【いとこいろいろ】

【いとこいろいろ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 24 日の日記再掲

母は 10 人以上も兄弟姉妹のいる人だったのでその子どもたちである「いとこ」まで出席する冠婚葬祭はたいそう賑やかだった。

母が他界し、兄弟姉妹も 6 人を残すだけになってちょっと寂しい。それでもちょっとだけ寂しさの慰めになるのは、「いとこ」の子どもたちが成人して冠婚葬祭の席に現れるようになったことである。

「ねぇ、いとこの子どもって僕たちから見て何と呼ぶんだっけ」
と従姉(じゅうし)に聞いたら
「いとこの子どもは【はとこ】だよ」
と言い、それは違うのだけれど年上の女性が言うことなので一応聞き流す。

【はとこ】というのは【またいとこ】のことであり親同士がいとこである子ども同士の関係のことであって【いやいとこ】とか【ふたいとこ】とも言う。東北地方で言う【はいとこ(再従兄弟)】がつづまったものかもしれない。

僕のいとこの子どものことは【いとこちがい】と言う。【いとこちがい】は僕からいとこの子どもを見る場合も、いとこの子どもから僕を見る場合にも用い、なんとなくわかったようでわからない言葉である。

もっとしっくり来る言葉がないかと広辞苑を引いたら、【いとこおじ・いとこおば】という言葉があって、父母のいとこのことをそう呼ぶとある。いとこの子どもにとって僕は【いとこおじ】であり、ということは僕のいとこの子どもは僕から見たら【いとこおい・いとこめい】であり、これは広辞苑に載っていないがなかなかしっくり来るように思える。

いとこの子どもたちは僕のことを「おじさん」と呼ぶのであり、厳密には【おじ】ではないけれど【おい・めい】からそう呼ばれたように嬉しいので、いとこの子どもたちを【いとこおい・いとこめい】と呼ぶことに決めた。

写真上:おしばさん(小芝八幡社)境内で話しをする人々。わけもなくこういう光景が好き。


写真下:法事を終えて帰って行く伯母たち。静鉄入江岡駅にて。母がいなってみると「伯母」が「母によく似た女性」という見方に変わってきたのが不思議だ。

Data:RICOH Caplio R1 

母の葬儀に来てくれた【はとこ】同士を見ていたら「(あの子たちの子ども同士は何と呼ぶのだろう、呼び名がなくなった頃には親戚関係も希薄になって忘れ去られていくんだろうな)」と思ったりする。

【いとこ】で広辞苑を引くと【いとこおおおじ・いとこおおおば】などという呼び名もあって祖父母のいとこのことである。祖母のいとこに接する機会が多かったのでこれはピンと来る。祖母の従妹(じゅうまい)や従弟(じゅうてい)はとても祖母に似ていた。祖母の旧姓は【松井】であり、野球選手の松井秀喜に骨格も容貌もひどく似ていたので、松井秀喜が年老いたらきっと【いとこおおおじ】そっくりになるだろうな、と思う。

さらに広辞苑を引くと【さしわたしのいとこ(差渡しの従兄弟)】とか【かけむかいのいとこ(掛向の従兄弟)】などという言葉があり、それは直接血の繋がりのあるいとこに限定した呼び名である。濃い関係の世界ではそういうことにも厳密なのだろう。

【いとこ】というのは微妙な関係なので言葉のいとこたちも面白い。
広辞苑によれば、埼玉地方では母方のいとこを【むぎのいとこ】、父方のいとこを【こめのいとこ】と呼んだという。なんとなくわかる気がする。

そういえば祖母から【みいとこ(三従兄弟)】という言葉を聞いたことがあるような気がし、兄弟姉妹の子ども同士が【いとこ】、その子ども同士が【はとこ】であり、その子ども同士(兄弟姉妹の曾孫同士)を【そのまたいとこ(其の又従兄弟)=みいとこ(三従兄弟)】と呼ぶのだそうだ。広辞苑には「(三河地方でいう)」とただし書きがあるので、叔父がいう「うちの先祖は三河の瓦職人」という説は正しいのかもしれない。

【とこぶし】

向田邦子の作品に、卓袱台上の皿にのせられたメザシを兄弟姉妹枕を並べて討ち死にの光景と見る話しが出てきたと思うけれど、そういう見方をする人間が清水にいると「生ジラス」や「ゆでジラス」、「生サクラエビ」や「ゆでサクラエビ」などは食べられないし、サクラエビのかき揚げなんて凄惨をきわめた災害現場のようであり、魚のすり身なんて猟奇事件そのものである。

写真:清水巴町『新生丸』にて。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

だから清水っ子はそういうことを考えないことにするのだが、
「とこぶしのバター焼きをちょうだい」
と言って二つ並んで出て来たりすると、「(このふたつのトコブシはどういう間柄なのだろう)」としみじみ見入ってしまう。岩棚の隙間に貼り付いている姿が床に伏しているようなので【床伏】と書く、などと聞くともっと切ない。切ないなぁ……などと思いながら食べるとグッと酒が弾んだりするのが人間の業の深さである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ヒメサザエさんの秘密】

【ヒメサザエさんの秘密】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 23 日の日記再掲

静岡県清水入江、柳橋たもとにある割烹玉川楼で四十九日法要の祓いをお願いしたら料理の中にヒメサザエがあった。

だからどうなんだ……と思いつつヒメサザエの蓋が妙に気になり、ひょいと胸ポケットに入れてきた。

ヒメサザエの蓋は触れば触るほどよくできている。

ヒメサザエさんはヒメサザエさんという固有の品種ではなく、ただの若いサザエさんなので、ヒメサザエさんの蓋がよくできているのなら大きなサザエさんの蓋も当然よくできているのだけれど、ヒメサザエさんはサザエさんより小さい分だけ感心のされ方で得をしている。

写真:上=蓋の内側、下=蓋の外側。
Data:RICOH Caplio R1 

法要に集まってくれた親類には申し訳ないけれど、食事の席で退屈していじっていたらサザエさんの蓋は奥が深い。

蓋の内側はすべすべの時計回り方向に拡散する渦巻き状になっていて、見ての通り渦を巻くように成長するのだろうが、人の爪のように身と一体化している訳ではなくて、吸い付けられているだけのようで強く引っ張るとペロッと取れる。一体化していない蓋が大きくなるための材料をサザエさんはどのように供給するのだろう。
 
蓋の外側はざらざらの反時計回り方向に拡散する渦巻き状になっていて、このざらざらはヤスリそのものである。平板だったら鮫の皮などよりはるかに良いワサビがおろせそうで、試しに指の爪を磨いてみたら驚くほどよく磨ける。蓋の外側がヤスリであることでサザエさんはどんな恩恵を受けているのだろう。

サザエさんの蓋は貝殻という潜水艦のハッチである。ハッチを開けてサザエさんが外に身体を出すとき開けたハッチをどうするかというと、グイッとハッチを内側に引き入れてしまう。ざらざらのヤスリには磨り減ったように細かい突起がない部分があり、そこを支点にして殻の中に回転させて引き込むのだろう。

東京には銅板に目立てして良くおろせるおろし金を作る職人がいる。手に持った鏨(たがね)を少しずつずらしながら玄翁(げんのう)で叩いて刃を立てていくのであり、機械で大量生産されるおろし金が足元にも及ばないほど良くおろせるという。微妙な粗密に単純な規則性がないからだ。

サザエさんの蓋のザラザラもまた良くおろせるおろし金のような出来映えだが、この細かい突起の並び方にも規則性がないのだろうか。規則性はあるのだけれど突起が螺旋状に育っていくとき中心から外に向かって拡大していくような螺旋(対数螺旋という)になっているので「規則性が複雑になっている」のではないだろうか。機械で目立てするときに刃や板を回転させながら対数螺旋状にサザエさんの蓋のような突起を作っていくと良いおろし金が作れるかもしれない。

ザザエさんの蓋には人の手業に匹敵するような細工が施されて外敵から身を守っているわけだが、それでも海中にはこのサザエさんを食べてしまう強敵があり、それはなんとヒトデである。ヒトデが人の手作業のような匠の技でサザエさんに挑戦する様子もまた興味深い。

【オーパ!巴川】

大きな魚であるというだけでドキッとする方なので、海のようにも見える異国の大河で見たこともない奇っ怪な姿をした巨大魚を嬉々として釣っていた開高健はすごいなぁと思う。

海のようには見えないが異様にゆったり堂々とした流れ方をする(流れていなかったり逆流したりしている)という点において静岡県清水を流れる巴川は大陸の大河並である。

写真:右は柳橋、左は玉川楼。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

9月18日、玉川楼での法事を終え、大好きな江尻の居酒屋に寄ったら常連客が釣りの話をしており、玉川楼脇柳橋付近で釣り上げられた巨大鱸(すずき)の写真を見せてもらった。

かつて巴川べりで立ちションしていたら水面をゆっくり移動するサメの背鰭(せびれ)を見たと言う友人(匿名希望)もいるので、巴川にはもっともっと巨大で意外な魚が生息しているのかもしれない。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【海辺へ通う道】

【海辺へ通う道】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 21 日の日記再掲

桑田佳祐が書いた『海』「海辺へ通う道」という部分が好きだ。そのフレーズの部分だけが胸がキュンとするほど懐かしい。海に親しんだ者はそういう胸がキュンとするような「海辺へ通う道」の思い出を持っている。

写真上:『三保飛行場』脇から海辺へ通う道。


写真下:清水港内へ陥入していく海は道のように見える。
Data:RICOH Caplio R1 

静岡県清水三保、先端には小型飛行機が離着陸する小さな飛行場がある。

『三保飛行場』脇から海辺へ通う道は南東に延びていて、夏草の中に踏み分けられた道を歩いて海辺に立つと波打ち際は西北西に続く。その波打ち際をかすめて駿河湾は清水港へと左回りの渦を巻いて吸い込まれるように陥入している。『三保飛行場』沖の海は潮の流れが踏み分けた「港へ通う道」になっている。

西北西に竜爪山や山原中継所などお馴染みの清水の山々がそびえ、港内に渦巻き状にカーブしながら入港すれば、興津第一・第二、袖師第一・第二、袖師船溜、江尻船溜に続いて清水市街地が見え日の出埠頭、富士見埠頭へと続く。

勢いよく陥入した海もやがて、かつて海水浴場があった折戸湾に突き当たって果てることになり、「通う道」には必ず果てがある。海辺へ、港へ、そして林へ通う道もいつかは果てるわけで、そういう果てを知っているからこそ、胸のキュンとするような感傷を楽しみに変えて人は生きている。

秋分の日へと続く今週もまた夏の果てを経て冬へと「通う道」である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【岬にて】

【岬にて】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 19 日の日記再掲

母の四十九日法要前日、清水に到着して日暮れまで時間があったので三保灯台へ。1912(明治 45 )年建造、我が国初の鉄筋コンクリート製灯台(正式名称:清水灯台)のある、この三保半島最東端を吹台ノ岬という。

渚の小石は一つひとつが人間の思い出が凝縮したもので、岬はそれらが流れ着く終着駅であり、打ち寄せる波は涙なので塩辛い。

思い出を作ることこそ、人が一生を通じて行う究極の仕事であるとも言えるので、そうだとしたら岬の小石はいくらあっても数が足りなくなりそうに思うけれど、決して足りなくなることはない。なぜなら、思い出は人の死とともに一つまたひとつと波間に消えて行くからである。

写真上:駿河湾越しに母が生まれ育った西伊豆が見える。
写真下:富士山の手前にもいくつか岬が見え、その先にある病院まで9ヶ月間母を車に乗せて隔週通院をした。
Data:RICOH Caplio R1 

思えば 2004 年 9 月。郷里で再びひとり暮らしをすると言い出した母を清水に連れ帰り、隔週の病院通いが始まり、診察が早く終わった秋の日の午後、僕は母を車に乗せてこの海岸に来た。

母は生まれて初めて海と出会ったように、ふらふらとした足取りで波打ち際まで歩き、波に手の甲を洗わせてしゃがみ込んでいた。

半年の命と言われて絶望した母は、まさか 1 年も東京で生きるとは思わなかったそうで、予想に反して 1 年間も生きてしまい、それでも身体がだんだん弱っていくのを感じ始めてから、残された日々が惜しくなった、とメモに書き残していた。

写真上:ちょうど 10 年前、この三保灯台下の遊歩道に母と子犬だったイビを連れて来た。50 歳を過ぎて走る母を見たのは初めてだったので驚いた。10 年後に命が尽きることを知らなかったからこそ、それからの 8 年間を母は愛犬とともに濃密に生きた。
写真下:三保灯台にカラスがとまって首をかしげていつまでも覗き込んでいた。自分が映る鏡面が珍しいのか、もしくは中にある光る何かが欲しいのだろう。
Data:RICOH Caplio R1 

あとこれだけの日々しか生きられないと聞いて絶望し、予想外に生きてしまった日々を振り返ってこうすれば良かったと後悔する。予想がついてもつかなくても人は人生の岬に立つと辛いのだと母は書き留めていた。

今度こそ釣れますようにと竿を思い切り振りかぶって遠投し、キリキリとせわしなくリールを巻いて引き寄せつつ落胆し、また思い切り振りかぶって遠投し……という動作を日暮れまで繰り返す釣り人はいかにも岬に相応しいように見えたりする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【モモゾノ】

【モモゾノ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 18 日の日記再掲

9 月 18 日が母の 1 週間早い四十九日法要だったので 17 日に帰省した。

仲の良い魚屋一家と一緒に食事が出来ることになり「日記にあった『モモゾノ』にみんなで行ってみませんか」ということになった。

子どもがいないので、ファミリーレストランに子連れで出掛け、うるさい子どもたちに
「さあ、おまっちゃ何でも食べたいもんをたーんと食べなよ」
などと調子の良いことを言って、自分はビールをバカ飲みするオヤジを演ずるのが夢の一つだったので嬉しい。

6 人席がありそうなので 2 階に向かい、階段を上っりきったら、突如色の白い裸の少年がこちらを向いて立ち小便をしているのにギョッとして笑ってしまう。

写真上:大和屋前から見た清水駅前銀座商店街入口。1 日の通行人量が増えているという。
写真下:『モモゾノ』2 階のジュリアン坊や。本家ベルギーでは火伏せのお守り説も。
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8 

飲食をするために入ってくる客の方を向いて、小便をする子どもの像が置かれているのが凄い。だが、小便小僧生誕の地ベルギー(ブリュッセル)に伝わる伝承を調べてみると、こういう小便小僧の飾り方というのは決して不潔でも無礼でもなくて妙に縁起が良くおめでたく感じられたりし、こういうのを見て大らかに笑えるのが健全な精神を持つ大人の証拠かもしれない。

現役時代の王選手は球場に向かう途中で霊柩車とすれ違うと
「やった!今日もまたホームランだ!」
と思ったといい、そういう負を正に転じる思考を持てたからこそ「世界の王」になれたのだろう。『モモゾノ』2 階への階段を上り小便小僧の放心放尿を見るたびに
「やった!今日も快食・快便・快勤・快眠だ!」
と思えることこそファミリーを重んじる清水っ子の心構えであり、そういう意味で『モモゾノ』の小便小僧は清水っ子の「心のおしぼり」である(ほんとか?)。

写真上:駅前名物ナスソバ、甘口である。おいしい。
写真下:こちらはエビソバ、サッパリ味である。酒呑みはこっちがおいしい。
Data:RICOH Caplio R1 

それにしても外から見た通りこの店は繁盛していて、店員もニコニコ愛想がいいし、客層も意外と若くて、キャッキャとあちこちのテーブルで歓声が上がり、何となく景気の悪い清水にしては景気がよいのが意外であり嬉しくて、複雑な心理で憂さを忘れる。

もともと中華料理から発展した店なのか中華メニューが多く、気になっていた『駅前名物ナスソバ』も中華料理だった。駅前の楽しみがまた一つ増えた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【陸の息、海の息】

【陸の息、海の息】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 14 日の日記再掲

はっきり言って年老いた親を介護しながらの同居は息苦しい。

年老いた親に限らず人間同士が同居するというのは、ある程度互いが自立して勝手気ままができるから風通しがよいのであって、じっとり汗ばむような依存関係になると毎晩の団らんが息苦しくてたまらなくなる。

九月中旬とはいえ蒸し暑い夜はことさら息苦しく、団扇を顔の真正面に向けて思い切り扇ぐと強い風圧で空気が口や鼻に向かって供給過剰となり呼吸が困難になる。台風の日などに向かい風に向かって歩くと苦しいのと同じだ。

9 月 4 日日曜日の静岡県清水袖師町。
JR 清水駅東口駅前から袖師臨港道路通称しみずマリンロードを、東亜ゼネラル石油のタンクを右手に見ながら北北東に自転車で全力疾走してみる。風を真正面に受けて息が苦しい。小学生の頃、伯父のポンポン(清水ではバイクのことをそう呼んでいた)に乗せられて、袖師海水浴場へ通った思い出の道である。
 
息が苦しくて「もうダメ!」と思う頃、右手に大きなコンクリートで囲まれた湾が現れ、それが清水港袖師船溜まりである。もう海水浴場の面影すらない※。

……と書いたら伝言板で、袖師船溜は昔から船溜だったのであり、袖師海水浴場は庵原川を渡った北側だったと教えていただいた。そうだそうだ、思い出した。橋を渡ってポンポンを停めるとコンクリの欄干近くから海水浴場の砂浜に降りた記憶がある。

袖師船溜と早朝の釣りをする恵比寿さま
Data:RICOH Caplio R1

清水の岸壁にいると陸風・海風(りくふう・かいふう)が吹くのがよくわかる。

日中は海より陸の方が早く温まりやすいので上昇気流が発生して気圧が低くなる。そこへ海から冷たくて重たい風が吹き込むのが海風である。逆に夜になると海より陸の方が早く冷えやすいので風向きが逆転し、陸から海へと吹くのが陸風である。陸風は穏やかだが海風はかなり強く吹くことも多い。

風が吹くと魚が釣れないらしいので、岸壁の釣りは海風が吹く前、早朝の釣りがよいのだと思う。

午前中遅くなってから吹き出す海風に向かって海の匂いを嗅ぐのが好きだ。強風のときは前に身体を倒し気味にし、息をするのがやっとのくらいに苦しいときもあるけれど、なぜかそうしているのが好きなのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【トップハット】

【トップハット】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 12 日の日記再掲

静岡県清水万世町。コーヒーの名店『トップハット』に入ってみる。ひょっとすると 25 年振りくらいかもしれない。

子どもの頃、この辺りは賑やかで旭町、島崎町、万世町、巴町など人が掃いて捨てるほどうようよ歩いていたけれど、今は当時の面影を偲べば見る影もないほどに閑散とした町になってしまった。

中学生時代、賑やかだったのは町ばかりでなく、清水の『トップハット』といえば伊東ゆかり、園まり、中尾ミエなどと並んで有名だった某女性歌手の失踪騒ぎでマスコミに登場したりし「すっげー『トップハット』って全国的に有名じゃん!」などと大喜びし、大騒ぎし、妙な誇りを抱いたりしたのである。

すっかり静かになった街であらためて『トップハット』の建物を見上げ、けっしてこういう商売に適した立地条件とも思えない場所でよく今日まで頑張られているなぁ、としみじみ昔を思いだし、恐る恐るドアを開けて中に入ったらびっくりした。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

25年間何事も無かったかのようにのんびりコーヒーを飲む客で満員だし、次々に客が回転して活気に溢れている。

近所の常連がぶらっと立ち寄ったという風情の客もあれば、美味しいコーヒーが飲みたくてわざわざ車を運転してやってきたらしい家族連れもいる。

出てきたコーヒーを味わい「(トップハットのブレンドって昔からこんなアメリカンローストだったかしら)」と思いつつも、東京でひどいアメリカンを飲んでいるので美味しくて思わずお代わりを注文する。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

はっきりいって旧清水市より旧静岡市の方が圧倒的に小洒落た店が多い。

それでも他地域から来た友人たちを連れて行きたくなる店が清水にも何軒かあり、そういう店は繁盛の度合いに差はあるものの、ちゃんと常連客があって地元の力で下支えされている。静岡より清水で商売するのは楽じゃないけど、ちゃんとした店なら客は近場で消費する気はあるのだと思う。

カップに印刷された山高帽(トップハット)が笑っている。

「山高きが故に貴からず樹有るを以て貴しとなす」
(やまたかきがゆえにたっとからず/きあるをもってたっとしとなす)」

【新生丸】

9 月 10 日、友人をメールと携帯電話で一本釣りし、母が生前ひとかたならぬお世話になった礼を兼ねて巴町の名店地魚料理の『新生丸』へ。

午後5時の開店前に駆け込んで男 2 人分のカウンター席を確保するが、あっという間にカウンターも座敷も満席になり、遅れをとった客は「申し訳ない、いっばいになっちゃったもんで」と断られて悔しそうに苦笑いで立ち去って行く。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

場所も良くないし、古びた小さな店だけれど、開店 30 分で連日満員御礼になる店が清水にもある。

地元で良い店を見つけた客はみな幸せそうであり、『新生丸』の暖簾もまた笑っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【魚はねる港町雑記】

【魚はねる港町雑記】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 11 日の日記再掲

9 月 10 日。母の四十九日法要準備のために帰省する。

帰ってくるなら一刻も早く帰ってこいと言う、病気になってひどくせっかちになった母がいなくなったので、午前 9 時 21 分発の東海道本線伊東行きで熱海まで、熱海駅でホーム向かい側に停車中の 11 時 14 分発浜松行きに乗り換えて清水 12 時 22 分着、というのんびりした旅をして清水に帰る。

特急料金 2,100 円が浮いた分で、昼過ぎに着いて清水橋脇にリニューアルなった『清水うなぎ店』のうな丼を食べようと企んだのであり、我ながら賢い計画だったのではないかと嬉しい。

美味しい!

写真:『清水うなぎ店』とうな丼。
Data:RICOH Caplio R1
DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

リニューアルといえば
「もし高田のソフト屋が復活したら 10,000 円分おごるぞ!」
と友人たちに宣言したので、本当にソフト屋として復活するのかしらと気になって見に行ってみたが、このカウンターはどう見てもソフトクリーム屋復活を予感させる。

待ち遠しい!

写真:ソフトの高田改装中。
Data:RICOH Caplio R1

そろそろ美濃輪稲荷赤鳥居の修復工事が終わった頃だと思うので到着後自転車を駆って見に行った。美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋には非常によい魚が豊富に出ていて、母が元気なら喜びそうだが自炊で一人の夕食は耐え難いので目で味わって我慢する。振り向けば鳥居も見事真っ赤に修復を終えていた。

眩しい!

写真:美濃輪稲荷大鳥居修復完了。
Data:RICOH Caplio R1

9 月 11日朝。
午前 9 時 2 分の東海 2 号で帰京するため清水駅に向かう途中、稚児橋の上から巴川をぼんやり眺めていたら、魚が連続して跳ねるのでデジカメのシャッターを押したらちゃんと写っていた。
 
嬉しい!

写真:稚児橋下流ではねる魚。
意味もなく魚の部分拡大。 
Data:RICOH Caplio R1

清水のうな丼が美味しかったり、懐かしのソフトクリーム復活が待ち遠しかったり、ペンキ塗り立ての赤鳥居が眩しかったり、魚が跳ねた瞬間が写真に写っていることが嬉しかったりする自分に気づいて嬉しい。

そういう原初的で他愛のない感動に震えることこそ、微風に雑草が揺れるのに似た、身の丈相応の生きる喜びなのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【 1 億 2600 万通りの夏の終わり】

【 1 億 2600 万通りの夏の終わり】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 10 日の日記再掲

暑ければ夏、寒ければ冬と思うのが季節の感じ方として最も簡素で気持ち良く、きっと犬はそんな風に生きている。
あまりに暑いので「夏」のつもりで話しをすると「何言ってんのよ、暦の上ではもう秋よ」などと笑われ、暦の上」というのがどうにも苦手で「何言ってんだよ、暑けりゃ夏、寒けりゃ冬でいいじゃないかワン!」と吠えたくなる。

写真:次郎長通り裏の犬たち。
Data:RICOH Caplio R1

現代日本では 6・7・8 月を一般的に夏と呼ぶが、陰暦では立夏から立秋までの 4・5・6 月を夏と呼ぶのでややこしい。その点、天文学的な考え方は人や犬の感じ方に沿ったもので、「クソ暑いワン!」と吠えたくなる夏至点から秋分点まで太陽が移動する間の 6 月 22 日前後から 9 月 23 日前後までを夏と呼ぶ。

小学生時代の「夏」は学校の終業式で始まって始業式で終わるという明快なもので「夏」「夏休み」と同義だった。

中学生になって色気づくと、夏休み中なのに他愛のないことで感傷的になって勝手に夏の終わりを感じたりするようになり、大人になって老けてくるといろいろな出来事に接するたびに、ひと夏に何度もの夏の終わりを感じたりし、それが「もののあはれ」を知るということなのかもしれない。

今年の夏は 8 月 8 日の朝、母の容態が急変したと病院から電話がかかってきた時点でぷつりと終わっている。

そして母の葬儀が終わり、初七日も済んで 1 ヶ月半振りに戻った東京で、いわし雲が飛ぶ青空が高く感じられた時点でもう一度夏は終わっている。

静岡県清水美濃輪町、次郎長通りを歩いていたら『マツヤ靴店』店頭から浮き輪が消えていた。

写真上:『マツヤ靴店』の秋。


写真下:『マツヤ靴店』の夏。 
Data:RICOH Caplio R1

無期限の長い夏休みと決めて介護帰省し、クマゼミの声で溢れかえる美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に、毎日のように母の夕食のおかずを買いに来ていた頃は、色とりどりの浮き輪がかかっていて、「(そうか、年齢や身体の大きさに合わせて浮き輪にも小さいのから大きいのまでサイズが取りそろえてあるのか。可愛いなぁ!)」などと思ったものだった。

店頭から消えた浮き輪が告げる夏の終わりもまたもの悲しく、少なくとも人口の数だけこの国には人それぞれが感じる小さな夏の終わりがあるんだろうな、と感傷的になる三度目の夏の終わりである。

【美濃輪稲荷赤鳥居修復】

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋から「美濃輪稲荷赤鳥居修復中」という写真添付メールが届いたのが 9 月 2 日であり、翌日帰省して行ってみたら赤いペンキを塗っている最中だった。

Data:RICOH Caplio R1

母の四十九日法要の準備のため今日の朝から帰省するが、間もなく天文学上の夏の終わりを迎え、次第に秋の色合いを身にまとっていく美濃輪町に、いかにも秋らしい真っ赤な大鳥居が出現しているのを楽しみに荷造りをする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【食堂の大滝秀治】

【食堂の大滝秀治】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 9 日の日記再掲

母の店の常連だった若者が、
「食べたいものを食べたいだけ食わしてやるんてうちへ来い」
と言うので遊びに行ったら JR 東海道本線を跨ぐ跨線橋『清水橋』下にある食堂だった。

橋の下になっている店内に入ると沢山のおかずが皿に盛られて硝子ケースに並んでおり、セルフサービスで好きなものを好きなだけとって食べるのであり、汗まみれの労働者で満員なので中学生だった僕はちょっと気圧された。その食堂はやがて中華料理店『らいみん』として商売替えし、橋の架け替えで旧東海道沿いに移転して『辻のらいみん』となり、ニンニク嫌いだった青年店主もすっかりラーメン屋のおっちゃんになっている。

9 月 5 日月曜日は入江地区のビン・かん・ペットボトル収集日だったので早起きしてゴミ出しし、清水駅 9 時 2 分発の東海 2 号に乗って帰京するため、清水駅に向かう。


DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

ひどい雨降りだったので入江岡から新清水までひと駅静鉄電車に乗り、江尻船溜岸壁に行ったら何軒かある食堂は早朝から開店していた。

先週は『河岸食堂どんぶり君』に入ったので今回は『望月商店』に入ってみる。


写真:望月商店店内にて。反対側には船の模型がたくさん飾られている。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

清水橋から波止場踏切を渡って江尻船溜の方へ歩く道沿いにも、かつては大衆食堂あった。

大衆食堂というのはある区画にまとまっていることが多く、当然店によって差があるはずなのに、どの店にもそこそこに客が入っており、それぞれに常連客がついているらしい。

写真上:注文の料理が出て来るまで清水おでんをつまむ。ちゃんと落下防止に串の先に小さなコンニャク片がついている正統派である。

写真下:焼き魚定食。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

母が他界した翌日に駆けつた八十過ぎの伯母が、何のたとえか忘れたけれど面白いことを言っていた。
 
「旅行に行って大きな旅館に行くでしょう、トイレに行くと扉がずらっと並んでいるよね。どこに入ってもいいんだけど、ここと決めて入って用を足すと、次回も必ずその扉を開いちゃって、その旅館を出るまでずーーーーっと同じトイレに入るだよね。ねぇ不思議だ。人間というのはそういうものかもしれないよ」
 
わかったようでわからない不思議な話で笑ってしまったけれど、たくさんある大衆食堂の一軒に入って食事をしたら、人は毎日「ただいま」と言うように、同じ店の暖簾をくぐるのかもしれない。大衆食堂は選ぶことのできない、比べてはいけない、ひとつだけある「家庭」に似ているような気がする。

望月商店の朝ご飯はとても美味しかった。常連客が何人かいたが魚市場関係者らしい。

厨房の壁に誇らしげに1枚だけ色紙が貼られていて後光を放っているようであり、そこには「大滝秀治」と署名があった。ウーン、渋いけどとてもよく似合う。

【餃子倶楽部】

9 月 4 日日曜日、浜田町の『かしの木亭』に行ったら珍しく早じまいしており、餃子を食べたいと思ったら食べずにはいられないので入江岡跨線橋を下り、稚児橋を渡って江尻町の『餃子倶楽部』へ行った。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

テレビ番組の取材中であり、若いオダックイ風の日本人と南米系(?)のガイジンが餃子やチャーハンやラーメンをバカ食いして対談していた。どこかで見たことがあるような無いような……。

撮影後ガイジンの方に嬉しそうに話しかける客が何人もいたので地元では有名人なのかもしれない。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【巴川】

【巴川】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 8 日の日記再掲

母が他界したことの予想通りの心の痛みとは別に、思いがけない心の変化があって戸惑うことが多い。

母が末期のすい臓ガンとわかった 2 年前の夏から煙草を一本も吸っていない。
母は娘時代に患った肺結核で片肺を失っていたので、なるべく母の前では煙草を吸わないようにしていたのだけれど、さらにガンであるとわかったので願をかけたわけではないけれどタバコを止めることにしたのだ。そのころ一日の喫煙量が 60 本で、これはちょっとひどいなと思ってもいたのだ。

何の禁断症状もなくふわっと喫煙を止めて丸二年になる。介護中に吸いたいと思ったこともないタバコが、母の遺品整理で心がきりきりと痛むたびに、吸いたくて吸いたくてたまらなくなるのに驚いた。線香やロウソクを見るたびに「(ああ、これがタバコだったらなぁ)」などと思ったりする。こんなことは二年間に一度もなかったことなのだ。

友人によれば、喫煙の習慣というのは幼い頃の母乳を唇で探し求めて吸いつく=口で乳首にしがみつくことによって依存する体験が十全に得られなかったことによる口唇愛(こうしんあい)の変形したものなのだそうだ。そういわれてみると母を失った寂しさと喫煙願望は容易に結びつく。

   ***

戸田書店刊『季刊清水』38 号が出来上がって書店店頭に並んだらしい。

表紙デザインを担当させて頂いて 3 号目であり、今回も見開き 2 ページで巴川に関するエッセイの依頼もいただいた。

ファイルの日付で確認すると 7 月 25 日となっており、母がいよいよ衰えてきて大変な時期で、こちらの怠慢も重なって遅れ遅れになっていたので、ドタバタとしたデータ入稿となり関係者にご迷惑をおかけしたのを思い出す。

写真上:巴川と四方沢川の合流地点「よもざわはし」橋上から。
写真下:巴流(ぱる)大橋。巴川と塩田川を跨いでいる。
Data:RICOH Caplio R1

「巴川というもうひとりの母」と題して原稿を書いたのだけれど何を書いたかまったく覚えていない。ファイルの日付は 2005 年 7 月 24 日 16:07 になっているので、母に昼食を食べさせたあと蒸し暑い 2 階に上がって夕食の買い出し前に書き上げたのだろう。

静岡県清水能島。
祖父母の家は堀込橋上流の川端にあった瓦工場だった。入江新富町で生まれた僕は両親とともに、母が少女時代結核で隔離されていた離れで暮らしていた時期があるので、アルバムをめくると巴川の写真がたくさん出てくる。

「巴川」について何かを書くと必ず昭和三十年代初頭の綺麗だった巴川の話になってしまい『季刊清水』にもそんな思い出話を書いたのだと思う。

写真上:塩田川。この川は水量が不安定だが魚影が濃い。小学生時代、見事な虹色の婚姻色が出たヤマベを釣ったことがある。
写真下:9月3日の巴川。向こうに見えるのは堀込橋と静清バイパス。
Data:RICOH Caplio R1

介護をしながら仕上げた表紙とエッセイは母に見せることができなかったけれど、「店頭に並びました」と言われて意外な心境の変化に驚く。

清らかだった昔の巴川が大好きなのだけれど、昔の巴川よりいま現在、今日この時の巴川の方がもっと好きになっているのに驚く。巴川に限らず昔の清水が大好きだけれど、いま現在、今日この時の清水の方が今はもっと好きなのである。

そう思って、母が亡くなった後この日記に掲載するために撮影している写真を見ると、感傷的な黄昏時は別にして、明るい日中の写真は初めて清水の街に生まれ出たように嬉々としているのに気づく。

母乳を唇で探し求めて吸いつく=口で乳首にしがみつくことによって依存する体験によって始まる口唇愛は物理的に母親から離れることによって【永遠の母親】という根源的依存対象を獲得するという高次な接触の仕方に成熟するのだそうだ。

非常に高尚な話過ぎて友人の言わんとすることの全ては理解しがたいけれど、「垂乳根(たらちね)の母」からも「巴川というもうひとりの母」からも離れることによって成熟したのかもしれないなぁ、と都合のいいとこどりして自分のことをそう思ったりしている。

【 5.6 キロ】

巴流(ぱる)大橋から巴川河口までは 5.3 キロあると標識に書かれている。

僕にとっての巴川は巴流大橋の上流 300 メートルにあった祖父母の家から下流域を意味している(上流にはほとんど行ったことがなかった)ので、巴川の全長は 5.6 キロメートルだとも言える。

そのわずか 5.6 キロメートルの流域に語り尽くせない思い出があり、そしてこれからその数倍もの思い出が作って行けそうな気がするのであり、それが人であれ物であれ、凡庸なものを好きになるということの凄味なのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【掖済会(えきさいかい)】

【掖済会(えきさいかい)】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 7 日の日記再掲

母親が他界して無人になった家を片付けていると、日暮れれば人恋しくて夜の巷にさまよい出たくなるし、夜明ければ一刻も早く薄暗い家を出て、太陽の下に走り出したくてたまらなくなる。まるで子どもだ。

JR 清水駅の東は 150 メートルほどでもう海になり、東口駅前の住所は愛染町である。清水駅プラットホームに立つと真っ直ぐ真東の海へ続く道があり、東燃ゼネラル石油脇を通り飛島冷蔵庫団地脇を抜けて海に突き当たっているが、突き当たるまでのアプローチは袖師町のものである。

写真上:袖師町の突き当たり

写真下:島崎町の突き当たり

Data:RICOH Caplio R1

防波堤にはテトラポッドが並べられ海を挟んだ対岸に三保半島が見える。中学高校時代から海辺に走り出ると、ともかく突き当たりまで突き進み、防波堤とテトラポッドと海によって行く手が遮られているのを確認すると、何かに納得したようにくるっと自転車を反転して帰ったものだ。

今でも岸壁に自転車でやってきて海面を見たり釣り人の釣果をぼんやり眺め、踏ん切りがついたかのようにくるっと反転して帰って行くおやじをみると、自分を見るようで何とも微笑ましくなる。

海に突き当たって帰って行く時は少しだけ子どもから大人になったような落ち着きを感じるのが不思議であり、子育てをするとき子どもが突き当たる壁になってやれる父親であるということは、海になってやるということかもしれない(かなり強引だ)。

写真上:国鉄清水港線跡は遊歩道になっている(島崎町)。

写真下:この看板がないと掖済会の存在に気づかなかった。

Data:RICOH Caplio R1

9 月 3 日土曜日の朝、海に思い切り突き当たって帰る途中、はごろもフーズとホーネン( J オイルミルズなどという洒落た名前になったが清水っ子は当分ホーネンと呼ぶかも)に挟まれた道を通ったら真西にストックトン橋が見えその向こうに木立の緑が見え、島崎町貧乏恵比須の裏側が見えるのにびっくりし、そちらへ回ったら電柱に『掖済会(えきさいかい)』の文字を見てもっと驚いた。清水に掖済会があるのを知らなかったのだ。

電器メーカーで会社員デザイナーをしていた時代に知り合った年上の工業デザイナーがおり、彼は灯台守の息子だった。父親が配置換えになるたびに各地の灯台を転々とする子ども時代だったという。

その彼が盲腸炎になって手術のために入院したと聞き、見舞いに行ったのが田町駅から歩いた場所にある『東京掖済会クリニック』(東京都港区芝浦)だった。
「えきさいかいって不思議な名前ですね」
と質問して掖済会のことを教えて貰ったのである。

 前島密氏ほか明治政府の要人や海運界首脳約 50 名が発起人となり、当会を設立したのは、明治 13 年( 1880 年)8 月のことでしたが、実質的な事業の開始は、翌 14 年 6 月、東京府南品川にある心海寺の一部を借り受けて「海員寄宿所」を開設したことに始まります。
 当時の船員は、厳しく劣悪な労働環境の下、江戸幕府以来の船方の悪習をそのまま引きずっていたため、これを早急に是正し、生活習慣を改めさせなければ、近代的な海運の発展が望めないと考えたからでした。
 その後、宿泊の提供に加えて、乗船の斡旋、船員の教育訓練、遭難船遺族への弔意・慰安などの事業を行なう一方、船員に対する医療の提供など、幅広く福利厚生に努めてきたところです。(社団法人日本掖済会『掖済会のあゆみ』より)

厳しく劣悪な労働環境の下で働かざるを得なかった船員を救済するために作られた組織であり、「掖済(えきさい)」というのは病み衰えた人の腋に手を添えて助けるという意味だ(前島密が命名)と聞いて胸に迫るものがあったのを覚えている。

江尻掖済会診療所は 1952 年(昭和 27 年)2 月に島崎町の漁民会館内に開設され、船員の健康保持・医療に努め、1958 年(昭和 33 年)4 月からは胸部レントゲン車を整備して地元住民らの結核予防活動もしているという。

全国の主な港町には掖済会の病院や診療所があるそうなので清水にあっても不思議はないのに、改めてその存在を知ってひどく満足し、くるっと自転車の方向を変えて帰宅する。

【あの踏切、あのポスト】

清水中央銀座と巴町を隔てる JR 東海道本線の踏切。

「あの踏切の名前知ってる?」
と友人に聞くと
「知らないなぁ、『あの踏切』だろう」
ととぼける人と
「『銀座の踏切』じゃないの」
と適当に答える人と
「知ってるよ『波止場踏切』だろ」
と正解を知っている人が同じくらいの比率でおり、知らなかった人は銀座の踏切に「波止場」という文字がつくことに驚くらしい。

「じゃあもうひとつ清水駅寄りの小さな踏切の名は?」
と聞かれたら僕は「漁師の踏切でしょ」と答えるのだけれど正式名を知らない。それは「銀座の踏切」という認識とかなり近い。

Data:RICOH Caplio R1
掖済会と前島密で思い出した。

前島密と言えば郵政事業の父である。

近代的郵便制度の創設者。越後高田藩士より幕臣。維新後、駅逓頭となり、「郵便」「切手」などの名称を定める。国字改良論者としても知られる。(広辞苑第五版より)

わが家には定期的に郵便局のゆうパックで新潟県佐渡の米が届くことになっており、介護で忙しいうえに米の心配をしなくて良いのでかなり助かっている。そういうサービスを利用している礼らしいのだが、「感謝の気持ち贈ります」と書かれた箱に入った大きな赤いポスト型の貯金箱が送られてきた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【やんばらづつみ】

【やんばらづつみ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 6 日の日記再掲

山原堤と書いて「やまはらつつみ」ではなく「やんばらづつみ」と読む。
 
山原というのは清水の地名で「やんばら」と読み、市販の地図でも「やんばら」とルビが振ってあるのでヘンな読み方だが正式な読み方である。山原にある人造貯水池の堤なので「山原堤」と呼ばれ、「山原(やんばら)」と「堤(つつみ)」の 2 語がくっついて 1 語となり、後ろの語頭が濁って「づつみ」になるわけでこういうのを連濁(れんだく)という。風呂敷包みを「ふろしきつつみ」ではなく「ふろしきづつみ」と読むのと同じである。「やんばら」自体も「山(やま)」と「原(はら)」がくっつく際に連濁したのかもしれなくて、山原堤という言葉は二重に連濁している。
 
9 月 3 日(土曜日)は海辺まで自転車を漕いで、朝食を江尻船溜(えじりふなだまりと読み、これもまた連濁である)『河岸食堂どんぶり君』で食べ、いったん入江の実家に寄ってから再び自転車を漕いで山を目指して北北西に駆け上がる。
 
母の仏壇は従兄の旧友が営む家具屋で購入し、位牌と一緒に無事東京に届いたので支払いに行くことにしたのだけれど、飯田町静清バイパス脇の店舗ではなく事務所は山原にあるというので、久し振りに自転車を漕いで山原に行くことになったのだ。
 
Data:RICOH Caplio R1
 
自転車で山原に行くのは 38 年ぷりであり、中学生時代に母とふたりでサイクリングして以来である。
 
清水の街で巴川縁や海辺に近づくと風が涼やかになるのを感じるけれど、静鉄山原団地入り口を過ぎ山原公民館あたりを過ぎるとたいして登っていない気がするのに涼やかな山風を感じるのが不思議である。清水というのは灼熱の陽光降り注ぐ真夏でも、
「やい、暑いんて海か山へ涼みに行くか?」
と言って自転車を漕げば(そんなやついるか?)すぐに避暑ができる土地なのである。
 
静鉄ジャストライン山原終点を山原川に沿って右に折れると山原堤、直進すると『特別養護老人ホームあすなろの家』がある。
 
山原川沿いに遡ると川に群れて泳ぐ魚がおり、たぶんハヤではないかと思う。山原川上流に昔からハヤがいたかなぁ……。
 
 
Data:RICOH Caplio R1
 
中学生だった 38 年前は山原堤まで一気に自転車を漕いで登った気がするのだけれど、途中で息切れし、心臓が飛び出しそうになったので降りて押して上がる。歳のせいとは思いたくないので自転車がママチャリであるせいだ、と自分を慰める。
 
山原堤脇の駐車場に自転車を停めて池のまわりを一周する。38 年前、母と一緒の時は山原農協(現フレッピー)で買ったトマトを池の端に腰掛けて丸かじりしたのだった。
 
そんなことを思い出すとアザミの花でもあるまいに、♪ 山には山の愁いあり海には海のかなしみや……などと哀愁が立ちこめそうになるので、自転車に跨り、溜め込んだ位置エネルギーを一気に利用して灼熱の残暑で焼け付きそうな下界の街に駆け下りる。
 
【アヒル】
 
山原堤の溜め池は 38 年前に比べたら目を覆うほどに汚い。
 
かつてここの水は背筋がぞくぞくするほどに澄んでいて、透き通った水中に魚影は見えず、夥しい数のイモリが時折赤い腹を見せて蠢いているだけだった。
 
どうして山原の池に魚がいないのかと友人に尋ねたら、清冽な湧き水が湧き出して溜まった水なので、綺麗すぎて魚は住めないのだと言われ、小学生時代母に読まされた日本偉人伝の和井内貞行(わいないさだゆき)を思い出したものだった。
 
十和田湖養魚の開発者。陸奥毛馬内(秋田県鹿角市)生れ。魚は棲息しないと信じられていた十和田湖にカパチェッポ(姫鱒)の養殖を志し、これに生涯をささげて成功。(広辞苑第五版より)
 
Data:RICOH Caplio R1
 
濁った池の端にアヒルが数羽いた。ペットとして飼われていたものが捨てられて野生化したのだろうか。公園としての改修工事が終わった池には、アヒルが暮らせるくらいの生物が水中にいるのだろう。
 
行政が中途半端に自然に手を加えると必ずこういうことになり、「自然」と「行政」という 2 語がくっついて「公園」という 1 語となると必ず濁りが生じ、山原堤という場所は名前と併せて三重に連濁している。
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【誕生日】

【誕生日】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 5 日の日記再掲

3 年連続して郷里静岡県清水で迎えた 9 月 4 日の誕生日。

2003 年は母が県立静岡総合病院で末期のすい臓がんだと告知を受けた辛い日だった。

そして 2004 年は、母が 5 人の大家族を離れ、東京から清水に戻って再びひとり暮らしを始めるという、息子としては苦渋の選択を受け入れた日だった。

母ひとり子ひとりの過度に癒着した親子故の別れの苦しみがあり、その中でたくさんの方から励ましの言葉をいただいた。その中に心を手づかみして揺さぶるような、ありがたく忘れられない言葉が二つある。

医学に詳しい友人からは、
「医者の言うとおり、半年と言われれば必ず半年で別れが来る。遺された日々は長くない。長くないからこそ、思い切り今を、癒着した母と子として生きろ」
というものだった。寂しく悲しく苦しいのは子どもも大人も同じであり、寂しくて悲しくて苦しいなら「寂しくて悲しくて苦しい!」と叫びながら生きればよいのだと言ってもらえた気がした。泣くなと言われるより、思い切り泣いていいのだと言われることが、人を数倍も励ますことがある。

ただし「長くないから」と励まされてからが長くて、とくにその後の一年間は母の異様な心の苦しみに寄り添って生きたのである。「(長くないから、と言われたけど長いなぁ)」というのが看護・介護中の正直な感想だった。だが、母に死なれてから振り返ると 2 年間は確かに短かったと思えるので、友人の言葉に嘘はなかったのだとありがたく振り返る。

もうひとつの言葉は、昨年の誕生日に来てくれた2歳年上の友人が言った
「誕生日おめでとう。四捨五入して 100 歳へようこそ」
であり、これは広い空の下にどんと背中を押されて走り出たように、閉塞感からの救いになった。

寂しく悲しく苦しくて泣いても涙を隠さなくていい、人間 49 歳までは四捨五入すれば 0 歳児であり、50 歳からは四捨五入すれば 100 歳の老人なのであって、0 歳の乳児と 100 歳の老人なら寂しく悲しく苦しいと泣いたってちっとも恥ずかしくないのだ、と教えてもらったのである。

   ***

がんばれ、がんばりすぎて泣くのはちっとも恥ずかしくないぞ、という言葉に励まされて母の看取りを終え、青空にひとつだけ取り残された雲のように奇妙に明るい誕生日である。

美濃輪町を目指して久能街道を走ったら上清水大小山慶雲寺のありがたいお言葉が更新されていた。

「今日は今日で新しい よし行くぞ」

【茂知屋のカレー南蛮】

母はカレー南蛮そばが大好きであり、それは親子で気があって嬉しいことのひとつなので、何軒母と食べ歩いたかわからない。

清水次郎長通り商店街のサイトに『茂知屋(もちや)』のカレー南蛮が美味しいと書かれていたので母に話すと「今度行ってみよう」と言っていたけれど、病状が悪化してとうとう叶わなかった。

誕生日なので母への感謝を込めて(?)昼食に噂のカレー南蛮そばを食べに行く。

Data:RICOH Caplio R1

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

おいしい!
カレー南蛮などは所詮新しい創作そばなので、店ごとに自由であって良いと思うけれど、かけそばに昨日のカレーをかけたようなカレー南蛮はどうしてもお金を払って食べる気がしないが、ここのカレー南蛮はかなり理想に近い。
 
きっと母も草葉の陰で地団駄踏んでいることだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【海宿り】

【海宿り】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 9 月 4 日の日記再掲

船溜(ふなだまり)という言葉が出ている辞書は少ない。僕が持ち歩いている辞書で【船溜り】が載っているのは広辞苑だけである。

広辞苑第5版によれば【船溜り】とは「船舶が風波を避けるための碇泊所。船瀬(ふなせ)」だとある。僕のつたない記憶にある【江尻船溜】というのは「風波を避けるための碇泊」という用途はもちろんだけれど、それだけでは言い表せないあわいのある場所だった。

江尻船溜(えじりふなだまり)、かつてこの船溜りで遠洋航海の漁船を見送ったことがある。清水では、
「子どもに早く金儲けさせたければ競輪選手にするかマグロ漁船に乗せろ」
などと言われた時代で、マグロの遠洋航海に二回出ると家が建つと言われた景気のよい時代もある。

長い航海を終えて清水港に船が着くと毎晩歓楽街で豪遊(蕩尽)する船員も多く、旭町で飲み屋を営む母にとっても良い客になっていた。

写真上:清水駅や魚市場や水屋の側から見える江尻船溜まり対岸には魚の冷蔵倉庫群がある。向かって左から、山西水産、江尻水産、音代漁業、山正冷凍、昭和冷凍、三和冷凍、八州水産、渡辺製氷冷蔵であり飛島冷蔵庫団地という名前がついているが島ではない。

写真下:飛島冷蔵庫団地前の岸壁。その先南東側の海から船は江尻船溜に入ってくる。

Data:RICOH Caplio R1

深夜まで浴びるように酒を飲み、
「船に寝に帰るからついてこい、そうしたらいいものをやる」
などと言われてついていくと、船員は岸壁に舫われた漁船内で寝起きしているのだった。暗い港の岸壁に明かりを灯した漁船が何艘も並び、発電機を回すためかエンジン音が聞こえ、重油の臭いが立ちこめていた。

やがて次の出航が近づくと馴染み客を見送る飲み屋の女たちがテープを持って岸壁に集まり、店でたくさんのお金を落としてくれた船員たちに「元気でね、また来てね」と手を振るのであり、僕もまた母に連れられてよく見送りに来た。

毎晩飲んだくれ、喧嘩をしたりして威勢のよかった船員が出航間際になると急におとなしくなって、
「何かを持たせてあげたいけれど」
と母が言うと
「航海中に食べられるお煎餅がいい」
などと甘えるのがおかしく、港にいる水商売の女というのは陸に上がった船乗りの一種母親代わりだったのかもしれず、やさしく見送ってほしいから毎晩散財していたのかもしれないな、とも思えたりする。

清水万世町にあった『花菱デパート』の地下には『銀座中央軒煎餅』の売り場があり、母は自分が好きだった『銀座中央軒煎餅』の大きな缶入りを抱えては見送りに行った。

手渡された煎餅の缶を小脇に抱えてちぎれるように手を振る船員の姿は、母親の乳房から引き離される乳幼児に似ていたように思い出すこともある。

写真上:飛島冷蔵庫団地前から江尻船溜ごしに清水駅、魚市場、水屋方面を見る。方向は真西。中央右寄りにある赤い看板のあるビルが清水駅前の西友。その手前がJR清水駅、正面中央より左の水際に清水魚市場と河岸の市が見える。

写真下:コンクリートの桟橋には釣り人が。JR清水駅前にはこういう釣り場もある。

Data:RICOH Caplio R1

深夜の飲屋街に出て蕩尽するかしないかは別にして、入港した船で寝泊まりしていた船員たちは朝ご飯をどうしていたのだろうか、とふと思う。

清水船溜、漁協脇の岸壁には昔から海を向いて商店が並んでおり、現在は向かって左から大川屋、望月商店、船小屋、深沢商店、みか月、中村屋、水屋の順に並んでいる。食品や飲料、本や雑貨を商い、店内で食事をできる店も多い。

現在は港湾労働者や魚市場関係者などが食事に立ち寄るらしいが、昔は停泊中の漁船員が食事をすることも多かったのではないかと思ったりする。

そういう店のある小さな港に相応しい言葉を広辞苑第5版で探してみると、
 
ふな‐がかり
【船繋り】
船を繋いで港に泊ること。また、その港。ふなとどめ。ふなどまり。かかり。
ふな‐とどめ
【船止め】
船を碇泊させること。また、その所。ふながかり。ふなどまり。
ふな‐つき
【船着き】
船のついて泊る所。ふながかり。はとば。みなと。船着き場(ば)。
 
などという言葉に混じって、
 
ふな‐やどり【船宿り】
船が碇泊すること。また、船中に宿泊すること。
 
というのがあって、そうだよなぁ、遠洋航海から戻った船員たちが船を港に横付けした後も「船宿り」してたっけなぁと思い出す。

そして一番右手にある『水屋』さんはそのものズバリが広辞苑にあり、
 
みず‐や【水屋】
飲み水を売る人。氷水その他の水物を売る店。
 
とあり、それは船溜まりに船宿りしていた人々に対して必要不可欠な商売だったのだと懐かしく思い出す。

【日曜日の朝食】

9 月 4 日、実家でひとりでご飯を食べるのは嫌なので、江尻船溜に行ったらどの店も休みだった。「(そうだよなぁ日曜日だもんな…)」。コンビニの冷蔵庫入りのご飯や、ファミレスの機械的なご飯も嫌なので、仕方なしに清水駅前方面へ行ってみる。

清水駅前に早朝降り立つ人は朝ご飯をどうするのかしらと思ったら、コンビニのローソンはもちろんのこと、マクドナルドが 6 時開店で前を通ったのは7時ちょっと過ぎだったが若者がけっこう入っていた。

ビジネスホテル宿泊客はホテル内の喫茶店で食事をするようになっていたりするので、駅前のホテルでも食事ができそうだ。

DATA:Panasonic LUMIX DMC-FX8

先週に引き続き『茶廊かっぱ』に行き、モーニングセットではなく朝ご飯セットを注文してみる。この店のコーヒーが好きでその美味しさがわかる人なら、コーヒー代を差し引いて考えられれば、ものすごく安いと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 前ページ