスをかけた同い年くらいの男性なので「(なぁーんだ……)」と思う。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 26 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【白羽の箭】

【白羽の箭】

台東区上野一丁目、道路沿いに下谷箭弓稲荷神社がある。

埼玉県東松山市箭弓町にある箭弓稲荷神社の分社である。「箭弓」の読みがわからないので調べてみると【箭=シフトJIS:90FB 区点コード:03293 音読み「セン」 訓読み「や」】なので「せんきゅう」かと思いきや正しくは「やきゅう」と読むらしい。


Data:CASIO QV-4000

幾度となく前を通りかかるたびに不思議な神社だなと思っていた。勘の良い人なら、鳥居の前に立っただけでこの神社の構造はすぐにわかるのだろう。僕は鳥居をくぐった内部の闇にばかり目が奪われて、不気味な空間だとしか思えず、その奥にある奇妙な構造に気付けなかった。

東松山市にある本社箭弓稲荷神社の縁起によれば、1028(長元元)年、下総国城主前上総介平忠常が謀反を企てて武蔵国に迫った際、追討の勅命を得た源頼信が当時野久(矢久)稲荷と呼ばれていた神社近くに本陣を張り、社殿に向かって戦勝祈願をした。夜を徹して祈り続けたら明け方、白雲が俄に現れて白羽の箭(や)の形になり、敵方に飛んでいったという。これぞ神のお告げなりと突撃した源頼信は平忠常を殲滅し、箭弓(やきゅう)稲荷大明神の名を奉納したのだという。


Data:CASIO QV-4000

鳥居をくぐって闇の中に入ってみると、たくさんの奉納額が掲げられており、下町の人々の厚い信仰を集めていることがわかる。ほんの数メートルの参道だけれど、かつてはこの二階屋風の建物はなかったのではないかという気がしてきた。三方ビルに覆われた猫の額ほどの境内であり、集会所や物置にも事欠いたので参道上に苦肉の策で建築したような気もするのだけれど、この闇をくぐる感じが、いかにも霊験あらたかな感じがしていい。

Data:CASIO QV-4000

社殿脇の赤い幟のある場所に突如天然木の柱を見つけてびっくりし、
「なんだなんだなんだ」と近づいてみると二本の銀杏の大木が立っていた。下谷箭弓稲荷神社縁起によると、かつてこの神社のある場所は石川主殿頭成之の屋敷であり、社殿脇に徳川家光から拝領した銀杏の木が植えられていたことから「銀杏稲荷」と呼ばれていたのだそうである。

明治になって放置されていたものを東松山市箭弓町にある箭弓稲荷神社の分社として再興したものなのだけれど、残念ながら家光拝領の銀杏(当時幹廻り九尺五寸高さ十四間)は関東大震災で焼失し、その一部で彫られたご神体が現社殿に納められているという。


Data:CASIO QV-4000

参道の闇を抜けると社殿とビルの隙間に銀杏がそそり立ち、白羽の箭(や)の形の白雲は見えないけれど、五月の空が青く太陽はひときわ眩しい。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 5 月 30 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【緩みの教え】

 【緩みの教え】

時計修理のできる店のご主人と話していて、
「若い頃から夏が近づくと腕時計をしているのが苦手なんです。汗っかきのせいか、ベルトのあたりが痒くて仕方なくて、掻くとかぶれたりするんです」
と言ったら、
「お客さん、そりゃあ時計ベルトをきつく締めすぎるからです。時計ベルトは締めるもんじゃなくて、時計ごと腕から抜け落ちないよう、軽く手首に回しておくもんなんです」
と笑って言う。

高校時代、ツッパリの友人によく同じようなことを言われた。
「お前なあ、ズボンは腹で履くもんじゃない、腰で履くんだ。ベルトはズボンが脱げ落ちないよう軽く腰に回しておくもんなんだぞ、鏡で自分の格好を見てみろ。」
と笑うのだ。

朝から汗ばむ陽気となり、今年も時計ベルトあたりが痒くなってきたのではずしたら、朝食準備で時間と競争するとき不便なので、軽く手首に回すよう緩めなおした。

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【石の流転】

【石の流転】

家の基礎となる石垣は、その近辺で産出する石材が使われていることが多い。重い石を遠くから運ぶのはたいへんだからだ。だから玄武岩の産地近くには玄武岩の石垣が多い。

身近に石を産出しない地域だと、石垣の素材はさまざまなのだけれど、新興住宅地はともかく、下町の古い家並みでも地域ごとに、ある程度の傾向が見られるのが面白い。

少年時代を過ごした北区王子の工場地帯では、金属を含んだ鉱物のような色合いの硬い石が使われていることが多く、どちらかと言えば陰気で、気味の悪い石だなと思っていた記憶がある。カラミ煉瓦といい銅を精錬する際の鉱滓(こうさい)である鍰(からみ)で作られた煉瓦のようなものである。


Data:CASIO QV-4000

散歩中に丸石を積んだ石垣を見つけた。
海辺や川沿いの街ではあたりまえに見かけるけれど、23 区内でお目にかかるのは久し振りだ。よくこれだけの丸石を運んで積み上げたものだと感心する。特別に丸石でと注文をしなければ、この地域でこれをやるのは容易なことではない。

文京区内で、古い大名屋敷跡に建てられた邸宅が売りに出ていると、乗っていたタクシー運転手が教えてくれた。そういえば、その家の石垣も見事な丸石だった。あの石垣の丸石も取り壊された際はリサイクルされるのかもしれない。そうやって引き取り手を見つけ再利用による小さな臨時産地が生まれるのだろう。
 
石には石だけが知っている流転の歴史がある。人間のちっぽけな人生を笑い飛ばすほど、かれらの寿命は長いのだ。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 5 月 29 日、19 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【組文字】

 【組文字】

編集者から送られてきた新聞記事切り抜きを読んでいたら「180ページ」が「180㌻」と文字組みされていた。こういう複数文字を一字内にまとめてしまったものを組文字という。

使ったことがないけれど、日本語フォント内にそういう組文字キャラクターがどれくらい収納されているのだろうと調べたら、使われているのを見たことがないものまでたくさんあって驚いた。

新聞誌面は縦組みだったので、縦組み用を調べたらアタマ揃えとセンター揃えの二種類があった。

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【いろはにこんぺいとう】

【いろはにこんぺいとう】

金平糖とパソコンに打ち込んでみたら、小学生時代の言葉遊びを思い出した。
 
「いろはにこんぺいとう」
で始まる意味のしりとり遊びである。はたしていまでも最後まで覚えているだろうかと試してみたら、10 文字の芥子粒のような心核に金平糖が見事に形を成して行くように、最後までちゃんと言い立てて言葉の金平糖を作ることができた。年齢や地域差を越えて伝播していくよくできたことば遊びは心核さえ与えてやれば自分自身を再製する金平糖の力を持っているのだ。

「いろはにこんぺいとう」「こんぺいとうはあまい」「あまいはおさとう」「おさとうはしろい」「いろいはうさぎ」「うさぐははねる」「はねるはのみ」「のみはあかい」とすらすらと言い立てたあと「あかいはほおずき」のところで引っかかっていた子ども時代があり「(ホオズキの実は赤じゃなくてオレンジなのに)」と不思議に思っていたが、祭りの縁日で真っ赤に着色されたウミホオズキを見て確かにホオズキは赤いと妙な納得をした。

「あかいはほおずき」「ほおずきはなーる」「なーるはおなら」「おならはくさい」「くさいはうんこ」「うんこはきいろい」と言い立てて、「(うんこは黄色じゃなくて茶色じゃないかな)」とつっかえていた子ども時代もあった。「うんこ」でなく「うこん」の方が黄色いけれど「うこん」の臭いなど子どもは知らない可能性が高いのでかえって無理がある。つづけて「うんこはきいろい」「きいろいはばなな」「ばななはたかい」と来てもつっかえなかったのはバナナが病人しか食べられないほど高価な時代だったからで、いまはバナナの価値が下落してしまったのでこの辺の未来への伝承は難しい。

「ばななはたかい」「たかいはじゅうじか」「じゅうじかはこわい」「こわいはおばけ」「おばけはきえる」「きえるはでんきゅう」「でんきゅうはひかる」と来て「ひかるはおやじのはげあたま~」と囃し立てて終わりになるのだけれど、「たかいはじゅうじか」のところでいつも引っかかり「(そうか、確かに十字架は教会の屋根の上という高いところにある)」と納得しつつ、「(でもキリスト教徒は十字架を怖がらないんじゃないかな)」といぶかしく思ったものだ。

ネットで検索したらどうやら「たかいはじゅうじか」の原型は「たかいはじゅうにかい」であり、かつて浅草の観光名所だった浅草十二階、正式名称は凌雲閣(りょううんかく)のことを組み込んだものだったらしい。凌雲閣は 1890(明治 23 )年に開業し 1923(大正 12 )年の関東大震災により一部崩壊し同年解体されたというが、確かに明治時代の十二階は高いし、十二階のうち上部四階は木造で、関東大震災ではその九階から十二階までが崩壊したと言うから本当に怖かったわけだ。

覚えている「いろはにこんぺいとう」は「じゅうにかい」を「じゅうじか」に言い換えることでかろうじて命脈を保った言葉遊びであり、子どもの遊びに対する自在さに感動する。のちの世に「いろはにこんぺいとう」の言葉遊びが残って行くなら細部がどうであれ、言葉遊びの金米糖も生長する際には角の数はおおむね一定しているはずだ、と寺田寅彦先生も安心しているに違いない。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 5 月 28 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【黄色の流儀】

【黄色の流儀】

中華料理店で浪花節球団読売巨人軍の勝利をくどくどと書き連ねた浪花節調記事を読んでいたら、急に黄色いカレーが食べたくなった。

黄色いカレーを探す穴場は大衆的な田舎食堂ではない。長閑な田舎食堂にも都会から既に業務用食材の波が到達してしまっているので、田舎食堂であってもフォンドボーでミルポアでドミグラスなカレーが出てきてしまい、それは決まってどこかで食べたカレーの味なのである。

昔ながらの中華そばを探す穴場が日本蕎麦屋であるように、印度人標準食のカリーや、植民地主義欧州列強の DinnerCurry ではなく、昔ながらのニッポン独自食であるライスカレーを探すのなら、中華料理店が良いのである。

中華料理店にも業務用食材の波は押し寄せているし、家庭用カレールーで手抜きしていたりするので、フォンドボーでミルポアでドミグラスなカレーが出てきてしまうことも多いけれど、真面目な中華料理店の親爺さんは、鉄の鍋と杓子を両手に持ったシオマネキ、もしくはバルタン星人スタイルで、何でも当座に用意してしまうので、意表をついたライスカレーが出てくることが多いのである。

玉葱と豚肉を炒め、ラーメン用のスープを加え、塩と中華醤油で味を調え、小麦粉でとろみをつけ、業務用ヱスビーカレーパウダーで色と香りをつければ黄色いカレー一丁上がりである。左手に持った中華鍋を揺すりながら、右手の鉄杓子ですべてを行う早業である。「じっくり煮込んだ」などという行為は黄色いカレーには似合わない。ライスカレーは労働食なのであり、口からサッと食べてお尻からサッと出せるように最初から黄色いのである。

ライスカレーに付随するスプーンはコップに突っ込まれて出てくることもあれば、紙ナプキンで包まれて出てくることもある。後者の場合は紙ナプキンの覆いを外したあと、簡単に紙ナプキンを伸ばし(紙ナプキンは食後口を拭う際に必要だが丸まったままテーブルに置いておくと風で転がって床に落ちたりして不潔なのである)、スプーンをコップに一度浸してから食べ始めるのがマナーとされている。

で、中華料理店のライスカレーは炒飯や中華丼のノリなので、スプーンが皿に単刀直入で出てくることが多く、この時、スプーンを取り上げてコップに浸したりしてはいけない。スプーンについたご飯粒がコップに入ったりして見ていると行儀が悪いのである。こういう場合は、いきなりカレーを食べ、最初のひと口は両唇でしごくようにご飯とカレーを掻き取り(この時多少金属臭がすることがある)、さらに口から出した時スプーン表面に多少唾液が残るようにすると、ふた口目が食べやすい(汚くないぞ!)。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 27 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【李家の読み】

 【李家の読み】

わずかな流域に 60 以上の蛇行箇所がある巴川をまっすぐに改修しようという土木工事で揉めた明治三十九年当時、静岡県知事だった李家隆介の李家はなんと読むのか調べたら「りのいえ」で「りのいえたかすけ」だった。ウィキペディアにも項目が立っていて長州藩御典医だった李家隆彦の長男だという。

初代県知事関口隆吉から数えて十代目、長州藩出身者としては山田春三に続いて二人目。富山県知事を振り出しに、石川県知事、静岡県知事、長崎県知事を歴任している。

古い写真を探していたら出てきた 1998 年撮影の清水商工会議所ビル。この頃はまだ清水市だった。カメラは生まれて初めて買った三洋電機製。なんと記録データは 72dpi で 480×640 ピクセルしかない。撮影日は 1998年1月1日 木曜日になっているけれど、いかに温暖な郷里でも半袖半ズボンはないだろう…と思う。

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【麦稈真田】

 【麦稈真田】

郷里清水の大内地区でかつて盛んだったという稲藁などを使った箒作りについて、関連する資料がないかと『清水市史』で明治時代の出来事をを通読していたら麦稈真田の技能講習が開かれた話がいくつか出てきた。

ばっかんさなだ【麦稈真田】
麦わらを平たくつぶし真田紐(さなだひも)のように編んだもの。夏帽子や袋物などを作るのに用いる。むぎわらさなだ。

麦藁の値段が高いので経木をつかった経木真田も紹介されたという。「スタスチック」などという言葉も出てきて、統計学的に考えて持続可能な地場産業を模索していたのである。

 

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【山ねこ拝】

【山ねこ拝】

をかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けつこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい。
とびどぐもたないでくなさい。
                山ねこ 拝

 こんなのです。字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらゐでした。けれども一郎はうれしくてうれしくてたまりませんでした。はがきをそつと学校のかばんにしまつて、うちぢゆうとんだりはねたりしました。
 ね床にもぐつてからも、山猫のにやあとした顔や、そのめんだうだといふ裁判のけしきなどを考へて、おそくまでねむりませんでした。

(宮沢賢治『どんぐりと山猫』より)

本郷通り沿いにある宮沢賢治『どんぐりと山猫』よりとった言葉を看板にした店。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 26 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【永遠の路地裏】

【永遠の路地裏】

子ども時代に路地裏が好きだった人間は、よっぽど路地裏で嫌な体験でもしていなければ、やっぱり大人になっても路地裏が好きである。好きだろうと思う。人は子ども時代という路地裏を出ておとなになる。


こちら側から見た向こう側
Data:SONY Cyber-shot DSC-S8

だからおとなは町を歩いていて露地を見つけると入ってみたくなる。
露地にはこちら側があって向こう側がある。こちら側から向こう側に抜けるとき、どんな場所に出るのかワクワクするし、向こう側からこちら側に抜けてくる人とすれ違う時、孤独な時間旅行者のように魅惑的に見えたりする。


向こう側から見たこちら側
Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

抜け出て、あっと驚くこともあれば、なぁんだとがっかりすることもあるけれど、向こう側とこちら側が繋がっているという、ただそれだけのことがやっぱり嬉しいのである。たぶんそういうワクワクする気分を持ち続けられるかぎり人生が終わった先もかならずどこかにつながっている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 26 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【蘿蔔】

 【蘿蔔】

『清水市史』吉川弘文館を読んでいたら、明治時代、不況下の茶生産に乗り気でなかったのが飯田地区で、平坦で後背地として里山をもたず市街地に近いため、収益率の高い農産品に活路を求めたためだという。

それら産品の中に大根があり、大根に括弧付きで「蘿蔔」と書いてある。蘿蔔が読めないので辞書を引いたら「らふく」でダイコン・スズシロのことだという。

そして細切り大根を意味する繊蘿蔔の読みである「せんらふ」がなまって千六本(せんろっぽん)になったらしい。へぇ〜と驚いたのでメモしておく。

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【日本帝国標準時】

【日本帝国標準時】

古道具屋で古い道具を見るのが好きだ。なぜかといえば教育委員会による解説のようなものがないので、なにに使った道具か自分で考えなくてはならないからで、それがとても楽しい。

根津で仕事の打ち合わせを終え、不忍通りを団子坂下方向に歩いていたら、古道具屋のガラスケースに古い日時計があった。オブラートのケースよりもっと小さな木をくり抜いた筒に仕掛けが納められていて、方位磁石も水準器も付いている。

興味深いのは蓋を外した内側に貼られた一覧表で「日本帝国府県庁所在地標準時之差異」と書かれている。この日時計が作られた当時の「日本帝国」には「各府県庁所在地」ごとに「標準時之差異」が存在していたらしい。

考えてみれば地球は 24 時間で 1 回転するわけで 1 時間に 15 度回る。経度が 15 度違えば 1 時間の時差があることになる。日時計を持って東京で正午を確認した時、お天道様の位置を時間の絶対基準にするなら、大阪は 11 時 45 分くらいの時刻なのである。その差は大きい。

義父の大好きなプロ野球中継が始まって、巨人対広島戦の中継映像が映り、広島市民球場の向こうに青い山並みが見える。
「広島はこんな時刻になっても明るいんだねぇ」
などと親たちは感心して言うけれど、「明るい」という事を基準に時刻を考えるなら、東京から見る中継映像の広島は「こんな時刻」ではないのである。

「ごめんなさい、おこらんでくださいね。広島は田舎ですけぇ、まだ 6 時半にもなっとらん、東京都とは違う思うとってくださいね~」
と広島の友人の声が聞こえてきそうな世界、日本帝国の各府県庁所在地が独自の標準時を持っていた時代があったのである。

各自治体毎の標準時を日本標準時に置き換えることの必要性について、教育委員会的に説明するなら、交通や通信技術の発達に伴い都市ごとに違う標準時を持っていたのでは不便なので、1884 年米国ワシントンで万国子午線会議が開催され世界の標準時が、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を本初子午線としてその子午線上の時刻を世界標準時とする、と決められたので日本としてもこの決議に基づくべきだと考え、1884(明治 19 )年 7 月 12 日、勅令第 51 号「本初子午線経度計算法及標準時の件」を発布、1886(明治 21 )年 1 月 1 日午前 0 時 0 分、内務省地理局観象台から全国に通信された時点で、世界時より 9 時間早い日本標準時が使用されはじめたのです、ということになる。

だが、そういう解説板のない古道具店店頭で首を傾げるのが好きな愚鈍な頭脳の持ち主は、この日本標準時制定前に作られたらしい携帯用日時計を眺めながら、この日時計の所有者は明治 21 年もしくは明治 19 年以前、テレビもラジオも携帯電話も無い時代、日本の各府県庁所在地が独自の標準時を持っていた時代にいったい何が不便で、何のために日時計を携帯して時刻を観測し、何のために時差一覧表を用いていたのだろうと、やっぱりわからなくて首を傾げるのである。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 25 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【ことばの算術】

 【ことばの算術】

図書館に行って予約してあった宇沢弘文『算数から数学へ』を借りてきた。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

鶴と亀があわせて8匹いて足はあわせて26本です。さて鶴と亀は何匹ずついるでしょうと聞かれ、ぜんぶ鶴だったら足は16本なので10本足りない。鶴を亀に置き換えてやると1匹につき2本増えるので、5匹を亀に置き換えると足は26本になる。ということで答えは鶴3匹に亀5匹です。これが鶴亀算。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

1からはじまる連番の整理番号を持った人たちを3つのグループに分ける方法。こたえは自分の整理番号を3で割ったとき、割り切れる人、割り切れなくてあまり1になる人、割り切れなくてあまり2になる人に別れてもらえばいい。

こういう数式を書かなくてもことばで説明できる算数が大好きだった。数学が嫌いになる前のことばによる楽しい算術の本が読んでみたかったのだ。返却日との算術的競争をして読んでみる。

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【明治十二年のコレラ禍】

 【明治十二年のコレラ禍】

『清水市史』に南北戦争で名を馳せたアメリカのグラント将軍が退役後の世界一周船旅の途上、急遽清水港に入港した話が載っている。

次郎長まで一役買っての大歓待をしたらしいのだけれど、日本立ち寄りの目的は琉球帰属をめぐる日清関係の瀬踏みであり、清水寄港は感染が広まったコレラの薬を買い求めるためだったという。明治十二年七月一日のことである。

その話は以前から知っているのだけれど、グラント一行が出航した直後の七月八日から有度郡にコレラが発生し瞬く間に伊豆一円にまで広がっている。感染に伴って経済も影響を受け、物価が高騰して困窮者が続出し、救助金が広く募られ、避病院や火葬場が急遽作られたという。

コロナ禍を経て読んだら浮かれた前半部のもう半分、後日談のほうにびっくりした。

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