場景と年齢

2014年5月31日(土)
場景と年齢

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小学生時代を過ごした町を、小学生時代を思い出しながら歩いていると、なぜか小学生たちの顔が気になり、そこに幼なじみの面影を探していたりする。中学高校時代を過ごした町でも似たようなことを体験し、人は心に思い浮かべた場景によって時の経過と自分の年齢を一瞬忘れることがあるのだろう。

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大学時代を暮らした町に今も住んでいる。当時から変わらぬ姿の中華料理店があって、昼食時に通りかかるとついつい入ってしまう。学生時代から父親と息子が厨房に立って料理していたが、行列ができるほどの店ではないのでそこそこ客が入っていた。いまも父親と息子が厨房に立って料理し、そこそこの入りなので、いつ行ってもそこそこに空いている。

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注文を聞かれて炒飯を頼んだが「しまった…」と思う。学生時代からここは炒飯のおいしい店ではなかった。カウンター越しに眺めていたら息子の方がが中華鍋を振り始めたが意外に手際が良い。具とご飯が宙を舞うたびに色づいてパラパラになっていく。出てきたものを食べたらたいへんおいしい。食べながら「(そうか、息子はオヤジの跡を継ぐために、どこか他所の店で修行を積んできたのかもしれないな)」と一瞬思って唖然とした。

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考えてみたら、自分が学生時代にまずい炒飯を作ってくれた息子がいま目の前にいるオヤジであり、息子の方は当時まだこの世に生まれていなかったかもしれないのだ。自分はすでにオヤジの方の年齢に近い。炒飯を上手に作ったこの息子は少なくとも三代目なのであり、三代目はちゃんとした炒飯づくりをどこかで身につけたのだろう。

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おいしい炒飯を作るようになったが、行列ができるほどの店ではないので、ネット検索してもしょぼくれたレビューが一件見つかるだけだが、そこには中国人がふたりでやっている店と書かれている。親子三代日本人だけれど、そんな間違いもまた大した問題になるほどの店ではない。

|中華料理店近くの電気屋店頭にあった National Panasonic のラジオ RF-1105。昭和51年製なので、まさに大学生時代店頭にあったものだろう|

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出社と代謝

2014年5月31日(土)
出社と代謝

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午前中の時間が自由になる日は国立国会図書館に通って調べ物をすることを日課と決めた。地方紙を記録したマイクロフィルムを読んでいるのだけれど、国会図書館で一度に借りられる三本を読むのに費やす時間を計ってみたら、午前九時半の開館を待って入館すれば、正午ちょっと前に返却して退館できることがわかった。そうすれば午後は通常通りの仕事ができることになる。子ども時代、夏休みになると言われた小言を引けば「午前中の涼しい時間に勉強を済ませて、午後からお仕事をなさい」と自分に課すわけだ。(★1)

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午前九時近くになっても地下鉄南北線は通勤客で混み合っており、駒込駅から乗車して永田町まで押しくら饅頭に参加するとかなり疲れる。永田町で下車して階段を上り下りし、有楽町線ホームを端から端まで歩き、2番出口から国会図書館脇に出る頃には汗だくになっている。静岡新聞のコード「YB-30」を記入して申請書を書き、目的のフィルムを受け取るときは、したたり落ちる汗を遮るため首から手ぬぐいを提げている。会社員の通勤というのは、出社までこんなに運動をしていたんだなとあらためて実感する。

|国会図書館前から見る国会議事堂|

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調べ物を終えたあとヨドバシアキバで商品受け取りの用事があったので、国会正門前から桜田門めざして坂を下り、祝田橋を経由して内堀通りを歩き、日比谷交差点から晴海通りにすすまず斜め左の道を入って有楽町駅に出た。山手線内回りに乗って秋葉原駅下車で用事を済ませ、再び内回りに乗って駒込に戻った。

|祝田橋のお濠にいた鵜。激しく水しぶきが上がるので、真夏のような日差しにまいって水浴びをしているとしか思えないが、プロがやっていることなのでこういう漁法があるのかもしれない|

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駒込駅に戻り、さつき通り、しもふり銀座、染井銀座を経て旧東京外語大近くまで夕飯の買い物をしながら歩き、染井通りに向かう坂道を歩いていたら足がつりそうになった。真夏のような陽気になったので激しく発汗し、身体の代謝がうまく行かなくなったのだと思い、電解質を含むスポーツドリンクを飲みながらだましだまし仕事場へ戻った。

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★1 「午前中の涼しい時間に勉強を済ませて、午後からお仕事をなさい」
国立国会図書館はサマータイム制を導入して夏場だけ午前八時半の開館にしてくれたら、国民の勉学に資すると思うのでご検討ください(国会誓願風)

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国立国会図書館へ通う

2014年5月30日(金)
国立国会図書館へ通う

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国立国会図書館へ通ってマイクロフィルム化された古い新聞を読みはじめた。開架式でないのが心配だったのだけれど、「探し物なら私にお聞きください」という顔をした職員ばかりなので、「静岡県立中央図書館で静岡新聞昭和46年11月(その2)まで読んだので続きが読みたいんです」と言ったら、申請書の書き方を教えてくれた。申し込んで10分ほど待ったら名前が呼ばれ、目的のフィルムが三本まとめて用意されてきた。

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マイクロフィルムリーダーの数は思っていたよりはるかに多く、静岡で使っていたものとまったく違う道具なので驚いた。真鍮でできた骨董品的顕微鏡のような機械で、すべての操作を手動で行うようになっている。電気が使われているのは光源のハロゲンランプだけなので、右側面にあるスイッチを押してもランプが点くだけでモーター音はない。巻き取り巻き戻しも手でくるくると行うのだけれど、手動であるぶん直感的にできており、構造が実によく考えられているので驚いた。人が人の手のために手で作ったことがわかり、使えばどんどん正しい使い方が理解できて肉体化する。

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株式会社ニチマイのエクセル100という機種で、ちょっと使っただけで身体の一部のように操作でき、両手で新聞を持って読んでいるように微妙な操作ができる。久しぶりに、人間工学の成果と思える道具に触った。両手の動かし方でさまざまな微調整ができ、今まで体験したことがない鮮明さで紙面が読めるので、非常に調べ物の効率が良い。

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国会図書館を利用するのは久しぶりであり、前回利用したときはまだ新館ができていなかったので1986(昭和61)年以前ということになる。仕事で通い慣れた虎ノ門からなら迷わずに行けるのだけれど、駒込から地下鉄南北線に乗り永田町駅で下車したら道に迷って難儀した。機動隊員がおおぜい立っていたが、みんな「道のことなんか俺に聞くなよ」という顔をしていたので自力で探した。

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生活の柄

2014年5月29日(木)
生活の柄

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子育て中の小鳥たちは山之口貘(やまのくちばく)のように「夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである 草に埋もれて寝たのである ところ構わず寝たのである」(「生活の柄」より)というわけにもいかないので、人間が作ったいろいろな隙間にもぐり込んで巣を作る。

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舞い降りてきたスズメが滞空飛行に移ったと思ったらすっと姿が消えるポイントがあり、そういう場所に目を凝らすと、ちいさな排気口や排水溝の穴に巣を作っているのを見かける。煙や水が出てくる心配のない、もう使われていない穴を探すのがうまいのだろう。

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早朝の散歩をしていたらヒヨドリが民家の壁際で滞空飛行に移り、すっと消えたので近づいてみたらひな鳥の声が賑やかに聞こえ、なんと雨戸の戸袋に巣を作っているのだった。餌やりを終えて飛び出した親鳥が人の気配に気づき、羽ばたき滑空の波形飛行をしながら「ピーヨ、ピーヨ」と甲高く啼いて、巣の子どもたちに注意警報を発しながら飛び去った。

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ヒヨドリの子どもたちがすっと声を潜めた戸袋を眺めていたら、この家は空き家になってしまったのだろうかということが気になる。一階には生活感があるので、もう二階の窓を開ける気力もなくなってしまった年寄りが、息を潜めるようにして暮らしているんじゃないかしらなどと、人間には人間の生活の柄のほうがやはり気になるのだ。

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言葉の壁

2014年5月25日(日)
言葉の壁

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地球上でも、日本という島国の中でもなく、自分の中ですら言葉の壁が存在するということを実感した。

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SONY がパソコンの VAIO 事業を売却したというニュースを読んだら、手元にあって使われていなかった小さな VAIO ノート(★1)を大切に使おうという気になり、ドコモ回線に繋がるメリットを活かして活用しようと、仕事の合間に整備し始めた。

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使い道としての希望はいたってシンプルで、Dropbox(★2)内に置いてあるたくさんのノートを常に閲覧でき、そこに新たに書いたノートをアップできること。そういうことに適したエディタを一本入れて持ち歩くことだ。

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そういうことに適したエディタは、仕事に使う Mac や携帯電話である iPhone には見つけて入れてある。ソフト資源が山ほどある Windows でも、同じようなソフトがすぐに見つかるだろうと探してみたら、言葉で言うほど簡単ではない。

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仕事では Mac ユーザーなので、「パソコン内のディレクトリにあるファイルを一覧して読み書きでき、そうするためにデフォルトのフォルダを設定しておける機能のあるエディタ」という説明になり、そこから言葉を拾い出し場合によっては英語やカタカナ言葉に置き換えたりし、それらをキーワードとしてネット検索してみるのだけれどなかなか見つからない。

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Windows で使えるプログラマ用のすぐれたエディタを紹介する記事を読んでいたら、Windows の世界では「パソコン内のディレクトリが一覧できるエクスプローラを内蔵し、ホームフォルダを設定しておける機能のあるエディタ」と言い換えれば目的のものにたどり着けることがわかった。「エクスプローラ」と「ホーム」という言葉の鍵で引き出せるものこそが求めていたものだった。 

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というわけで、ようやくネット上から gPad というフリーのエディタを見つけてインストールし、今この文章もその小さなノートで書いているが、「そうそう、こういうことをしたかった」と言葉の壁を乗り越え、めざす世界にたどり着いたことを喜んでいる。

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上にあるスクリーンショットは VAIO P で gPad を使用している状態。左窓に表示されているのが Dropbox 内にある書類。こういう表示機能を「エクスプローラ」と呼び、表示させるための起点を「ホーム」と呼ぶのだ。右の窓で文章を読み書きし、左上にある Windows お馴染みの「フロッピーディスクマーク」を押して「保存」すると、右下にある Dropbox アイコンの矢印がくるくる廻転してネット上に「保存」されたことがわかる。この仕組みを通訳として利用することで、Mac でも iPhone でも Android でも、同じ書類の読み書きという共存ができるわけだ。

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★1 小さな VAIO ノート
VAIO P VGN-P80H という機種で、ズボンの尻ポケットに入ると宣伝された小さな算盤のようなノートパソコン。ドコモ回線のデータ通信カードを入れてある。

★2 Dropbox
アメリカの Dropbox 社が提供しているオンラインストレージサービスのこと。

★3 gPad
Windows で動作する複数文書ウィンドウ表示型テキストエディタのこと。

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蓮を見に行く

2014年5月24日(土)
蓮を見に行く

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見事な蓮田がある不忍池に人工浮島を利用した観察通路ができ、種々雑多な人間観察だけでなく、あわせて自然観察もできる懐の深い水辺の公園として整備されている。

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人工浮島で囲まれた蓮観察ゾーンには蜀紅蓮(しょっこうれん)、明鏡蓮(めいきょうれん)、不忍池斑蓮(しのばずのいけまだらはす)、浄台蓮(じょうだいれん)という不忍池ゆかりの蓮と、古代蓮として名高い大賀蓮(おおがはす)の計5種が集められている。どこに何が植えられているかが書かれた親切な解説板の力を借りても、若葉が生えはじめただけで開花前の現時点では、蓮同士の微妙な違いを区別するのも至難の業であるように思われる(寺田寅彦風)。

|観察通路から見下ろす大賀蓮|

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表面張力によって蓮の葉の表面ではじかれた水が玉になる現象をロータス効果という。葉が水面を離れて空中にすっくと立ち上がり、風で揺れて水滴が転げ落ちてしまう前の季節は、朝の光る水滴をじっくりと眺められるのが実に楽しい。というわけで蓮同士の微妙な違いはまだわからないので、夥しい数の水滴にただただ驚嘆して満足した。

|大賀蓮のロータス効果|

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蓮と睡蓮を見分けるのは、辛夷(こぶし)と木蓮(もくれん)を見分けるよりたやすいのだけれど、花につられてついつい耽美的に見入ってしまうせいか、明らかに違う両者を混同しがちである。ぱっと見て、さっとわかるポイントは、まず睡蓮の丸い葉に切れ込みがあることがあげられる。朝の散歩で不忍池帰りの道すがら、民家軒先の鉢の中で睡蓮が「ほーらね」と葉を広げ、メダカたちが得意げにつーいついと泳いでいた。

|睡蓮とメダカ|

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計画とプロジェクト

2014年5月23日(金)
計画とプロジェクト

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地に足をつけて頑張っていた人と建物がなくなって更地になると、待ってましたとばかり「建築計画のお知らせ」看板が立ち、なにが建つんだろうと立ち止まって読むと、東京ではたいがい「○○○3丁目計画」とか「○○○3丁目プロジェクト」などと書かれている。

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こんなにマンションばかり建って、この国はどうなってしまうのだろうと暗澹とした気持ちになる。最近は1階が商店ではないマンションも多く、道路に面した一等地が歩道を通路にした駐車場だらけになっていく。ひどい話で、狭い土地を重層的にがさ増しして天に向かって転がしているわけだ。

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開発業者は人の暮らしがどうなろうが金儲けのことしか頭にないわけで、そのうち「計画」とか「プロジェクト」があらかじめ右寄せで印刷された、できあいの法令表示板「建築計画のお知らせ」まで売られるようになるのではないだろうか。

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20パーセントの不思議

2014年5月23日(金)
20パーセントの不思議

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暖かくなり、夜明けが早くなったので早朝ウォーキングを再開した。東京地方における今日の日の出は午前4時31分である。毎朝出かける前にベランダに出て夜明け直後の写真を撮っている。

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打ち合わせに出かけた出版社で、毎朝この辺をウォーキングで通るのだと言ったら「気持ちいいですか?」と聞くので一瞬間を置いてから「いいです」と答えた。一瞬間が空いてしまったのは、朝のウォーキングを気持ちいいと感じるのは歩き始めて2キロメートルくらいまでだけだからだ。気持ちいいのはあながち嘘ではない。

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早朝の街に出て歩き始めると、全身のストレッチングをしているようで気持ちがいい。そして関節がほぐれて歩く速度が増し、身体が朝の空気を切り拓いていくように感じるときはさらに気持ちがいい。そして2キロ近く歩いて汗ばんでくると、気持ちいいとは感じなくなる、というかあまり自分の身体のことを意識しなくなるのだ。

|毎朝撮影している夜明け直後の六義園上空|

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毎朝歩くコースは決まっていなくて、表通りに出た瞬間に行きたくなる方角へと歩き始める。コースは決めていないけれど歩く距離数には目標があり、10キロメートルは歩きたいと思っているのだけれど、歩き終えて計測結果を見ると決まって8キロ強で10キロに満たない。適当に歩いてほぼ10キロ歩いたに違いないと思って帰宅するまでの距離が、実は8キロ強くらいであり、目分量にたとえるなら足分量がそうなっているのだろう。

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毎月血圧の薬をもらいに通っている近所の診療所で、心臓がちょっと大きめだから気にしていると言いながら聴診器を当てる医者が
「激しくない運動を20パーセント増しでやってください。もういいかなと思った時点から20パーセント増しするだけだから楽なもんでしょう。それで体重が今より20パーセント減った状態になったら維持する。20パーセントなら続けられるしリバウンドもないんです」
と言う。毎朝、もういいかなと思ってやめる早朝ウォーキングを、あと20バーセント頑張れば10キロメートルになるというのは単なる偶然だろうか。

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山椒魚

2014年5月19日(月)
山椒魚

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おそらく中学生時代に読んだのだと思われる井伏鱒二『山椒魚』が気になって読み直してみた。手元にないのでネット検索し、いちばん安い文庫本を取り寄せたら、山椒魚の部分にだけ鉛筆で盛大に書き込みがある。

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読み始めたら、中学生時代に大好きだった国語教師を思い出した。小柄で風采のあがらない中年教師は、教科書を小脇に抱え、白墨のはいった木箱を持ち、いつもくたびれた背広姿で授業にやってきた。

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なぜそんな教師が好きになったかというと自分を認めてくれたからである。人は自分を認めない人を愛せない。良いところも悪いところも認め合うのが「好き」であり、好き合うとはそういうことだ。

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教科書にある高浜虚子「流れゆく大根の葉の早さかな」を読んで、どんな光景を詠んだと思うかと聞くので、小川を大根の葉の切れ端が流れ、それは上流で野菜を洗う百姓がいるからであり、早さかなは速度ではなく冬の朝の水や空気の清冽さをあらわしているとおずおずと答えると、よくまじめに答えたと言うように笑顔で褒めてくれたからだ。だから好きになった。

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小学生時代からガリ版印刷に憧れていた。複製技術には夢があった。多くの人が読んでくれるからで、多くの人が読めば認めてくれる人もいるだろう。複製の元になるガリが切れるというので報道部に入り、学級新聞を作ろうと提案し、どんな記事を載せようかという話になったので、大好きな国語教師に原稿を依頼した。

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喜んで引き受けてくれ、書き上がって渡された原稿は戦時中の思い出話だった。中学生だった国語教師は清水平野の山側にある人造池山原堤(やんばらづつみ)に避難し、空襲で焼き尽くされる清水の町を見ていた。紅蓮の炎に浮かび上がる友人たちの影が今も目に浮かんで忘れられないという。

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原稿を読み、ガリ版刷りの原紙を切りながら、感動したのは戦争体験談自体ではなく、この先生はこの土地で生まれ育ち、この土地の中学教師になり、この土地で中年になって退職の日を迎えるのだという事実だった。先生がもっと好きになった。

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山椒魚を読みながらなぜあの先生を思い出したかというと、先生が好きになる前の学校は、山椒魚と蛙が逼塞した小さな岩屋にすぎなかったからだ。他人を好きになるのは大切なことであり、それが生きてあることのすべてかもしれない。

|書き込みの多い山椒魚|

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【まちの懐かしさ】

2014年5月17日(土)

まちの懐かしさ

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「最近、清水は墓参りだけでスルーして旧静岡市に用事が多いのですが、東京の植民地的な中心市街地ではなく、ちょっとはずれた町並みを歩くと、昔の清水のような懐かしさが感じられて感動します。本当の東京下町より、第二、第三の東京山の手と言われた中央線や私鉄沿線にある古びた町並みの方が、昭和の東京下町情緒をいまも伝えているのと同じ現象です。」

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ブログへの書き込みに答えて返信ともつかないこんなコメントを書いたけれど、これは最近旧静岡市街を歩くたびに感じることだ。東京の住まいに近い谷中、根津、千駄木地区もそうだし、静岡駅北口に近い商店街もそうだけれど、街が活性化と呼ばれる現象で賑わっても、そこから得られた富をどこか遠くへ持ち去るための、道具として使われているだけのように見えて仕方がない。

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そういう現象から外れた地域では、経済の右肩下がりの坂道から滑り落ちないように、あえぎあえぎ暮らしているように見える。静清合併直後頃の清水がそうだったけれど、清水の町はもうすっかり桶の底まで抜けてしまい、今ではあっけらかんとした聖諦すら感じるし、ダウンシフトの果てに新たな幸せへの可能性を感じる段階へ進化を果たしつつあると感じることも多い。清水はしぶとい街なのだ。まだそこまで至らない旧静岡のやるせなさに、かつての清水を見ているような懐かしさを覚えるのかもしれない。

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東京山手線内で暮らしていると、自家用車に乗る必然性もあまり感じなくて、親たちとの暮らしが終わったことをきっかけに処分してしまったけれど、日用雑貨の買い物は郊外の大型店しか選択肢がないので、不便を感じることが多い。

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先日も東京から静岡に出たついでに、ジャンボエンチョー静岡店に寄って買い物をした。地図を見たら静鉄音羽町駅が近そうなので、下車して歩いたら、まるで昔の清水を見るような懐かしい町並みを歩いて胸がいっぱいになった。懐かしさというのは場所ではなく層をなした時の断面露出部にあるのかもしれない。

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【熱血!清水みなと】

2014年5月16日(金)

熱血!清水みなと

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編集委員をしている郷土誌の編集会議が始まり、静岡に出かける前に気になっていた村松友視著『熱血!清水みなと』PHP研究所を読み返してみた。この初版本は 1983 年 6 月 24 日発行となっている。

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日本の高度成長期は 1954(昭和29)年に始まって 1973(昭和48)年に終わったとされている。この本に書かれた、元気で威勢のよい村松節で語られる清水みなとの背景とは、いったいいつ頃なのかがあらためて気になったので読み返してみたのだ。村松友視は 1946(昭和22)年に清水に移り住んで岡小学校へ入学し、大学に入学するため 1958(昭和33)年に清水を離れている。

|飲み屋をやっていた母に貸したら客と回し読みしたらしく、常連からの伝言がはさまれていた|

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清水みなとを舞台にして自分史的なものを書き、地元だけでなく広く世間に受け入れられた人といえば村松友視とさくらももこである。そのさくらももこは1971(昭和46)年に入江小学校へ入学している。

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日本の高度成長期と清水の景気がよかった時代に微妙な齟齬があるのは、戦後間もない頃から「清水みなとに行けば何か仕事があるからなんとかなる」と言われて全国から人が押し寄せたように、清水の復興と経済成長は早い時期から始まっていたからだ。村松友視が岡小に入学した年に第一回清水みなと祭りが開催され、市民は復興の歓喜に湧いたのだ。

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そしてさくらももこが入江小学校に入学した年にニクソン・ショック、いわゆるドル・ショックが起こって日本経済は大打撃を受け、1973(昭和48)年、日本の高度経済成長期が終わるのである。

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しかしその時代の清水を新聞記事から追っていくと、ドル・ショックは影響なしということで様々な産業の好調が続いている。清水の経済はその後もほどほどに賑わいつつ緩やかに下降していく。それはさくらももこの代表作『ちびまる子ちゃん』に描かれているとおり。

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岡小学校に入学した村松友視は高度成長時代へ至る右肩上がりの清水を描き、入江小学校に入学したさくらももこは高度経済成長時代からの右肩下がりの清水を描いたのである。

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清水の高度経済成長時代というのは、寿司のようなドンシャリ型ではなく、なだらかな裾野を持つ富士山のような形をしていたのであり、それはこんなひどい時代になっても明るさを失わない清水っ子の気性に深い影響をあたえている…、かもしれないという話をしてきた。

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ユリノキの五月

2014年5月16日(金)
ユリノキの五月

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人生節目の年の目標に、本を二冊出すと決めた。そのうちの一冊に関する資料探しのため、今年は月二回程度のペースで静岡市駿河区谷田にある静岡県立中央図書館通いをしている。

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自分が高校生だった 1970 年から三年間の新聞記事を少しずつマイクロフィルムリーダーで閲覧しているのだけれど、その高校入学をした 1970 年 4 月の記事に、県立中央図書館 18 日開館式、20 日より一般公開とある。

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静岡鉄道県立美術館前駅で下車し、南東へ向かう道を歩いてゆるやかな有度山麓を登っていくとわんにゃん通りとの交差点があり、左折してすぐ左側に美術館前動物病院(★1)がある。2003 年夏に末期ガンとわかった母と二人、病気治療のため愛犬の長期預かりをお願いしに何度も通った懐かしい道である。丸二年間に及ぶ東海道往復看取り旅の記録がもう一冊の本になる予定で、そのために今年一年この道を通うというのも不思議な縁だ。

03
坂を上り詰めると静岡県立美術館(★2)へと向かう野外彫刻プロムナードがある。彫刻作品が野外展示された小道は緑豊かな散歩道になっており、それが終わり、斜め左へ折れるようにして石段を登ると県立中央図書館になる。

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石段左側にある葉を落とした樹木のかたちがとても気になり、何の木だろうと調べたらユリノキだった。ユリノキと言えば近いところでは文京グリーンコート脇や、ときおり仕事で出かける信濃町から青山一丁目へ向かう街路沿いで見ることができるけれど、葉を落とした冬の樹形をじっくり見たのは初めてだった。

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五月はユリノキの開花時期である。編集委員をしている郷土誌の編集会議出席を兼ねて訪れた 5 月 14 日には、葉が茂り花が咲いて記憶の中のユリノキになっていた。たいへん成長の早い木なので、街路樹として植えられても大きくなりすぎて伐採されることがあるそうで、そういう街路樹の切り株を調べた方によれば年に 5 センチ近く直径が太くなった年もあったという。

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このユリノキは大きくしないための激しい剪定をうけていないので、あらためて冬の樹形の美しさにこころ打たれるのかもしれない。いつの日か県立中央図書館前のユリノキが、静岡らしいおおらかさで巨木に育ってくれたら嬉しい。そして図書館前のユリノキがいのちの情報伝達のため翼果(★3)を飛ばす秋までには、本完成の見通しが立っているといいなと思う。

★1 美術館前動物病院
獣医に相談すると、「もちろんお預かりします、長期になるので経済的負担にならないよう料金も見直しますから、元気になって必ず戻ってきてくださいね」などと言っていただいたという。(2003年9月5日の日記より)

★2 静岡県立美術館
1986(昭和61)年開館の県立美術館。

★3 翼果(よくか)
翼が生えたような形状をした果実の総称。風にのって親木から離れたところへいのちの種が運ばれる。

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坂道の家

2014年5月13日(火)
坂道の家

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坂道沿いにある家は斜面に建っているので、土台を水平にするためのちょっとした工夫がある。そういう工夫によって、建物全体を眺めたとき坂道ならではの面白い佇まいになっていることが多い。

01
近所の商店街へと下る坂道の途中に風情のよい二階建て住宅がある。古びてはいるけれどしっかりとした作りで、こういう一軒家に住んでみたかったなと惚れ惚れしながら眺めているが、空き家になって久しく手入れが滞ったように見える。

02
春になって家のまわりには雑草が目立ち、玄関前に放置された自転車も草に埋もれ、タイヤの空気が抜けて錆びてしまい、小さな犬小屋に小型犬がいたのもずいぶん昔のことのように見える。あちらこちらのガラス窓に小さな板が打ち付けられており、ガラスを入れなおすかわりの簡易処置になっている。

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かつては子育てを終えた老夫婦が暮らされており、子どもたちはそれぞれの都合で家を離れてしまった。その老夫婦が亡くなられたり病気になったりしたことで空き家となったが、子どもたちは子どもたちの生活に追われ、片付けができなかったり、売却がためらわれたりして、空き家として放置されている。そんな想像を勝手にしている。

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郷里静岡県清水で一人暮らしをしていた母親が他界し、空き家となった家を片付け解体し更地にして売却するまで、足かけ四年間通い続けた日々がある。その間、片付けの終わらない実家の夢を見ることが多く、雨漏りがするようになった家の茶の間に、バシャバシャと音を立てて雨が降りしきる夢を見て、声を上げて泣きながら目覚めたこともある。ついついそんな自分の体験と重ね合わせてしまう。

05
年末年始になり、坂道を上り下りするたびに、この家を思い出すご家族は切ないだろうなと眺めていたが、玄関に小さな正月飾りがあるのに気づいたときは、心の片隅に明かりが灯ったような感慨があった。ああ、忘れずに故郷の廃屋を訪ねたご家族がいるのだと。

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先月のことだと思うのだけれど、昼休みに散歩を兼ねた買い物に出て、いつものように坂道の家を横目で見ながら通り過ぎようとしたら、一階の窓から視線を感じ、立ち止まって目を凝らしたら猫が窓辺に座ってこちらを見ていた。猫がいるということは無人じゃなかったのか、という驚きが伝わったのか、視線が合った途端さっと身を翻し、暗い室内に消えてしまった。

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回転寿司店で考えたこと

2014年5月12日(月)
回転寿司店で考えたこと

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母の日の老人ホームに行き、昼食風景を眺めながら鞄にあった文庫本をめくっていたら、以前そうだったようにまたこの数行が目についた。

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現代社会では理科の腕力が強い。何といっても実用性に勝るからである。時代の動きに敏感な学生が、理科に進まないとすれば、多くの場合は、数学ができないからである。もっともこれは、社会構造の問題であって、じつは数学ができることが理科の適性なのではない。物理学者のファラデー(★1)は、まったく数学ができなかったという話がある。(養老孟司『唯脳論』)

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高校を卒業したら理科がやりたかった。大好きで三年間打ち込んだ写真もそうだし、中学時代からこっそりノートにつけていた詩というのも、突き詰めると理科的に脳を働かせることではないかと思い、大学で学ぶとしたらそういう方面がいいなと思っていた。

03
けれどそういう方面には必ず数学という関所があって、数ⅡBに入るあたりでまったくついていけなくなった者は通さない仕組みになっていた。やはり理科的なのではないかと思えた教育学部芸術学科の門がかろうじて開いていたからよかったものの、共通一次(★2)実施後だったらそうはいかなかっただろう。

04
自分にとっては写真も文学もやっぱり理科だよなあと思いながら、老人ホーム昼食介助後の遅い昼食で、いつも立ち寄るさいたまの回転寿司店に寄ったら、カウンター上にダウンライトが落とす光と影がひどく美しい。


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こういう光景に心ひかれたら、どういうレンズでどういうフィルムを使い、どういう切り取り方をしてどう現像し、どういう印画紙を使ってどう定着させようかと一所懸命に考えたものだ。まさに理科ではないか(★3)

06
もしカメラがなかったら、どうしてこういう現象が起こって、それがどうして見る者の心をひくのかを、なんとか言葉で書き遂げてみたいと思い、それもやはり理科なのではないかと高校生は思っていた。

07
「わあ、きれいだなあ」
などと言ってカメラを取りだした客の前で、寿司の皿は等速度で回転し、カウンター内の職人は
「さー、回っていないものがあったらどんどんおっしゃってください、本日はホンマグロ、ホンマグロがおすすめになってますからねー、さ、どんどんご注文くださいねー」
などと間歇的に言葉を噴き出すという理科的光景が広がっている。

★1 ファラデー
マイケル・ファラデー(1791年−1867年)のこと。イギリスの化学者、物理学者で、電磁気学と電気化学の分野で業績を残した。数学ができないというより高等教育を受けられなかった人だけれど、彼の生きた時代のこの分野は自然哲学と呼ばれていた。

★2 大学共通第1次学力試験
1979年から1989年まで行われた国語、数学、理科、社会、英語の5教科による国公立大学および産業医科大学の入学志願者を対象とした全国一斉基礎学力試験。

★3 「かつてカメラが発明され写真映像が人びとを驚かせはじめた頃、フランスの詩人ボードレールは早くも『絵を真似るな』と写真家たちに忠告しました。」(あめつうしん No.282、又重勝彦「アンジャインさんへの手紙」より)

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白松とツァラトゥストラはかく語りき

2014年5月10日(土)
白松とツァラトゥストラはかく語りき

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今よりもっともっと珍しかったはずの白松(はくしょう)の古木が染井霊園内に一本あり、それが誰によって植えられたかということがまだ気になっている。幕末明治維新を生きた薩長出身軍人の墓が多いので彼ら所以かなとも思ったけれど、墓と白松の位置関係ががしっくりと腑に落ちない。

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大切な樹木を墓のそばに植えるとすれば、墓と樹木が一体となった見栄えを考慮するはずで、白松が最も美しく見える墓を探せば良いのではないかと単純に考えたら、昨日見つけた長崎出身の医家である西家の墓を思い出したのでもういちど見に行った。

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医家西家の先祖である初代西吉兵衛は長崎の南蛮(★1)通詞だった。通詞というのは世襲と決められていたので息子である二代目西吉兵衛も父の跡を継いで通詞となった。

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通詞でも唐人(★2)通詞は同時に通商を許されたが、南蛮通詞は許されなかったため二代目西吉兵衛は学を志し、南蛮外科をころびバテレン(★3)のフェレイラ(沢野忠庵)に学び、紅毛(★4)外科を出島のオランダ商館医に学び、南蛮・紅毛両流を踏まえた西流外科を確立した。

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二代目西吉兵衛は1673(延宝1)年、幕府から出府を命じられ宗門改めの参勤通詞目付と外科医官を兼ね、江戸西久保(★5)に屋敷を拝領して玄甫と改名した。その息子西玄哲 (にしげんてつ)は奥医師(★6)となり門下に杉田玄白(★7)がいる。

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染井霊園の区画割りは東西南北に対して45度傾いており、西家の墓にお参りするときは南西に向かって敷石をたどって墓の前の拝石に立つ。そのとき墓石の真後ろに白松がそびえ、南西からの日差しを遮って眩しくなく、墓と墓前に刻まれた欧文が読みやすいようになっている。2014年5月現在のGoogleマップで航空写真を見ると、西家の参道は見事に白松が北東に落とす影に入っている。

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石に刻まれた文字の意味が分からないので、「senfine ruligas la rado」あたりを入力して検索すると「Esperanto Nederland」と出る。東京外大出身の友人が即座に調べてくれ、ニーチェのツァラトゥストラの一節「一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠に回る。」のエスペラント訳のようだという。

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染井霊園の白松がいつ誰によって植えられたかの確証が得られたわけではないけれど、白松を見上げて墓参りをし、ニーチェの語りかけに耳を澄ますという、清々しい散歩コースを見つけたので自分なりにこれで納得した。

【三木成夫と西成甫で「アッと驚く為五郎」】

★1 南蛮
スペイン人・ポルトガル人など南ヨーロッパ系民族の総称。

★2 唐人
中国大陸から来る商人などの総称。

★3 ころびバテレン
江戸幕府のキリシタン弾圧・拷問により信仰を捨てた宣教師(バテレン)。

★4 紅毛
オランダ人、イギリス人など北ヨーロッパ系民族の総称。

★5 西久保
港区虎ノ門あたり。大好きなカレーの『スマトラ』が旧町名西久保にあった。

★6 奥医師
江戸幕府の医官。奥に住んでいる将軍とその家族を診察した。

★7 杉田玄白
江戸時代の蘭学医。『解体新書』の訳者。

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