【近くへ行きたい】郷蔵稲荷と鎌倉道

 JR 赤羽駅東口から旧岩槻街道周辺を散歩してみた。
 岩槻街道をそれ東に向かって古道らしき道をたどったら、ガイドとして持って行った『北区の歴史』(名著出版)に名前がある郷蔵稲荷神社の祠があった。住所は赤羽北 1-6 になる。

 江戸時代、ここには袋村の郷蔵(ごうぐら)がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。
 嘉永3年(1850)8月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建物の背後に杉の立木が描かれています。この絵図に関する古文書に よれば、これは火事を防ぐための火除(ひよけ)の立木であると書かれています。また、このときの村明細帳によれば、郷蔵は「籾稗貯穀 囲蔵(もみひえちょこくかこいぐら)」と呼ばれ、籾八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えら れ、このほかに稗四十四石の積立計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年貢米の保管というよりは、どちらかというと災害や飢饉の際に、村の人々が飢餓から自分達を守る備荒貯穀(びこうちょこく)を目的とした郷蔵だったことがわかります。
 現在、ここには大正7年(1918)3月に建立された石造の鳥居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の 「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは、「御蔵」ともいう郷蔵の 「御」を「オ」といわずに「ゴ」と言った結果とも考えられます。 稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また、現在は、 「穀蔵」稲荷と称されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれており、かつては、ここが郷蔵であったことを示唆しています。(北区教育委員会文化財説明板より)

 義母が入所している見沼区にある特養ホーム近くにも御蔵(みくら)という地名がある。見沼田んぼが広がる地域のちょっとした高みにあり、鎌倉街道に因むという鎌倉公園とも隣接している。年貢の一時貯蔵場所だったのか、解説板にあるように飢餓から自分達を守る備荒貯穀を目的とした郷蔵だったのかはわからない。
 宮本常一によると穀物でも稗(ひえ)は傷みにくいので飢饉に備えての食料備蓄に適していたという。関東地方では役人が管理するこうした郷蔵が各地に作られたが、それとは別に山間地域では独自に稗を備荒貯穀するしっかり者の農家があり、村人はそういう農家を知っていて娘がいると嫁にやりたがったものだという。

 郷蔵稲荷前の道は「稲荷の坂」という。

 この坂道は、赤羽北一ー三・四地先から赤羽台四丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根付村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と別れ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂とよばれるようになりました。(北区教育委員会文化財説明板より)

 鎌倉道ということは鎌倉御家人の所領と鎌倉を結ぶ道であり、徳川幕府によって中山道と岩槻街道ができてからは両街道を繋ぐショートカットでもあったわけだけれど、ずっと古い道ということになる。地図で稲荷の坂から小豆沢村方面の道を辿ってみると、途中に諏訪神社があるので、諏訪神社の場所が移っていなければそこまでは鎌倉道なのだと思う。諏訪神社から先、志村一里塚までの道があまりに直線的であり、寺や神社も見あたらないので鎌倉道を地図上で探すのが難しい。いつか歩いてみたい。

追記:明治時代の地図を見ると大まかな位置は昔のままらしい。

 

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地中に消えたネコ(フランク永井風)

 

 猫が縁の下の暗闇にいて目だけランランと輝かせている光景を子ども時代によく見た。猫は光のない真っ暗闇でも目が見えるのかと思ったものだが、人間より遥かに少ない光量で見えるだけらしい。いっぽう視力は人間より低くて遠くのものは見えにくいが、動体視力はよく動く物は見落とさないという。見沼区のバス停でバス待ちをしていたら猫が地中に消えるのが見えた。

 猫より動体視力は落ちるけれど、確かに猫が地中に消えたように見えたので行ってみたら小さな下水口があった。ここから潜ってどこから出るのだろうとあたりを見ていたが出てくる気配がない。

 バス停に戻ってバス待ちをしていたらまた猫がやって来て、静かに下水口に近づきのぞき込むように姿勢を屈め、するりと穴の中に入っていった。

 猫というのは何が目的だかわからない薄気味悪い行動を勝手にやっているので見飽きない。

 

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病人と読書

 どんなにおもしろく読み終えた本でも、再読する可能性のない本は、もらって読んでくれるという人にあげてしまうか、地下鉄駒込駅構内にあるメトロ文庫に寄付することにしている。そうしないと本が溜まって仕方ないし、多くの人に読まれた方が本も幸せだろうと思うからだ。
 読み終えても手放さずに本棚で保存しておく本を選ぶためのもうひとつの基準に、いざ病院行きというときに持って行く気になる本であること、というのを決めている。診断によっては手術になったり、入院になったりし、最悪の場合は命に関わるような宣告を受けることもありえるわけで、眠れぬ夜があれば読む気になるだろうと思える本を見つけると大切にとってある。

 夜中に目がさめても布団から出る気にならないとき、スマートフォンで読む電子本がとても都合が良い。操作がなければ電源が落ちることで自動的に頁が閉じ、読んでいた箇所にちゃんと栞が挟まる仕組みになっているので、読んでいる最中に眠くなれば眠ってしまえば良いからだ。無理して読書することもないので病人にも優しい。
 そういうわけで「いざ病院行きというときに持って行く気になる本」は電子本から選んでいるのだけれどなかなかそういう本は電子書籍版がない。スキャンしてPDF化するいわゆる自炊は行為も産物も好きではないので、正当な対価を払って希望の書籍を電子本として入手できる仕組みがあったらいいなと思う。やろうと思えば紙のオンデマンド出版より遥かに楽なはずだから。

なぜか清掃工場から盛大に煙が出ているなぁと眺めていたら、右に流れて雲だとわかった。
煙突が悠々とタバコをふかしたようである。

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【近くへ行きたい】白山上の石垣

 

 早朝散歩で白山上から白山下へ向かう坂道を下りかけたら、更地になった建設現場で崖面の石垣が露出していた。
 石垣の石がまちまちなので、さまざまな時代にさまざまな理由で改修され続けたのだろう。どういう順番でどういう事情でこうなったかを読み解いてみたいけれど、地学の地層図を読むよりも難しい。

 右端あたりの石垣は古そうなので古地図を見たら、かつて都電通りだったこの坂は江戸時代にもちゃんと今の位置にあるので、右端あたりはその当時の古いものかもしれない。

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寺田寅彦「嵐」を読む

 話をしながらの町歩きは歴史系や文学系の人たちより、理科系の人たちと一緒の方が楽しい。目に触れる物より自分の心に浮かんだ事柄を陶然として語り続ける前者より、誰にも見える証明可能な実在を確認し合うことから共通の感慨を導き出していく後者の人たちと歩く方が楽しいからだ。だから歴史や文学散歩をしたいときはできるだけひとりで歩き、大勢で町歩きするときはなるべく理科系の人間のように話そうと努力することにしている。

 始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。浜へ汽船が着いても宿引きの人は来ぬ。独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧の門脇に捨てた貝殻に、この山吹が乱れていた。翌朝見ると、山吹の垣の後ろは桑畑で、中に木蓮が二、三株美しく咲いていた。それも散って葉が茂って夏が来た。(寺田寅彦「嵐」)

 こういう書き方が適度に理科的でいいから寺田寅彦の書いたものが好きだ。見たものを適切に書き写しているだけなのにそこはかとない情感がある。未明に起きて布団の中で所在ないときはスマートホンにダウンロードし、理科系の人と話をしながら夜明けまでの道を歩くように読むのを楽しみにしている。
 「おぼろ」と「とろろ」と「そぼろ」の境界は朧(おぼろ)だ。おぼろ昆布ととろろ昆布の違いを理解するのにもずいぶん経験と時間を要した。富山県人と結婚して富山を訪ねて昆布屋に行き、土地の人はこの膨大な種類の昆布の違いを理解して購買するのかと “旅の人” は驚いた。「朧の門脇に捨てた貝殻に、この山吹が乱れていた」寺田寅彦は「嵐」の中でこんな風に朧を使っていて面白いなと思う。

 「嵐」の中に「黒潮に洗われるこの浦の波の色は濃く紺青を染め出して、夕日にかがやく白帆と共に、強い生々とした眺めである。これは美しいが、夜の欸乃(あいだい)は侘しい。」という文章があり、はて欸乃(あいだい)って何だろうと探したら歴史民俗学辞典で見つかり、漁夫が舟をこぎながら歌う歌とあって、やっと侘しさを理解した。
 辞書を手放すいとまもなく「この婆さんから色々の客の内輪の話も聞かされた。盗賊が紳商に化けて泊っていた時の話、県庁の役人が漁師と同腹になって不正を働いた一条など、大方はこんな話を問わず語りに話した」という文章があり、紳商って何だろうと引いたら「教養や品位のある大商人」とあった。教養や品位のある商人も大がつくと盗賊と紙一重になるのかもしれない。
 さらに「それによごれた叺(かます)を並べ」というところでも辞書を引いた。叺(かます)がわからなかったけれど、辞書には「わらむしろを二つ折りにしてつくった袋」とある。あったあった!祖父の瓦工場にそれはあったと思い出した。工場の床にあぐらをかいて仕事をする祖父に並んで、煤けた叺(かます)を敷物がわりにして座るとお尻がひんやり冷たかったあの袋のことだ。

 読み終えた寺田寅彦「嵐」は珠玉の掌編だった、これは凄い。「誰れにも訳のわからぬこの店には、心の知られぬ熊さんが居る」「人の知らぬ熊さんの半生は頼みにならぬ人の心から忘られてしまった」。「心の知られぬ熊さん」にピンときたら青空文庫で読んでみて欲しい(誰にともなく…)。スマホの中で消さずにおき、何度でも読み返してみたい作品がまたひとつ増えた。読み終えたら外が明るくなり、午前五時を過ぎたので早朝散歩に出た。善光寺坂途中にある和賀喜家豆腐店からは美味しそうな匂いがあたりに漂っていた。

 

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スクラップブックとしてのカメラ

  PENTAX Optio LS465 という超スリムボディを売り物にしたデジタルカメラがあり、1600万画素2.7型液晶付きとしては驚くほど小さくて軽い。新品で5,000円を切っている店もあり、安いので買ってみたけれどなかなか面白い。写りの方は価格相応で、広角端では四隅の画像が流れて情けなく、気合いの入った風景写真など撮る気になれず、正方形モードにしてもまだ四隅の流れがわかるほどだ。それでも気に入って持ち歩いているのは総合的な印象評価が高く、小さくて、軽くて、軽快で、愛敬のある写り方をするので使って楽しいからだ。あとは大好きな正方形モードがあるのも、自分にとって大きなチャームポイントになっている。

 どういう用途に使っているかというと、常に胸ポケットに入れておき、手に取り目に触れるすべてのものに対して、デザイン的に興味をそそられたとき手当たり次第に記録することにしている。雑誌でも単行本でも新聞でも、パッケージでも中吊り広告でも看板でも、すべてを取り込む電子のスクラップブックということにしているのだけれど、カメラを専用にしている理由は、パソコンに取り込む際に、そういう用途の画像だけがすでにまとまっていることで、煩わしい整理が不要だからだ。特定用途に専用カメラを設定するというのはやってみるととても理に適っている。

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2013年4月22日

 起きたら「仙台は桜が満開のなか、今日積雪1センチ(14年ぶり)を記録しました」という書き出しの仕事依頼メールが届いていた。
 今日は特養ホーム入所中の義母に妻が付き添って病院定期健診。朝食を食べさせて7時半には送り出さなくてはいけないので、お米をといで炊飯器をセットした。健診終了後はホームに戻って身体をさすり、昼食食事介助をして帰ってくる。そういう暮らしを毎日の日課としてから間もなく一年半になる。

 午前中、根津の出版社で新刊書のプレゼンがあり、終了後上野不忍池を散歩した。池の上に張り出した観賞用浮島が出来上がっていたので上を歩いてみたが、ふわふわして船酔いしそうで気持ちが悪い。雀が目についたので写真に撮ってきたが、手に取れるような距離からあらためて眺めると、地味な色合いだけれど綺麗なものだなと思う。
 帰りは東大構内を通って本郷通りに出て、白山下の蕎麦屋に寄ってカレー南蛮を食べた。白山上の「小田原屋」であさりの佃煮を買おうと思ったら、青ザーサイ塩漬けというものがあったので買ってきた。ネットで検索したら、横浜中華街では出す店があるようで、ビールのつまみに最適だと言う人もいて人気が高い。

 

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カレー南蛮百連発:042

 ネットで偶然見かけたカレー南蛮が美味しそうなので東京都文京区白山5丁目3−7の「大むらそば店」に仕事の打ち合わせ帰りに寄ってみた。鶏肉かと思ったら豚肉だったけれど、薄切りで油の少ないしゃぶしゃぶ用肉のようでしつこくないので悪くない。葱の切り方と火加減もなかなかいい。

 

 食べながら店内を観察していたら、カレーライスとお蕎麦のセットメニューを頼む客が多い。どんなカレーなんだろうと横目で見ていたら、黄色くて素朴な外観なので “注文を受けてからササッとつくる当座のカレー” なのかもしれない。昔ながらの蕎麦屋やラーメン屋が、注文を受けるたびにササッと作る不思議なカレーが大好きなので興味津々。横目で観察を続けると食べていた中年男性は卓上の醤油をかけていた。市販ルーを使わない手作りなのでかなり薄塩なのだろう。そういえばカレー南蛮もかなり薄塩だったが、それでも最後まで飲み干してしまったのはだしがきいていた証拠で、しっかりしただしは減塩を助ける。

近日中にカレーライスを食べに行ってみたい。

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東京スカイツリー教

2013年4月14日

 夜明けが早くなったし、気温も上がってきたし、冬のあいだに溜め込んだ皮下脂肪も気になってきたし…というわけで、朝の早起き散歩を再開した。昨年日課としてやってみて得られた教訓は以下の通り。
・同じコースを毎朝歩くことは、だんだん飽きて長続きしない(性格にもよる)。
・タイムを計測して自分と競争するようなことをすると長続きしない(性格にもよる)。
・のんびり歩いても、早足で歯を食いしばって歩いても、走ることと違って大したタイム差がでない(性格とは関係ない)。
 というわけで今年は、毎朝その日の気分で気ままなコースを歩き、何キロを何分で歩いたかなどという記録はとらず、カメラを首から提げて立ち止まって写真を撮ったりしながらのんびり歩くことにした。

 今日は王子駅前から線路沿いに歩いて上中里に向かってみたが、JRを跨ぐ車坂跨線橋から東京スカイツリーが見えるのでびっくりした。学生時代は北区西ヶ原に住んでいたので、時折この辺も散歩したけれど、まさかこんな光景を見る日が来るとは思わなかった。
 東京スカイツリーはその可視範囲に「まさかこんな光景を見る日が来るとは思わなかった」という感動を無数に作り出しているわけで、心にあかりを灯してくれるチカラとしては、そんじょそこらの教祖様よりありがたい。写真に撮ってみると有り難さがさらに際立って東京スカイツリー教のようだ。学生時代、この辺に散歩の足を伸ばすときはたいがい心がしょぼくれているときで、こんな希望に満ちた景色は見たことがないもの。

|車坂跨線橋は5km の表示がある地点|

 

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【近くへ行きたい】方向音痴とはなにごとか

 音痴とはひどい言い方だと思う。ひどい言い方なので音痴の言い換えに調子外れがある。方向音痴もまたひどい言い方なので、それにならえば方向音痴の言い換えは見当外れになるのかもしれない。
 人はまず、自己中心的な相対的座標で「よし、わかった!」と今ここを直感的に思い描き、目印となる地形や道や建物を探して地理的な座標の証拠物件とし、それらを組み合わせて「はい、いま私は地球上のこの場所にいます!」と現在位置の見当を宣言する。実のところ後者の地理的座標データが乏しいと見当が正確につけられないのだけれど、それはそれとして「大丈夫、自分は正しいに違いない!」という思い込みが強く、思い込みで作られた地図に従ってズンズン身体が動いてしまう人がいて、そういう人が道に迷いやすいので方向音痴と呼ばれるのだろう。方向音痴は情報不足と思い込みによってもたらされるトホホな結果であって体質的な不具合などではない。

 池袋の編集事務所で打ち合わせがあり、帰りは運動のため歩いて帰ることにした。けれど池袋から山手線外回りすなわち時計回りに駒込方向へ向かう道は、方向感覚を頼りに地図を見ないで路地を歩くと、見当外れになってとんでもない方角へたどり着くことが多い。
 今日もまた、とんでもない方角に歩いている気がして不安になったが、運良く明治通りに出たので右折し、JR山手線を跨ぐ跨線橋まで行ってみた。跨線橋の上で山手線時計回りである大塚方向を見たら、なんと真正面に東京スカイツリーが見えるのでびっくりした。心の中に描いた思い込み地図によれば、スカイツリーはもっともっと右方向にあるはずなのだった。

 帰宅後、パソコンで地図を開いて確認したら、山手線外回りは池袋駅を出ると右にカーブしてほぼ直角に進行方向を変えており、次の大塚駅まで続くまっすぐな線路に直線をひいて延長していくと、その先は確かに墨田区押上一丁目1番2号の東京スカイツリーに繋がっていた。当たり前だけれど地図というのはこういう納得のためにもある。

 こうやって落ち着いて情報をを収集して考え、精度の高い地図を思い描いてから身体を動かす人が方向感覚に優れた人と呼ばれるわけで、思い込みが強く考えるより先に身体の動いてしまう自分のような人間が方向音痴と分類されるのだろう。
 とはいうものの災害時などは、方向音痴であっても考えるより先に身体が動いたことで奇跡的に助かった人もいるわけで、そもそも二つのタイプに分かれることで人類は絶滅が避けられるように神様が作っているのかもしれない。とりあえず方向音痴は病気ではなく個性であると言っておこう。

 

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通りに面した店舗と廃業後の活用法

2013年4月10日

 一階が公道や私道に面して店舗になっている建物の様式は懐かしい。団地入居者の抽選に当たったと喜ぶ人たちをうらやんだりした昭和の時代、叔父の家に泊まりに行くと叔母が
「団地ってこんなに便利なのよ~」
と言いながら得意げに買い物へ連れて行ってくれたのを思い出す。時は移ろい、社会状況が変わり、団地併設商店街には空き店舗が目立つ。

 空き店舗になってシャッターを下ろした奥に、ひっそりと年老いた店主一家が生活しているケースも多い。この団地もみんな店じまいしてしまったんだなと思って前を通ったら、店舗部分を住まい風に改装し、シャッターのかわりにガラス戸をつけ、通りに面して縁先のある民家風にされている家があった。ごく普通の民家なら大胆な暮らしぶりに感心するし、何か公共的な場として活用しているなら、これはこれで面白い試みだなと思った。シャッターや自販機の壁にしておくのがとにかく良くない。

 

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石段の上り下りから

2013年4月9日

 

 文字に書いたり、言葉で言い表すことが難しい空間に身を置くのは楽しい。たとえばこういう石段を上り下りするということ。
 写真に撮って

「ほらこんな石段があったよ」
と見せてしまえばそれで説明は省けるのだけれど、相手が視覚的に思い浮かべられるよう、写真を使わず言葉だけで説明しようとするととても難しい




 子どもの頃も、大人になってしまった今も、帰宅して説明しがたい場所の体験というのは、思い出しただけでもわくわくして心が活性化する。そういう場所と空間は、たいらで真っ直ぐな空間とはちょっとだけ次元がずれているのだろう。世界中で不思議な空間を有する古都が、古来すぐれた知性と文化を育むゆりかごとなったケースが多いのはそういうことなのではないかと、ちっぽけな石段を上り下りしながら思う。
 なにか考え事で行き詰まったとき、こういう場所を見つけて上り下りを繰り返していたら、なにか思いもよらない発想ができそうな気がするホットスポットである。 

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身体と笑い

|2013年4月2日|

 こころが笑う心理的な「笑い」ではなく、身体が笑う生理的な「笑い」というものは不思議だ。こころが面白くもないのに、身体だけが笑ってしまうということはよくある。
 和風旅館で丁寧な給仕を受けている間、かしこまっていなくてはいけないと思えば思うほど身体が笑いたがり、必死で堪えていたら
「笑いたければお笑いになって結構ですよ」
と言われ、客室世話係りの心証を害してしまったかなと気まずい思いをしたこともある。

 何もそこに笑うべき正当の対象のないのに笑うというのが不合理な事であり、医者に対して失礼はもちろんはなはだ恥ずべき事だという事は子供の私にもよくわかっていた。そばにすわっている両親の手前も気の毒千万であった。それでなるべく我慢しようと思って、くちびるを強くかんだり、こっそりひざをつねったりするが、目から涙は出てもこの「理由なき笑い」はなかなかそれぐらいの事では止まらなかった。そのような努力の結果はかえって防ごうとする感じを強めるような効果があった。(寺田寅彦「笑い」)

寺田寅彦は病弱だったせいで幼い頃から医者にかかったが、診察中おかしくもないのに笑い出しそうになるのをこらえるのに苦労したという。

|大宮の特養ホーム通いに使う田端駅ホームにて。寺田寅彦もよく利用していた|

おごそかな神祭の席にすわっている時、まじめな音楽の演奏を聞いている時、長上の訓諭を聴聞する時など、すべて改まってまじめな心持ちになってからだをちゃんと緊張しようとする時にきっとこれに襲われ悩まされたのである。床屋で顔に剃刀をあてられる時もこれと似た場合で、この場合には危険の感じが笑いを誘発した。(寺田寅彦「笑い」)

 義父はパーキンソン症候群という持病に悩まされた。大学病院での診察に付き添うこともあり、同じ病気をもつ義父以外の人を見る機会もあった。義父の場合は、歩いているうちに前のめりになり、上半身の加速に足がついてこられなくて転倒してしまう傾向があったが、医師に付き添われて廊下を歩くと足だけがどんどん前に進み、上半身が後ろに倒れてしまうという逆の人も見た。
 病気自体も不思議だが、何度やり直しても足だけがどんどん前に進んで上半身が後ろに倒れてしまう人が
「あれっ、変だなぁ、あれっ、変だなぁ」
と医者と顔を見合わせながら何度もやり直している時、表情に不思議な笑いがあることが不思議で、母を看取った時も、苦しみの中で現れる不思議な「ユーモア」と「笑い」に驚くことが多かった。

 ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。(寺田寅彦「笑い」)

|特養ホーム訪問帰りによく見る見沼区東新井の桜|

 誰もが体験するであろう「身体の笑い」に似た体験のひとつに「膝が笑う」という現象がある。筋肉が疲労して足がガクガクしたした状態を指すのだけれど、そういう「状態」にもかかわらず「何とか制御してしっかり立とうとする心との葛藤」こそが、ガクガクしてしまう事態を引き起こす「膝の笑い」の本質なのではないかと思う。それは緊張すればするほど制御不能になるパーキンソン病の傾向を持つ人たちにも当てはまるような気がしている。制動不能になろうとする身体を、心が制御しようとして集中すればするほど、激しい痙攣のような振動となって止められなくなるのだ。コーヒーカップを持った義父の手が震え、カップが皿にぶつかる音が「カ、カ、カッ、カッ、カッ、カッ!」
と急激にリズム感を持って大きくなるときに、
「おっとっとっとっとっ!」
と家族の中にきまって苦笑が漏れたのは、病気を笑ったわけではなく身体の笑いに、皆が共鳴させられていたのだとおもう。
 誰にでもある「へまをしでかすまいと集中し緊張すればするほどへまをしでかしてしまう」という事の、もっとも極端な例をパーキンソン病の人たちに共通して見た。不注意で怪我をするのではなく、注意していればこそ怪我をしてしまうという不幸がそこにはあった。

 57歳で亡くなった寺田寅彦も長生きして高齢になったら、パーキンソン病で苦しむことになったタイプの人なのではないかと、当てずっぽうだけれどあの人この人を思い浮かべながらそう思う。そうなったとき、彼は自分の病いをどう説明してくれただろうか。

 

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寺田寅彦と松坂屋

|2013年4月1日|

 

 小学生時代を過ごした1960(昭和35)から1966(昭和41)年、母親の数少ない楽しみのひとつは、上野まで息子を連れて買い物に出かけることだった。買えるものもないのに上野松坂屋の陳列ケースをのんびり眺めて歩き、赤札堂とアメ横で買えるものを買って帰るのに付き合わされるわけだが、自由な買い物に縁のない子どもの数少ない楽しみは上野松坂屋にあるふたつの不思議だった。そのひとつは一階と二階の間にある奇妙な中二階の構造を体験すること、そしてもうひとつは本館と新館を繋ぐ空中連絡通路をわたることだった。地上7階からの景色を眺めるだけで当時は目眩がしたものだが、そういう建物同士を空中通路で結ぶなどということは、子どもにとって驚異的なことだった。

|上野松坂屋の空中連絡通路|

 未明に目がさめたので寺田寅彦を読んでいたら上野広小路の松坂屋が出てきた。

 そうはいうものの新しいものにはやはり誘惑がある。ある暖かい日曜に自分もとうとう京成電車上野駅地下道の入口を潜った。おなじみの西郷銅像と彰義隊の碑も現に自分の頭の上何十尺の土層の頂上にあると思うと妙な気がする

 新しいものになら何にでも飛びつく新しもの好きを揶揄しつつ、寺田寅彦もまた1933年(昭和8年)12月10日に開業した京成上野駅に出掛けていって、地下ホームから京成電車に乗ってみたのだった。「民家の砂漠」のような沿線風景に辟易した寺田寅彦は千住大橋で京成電車を降り、市電を乗り継いで上野まで戻り、広小路で下車して松坂屋に入っている。

 広小路の松坂屋へはいって見ると歳末日曜の人出で言葉通り身動きの出来ない混雑である。メリヤスや靴下を並べた台の前には人間の垣根が出来てその垣根から大小色々な無数の手が出てうごめきながら商品をつまぐり引っぱり揉みくたにしている。どの手の持主がどの人だかとても分からない。(寺田寅彦「猫の穴掘り」)

 この作品は1934(昭和9)年1月『大阪朝日新聞』と『東京朝日新聞』に掲載されたもなのので、寺田寅彦は前年の暮れも押し詰まってから京成上野駅に行って電車に乗り、1929(昭和4)年、関東大震災からの復興として再建されたルネサンス建築風の松坂屋本館に入っているわけだ。当時はまだ新館がないので、空中連絡通路は南館として地下3階地上7階の新館が増築される1957(昭和32)年まで待たなくてはならない。
 3月31日、夕飯の買い物をかねてバスに乗って上野広小路に出たら、松坂屋屋上から懐かしいアドバルーンが上がっていた。浅草松屋がそうであったように、この外壁の内部に当時の本館が現存しているのだろうか。


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