【昔の人と日時計】

【昔の人と日時計】

小学校の校庭の片隅にコンクリートでできた円形のオブジェがあり真ん中に太い鉄の棒が立っていた。登ったり腰掛けたりして遊びながら
「これは何のためにあるんだろう」
と言ったら、同級生が、
「これは日時計。丸い台が時計の文字盤、鉄の棒がおとす影が針で、昔はこれでいま何時かを調べてたんだ」
と言い、なるほど、昔の人は偉かったんだなと感心した。

高学年になったある日、大好きだった校長先生とお話しをしていたら、
「あの台の上にはね、むかし二宮金次郎さんの銅像があったんだけど、戦争中、弾や兵器を作るために取り外されて持ってかれちゃったんだよ」
と話され、卒業前に謎が解けた。

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【コロナでパジャマ】

【コロナでパジャマ】

昨春は新型コロナウイルス感染拡大が始まり、予約してあった武蔵野市民文化会館でのコンサートが中止で払い戻しになり、秋には終息に向かうだろうと踏んで予約した浜離宮朝日ホールのコンサートも中止払い戻しになった。それ以来クラシック音楽は家庭内でパジャマに着替えて NHK の番組を見るだけになっている。

昨夜は録画しておいたアンドレイ・ヴラジーミロヴィチ・ガヴリーロフのピアノ・リサイタルを観た。なんと昨年十一月、武蔵野市民文化会館での収録で、小ホールではなく大ホールを使い、密になるのを避けて公開収録が行われたらしい。武蔵野市民文化会館の手づくり感あふれるチラシが大好きで「武蔵野の底力を見せてやる」などという惹句に笑っていたけれど、まさに底力を感じるすばらしい企画だった。外国人入国規制、段階的緩和のおかげかもしれない。

「みなさんだいじょうぶですか」
という日本語の声かけで始まったピアノ独奏はロシアピアニズムらしいくっきりした演奏で感動した。大ホールでもよく聞こえただろう。テレビのアップを見て、
「結構おじいちゃんだね」
とつれあいが言ったが彼女と同い年である。

1974年18歳の時にチャイコフスキー国際コンクール優勝。同年のザルツブルク音楽祭でリヒテルの代役を務め脚光を浴びる。6年の活動休止時期を経て復活を果たした。【演奏】アンドレイ・ガヴリーロフ(ピアノ)【曲目】ノクターン 変ロ短調作品9第1(ショパン)ピアノ・ソナタ 第8番(プロコフィエフ)幻想曲 ニ短調 K.397(モーツァルト)ほか【収録】2020年11月15日 武蔵野市民文化会館大ホール

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【ラグナグ王国探訪】

【ラグナグ王国探訪】

哲学者ヒラリー・パトナムに水槽の脳(brain in a vat)という思考実験がある。「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」という仮説なのだという。『マトリックス』という映画では、人類が現実だと思いこんでいる世界がなんとコンピュータによって作り出されたマトリックスと呼ばれる仮想の世界であり、ほんとうの現実世界で人間はコンピュータに支配され、眠らされているという設定なのだという。

文末に「だという。」とつくのは、その哲学書も映画も読んだり観たりしたことがないからだが、幼い頃に読んだジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』にだって負けず劣らず荒唐無稽な思考実験的お話が出てくる。

「第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記」のなかで、ガリヴァーは大きな島国であるラグナグ王国で死なない人間ストラルドブラグに会う。ストラルドブラグはラグナグ王国でごくまれに生まれてくる不死人間なのだという。

ガリヴァーは不老不死をうらやましく思うが、ストラルドブラグたちの話をよく聞くと、彼らは不死だが不老ではない。生まれてからしばらくは普通の人間のように育つが、三十を過ぎた頃から次第に元気がなくなり、普通の人が人生を終える八十くらいから頑固、欲張り、気むずかし屋、うぬぼれ、おしゃべりになり、友人と仲良くできず、自然な情愛も感じなくなり、ただ嫉妬と無茶な欲望ばかりが強くなり、歯も髪も抜け、物忘れがひどくなり、時代とともに言葉づかいも変わっていくので新しい時代の本を読む楽しみも失われ、財産もなくして生活保護で生き続ける。ついには死ねる一般人を羨むようになり、一般人は逆にストラルドブラグたちを見て死を恐れず長寿を望まないという。

さまざまな思考実験をして絶望的退屈というものを自分の心の中で見ることができるならば、死を恐れず長寿を望まないラグナグ王国のその他一般として、人は永遠を愉しみに眠ることができるのだろう。

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【誤字脱字の理由】

【誤字脱字の理由】

高名な哲学者が八十歳を目前にして書かれた本を読んでいる。たいへんに興味深い労作ではあるけれど誤字脱字が多い。高齢の学者が自分でされる著者校正に頼りすぎたか、編集者や校正者の怠慢か、いずれにせよ大手出版社なので解(げ)せない。

ちょっと歳上の哲学者が書いた本もまたすばらしい内容で、感心して読み終えたけれど誤字脱字が多い。年齢も近いしメールアドレスもわかるので、間違いをまとめて送ろうかと思ったけれど、あまりに数が多いのでやめた。これだけ誤字脱字を見過ごして出版されるには想像以上の事情があって、指摘されるほうがつらいかもしれない。

そもそも日本語の文章を自動校正するソフトウェアがあるわけで、それはネット上でも利用できるので、そういう仕組みを使えば簡単に見つかりそうなものだと思い、上記にある自分の文章を機械に自動校正してもらったら、三箇所に赤字が入った。

「助詞不足」の指摘は「なるほど」と思ったので加えつつ修正し、「誤字」の指摘は自動校正ソフトの間違いだけれど誤読される可能性がありますよとの指摘と受け止めてルビをふり、「誤読される可能性」があると指摘された箇所は「かな」にひらいた。日本語自動校正ソフトは真面目な遊び相手としてもおもしろい。

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【雪とワカケホンセイインコ】

【雪とワカケホンセイインコ】

このところ六義園内に鮮やかな緑色をしたワカケホンセイインコ(Psittacula krameri manillensis)が群れをなして飛来している。 本来インド南部やスリランカに生息している派手な鳥なので日本庭園には妙に似合わない。大群で園内をネグラにしているカラスたちが、離れたビルの屋上から
「なんか違和感あるなぁ」
と言いたげに、くびをかしげて眺めている。

きょうも緑色したワカケホンセイインコが木から木へ飛び交っていた六義園内に、15 時ちょっと前ころから雪が降り始めた。南国の鳥たちには違和感があるだろう。

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【称名念仏】

【称名念仏】

フランスの社会学者エミール・デュルケーム(1858 - 1917)は「霊魂・その起源・その運命に関連する集合表象の一体系が見出されない社会は存在しない。」と書いている。デュルケームによると、オーストラリアのアボリジニは、人間が眠ったり気を失ったりしているときは霊魂が住まいである人間の身体から一時的に外出しているのであり、外出したまま帰らないことを「死んだ」といい、いっぽう死体を残して外出したままの霊魂は別の場所で自律生活を続けるのだという。

こういう感覚は自然によくわかる。眠ってしまうことで自分という意識がなくなっても、朝になるとちゃんと自分に戻って目が覚めるということを子どもの頃から不思議に感じていた。眠ってしまって目が覚めなかったらそのまま死んでしまうのだけれど、それが怖くて眠れなくなることがないのは、眠ることの気持ちよさという誘惑にあらがえないからで、人間はうまいぐあいにできている。眠るような死は気持ちよいのだ。気持ちよい自分はどこかで自律生活を続けている。

わが親戚はなぜか曹洞宗が多い。曹洞宗の法事に出るといちおう修証義(しゅしょうぎ)を読まされたりするけれど、友人の葬式などで浄土宗や浄土真宗や日蓮宗などの寺に行くと念仏を唱えさせられる。念仏に声を出して唱和するのがどうも抵抗があってできない。できないけれど念仏を唱えることの効能は自分なりによくわかる。意識を捨てて純粋である状態に身を任せるのだ。であるとすれば「ナムアミダブツ」でなくても、コロナ禍の今なら「アストラゼネカ」とくりかえし唱えて救いを願ってもいいと思う。

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【カサブタ】

【カサブタ】

NHK朝ドラ『おちょやん』の主題歌を聴きながら連れ合いが
「カサブタって言ってる?」
と聞くので
「カサブタって聞こえるね」
と答えたら
「カサブタって取れるもので、消えるものじゃないでしょう」
と言うので
「そりゃそうだけど『カサブタが取れたら』じゃ、取れたカサブタはどうした床に捨てたのかとか、カサブタの取れたあとは皮膚が白くスベスベしていて気色悪いとか、へんなところに意識がいくだろう、だからさらっと『カサブタが消えたら』でいいんだよ」
と答えたら
「いやカサブタが消えたらはへんだ」
と言う。

「だったら NHK に手紙を出して朝ドラ主題歌の『カサブタが消えたら』はへんなので『取れたら』に修正してほしいと言ったら?」
と答えたら苦笑いしていた。主人公おちょやんの父親が「ハタライテルヲ」であるように「イイダシタラキカン子」なので、そこまで言ってやらないとおさまらない。

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【はじめにとおわりに】

【はじめにとおわりに】

本は「まえがき」にあたるものこそ、しっかり読まなくてはいけないとはよくいわれることだ。「まえがき」にあたるものの出来不出来によって、よかったりどうでもよかったりするのだけれど、よくできた「まえがき」には道に迷わないための注意書きが書かれている。

読んでよかったと思う「まえがき」にあたるものには、初心者は第四章から読んだ方がわかりやすいと書かれていたり、この本は最初から順を追って読め、そうでないと後半は前に書いたことを端折ってどんどん加速するから途中からだと迷子になるぞと書いてあったりする。もっとすごい「まえがき」にあたるものには、この本はまず「おわりに」を読めと書いてあったりする。

数ある翻訳のうちで最も優れていると評判の本を取り寄せた。難解で途中からわからなくなって迷子になって放り出す人も多いという。本文を引用したやさしい解説本を読んでいたら原本に挑戦したくなった。本を開くといきなり著者の序文から始まるので、巻末にある「訳者解説」を読んだら、迷子にならないための親切な解説があった。こういう本こそ「おわりに」にあたるものから読むべきなのだろう。

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【まどろむ】

【まどろむ】

犬は寝ている飼い主が好きだ。猫もたぶんそうだろう。寝ている飼い主に寄り添って身を横たえるとき、犬も猫も飼い主と一体になって世界の中にやすらぎまどろんでいるようだ。

「うとうと」とも「うつらうつら」ともいうこういうまどろみの状態を空(うつ)という。この「うつ」は「全」とも「虚」とも書く。「空」であり「全」であり「虚」でもあるのがまどろみの状態だ。

「わたしたちの知覚は純粋な状態ならば、ほんとうに事物の一部をなす」(アンリ・ベルクソン)

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【趣味の園芸部】

【趣味の園芸部】

中学時代の部活で園芸部に興味があったが、地味めな女子数名がひっそりと学校花壇の掃除や手入ればかりをしており、男子部員は一人もいないので入部はあきらめた。実は草花の栽培ではなく、土を起こしての野菜作りに興味があったからだ。しかたがないので社会科クラブという草食系クラブに所属し、その社会科クラブも3年のとき顧問不在で廃部となった。

大相撲初場所が終わり、平幕の大栄翔が初優勝したが、新聞記事を読んでいたら中学時代は園芸部に所属して、収穫した野菜を家に持ち帰っていたという。埼玉の中学校園芸部では草花以外に野菜も作っていたらしい。そういう部活をしてみたかったのだ。この春からベランダのプランターで野菜を育ててみようかと思っている。

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【おじさん、青年のバイブルを読む】

【おじさん、青年のバイブルを読む】

20世紀の終わり頃からネット上に日記をつけ始めた。日記を他人から見える場所に書くのは初めてだったので、自分のことは「私」と書き、文体は「です・ます」の「敬体」にした。そうしたら、読んだつれあいが「あなたに『私』は似合わない、『ぼく』の方がいい」と言うので、「私」はやめ文体も「だ・である」の「常体」にした。それ以来、手紙以外の文章はすべて常体で書いている。
   ↑
ここまでは常体

ここからは敬体
   ↓
雑誌『Bricolage(ブリコラージュ)に「おじさんたちの本棚」というリレー連載で書評を書かされています。順番が回ってきたので「おじさん、青年のバイブルを読む」と題して原稿を書いてみましたが、おじさんが若者のバイブルを読んだ感想にはエラそうな常体の文章が合わないので久しぶりに敬体で書いてみました。書き出しはこんな感じになります。

 大正時代に空前の大ベストセラーになったという本を今さらながら読んで驚きました。あの時代にこんな本があったのかと、読み始めて驚き、読み終えて感動し、なぜか思い出されるたびになんどもくりかえし読んでいます。それほど味わい深い名作なのだと思います。
 「青年のバイブル」とまで言われた本をこの歳になるまで知らずにいたのが恥ずかしいのですが、偶然知ることになったきっかけは精神科医岩井寛が書いた『森田療法』講談社現代新書を読んだことでした。その森田療法創案者である精神科医森田正馬(もりたまさたけ)自身が書いたものが読んでみたくなり、森田正馬『新版 自覚と悟りの道 神経質に悩む人のために』白揚社を読んだら、作家の倉田百三(くらたひゃくぞう)が強迫神経症を患って森田の治療を受けていたことを知ったというわけです。森田の治療に救われるまで、この人はどんな作品を書いていたのだろうと興味が湧き、この『出家とその弟子』を手にとったのでした。

ここからは常体
   ↓
面白いのは、敬体だと実物以上に大きく見せようとお腹を膨らませているガマガエルのような自分が消え失せて、身の丈にふさわしい素直な文章が書けるような気がしたこと。みにくいカエルはうつくしい王子様になりました、みたいな。まぁ人それぞれだと思うけれど。一晩寝かせて推敲し、恥ずかしくないことに納得したら編集者に送信する。

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【まぶたの裏】

【まぶたの裏】

眼は眼自身を見ることを放棄することによって眼以外を見ることができると書いてあって、上手いことを言うと感心したけれど誰が書いていたかは忘れた。

森田療法の森田正馬(もりたまさたけ)を読んでいたら、眠れないと訴える人は眼を閉じた状態に闇を見てありもしない苦悩を自分で作り出しているから眠れないのであり、まぶたの裏側を見ていると思えば退屈ですぐに眠くなるという意味のことを書いているように解釈して感心した。

つれあいは眠るのが過剰に得意な人で「眼を閉じていれば必ず眠れます」と言うが、「眼をつぶってまぶたの裏側を見ていなさい」という意味なのかもしれない。

手で物をさわる時、手は物をさわっていると感じるけれど、相対的に手が物にさわられていると感じることもできる。

だが人はさわっている感覚と、さわられている感覚を同時に感じることはできない。さわっていることに集中するとさわられている感覚は消えてしまう。逆もまたそうだ。人が物にさわって手ざわりを確かめるときは、さわりさわられる感覚を交互に繰り返している。交互が過敏だと病的になる。

さわっているか、さわられているかのどちらかに感覚をとどめることができると、人はおちつき、たいくつし、眠くなる。見ているという感覚を放棄して、まぶたの裏を見せられているという感覚にとどまることのたいせつさ。森田正馬は強迫神経症で不眠を訴える倉田百三に対してそう言っているように読んだ。

たぶん言われているのはベルクソン(ベルグソン)の言う知覚と記憶と意識に関する問題、「私」や「時間」の不思議につながっている純粋知覚のお話で、ニーチェだったら「草を食む幸福な牛になれ」と諭すだろう。

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【芋づる式】

【芋づる式】

さつまいもが芋づる式に地中から姿をあらわすのを見ても驚かなかったけれど、ピーナツのピーコちゃんが土中から芋づる式に出てくるのを見たときは驚いた。落花生は木の実だと思っていたからだ。まあ木の実だったらピーナツのピーコちゃんが野菜のちろりん村に住んでいたはずはないのだけれど。

人間もみな時代の風土から芋づる式に生まれている。本を読んでいて、その著者から連想する人たちの生年没年を調べ、順に並べてみると見事な芋づる式になって、彼らが生きた時代に通底する思想の土壌がわかる。みな、どじょうがでてきてこんにちはと出会っている。

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【リモート探偵】

【リモート探偵】

カメラマンの友人は外出自粛をしながら、毎日食い入るようにテレビを見て過ごしているらしく、リモート尾行で探り当てた真相をメールで報告してくれる。

男性気象予報士の〇〇は女性アナウンサーの〇〇に惚れている、女性気象予報士の〇〇は先日プチ整形した、新宿南口駅前からのニュース中継に必ず映っていた謎の女を渋谷駅前からの中継で発見した、力士〇〇〇がいつも同じ箇所に貼っている絆創膏の下に何があると思う?、大相撲中継で必ず映っているあの女性の正体を私は知っています……などなど。

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【茹時計】

【茹時計】

生命倫理に関する対談を読んで面白かったので哲学者加藤尚武(1937 - )が書かれた本を読み始めたら、その書き出しが

「静岡の久能山東照宮には徳川家康がスペイン国王フェリペⅢ世から贈られた時計が展示されている…」

と始まっていてびっくりした。郷里で何度も見たはずのあの時計だ。

あの時計を修理して動かすために分解し、世界中に数個ある同じ型の時計から集めた部品を組み込んで修理すれば、中身が入れ替わっても「徳川家康の時計」は、動くし、なくなることもない。「徳川家康の時計」であるという記憶は、物体自体ではなく、括弧で括られて外部の歴史的記憶に依存しているからだ。おじいさんの古時計も同じ理由で動いても動かなくても、記憶があるうちはなくならない。

古時計がきっかけで長いことほったらかしになっていた自動巻の腕時計の記憶が動いた。引き出しの隅から引っ張り出して振ってみたらちゃんと動く。この時計にはこの時計にまつわる思い出の記憶があるので「この時計」はなくならない。

静岡の祖母はどちらも「茹でる」の読みである「ゆでる」と「うでる」を使い分けていて、えだまめは「ゆでる」なのにとうもろこしは「うでる」と言い、ほかにも食品によって「うでる」と言っていた。「うでる」は「ゆでる」の音変化なので「ゆでる」がもとの言葉なのだけれど、「うでる」のほうがしっくりくるという語感の記憶が人の心にあり続けるかぎり「うでる」はなくならない。茹時計ではない腕時計でおばあちゃんを思い出した。

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