【《今日》】

2020年2月29日
《今日》

2014 年からスマホで連用日記をつけている。毎日、新しい一日のページを開くと過去 6 年間の「今日の出来事」が上に並ぶ。

日付が替わって未明に目が覚めたので、今日の連用日記を開いたら 2016 年の今日しか表示されない。終了して再起動しても変わらないのでアプリにバグが潜んでいるのだろうと決めつけて思う。

明日 3 月 1 日からはちゃんと使えることを確認して「まあいいか」と思い、Google の検索ページを開いたら 29 の数字がアニメーションで踊っていた。「ばーか、ばーか」と笑われているように見える。

そうか、連用日記をつけ始めてから今年までの間、2016 年にしか《今日》はなかったのであり、また巡ってきた《今日》は不要不急の外出を避け「王」も「門」の中にいる《今日》なのだ。

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【土を還す】

2020年2月29日
【土を還す】

鉢植えを買ったり貰ったりして花が終わると鉢と土が残る。土はどう処分したらいいのだろうと清掃局の情報を読むと、ゴミとして出してはいけないとだけ書いてある。聞かれても返事が面倒なのだろう。

近所の顔なじみに聞いたら大通りの街路樹の根本にぶちまけてよく踏んでおけなどと言う。なるほどとは思うけれど、人目が気になってなかなかできることではない。

マンション敷地脇に数本の針葉樹が植えられた小さな土地があり、昨年の台風で倒れかかっている。危険なので切ってしまおうという動議が住民総会で出た。猫の額(ひたい)とはいえ共有財産なので木を切るにも多数決による住民決議が必要なのだ。

その根本に土の地面がある。小さな鉢の土を還すにも住民決議が必要な気もするけれど、数年後には道路拡張で買い上げられて歩道になるので、まあいいだろうということにしてよく踏んでおいた。

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【医事は自然に如かず】

2020年2月28日
【医事は自然に如かず】

雑誌『Bricolage』(ブリコラージュ)の春号用に「医事は自然に如かず」と題して原稿を書いた。「医事は自然に如かず」は杉田玄白の言葉である。『Bricolage』は、この号から書籍扱いになって Amazon からも購入可能になるという。

原稿には「これは滝沢馬琴の日記だが、馬琴はこの八年前に失明しており、亡き長男の嫁であったお路(みち)が口述筆記したものである。馬琴八十二歳、お路四十三歳だった。介護者と被介護者が協力して綴った江戸の在宅介護日記である……」と書いて『嘉永元年戌申日記』より引用を入れた。引用箇所に

「今日は小便暮時過迄四度、但、三四夕ヅゝ通ズ」

とあり、この「三四夕」の「夕」は何と読むのかと、女性編集者の K さんに校正戻しで聞かれた。実はこの箇所が読めず、別な箇所にも

「夜中小便三度、但、三四夕ヅゝ」

とあるので原本の誤植ではないらしい。

じつは僕もわからないのだと返事を書いた後しばらく考え、
「これ、おミチが馬琴の話す言葉を聞き、馬琴の文体で代筆したわけですが、おミチは馬琴ほど文字の知識がありそうにないので、馬琴が小便の量を『三四滴』と言ったのを『夕(せき)』と違う字を書いたのではないでしょうか。そう読むと他の箇所も『小便は出るけど三四滴ずつ』と意味が通じます。」
と書いてメールしておいた。当たっているかどうかはわからない。

追記:正しくは液体の単位「勺」を「夕」とも書いたのであり、どちらも「しゃく」と読む。一夕は0.018リットル。

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【サービストーク】

2020年2月28日
【サービストーク】

気に入りの米屋まで買い物に出て山形産ミルキークイーンを5キロ精米してもらった。むかしの商店主は客を待たせる間、適当な話題を見繕って客あしらいをした。この米屋の先代夫婦もそういうむかし風の人なので、奥さんの方は米を買いにきた男子学生に
「自炊してるの?」
と聞き
「はい」
と答えると
「そう。えらいわね」
などとほのぼのとした会話をしている。

ご主人がこちらに向かって
「白米でいいですか?」
と精米方法を聞くので
「はい」
と答えたら
「大きいけどバスケをやられてるんですか?」
などと意味不明なことを言う。身長178センチはスポーツの世界で 小兵(こひょう)の時代であり、しかもすでに初老である。

エコバッグを持参したので肩に下げて歩いて帰宅し、妻に
「米屋のご主人に、大きいけどバスケをやられてるんですか?って聞かれたけど、なんでそんなこと言われたんだろう?」
と言ったら
「色が黒いからじゃないの?」
などと意味不明なことを言う。

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【道の終わり】

2020年2月27日
【新しい地図】

知らない道を歩くのは楽しい。知らない道を歩いていると前方に知らない世界が次々に現れてくる。

立教大学脇から知らない道を歩いたら「すいどーばた美術学院」があった。昔から名前は知っていて、てっきり文京区水道あたりにあると思っていたけれど、1964年、現在地に移転してきたという。東京芸大合格者数五年連続第一位だそうで、妻に聞くとむかしから「どばた」といって有名だったという。先日刺繍作品展を見に行った自由学園明日館の西側になる。

そのまま新しい世界に向かって歩いていくと西武池袋線の踏切にぶつかり、見覚えのある景色に戻り、知らない道の終わりが世界の終わりになっている。

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【新しい地図】

2020年2月27日
【新しい地図】

新型肺炎感染者が確認された都道府県地図が発表されるたびに生まれ故郷の静岡県と富山県が赤く塗りつぶされていないことに安堵してしまう。「よかった、まだがんばってる」などと意味もなく声が出て、世界各国に広がる赤い地域が表示されると、「こんなに感染が広がっているのに静岡県と富山県ががんばってるのはすごい」などと意味もないことをつぶやいている。

パトリオティズム patriotism 愛国心は転じて愛郷心になる。仕事の打ち合わせで外出し、約束の時刻にちょっと早いので見知らぬ路地に折れたらトルコ国旗を掲げた料理店がある。その路地をたどっていくと風俗店に混じってなぜかいろいろな国の料理店が集まっている。中国や朝鮮半島の人々が集まってチャイナタウンやコリアンタウンができるように、世界各国の小さな店が身を寄せ合うようにして小さなスクウェアをつくる作用があるようだ。

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【心配の向く先】

2020年2月26日
【心配の向く先】

過度に心配性な親に育てられた子どもは過度に心配性な大人になるのではないか。とくに一人息子、一人娘で親に心配されすぎ構われすぎで育つと、そうなるように思う。

このところ昨年引っ越した 9 階の住まいに工事が入り、何度か作業に立ち会っている。ベランダに脚立を立てて作業する職人さんを見ているのは辛い。脚立の上でバランスを崩したらフェンスの向こうに落下するのは必定であり、そういう事態を想像しただけで悲鳴や落下音が思い浮かんで耐えがたい。早く事故もなくベランダ作業が終わりますようにと祈ってしまう。

それでは自分が落ちたらどうかというと、悲鳴をあげることもなく心の中で「しまった!」と一瞬後悔する程度で、たいした恐怖はないと思う。そうではなく他人が悪夢のような恐怖を感じながら悲劇的結末を迎える光景を見ることが怖いのだ。残酷な事件映像を見るのが嫌いだ。

人いちばい心配性で他人の安全を気遣う人が、自分自身に対しては驚くほど無鉄砲だったりするという傾向もよく見られる。医者の不養生も好意的に解釈すればそういうことで、わが身を顧みず他人に尽くす人も多い。

ぎゃくに自分のことを気遣い、保身に気をつけてやまない人が、他人に対して驚くほど無関心だったり冷淡だったりするという傾向もある。そういうものなのだろうと思う。

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【結膜炎?】

2020年2月26日
【結膜炎?】

今週からマンションの全戸一斉窓サッシ交換工事をしている。あらかじめ採寸して工場で準備し、各戸用に用意したものを窓枠ごとスッッポリ取り替える。荒技なので騒音も出るが、数人の若者が連携しながら要領良く作業していく。窓が三箇所のわが家は2時間ほどで終了し、立ち合いをしながら楽しく観察した。窓をすべて取り去った部屋は寒いし、都内はもう花粉が飛来しているそうなのでくしゃみが止まらない。

今日の午後の予定を午前中に前倒しさせてもらえないかと言うので快諾したのだけれど、作業中の会話を聞いていたら、作業員の一人が体調不良で急遽離脱したらしい。
「ただの下痢みたいで、結膜炎が出てないからコロナじゃないと思います」
などと言う。新型コロナウィルスと結膜炎に関係があるんだろうかと調べたら、新型コロナウイルスに感染した場合の初期症状として結膜炎を発症する可能性があると日本眼科医会が発表したという。なるほど。

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【考える前に動く力】

2020年2月26日
【考える前に動く力】

阪神淡路大震災で被災した保育園長の手記を仕事しながら読む。あれから四半世紀が過ぎた。

溢れかえる避難民の中から自園の子どもたちを探しての安否確認もできず、めちゃめちゃになった園に戻って呆然としていたら、ちょうど日本訪問中だった外国人旅行者が数日間泊まり込んで手伝ってくれ、闇の中の支えとなった。援助はこうやってああだこうだと考える前に瞬間的に行われなければニーズに届かない、と当時の日記に書き殴っていたという。

「考える前に動く」とは「「考える前に動こう」と考える前に動く」ということで、言葉でうまく説明できない。けれど人間はあとから考えれば「考える前に動く」ということを考える前にやってしまっている。そういう力がある。惻隠(そくいん)の情という。

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【サクソホンを吹く若者】

2020年2月25日
【サクソホンを吹く若者】

夕食時に録画してあった NHK クラシック倶楽部で上野耕平サクソフォン・リサイタルを観た。フランクの「バイオリン・ソナタ イ長調」をアルト・サクソフォンの演奏で聴けた。

ウジェーヌ・イザイのためにフランクが書いた渾身のヴァイオリンとピアノのためのソナタ。好感の持てる誠実な演奏で「若いってすばらしい」と妻が言う。1992 年生まれだからまだ 28 歳である。

 

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【 It's just another day 】

2020年2月25日
【 It's just another day 】

朝のたべものがかりを始めて 10 年になる。2014 年からは連用日記をつけている。

2014 年の今日は朝食にたまごがゆとふき味噌を用意した。2015 年の今日は成城石井のハムライス、2016 年は青森県産ヒラメに小倉屋山本の塩昆布、2017 年は簡単オムライス、2018 年は貰い物の沖縄コンビーフで他人丼をつくった…と連用日記に書いてある。義母の介護が終わってモチベーションが低下したのか、たべものがかりは続いているけれど 2019 年は連用日記をサボった。

たいして変わりばえしない日々の出来事が毎朝スマホの画面に並ぶのを眺めて、これが人生だと達観するのもいいものだと思うので、今年になって再開した。今朝は炊飯器をセットしたので炊きたてご飯。納豆に自家製温泉たまごをのせ、焼き海苔と帆立貝の味噌汁を添え、いつもの朝が始まる。

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【溜まった新聞を読む女】

2020年2月24日
【溜まった新聞を読む女】

ごく日常的なことを、ちょっと思いつかない一般的でない方法で、実行している人を見ると「いいな」と思う。他人に迷惑をかけない範囲で変わったことをしている人がいる世界はいい。

ぽかぽかと暖かい振替休日の六義園。観光客があまり立ち入らない奥まった場所にある日当たりの良いベンチに、半月分ほどの新聞を持ち込んでまとめ読みしている女性がいた。

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【うでまくらひじまくらてまくら】

2020年2月24日
【うでまくらひじまくらてまくら】

郷里清水に介護帰省していた頃は、よく母親の介護ベッド脇でテーブルに突っ伏して仮眠した。両腕を組んでテーブル上にのせて枕がわりにし、顔を横にむけて寝るあれだ。腕が痛いので探したら、どこかでもらった空気で膨らむ腕輪のようなものがあったので、膨らませて枕がわりにしていた。

小難しい本を読んでいると眠くなる。とくに昼食後がいけない。椅子に座ってこっくりこっくりしていると首ががくんと折れたり、椅子から転げ落ちそうになってひやりとする。机に突っ伏して寝てみたら腕が痛い。腕枕じゃない、肘枕でもないし、うたた寝のあれは何て言うんだろうと辞書を引いたら手枕で「たまくら」という読みもある。手枕がわりになるものをネットで探したら、ちゃんと昼寝用をうたった枕があったので旅に携帯もできるコンパクトなやつを注文した。

読書をしていて眠くなるのは、退屈だったり逃避したくなることとは別に、頭に入った情報を記憶させるために睡眠の仕組みが必要なのだと思う。パソコンの動作が重くなるのはコンピュータが眠くなるのであり、仮眠はいったんタスク終了してメモリを解放してやるのに似ている。勉強でも仕事でも眠いときのちょい寝は有効だ。

先日、近所の診療所に行ったら開けっぴろげの診察室から高齢女性を診察する先生の声が聞こえ
「ああ、昼寝はいいですよ。ぜひしてください」
と言い、
「ああ、いいんですか」
と安心したようにおばあさんがつぶやくので、先生が
「昼寝ってどれくらいするの?えっ!三時間!そりゃあ娘さんが怒るわけだ、昼夜逆転するからそんなに寝ちゃダーメ!」
と言うので待合室に笑い声が溢れた。

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【なぜ】

2020年2月24日
【なぜ】

不治の病いにかかった友だちに「よりによってなぜわたしなの?」Why me of all people? と聞かれると答えに窮する…とむかしの日記に書いていた。

「なぜ私なの?」 Why me? という問いの後ろに「〜じゃなくて」Why not. がつく質問はへんだと言ったら、へんじゃないと言われたことがある。へんじゃないのかなと思いつつ、どうでもいいやと忘れていた。

「なぜ私なの?」と聞く相手が神様だったらどうだろう。そのあとに「神様じゃなくて」とついたらどうだろう。「なぜ私なの?神様じゃなくて」と聞いてへんじがなければ、「もしいるなら」とつづく。

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【ともに歩む】

2020年2月23日
【ともに歩む】

夫婦二人きりで子のない夫婦が待ち合わせて溝の口で飲んだ。十歳の年齢差の中にほぼ等間隔で三組の夫婦が並ぶ飲み仲間である。

配偶者以外によるべない魂が添えばその基底に愛がないはずはない。どんなに愛があろうと、寄り添う魂が同時に年老いていくのは難しい。さいわいにも若くして死別することがなかったにせよ、やがて二つの魂には老化の歩幅に差が生まれ、繋いだ手が離れそうになりながら、ともに歩んでいく。

老いて衰えた配偶者を励まし、支え、時には叱咤するときもある。励ます側から発したとき確かに愛であったものが、他人から見たらそう見えないという悲しみがある。もっとやさしくしてあげられないのかという忠告に対する答えが、愛しているからこそそうしてしまうのだ、になってしまうという痛みがある。歌のことばで言えば I do it for your love である。他者本位と自分本位は表裏になって引き剥がしがたい。意外な行為も愛に発している。軽々に他者を責められない。それこそが人間の負う苦悩だろう。

初めて訪れたこの街も年老いている。最初に入った店の創業は昭和四十二年だそうで、わが母が郷里清水で小さな居酒屋を開業した年である。母もその店もとうにないけれど、今もあればこんな店、こんな店主になっているのかなと思う。老いた老店主が店番する古書店が路上に本を並べており、上田篤『橋と日本人』が100円だったので買い、「このままでいいです」と言ったら「ありがとう」と言う。この人も親の世代かなと思いつつ「待てよ、他人から見たら自分がもうこの世代に見えるのかもしれないな」と思う。

友人夫婦たちとは次回飲み会を約して別れた。駒込までは大岡山乗り換え一回でつながっている。

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