【バー 『ブイ』 】

【バー 『ブイ』 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 8 月 10 日の日記再掲)

実家の 2 階で寝る前に、渦巻き蚊取り線香に火をつけようとして母の引き出しを探していたら、懐かしいマッチが出てきた。

懐かしいマッチを手に取ったら、昔むかし、静岡県に清水市という市があり、清水市旭町という町に清水市役所があり、それが現存する元清水市役所ではなく、丹下健三設計によるハイカラな清水市役所だった時代、それをふっと思い出す。

清水市役所左隣りに神戸さんという燃料を商うお店があり、その左に『錦江苑』という朝鮮焼肉店、さらに左隣りが『松坂食堂』、『錦江苑』と『松坂食堂』の間に袋小路があって、その小路の名を『旭町新天地』といった。

おにぎり・お茶漬け・家庭料理という看板を掲げた飲み屋があるほかはバーばかりで、『ブルームーン』『攝』『ワイン』『川路』『フラミンゴ』などという店があり、その中にもう一軒『ブイ』というバーがあった。

おにぎり・お茶漬け・家庭料理という看板を掲げた飲み屋の息子だった僕にとって、『ブイ』というバーはひときわ馴染み深かった。

午後 6 時の開店前に『ブイ』の若いバーテンが立ち寄って、お茶漬け茶碗いっぱいのご飯を豆腐とナメコの入った赤だし味噌汁でかっこんで夕食にするのだけれど、それが毎日毎日続くので、バーテンさんというのは存外実入りの良い職業でもないのかなと思った記憶があり、母に尋ねたらやはり相当の苦労人だった。

宝石箱をひっくり返したような……という喩えを借りれば、整理ダンスをひっくり返したような横丁だった。清水市役所脇の新天地で眺めて暮らした 6 年間のドタバタ人生劇を思い出し、それを二日酔いに喩えれば、3 日間くらいは嘔吐し続けられそうな気もする。

夜が明け、酒臭い店の玄関を開け、新天地の露地に出るとまず目に飛び込んでくるのがバー『ブイ』の看板であり、中学生の僕は「ブイというのは港に浮いている目印の浮きのことで、どうして救命浮き輪の絵が描いてあるんだろう」という疑問をいつも感じていた。

「どうせ酔っぱらい相手だからどうでもいいや」と思って調べても見なかったのだけれど、ふと母の引き出しにあった 30 年以上も昔のマッチで『ブイ』に再会し、あらためて辞書を引いてみた。

ブイ【buoy】
(1)浮標。浮子(うき)。
(2)水泳用の浮袋。救命袋。
(広辞苑第五版より)

なんと救命用の浮き輪もブイと呼ぶのである。しかもバー『ブイ』のマッチの裏は英文で Bar『 V 』となっているので『ブイ』のスペルは『 V 』から始まるとばかり思っていたが、正しくは『 B 』から始まるのであり、船員さんは『ブイ( buoy )』を『 V 』と略して書くのか、はたまた浮き輪の『ブイ』とビクトリーの『 V 』をかけた洒落だったのかもしれず、いつも釣り銭がなくて母の店に両替に来ていた『ブイ』のオヤジの顔を「いっぽんとられたなあ」と懐かしく思い出す。

味噌汁と一膳飯で働き続けたバーテン以外に、僕とほとんど歳が違わないように見えるバツイチの子持ちホステスが何人も勤めていたりし、『ブイ』は確かにあの時代の救命浮き輪だったのかもしれないな、と思ったりする。

『旭町新天地』は元清水市役所の建物のあたりにあった。モノクロ写真は 1970 年撮影。

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【上清水八幡八雲神社大祭】

【上清水八幡八雲神社大祭】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 8 月 9 日の日記再掲)

人間歳をとると再び子どもに戻るとよく言われるけれど、親が年老いて間近で厳密に観察すると、老人と子どもはかなり違うなぁと思う。

子どものままでは大人の社会で他人と折り合えないので、やむを得ず心の筋力増強でわがままを矯正して子どもは大人になり社会人となって生きる。やがて歳をとると筋肉がそげ落ちて矯正のたがが外れていくのだけれど、大人として過ごした時代の残像としての処世術だけは手放さないので、やってることと言うことの乖離した不思議な子どももどきに還っていくのが年寄りだと思う。それは子どもが、少しずつ大人になったように、少しずつ進行する。

ともかく郷里清水に帰って暮らしたいという母の希望を叶えるため、かつて下った川を遡上するような旅に付き合う。だが息子は大人になり、配偶者を得、家族が増えて社会人となったので、母親が原初的な理想の暮らしに還るといっても、もう一度郷里で息子との2人暮らしは叶わないので、厳密には非可逆の旅である。

「息子と清水で暮らしたなんていっても厳密には中高 6 年間だけで、あとはずっと一人暮らしだったんだし、最近は実の息子といることさえ気詰まりだし……」
などとぶつぶつ言っているので、一人旅の覚悟をつけるために少しは心の筋力を奮い立たせているようで、その点では成長する子どもにちょっとだけ似ている。

今年もとうとう、清水みなと祭りには帰省が間に合わなかったなぁと、ぼんやり入江岡跨線橋に登ると家々に御神灯がともり、8 月 6 日・7 日は上清水八幡と八雲神社の大祭であることを思い出した。

清水市街地の少し高台にある上清水八幡と、巴川河畔にある八雲神社の関係はどうも良くわからない。由緒書きによれば、上清水八幡は八幡太郎義家の勧請によって建立され、「八雲神社境内社として稲荷神社外三社を祀る」と書かれているので、“上清水八幡境内に合祀されている三社は八雲神社の境内社”というわかりにくい関係であるように読める。だが、人間に当てはめれば、その程度のわからなさの家庭は掃いて捨てるほどあるわけで、そういう仲の良い神社だから祭りも同時に行われるのだ、程度の理解で納得している。

上清水八幡境内には文化財指定を受けた大楠があり、義家お手植えとの伝承があるらしい。練り御輿が午後 3 時出発とのことなので、自転車を漕いで駆けつけ、大楠の下におかれた縁台に腰掛け、涼みながら見学する。

担ぎ手たちが次々に神殿に登ってお祓いを受け、御輿にとりついて声を上げるのだが、博多祇園山笠の櫛田神社境内で唄われる『祝いめでた』にちょっと似ている。
「おーみこーし、さ・ま・よっ」「おーみこーし、さ・ま・よっ」「おーみこーし、さ・ま・よっ」
と声を揃えて街に練り出すのだ。縁台にいた老人が子どもたちに
「立て!」
と命じ、子どもたちが
「なぜ立たなきゃいけないの?」
と聞き返したら、凄い目で「ギロリ」とにらみ、その「ギロリ」は子どもたちを立たせる無言の力を持っていた。

子どもたちが立ってしまい、座っているのは僕だけになり、「ギロリ」の圧力を感じたので、立ち上がってつかつかと前に進み出て、出発直前の御輿の脇まで接近して写真を撮りながら、「(これならどうだ)」と老人の方を振り向くと、子どもとぼんやり並んで直立し、もう「ギロリ」の圧力が届いていないのがわかった。

それくらいの距離を置いてみると老人と子どもは酷似しており、「ギロリ」は老いてもそげ落ちない小さな筋肉のひとつなんだなぁと思う。

写真1:万世橋橋上より見る祭礼の日の八雲神社。
写真2: 八雲神社に幟が立つ。
写真3:上清水八幡鳥居。
写真4:上清水八幡を出発する御神輿。
写真5:上清水八幡の大楠。
写真6:上町(かみちょう)あたりは「ギロリ」というにらみのきいた町であり、それは大の大人が子どもに戻って萎縮するくらいに懐かしい光景である 。 

   ***

清水駅前に降り立ち、港橋までタクシーに乗ったら、運転手が工事中の清水橋を渡りながら、
「まーったく、なにょおしらっくらやっちゃあいるだか、ええかんたっても、まーだはんぶんもできちゃあいないだよ」(同時通訳:全くもって時間稼ぎで工賃を上げているわけでもあるまいに、相当な年月が経過していながら、まだ半分も工事が終わらないという進捗状況なんですよ」)
とぼやいていた。

それにしても右の新しい清水橋は傾斜が急で、左の古い清水橋がノーマルヒルだとすると右の新しいのはラージヒルのジャンプ台のようである。

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