電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
登呂遺跡と駿河国分寺
2015年5月13日
登呂遺跡と駿河国分寺
●
01
司馬遼太郎は初めての土地を訪ねると、かつて国府があった場所か国分寺あとへ行くことが癖になっていたそうです。5月7日は駿府博物館の思いがけない休館日に当たってしまい、時間ががあったので登呂遺跡を訪ねてみました。他地域からの来客があるたびに案内した古代の遺跡を、一人で歩くのは初めてだったので、とりとめのない考え事に耽ることもでき、それはそれで貴重な体験でした。
02
帰京後、はてこの肥沃な平野から租税としてとりあげる農作物をあつめた国分寺はどこだったのだろうと調べたら、異説があるものの大谷にある片山廃寺跡がそうらしいということを知りました。現代人が中心と考える地域とは違い、農作物を集めるのにもっとも便利な場所が、選定の規準だったそうですからたぶん片山廃寺跡がそうだったのだと思います。登呂遺跡からほど近い場所なので次回はぜひ訪ねてみます。
(お世話になった友人宛に書いた礼状より)
●
いただきますとありがとう
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/fd/cbd7355ee6272262227aae198fb77fea.png)
夏みかん
02
司馬遼太郎が萩を初めて訪ねたのは士族屋敷で夏みかんが色づく頃だったという。青海島に漂着した夏みかんは、明治期に没落士族救済のため萩で栽培が奨励された。その夏みかん原種の枝変わり(突然変異)が甘夏みかんで、昭和初期に大分で発見され、山口以外で甘夏みかんへの転換が進んだのは昭和40年代のことだという。
03
「ああ昔ながらの酸っぱい夏みかんが食べたい」
と言うと笑って届けてくれた郷里の友人ももうないが、初夏になると律儀にあの酸味が恋しい。
04
誤読万歳読書ノート1
2015年5月5日
誤読万歳読書ノート1
Books|徴候・記憶・外傷|中井久夫|みすず書房
※読みながらメモしたこと、考えたこと、脱線したことの覚え書き
◉
001
◉「いまここ」に現前する世界はすべて記号によってできているが、未だ来らぬものの予感と遠く過ぎ去ったように思われるものの余韻とを結びつけた、おおきな記号論について。いま現前するものは自分にとって取るに足りないものばかりであり、未だ来らぬものの予感と遠く過ぎ去ったように思われるものの余韻こそが、重大な価値を持っているのではないか。「それは遠景が明るく手もとの暗い月明下の世界である」(中井久夫)
002
◉世界は自分が作り上げた索引を参照することによって現前する。フッサール的に言えば、人がものを見て漠然とあることを認知し(ノエマ)、自分の索引を検索して名指しする(ノエシス)ことによって意識が存在する。平たく言えば主観と客観のワンセットで、これを指向性意識という。
003
◉木村敏は「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」と指向性意識を三つに分類し、それぞれの意識に支配されることで生じるこころの病いを「祭りの前」すなわち統合失調症的、「祭りの後」すなわち躁鬱病的、「祭りの最中」すなわち癲癇的であると考察した。
004
◉中井久夫は差分らしいという注記を添えながら、統合失調症的へと導く「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」を「微分回路的認知の突出と失調」、躁鬱病的へと導かれる「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」を積分回路的認知の麻痺と発病」と言っている。
005
◉微分回路的認知とは、ごく小さな徴候の断片を取り出しては来るべき時間を先取りして予測し続けること。過去の経験を参照せずに済ませられる利点と引き換えに、小さな変化を増幅拡大して動揺しやすい。ささいな徴候もそれを雑音とみずに反応してしまうことであり徴候優位性ともいう。
006
◉未だ来らぬ事態の徴候についての分析は、何もないものに対する分析なので正解がない。正解がないことにより恐怖は際限なく増加し、妄想の迷路は無限に続いていく。
007
◉どんどん細部を細かく分割し抽出して行われる分析には歯止めがきかず、世界は滑らかさを失い、正方形のビットの集まり、角のあるとげとげしい集積としてしか感じられなくなる。
008
◉世の中で定型とされる人たちが、どうして正方形のビットの集まり、角のあるとげとげしい集積としてでなく、滑らかな表面を持ったすべすべの世界を認識できるのか。とげとげを感じる分岐である閾値を超えないように心のバランスを取っているからだろう。
009
◉むかしむかしあるところにシンタグマとパラディグマという、性格のことなった二匹のクマがいました。シンタグマは些細なことをほじくり出しては気に病んで妄想を広げるので統合失調症に、パラディグマは過去のことに拘泥して忘れることができないのでうつ病になりましたとさ。
010
◉lenovo の YOGA TABLET 8 というのを手に入れたのでいじっているが、まず工業デザイン的に非常に良くできている。これは手に持ってみないとわからない。古い機械だけれどとても優秀で iOS 専用をうたう静電気発生型ペンにも問題なく反応する。ほんとに軽くて使いやすい。ただの板(タブレット)ではないことにより、人の軽重の感覚を良い方向にコントロールできている。重さに限らず人は刺激を対数比的に感じるからで、多少重くなっても重いと感じない、ちょっと軽くなってもすごく軽く感じる部分の閾値を利用する。ウェーバー=フェヒナーの法則 。
011
◉中井久夫を読んでいたら、精神病理を基礎理論的に話すとき、あくまでも一次近似として言うのだけれどと言う。数学の通信簿はゼロに近いのでわかりやすい説明を探したら曲線を直線で近似することとある。これなら職業的によくわかる。Adobe Illustratorのようなベジェ以前の疑似図法。
012
◉テレビを横目で見ていたらノーベル賞受賞者が数学をわかりやすく解説していた。初めてのMacintosh、QuickDraw PICTは曲線を扱えず、Adobe Illustrator に渡すと曲線は直線の繋がりとして表現され、セグメント数は解像度に依存した。直線と曲線の一次的近似。
013
◉古代中国人は「無限は角のない正方形である」と言った。曲線を扱えなかった初期の製図ソフトでは、円とは無限の直線と角による多角形だった。
014
◉ユクスキュルと中井久夫を交互に読んでいる。生き物が動かなくなることで他の生物を欺く擬死の仕組みについてふと脱線したから。子どもの頃、よくアマガエルを仰向けにして「お前は眠くなる眠くなる」と言いながらお腹を指で優しくさすっていると擬死状態になった。調べたら「拘束刺激」というらしい。
015
◉擬死のもつ意味についての解説で魅惑的なのは中井久夫が書いている「比較的少数のニューロンを使う場合に効率がいい外界対処の方法」という考え方。中井はカエルをひき、ユクスキュルはコクマルカラスをひいている。人間が外界対処にしくじりやすい心の持ち方に似ている。心の擬死による現実逃避とか。
016
◉意識の指向性がパラディグマ的であるということは、受容される情報を索引中にあるであろう一般例として参照するわけで、突然の変化にたいする耐力が強い反面、必然的に遅れがあるので状況に絡め取られてしまうという弱点がある。テレンバッハのメランコリーでは環境変化に対する折り合いが付けられない封入性(インクルデンツ)メランコリーに対して、時間的に遅れをとっているという負目性(レマネンツ)メランコリーとして分類されている。
017
◉「迷路」というのは考えようによっては安全装置であって、そもそもなかなか出られないようにできている。それがごくまれに障害にぶつかることなくスッと出られてしまうことがあり、それが「事故」であるということを中井久夫が書いていて感心した。もとは柳田邦男が言った名言だという。
018
◉統合失調症もまた脳の活動である以上、活動を高めることを善とする社会の枠組みから自身を救出しようという意志をもてないと完治できない。
019
◉ ウェーバー=フェヒナーの法則(外界から受ける刺激の強度を対数に変換して受容する)のような閾値によって抑制された比例回路的世界があるから人は安定したこころの状態を維持できる。過剰に些細な変化に敏感だったり、過剰な過去の索引照合に拘泥したりしない、対数比に応じた緩衝による正気の維持が大切だ。
020
◉対数比に応じた体験の許容度が保たれた状態では、体験の強烈さとその持続時間はおよそ反比例する。
021
◉幻想や妄想などの主観的な現象は、本人がそこに注意を向けている間だけ存在する。確信犯的な妥協状態なので治りにくい。
022
◉ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、夜の世界を「イディオ・コスモス(そのひとかぎりの世界=個人的幻想世界観)」と呼び、その対岸に「コイノス・コスモス(共通世界=社会的共有世界観)」を据えて考えた。
023
◉木村敏のいう「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」が、「コイノス・コスモス(共通世界=社会的共有世界観)」と「イディオ・コスモス(そのひとかぎりの世界=個人的幻想世界観)」が一体であるかのように接近した世界、すなわちフロイトが仮設した「無意識の世界」なのだろう。無意識は徴候と索引の癒着であり、しばしば癇癪的である。
◉
|1|2|