【バイクとロボット】

【バイクとロボット】

書店に注文した本を受け取りに行く前に、手持ちの図書カードの残高が知りたいと思い、スマホで裏面の QR コードをスキャンし、16 桁の ID 番号を入力し、4 桁の PIN 番号を打ち込んだらタイル状に分割された写真が表示され、自転車が写っているタイルをすべて選択しろという。とはいえ写真に写っているのは自転車ではなくヘルメットをつけた外人がまたがったオートバイなのだ。

そうか米国の写真を使った認証システムなので、自転車もオートバイも彼らにとってはバイクであり、そこまで考えて日本人向けにローカライズしたわけではないので、BIKE(オートバイ)の写真を見せて「自転車(BIKE)を指させと言っているのだ。

自転車ではなくオートバイの部分にかかっているタイルをすべて選択し、「 □ 私はロボットではありません」のチェックボックスをクリックして残高を確認した。

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【夏の残像】

【夏の残像】

音楽や映画は記憶という残像による錯覚をもちいた芸術だ。

夏休みの静岡県清水。小学生時代、近所の寺で開かれた夜の無料映画大会は本堂内にスクリーンを張って大人たちが外から映写機を回し、子どもたちは本堂前にすわって映画を観た。

2022/08/29
DATA : SONY NEX-3 Olympus Lens 1:8 f= 9 mm

いま思い出してすごいことだなあと思うのは、本堂内の仏さまはスクリーンの裏で逆向きの映像を見ながら、レンズを通して映写される動画が1秒間24コマの静止画像の連続であることをお見通しだったのだ。眼を輝かせて映画の世界に没入する子どもたちを「かわいいなあ」と思っておられたことだろう。

2022/08/29
DATA : SONY NEX-3 Olympus Lens 1:8 f= 9 mm

人が瞬間ごとに受け取る意識は連続している(生きているとは意識が連続しているということだ) → 記憶とはその意識の残像であり「いま」(瞬間)の発生消滅という移行(連続)は常に錯視を伴う → 時間とは残像の生成システムである → 残像の共有状態(変化がないということ)が空間(存在)の認識をつくっている

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【チチアン】

【チチアン】

漱石を読んでいたら「チチアン」という名前がでてきて、吾人がある色をひとつの色としか見ないところに「チチアン」は 50 色の異なった色を認識できたという。認識の豊かさは人生を楽しくするといえるだろう。

セブンイレブンで売られている『ミルク餡まん』が好きだ。三時になると深煎り珈琲をいれて一日ひとつだけ食べるのが楽しい。練乳を練り込んだ白生あんを饅頭生地でくるんで焼き上げた菓子で、ひとつだけでもねっちりとした満足感がある。

DATA : LUMIX DMC-SZ3 1 : 1 format

練乳を練り込んでねっちりとした白生あんのような名前の「チチアン」っていったい誰だろうと辞書を引いたら意外にもずばりの項目があって、漱石の時代の日本人はルネッサンス期のイタリア人画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio 1488  - 1576 )の「ティツィアーノ」を「チチアン」と言っていたらしい。

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【魚の眼】

【魚の眼】

フォーサーズミラーレスカメラ用ボディキャップにもなる BCL-0980 という型番の薄型魚眼レンズが OLYMPUS の製品にある。おもちゃのようなレンズだけれど 4 群 5 枚(非球面レンズ 2 枚)と意外に真面目に作られており、焦点距離 9mm、35mm 判換算 18mm 相当の対角線魚眼になる。


DATA: SONY α7 +OLYMPUS BCL-0980 9mm F8.0 Fisheye

Amazon を見ていたら 「Haoge レンズマウントアダプタfor Olympus Panasonic MFT m4 / 3 m43マウントレンズ to Sony E マウント」という製品があり、フォーサーズマウントのレンズを Sony Eマウントのカメラに装着できるという。届いたのでふとフルサイズセンサーの SONY α7 に装着してみたらなんと全周魚眼になる。

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【西田哲学の「行為的直観」】

【西田哲学の「行為的直観」】

自分が装幀したので仕事場の本棚にあったはずなのだけれど、読まないうちに他人に譲ってしまった本が、いま読み終えた本の中で引かれていた。

2022年8月26日14時21分
DATA : SONY Cyber-shot DSC-WX7

急に読みたくなったので竹内良知著『西田哲学の「行為的直観」』農山漁村文化協会を書店注文した。

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【もとより】

【もとより】

「経済生活といふもの、固、生産が消費であり消費が生産であり、矛盾の自己同一として弁証法的過程である。」(西田幾多郎)

2022年8月25日
DATA : SONY NEX-6 SEL16F28 E f=16mm 1:2.8

という文章の読点に挟まれた「固」一文字を何て読むんだっけと調べたら、
「『固』は小学 4 年生で習います」
と書かれていた。はい。

2022年8月25日
DATA : SONY NEX-6 SEL16F28 E f=16mm 1:2.8

「固より」と書いて「もとより」と読むので固一文字も「もとより」と読んでいいのだろう。

2022年8月25日
DATA : SONY NEX-6 SEL16F28 E f=16mm 1:2.8

「蛇固無足(へびはもとよりあしなし)」のもとよりであり、漢文訓読の教育を受けて育った人たちはこういう読み書きをしたのだろう。

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【剪定】

【剪定】

六義園内に高所作業車が入って樹木の剪定作業をしている。

2022年8月25日
DATA : LUMIX DMC-SZ3 1 : 1 format

眺めていたら思い出したので明日の朝九時で床屋の予約をした。

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【コウモリたちの夕暮れ】

【コウモリたちの夕暮れ】

窓際に置いた鍵盤楽器で手回しオルゴール用の編曲遊びをしていた妻が、
「あ、コウモリが飛んだ!めずらしい」
という。

昭和の時代は町のあちこちにコウモリたちのねぐらがあった。一斉に飛び立ったコウモリが暮れなずんだ空を乱舞し、丸めて縛ったハンカチを空に放り投げて追いかけさせる遊びをした。深追いしすぎて地上に落下し、離陸できず子どもにとらわれるコウモリもいた。

2022年8月24日
DATA : SONY NEX-6 Olympus Lens 1:8 f= 9 mm

六義園上空を飛ぶコウモリはまだ見たことがない。夏が終わって早くなった夕暮れ時が楽しみになった。

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【1986年8月22日】

【1986年8月22日】

文京区の団子坂にあった仕事場から眺めた上野、御徒町、秋葉原、神田、東京駅方向。この頃は日記がわりに日付入りで写真を撮っていた。

1986 年 8 月 22 日の東京。いまは雨後の筍のように林立している高層ビル群がまったく見えないことに唖然とする。

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【有つ】

【有つ】

「有つ」と書いて「もつ」と読ませる箇所がたびたびでてきた。

はじめてなので検索したら、把持する「持つ(hold)」と所有する「有つ(have)」を区別したいからで、「聞く(hear)」と「聴く(ask)」を区別するのと同じだという。ここは「有つ」でなければならない、と書き手は思ったのだろう。

JR御茶ノ水駅にて(1986)

「有つ」を引用した著者の方は続く文章で「もつ」とひらいている。「持つ」と書かないで「もつ」とひらくことで手という身体を排除している。「見る」もまた「みる」とひらいておくことで目という身体から解除している。「食べる」も「たべる」とひらきながら口という身体を体よく隠蔽している。

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【霧吹き】

【霧吹き】

園芸用霧吹きは買ってもじきに壊れてしまう。

DATA : LUMIX DMC-SZ3 1 : 1 format
霧吹きに転用した『セスキの激落ちくん 密着泡スプレー』容器

それにひきかえ家庭用洗剤等のスプレー容器は頑丈でとてもよくできている。発泡させて噴霧する仕組みのものなど霧が細かくてとてもいい。

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【これはモノですか?】

【これはモノですか?】

「人や犬や猫はモノですか?」
「いいえモノではありません」
「ナイフやフォークやスプーンはモノですか?」
「いいえモノではありません」
「このコップはモノですか?」
「いいえモノではありません」
「それでは水や砂はモノですか」
「いいえモノではありません」

物質のような素材自体についてはモノだと答え、関係や様態としてのまとまりであるとしか思えないものについてはモノではないと答えたい傾向が自分にはあるらしい。モノを名指すために言葉の意味をより小さな単位へと分解したくなる。

モノについて質問されたらそう答えるのが自分の傾向なのだけれど、人それぞれ考え方の違いというだけでなく、母語とする言語によっても答えの傾向に違いがあるらしい。各国語に同じモノやコトを指す言葉はあるけれど意味する範囲の区切り方が違うのだ。言語の差異とは閾値(しきいち)の違いなのだろう。

そういうさまざまな少数民族に固有な言葉の構造や使い方の違いについて書かれた本を読んでいると、日本にいて日本語を話す日本人も、遭遇する「時と場合」によっては、同じ日本語を使う者同士でも通じない表現をしているのだと思う。

たとえば、「前向きな君が好きだ」には「こっちなど振り返らず向こうに行ってほしい」と「こっちを向いたままもっとそばに来てほしい」というふたつの反する意味がある。言語軸の両端に「他人本位」と「自分本位」があり閾値のとりかたによって「前」が違うのだ。

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【生命の尖端】

【生命の尖端】

このふたつの引用が並んでいるのを読んだら「うーん」と唸ったので孫引きのメモ。

「妻と一人息子との死であんなに悲嘆にくれ、重大な争いごとで悩まされているあの男が、悲しいことは少しもなく、すべての辛い心配な思いから免れているようにいま見えるのは、いったいどうしたわけなのだろう。そんなことに驚くことはない。今、彼は球を打ちこまれたところなのだ。彼はそれを相手に打ち返さなければならない。」

(ブレーズ・パスカル 1623 - 1662)

「短詩の形式によって人生を摑むといふことは、人生を現在の中心から摑むといふことでなければならぬ、刹那の一点から見るといふことでなければならぬ。人生は固(もと)より一つである。併(しか)し具体的にして動き行く人生は、之を環境から見るといふことと、之を飛躍的生命の尖端から摑むといふこととは同一でない。そのいづれより見るかによって、人生は異なった観を呈し、我々は異なった意義に於て生きると云ふこととなるのである。」

(西田幾多郎 1870 - 1945)

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【安城寺と善通寺】

【安城寺と善通寺】

値段本位、購入可能なのを選んで注文した古書が届いたので発送元を確認したら愛媛県安城寺市の古書店だった。ということは岸田秀の出身地かと思い、調べたらそれは香川県善通寺市だった。地名の元になったと思われる愛媛県の安城寺を調べたら黄檗宗である。

静岡市出身の仏教学者三枝充悳(さいぐさみつよし)との対談で、岸田秀が自分の家は一向宗だと言っていたはずなので香川県の善通寺を調べたら空海(弘法大師)ゆかりなので当然のごとく真言宗だった。原本を引っ張り出して読み返したら、善通寺門前にある家で生まれて「ガラン」(東院伽藍、空海生誕地とされるのは西院)でよく遊んだけれど家族は「うちの宗派は一向宗」と言っていたという。

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【抜ける】

【抜ける】

果てしなく広々としてとりとめがない空間に自分ひとりでいると思いこむことは恐ろしく、それは裏返しの閉所恐怖なのだろう。息ができないほど狭い場所は恐ろしいけれど、広さに際限がない場所にもまた閉所的な恐怖がある。

そういう意味でならトンネルを「抜ける」と言うように、平原を抜ける、砂漠を抜ける、大海原を抜けると言ってもおかしくはない。平原や砂漠や大海原を「抜ける」のは、閉所からの脱出に思える。

人の過剰な内省について書かれた本を読みたくなって探してみたけれど、これぞというのが見つからないので、以前から読みたくて手の出なかった長井真理『内省の構造』岩波書店の手頃な出物を古書で見つけて注文した。

西田幾多郎評伝にたびたび出てくる病垂れに久と書く「疚しい」が読めないので辞書を引いたら「やましい」だった。病垂れに久もまた過剰な内省に近い。

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