殿(しんがり)を生きる

 司馬遼太郎の歴史小説を読むと、合戦における殿(しんがり)の話がよく出てくる。

 形勢不利になって逃げる集団の最後尾に身を置き、追いすがる敵を攻撃するという最大の防御をしながら仲間を無事にのがし、あわよくば自らも仲間とともに退却して生きのびようとするわけで、攻めながら逃げるという相反することを同時にする役割なので、武将としての器量がよほどなくてはつとまらない。そういう大役が殿(しんがり)なのだという。

 年老いたり病気になったりした親たちに、できる限りのことをしてやりたいと在宅で頑張り、矢尽き刀折れて施設でお世話になる決断をし、それでもまだできることをしたいという思いに突き動かされ、毎日特養ホームへ昼食食事介助に通う妻の日課も、間もなく丸二年になろうとしている。

 施設暮らしでの看取りが終わったら、顔なじみになった職員やケアワーカーに会いに行く口実もなくなってしまうわけで、それもまた寂しいなどと看取りも終わらないうちに感傷的なことを言ったら
「何言ってるの、親たちが終わったら次は私たちの片付けよ」
と妻が言う。さっさと自分たちの死の準備をしようというわけで、返す刀でいきなり切りつけられ、
「刺し違えてさっさと死にましょう」
と言われたような気がしてドキッとしたが、落ち着いて考えてみたら、なるほどそれはそうかもしれないなと腑に落ちる。

 一人っ子同士で結婚して三人の親の看取りをし、いまこの世に残っているのは義母だけになった。一人だけとはいえ、わが親たちには、そうやって看取りをしてくれ、この世に残した物どもを片付けてくれる息子や娘がいた。だが、子どもがいないわが夫婦の後始末は自分たちでやらなくてはならないので、どちらか一人きりになったり運良く二人揃って老いを迎えた場合でも、なるべく楽に人生を終えられるよう、元気なうちに片付けをしておこうということにした。

 暮らしを片付けるといっても、まだまだ仕事をしなくては食べていけないし、やりたいことも山ほどあるので、散らかしながら片付けるという人生の殿(しんがり)を生きる退却戦のようになっている。
 とはいえ、思えばこの世に生まれてきたときから、成長しながら死に向かっていく人生自体が、いわば殿(しんがり)を生きる退却戦であるともいえるわけで、あらためて悲しむべき事ではないようにも思う。

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【しらみのの皮と神田】

※2020年8月14日、カテゴリーを【新・清水目玉焼】に移動しました。

 静岡市清水美濃輪町で鮮魚商を営む友人宅では、お盆の最中にホトケサンが外出して留守になる日があり、ホトケサンはどこへ行くのかというとシラミの国に行ってくるのだという。
「シラミの国って何だと思いますか」
と質問されて答えが思い浮かばず、心の隅にそれが引っかかって考え続けていた。

 死者祭祀に関する本を読んでいたらこんな記述があった。


神田へ買物にいく
 お盆の二日目、八月一日昼頃、この家ではかならずそうめんを作る。昼食として食べるだけではなく、「ナス馬・キュウリ馬のたずなにする」ということで、ナス馬・キュウリ馬の背中に数本ずつかけている。そしてそのあとで、写真1-14のように、それらの向きを後ろ向きにかえている。また、財布にお金を入れて供え、さらに、一日にはもち米を蒸かし赤飯を炊き、それを一三個の扁平なおむすびに丸め、写真1-15のように、それに長い楊子(以前は切った淡竹をさしていた)を一本ずつさし、中段の位牌の前部に置いている。なぜこのようなことをするのかというと、「明日(二日)ホトケサンがナス馬・キュウリ馬に乗って神田へ買物にいくから」であるという。そして、二日は「ホトケサンがいない」が、二日夕方には、「ホトケサンが帰ってくる」ので、夕食には茶飯を作り供えている。
 設営された盆棚は細部において変化している。たとえば、お盆の期間中に、楊枝をさした赤飯を供え、そのようにすると、ホトケサンが出かけてしまうと認識されている。
 そして、このホトケサンの外出先が「神田」であるというのも奇妙で、これを東京の「神田」かどうかたずねると、返答に窮してしまい、ともかくこのようにいっているからであると説明をうける。実は、ホトケサンの外出についてのこの奇妙な説明はこの地域だけではなく、関東地方に広く分布し、若干異なる場合もある。たとえば、八月一三日から一六日までをお盆としている静岡県賀茂郡東伊豆町水下では、一五日朝赤飯を蒸かし、五個のおむすびを作り、写真1-16のように、それに竹をさし仏壇前部に設営した盆棚に置く。なぜこのようなことをするのかというと、「ホトケサンが田地の見まわりにいくから」であるという。実はこの説明も関東地方にまで広く分布している(水田ではなく畑の見まわりという場合もある)。「神田」であったり「田地」であったり、奇妙であるが、ともかくもそれらを行なっている人たちは、お盆の三日目、最終日の前日には、ホトケサンがどこかを遊行していると認識していることになる。盆棚は、その祭祀対象が重層的に存在しているだけではなかった。その重層的状態を、あらためて自覚的に観察したとき、それらを行なっている人たちも、そして、わたしたち観察者も、なんだか奇妙でよくわからない、そんな現象で満ちている。単純な認識でいえば、すでに初日の「迎え火」で先祖は来訪しているわけであるが、三日目は「神田」「田地」に出かけてしまっている。家にいないのである。そして、この遊行から帰宅すると、四日目朝すぐに返されている。しかも、その遊行は、楊子やら竹がぶすりと立てられた奇妙な赤飯のおむすびが、供えられるのがきっかけであった。(「お墓」の誕生|—死者祭祀の民俗誌|岩田重則|岩波新書より)


 これはまさに清水区美濃輪町のホトケサンがシラミの国に行くのと同じ言い伝えであり、同じような言い伝えが清水に残っていないかと本を読んでいたら、静岡市葵区瀬名地区ではお盆の最中に外出するホトケサンは「しらみのの皮を買いに行く」と言われているという。

 しらみのとは何だろうと調べていて、白くて蓑の材料にされることもあったシラカバの皮のことではないかと思い当たった。郷里清水では盆の迎え火・送り火に油脂分を多く含んだ「あかし」や「たいまつ」と呼ばれる木片を燃やすが、古くは同じく油脂分を多く含んだシラカバの皮を燃やす風習があったという。シラカバの皮は剥ぎ取って乾燥し、丸めて保存し、工芸品制作の材料ともされた。

 かつて戦国時代、甲信地方と激しく覇権を争った駿州地域には、領地化されるたびに人々の侵入と定着という人の移動があり、民俗学者柳田国男が言う「第二の故郷」、神島二郎が言う「第二のムラ」のように同郷者同士が結束し集中して暮らす地域があり、みな同じ姓を名乗る家並みに驚く事が多い。

 帰ってきたホトケサンが再びどこかへ外出する必然性は、そういうもう一つの故郷を持つ人々が語り伝えた習俗ではないか、そういう人たちの暮らしの中だからこそ今でも言い伝えられているのではないかと思って調べると、長野県にはお盆に乾燥した白樺の皮を門口で焼いて迎え火・送り火とし、ホトケサンが迷わないようにする風習があり「かんば(樺)焼き」と呼ばれるという。そこで思い当たるのが、静岡県東部の「神田」は「かんば(樺)」のことであり、「田地」は先祖が暮らした甲信地方にある父祖伝来の田地のことで、かんば焼きに導かれて帰ってきているご先祖のホトケサンと、ご先祖の地がどうなっているかを見に行くのではないかということだ。駿州同様、激しく武田勢が押し出した関東地方に同じ風習が残っているというのも、人の移動と定着があって「第二の故郷」「第二のムラ」を持つ人たちが暮らす地域だったからではないかと思う。

(2013年8月20日)

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