【病院からの眺め】

【病院からの眺め】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 31 日の日記再掲

 

静岡県清水庵原町。
静岡県厚生農業協同組合連合会 JA 静岡厚生連清水厚生病院を、清水で暮らす人びとは短く「厚生病院」と呼ぶ。

郷里の厚生病院となぜか縁がなくて、母が
「ほら、厚生病院のとこだよ」
と言うと
「ああ、厚生病院のとこね」
といい加減な相づちを打って暮らしてきたけれど、実は厚生病院のある場所も建物も皆目思い浮かべることすらできなかったのである。

現在の厚生病院はもちろんのこと、1981(昭和 56 )年に現在地へ移転する以前、清水市田町にあった頃の厚生病院も知らないのだ。

伯母が脊椎の圧迫骨折で緊急入院したので、片付け帰省した 7 月 29 日、生まれて初めて清水厚生病院に足を踏み入れてみた。

■静岡県清水庵原町。清水厚生病院5階から眺める伊佐布方面(北西)。
RICOH Caplio GX 
 
母が他界してわが家の真新しい墓にはじめて納骨する際、叔父や従兄が「カロート」という言葉を盛んに口にし、「カロート」とは墓石の下にある納骨スペースを指すらしいことがわかり、それはどういう文字を当てるのかと聞いたが叔父や従兄はそれを知らなかった。ただ耳から聞いて「カロート」と覚えているのだという。

「カロート」で辞書を引くとフランス語の「calotte」をわが国では外来語「カロート」として用いることがあり、それはヨーロッパの聖職者がかぶっているお椀型の帽子を指す。そして形が似ているので納骨用容器も「カロート」と呼ぶのだという。だが仏教徒の叔父や従兄はその納骨用容器を入れる場所を「カロート」と呼んでいるので変だなぁと思っていた。

■清水厚生病院5階から眺める横砂方面(南東)。
RICOH Caplio GX 

民俗学の本を読んでいたら「唐人(かろうと)」という言葉が出てきて石室の意味なので「(そうか叔父や従兄が「カロート」と言っていたのはこの文字か)」と思い辞書を引いてみたら『新辞林』と『大辞林』は「かろうと」の読みで「屍櫃」が、『広辞苑』には「かろうど」の読みで「唐櫃」が採られていた。意味はどちらも「墓石の下に設けた石室」とある。

■清水厚生病院5階から眺める日本平方面(南西)。
RICOH Caplio GX 
 
病院は限りある人の宿命を収納する巨大な「カロート」もしくは「かろうと(ど)」と言えるかもしれない。病院に足を踏み入れるということは「カロート」もしくは「かろうと(ど)」に片足を突っ込むことである。

 ■静岡県清水西久保。清水厚生病院前から庵原通りを歩き静清バイパス東名清水インター近くの歩道橋にて。
NIKON COOLPIX S4

■静岡県清水西久保。静清バイパス東名清水インター近くの歩道橋から振り返って見た清水厚生病院。
NIKON COOLPIX S4

病院に病人を見舞って巨大な「カロート」もしくは「かろうと(ど)」に片足を突っ込み、その片足を抜いて再び生きる世界に戻りながらそんなことを考えた。

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【清水の「六」】

【清水の「六」】

清水厚生病院に緊急入院した伯母を見舞う。

行きはタクシーに乗ったのだけれど帰りはバスにしようと思ったら、土曜日のせいもあってか静鉄ジャストラインバスの本数が少なく、
仕方がないので歩いて帰ることにした。

静岡県清水西久保。

国道 1 号線静清バイパス沿いに「六」ひと文字の看板があった。
清水で「六」を見つけるとは思っていなかったので嬉しい。

「六」の文字の下半身、「ハ」の間に小さく「RAUMEN」と書かれ、さらにその下に「ROKKAKUDO」と書かれている。



「六角堂」というのは京都市中京区にある天台宗の寺の通称で正式名は頂法寺という。

聖徳太子が開基とされる古刹なのだけれど、親鸞がこの寺にこもっている最中、神仏のお告げが現れる不思議な夢を見て法然に帰依し、
六角形の本堂の中でラーメンを食べた……というのは嘘だけれど、頂法寺の本坊が華道家元の池坊であるというのは本当。

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【夏の朝のひと仕事】

【夏の朝のひと仕事】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 29 日の日記再掲

7 月 29 日土曜日、清水はゴミ収集日なので早起きして膨大なゴミ出しをする。

午前 8 時半から清水清掃工場への家庭ゴミ持ち込みが可能なので、不燃ゴミとガラスを集めた 45 リットルの静岡市推奨ゴミ袋 30 袋ほどを車に積んでピストン輸送する。

ゴミ処理場にはたくさんの職員がいてゴミを厳しくチェックしており、チェックがうるさいという人もいるけれど、ゴミ出しマニュアルを読んでしっかり分類し不燃ゴミや循環再利用外ガラス類であることなどを油性マーカーで大きく書いて明記していくと、汗だくの僕を見て職員が
「こちらでやりますから全部パワーショベルの前に下ろすだけでいいです」
などと言ってくれ、夏の朝の円滑な共同作業ができて嬉しい。
「ありがとう、ご苦労様です」
と会釈して切っておいた車のエンジンキーを回す。

■静岡県清水新富町。まだ羽に緑色が見える若々しいクマゼミ。
NIKON COOLPIX S4

静岡県清水入江南町から八坂町の清掃工場まで、何回かピストン輸送するあいだ、カーラジオをつけていたら夏休み子ども電話相談室のような番組を放送しており、「(ああ、もう子どもたちは夏休みなんだなぁ)」と我に返って巡り来た季節を思う。

最近は回答者の先生が若返っているのが新鮮で、たどたどしい子どもたちの質問にどう答えるのかを興味津々で聞き入ってしまう。

蛍をとって網の中で飼い始めたのだけれどどんな餌をやったらいいのかと質問する子どもがおり、回答者の先生はその子がどんな飼い方をしているのかをまず質問し、ちゃんと勉強して環境作りのポイントを一通り押さえていることを確かめ、それでもわからない餌やりの質問をしているということを理解してから、
「〇〇くん、実はね……」
と話しかける。

昆虫にとって、さなぎから成虫になって外に出ることの目標は、外敵にやられる前にいちはやく交尾をして子孫を残すことであり、それが済めばさっさと死んでしまう昆虫が多く、例外的にスポーツドリンクを与えたら飲んだなどという話も聞くけれど、大人になってからは餌など食べないので餌やりの必要はないのだと言う。メスはさなぎになるまでのうちにちゃんと卵をお腹の中で育てて産まれてくるのだから。

そして、
「極端な例では、カイコなんか成虫になったときには、たとえ食べたくても口がないんですよ……」
と付け加え、子どもは「へぇ~……」とつぶやき、同席している先生たちやアナウンサーは「はぁ~……」と苦笑いするようなため息をついている。

いちはやく後尾をして子孫を残すという第一義は都合良く理解できても、そのために食べる楽しみなどはない……という生涯の厳しさに「はぁ~……」と声が出てしまう大人たちが可笑しい。

■数枚シャッターを切ったらもうこんなことに。むこうがわのセミの腹には空洞状の共鳴体がついているのでオスであることがわかる。
NIKON COOLPIX S4

■交尾作業にとりかかっているカップルの上 10 センチほどのところで、ひとりひたむきに鳴き続けている別のセミ。
NIKON COOLPIX S4

郷里静岡県清水は東京にくらべて街で鳴くセミの種類としてはクマゼミが圧倒的であり、早朝から耳をつんざくほどの鳴き声を上げている。見上げたら木の幹に姿が見えるので撮影してみた。

まだ緑色の若々しい羽で鳴いているセミの姿に何枚かシャッターを切っていたら「ツイッ!」ともう一匹のセミが飛んできてからだを合わせ、いちはやく交尾をして子孫を残す作業に取りかかっていた。

セミもまた夏の朝の円滑な共同作業ができて嬉しいに違いない。

「ありがとう、ご苦労様です」

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【白髭神社】

【白髭神社】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 27 日の日記再掲

実家の片付けをしていたら偶然出てきた『入江の史跡めぐり』という小冊子を片手に、生まれた地域の散歩をしてみようと思い立ったものの、静岡県清水元城町にある「白髭神社」にさしかかったら立ち往生してしまった。生家がある地域の氏神様でもあるこの神社のことを調べ始めると非常に奥が深いのである。

 創立の時期は不明です。初め、この所に神功皇后を祀り、大渡里(おおわたり)明神と号して祀られておりましたが後に武内宿禰命を文治五年(一一九〇)福岡県三井郡(現在の久留米市)に鎮座する、高良神社より勧請して今日に至りました。(中略)神社は昔から入江一円の氏神様として広くあがめられております。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

 

■実家のある清水入江南町から入江二丁目『魚虎』脇を通り元城町白髭神社に向かう道。
RICOH Caplio GX 

清水では神社を「さん」付けで呼び、「あきわさん」「おしばさん」「おすいじんさん」「おいべっさん」「はちまんさん」のように白髭神社も「しらひげさん」と呼ばれている。この白髭神社、実は旧清水市で最も数の多い神社なのだ。

 白髭神社は八幡神社とともに、県内とくに駿河に多い。郷土では両河内を最高として広がっている。(中略)また埼玉県入間郡高麗(こま)村に高麗大宮大明神が祭られ、また、この辺一帯に白髭神社があり、そして霊亀二年(七一六)駿河国から高麗人(こまじん)がこの地に移住したという記録のあることから高麗人の長、福徳王(好太王の子孫だと伝えられている)を祭ったとも伝えられている。この王は年老えて白髭をたくわえていた。そうすると、駒越が高麗(こま)を意味することから、郷土の白髭信仰は、朝鮮の帰化人が信仰していたことから伝わったと思われる。(鈴木繁三著『わが郷土清水』戸田書店より)

調べてみたら中日新聞にこんな記事もあった。

「巨木を訪ねて安倍川流域を歩いたとき、有東木、中平、平野、横山、中沢、俵沢の神社はすべて白髭神社でした。白髭神社は七世紀前後、大陸の先進的な技術をもたらした朝鮮半島からの渡来人が信仰した神と言われています」

どうして興津川上流や安倍川流域に白髭さんが多いかという理由に、海を渡って日本に渡来した人びとが、さらに船で川を遡ったからなどとネット上に書かれていたりするのだけど、安倍川はともかく興津川を船で両河内まで遡るのは現実的ではないように思う。

■白髭神社全景。
RICOH Caplio GX 

なんで川沿いに山へ向かって白髭さんを心の支えとする人びとが分け入って行ったかというと、帰化人の持っていた鉄鉱石や砂鉄をあつかえるという文化の力を行使するには、地中のものを掘り出して海へと流れ下るその源である上流域を目指す必要があったのではないか。

そういうことについて書かれた研究が本になっていないかしらと思って本郷の古本屋をのぞいたら『山の民・川の民――日本中世の生活と信仰』という本があった。新潟大学人文学部教授だった井上鋭夫(いのうえとしお)の研究に井上進と田中圭一が解説を加えたものである。

北越後荒川沿いに伝わる伝承を元に丹念な現地調査をした論文なのだけれど、井上氏の解説を引用してみる。

 奥山に入って採取された鉱産物を運び出すのに、もっとも主要な交通路は、やはり河川であったろう。荒川流域で、河川に沿った船着場のなかには、鉱山の神である大山祗神をまつった例がある。鉱山の採掘と、そこにつながる河川の航行とは、密接な関係がある。それ故に中世において金掘りはまた、舟をあやつる川の民でもあったろうと考えられるのである。近世のはじめに、この地方のはなやかな鉱山経営が終わりを告げたあと、金掘りたちは山を去って、以前から関係深かった河川に沿った地に住みつき、箕作り・塩木流し・筏流しに生きる人々となった。(井上鋭夫『山の民・川の民――日本中世の生活と信仰』平凡社選書69、石井進の解説より)

北越後のこの地域では、金掘りの山の民を「タイシ」、輸送を生業とした川の民を「ワタリ」と呼んだという。清水元城町にある白髭さんの縁起には、相殿(あいどの=同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)として荒神社(火、カマドの神)、金山社(鉄工業鉱業の神)が、末社として大渡里神社(ワタリ!)のほか伊勢大神社、津島神、左宮司神社、金力比羅社がまつられており、このあたりが山と川と海の結節点であったことがわかる。

古くからの船着場であった海船川河口にどうして白髭さんがあるのかの理由もわかりやすい。

ワタリ・タイシの人びとは、ともにほとんど農地ももたず、河川や海のほとりの船着場や港などに住みついた川の民ともいうべき存在であったが、それ故に村々に定住した農業民からのいわれなき差別をしのばねばならなかったのである。(井上鋭夫『山の民・川の民――日本中世の生活と信仰』平凡社選書69、石井進の解説より)

白髭さんが教えるものは地域の成り立ちを少しでも知るものにとってはとてつもなく深くて、書かなくてはならないことがまだ山ほどありそうなのだけれど、所詮は小さな散歩の日記なので、後ろ髪を引かれながら先に進むことにする。

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【音のある記憶】

【音のある記憶】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 26 日の日記再掲

 

2006 年 7 月 24 日(月曜日)の日記で『昭和四十九年秋彼岸』と名付けて日記を書いたら、駅前銀座のことなら何でも知っている(はず)と噂の商店主なおさんからメールをいただいた。

なおさんは 1973(昭和四十八)年から駅前銀座で家業を継がれたそうなのだけれど、確かに当時の延命地蔵は記憶に薄いという。今は西向きの延命地蔵さんが南向きに祀られていたことにも驚いておられた。

僕は「昭和四十九年秋彼岸」と書かれた幟(のぼり)があまりに多いので、地元商店主が中心になって商店街活性化のために延命地蔵さんに一役買って貰おうと奉納したものだと思って日記を書いたのだけれど、
「昭和 49 年秋彼岸から商店街活性化のために地蔵さんが立ち上がったということはないと思います(中略)商店街がお地蔵さんを地域資源として、活性化に一役かってもらいはじめたのは、平成 7 ~ 9 年にかけて『地蔵尊まつり事業』を商店街振興の補助金を使ってやってからです」
とのことだった。

そしてなおさんからのお便りを読んで「(あっ!)」と思ったのは、「昭和四十九年秋彼岸」は清水を襲った大水害、通称「七夕豪雨」の直後だったのである。

地元商店主に混じって清水市内各所の人々が「昭和四十九年秋彼岸」と書かれた幟を奉納しており、路面電車清水市内線が壊滅的打撃を受けるなど、甚大な被害を受けた街で生き延びた人々の、感謝と復興への願いが込められた幟だったのかもしれない。

   ***

「戦前の夜は暗かった。闇が濃ければ、人は音とにおいに敏感になる。」(関川夏央『本よみの虫干し』岩波新書より)

戦後ずいぶん経って僕が物心ついた昭和三十年代はもちろんのこと昭和四十年代になっても、物理的精神的な闇が濃密にたれ込めた夜がまだあり、当時の記憶には切り離しがたい音とにおいの感覚が結びつけられて残っていることが多い。

郷里静岡県清水で過ごした少年時代、音のある記憶として忘れられないのは、現さつき通りから裏通りの旭町飲食街にあった袋小路の店舗兼用住宅二階まで聞こえてきた路面電車の音であり、時折寂しげに(当時はそう聞こえた)「ぼおおおお~~っ」と響く船の汽笛である。

それらと並んで忘れられないのが、清水入江南町にある生家に聞こえてきた、小さな拍子木をかちかちと打ち鳴らすような音とくぐもった念仏の声であり、いったいどこで誰が何をしているのだろうと長いこと不思議に思っていた。

■静岡県清水入江南町、八幡さんに向かう道。
OLYMPUS C755UZ

■この堂内から念仏が聞こえてくる。
OLYMPUSC755UZ

7 月 23 日の片付け帰省時、実家近く栄町公園内にある八幡さんのお堂の脇を通ったら、堂内から小さな拍子木をかちかちと打ち鳴らすような音とくぐもった念仏の声が聞こえてきて、「(そうか、実家でこの念仏を聞いていたのか)」とやっと謎が解けた。

旧久能街道沿いにある村松原の稲荷神社でも、人がお堂にこもって同じ念仏をあげているのを聞いたことがある。謎が解けたと言ってもその念仏がどういうものなのかがわかったわけではないのだけれど何となく満足した。

■子どもの頃、この八幡さんには紙芝居のおじさんがやってきた。ここで手を洗ったり水を飲んだりしたけれど、文久四年という文字が見え、いまから 140 年以上前に奉納されたものである。
OLYMPUS C755UZ

夏になり清水の音の記憶で懐かしく思い出すのは、頭の芯まで痺れるようなクマゼミの大合唱、「ぼっちゃ~んぼっちゃ~ん」と情けなく繰り返し聞こえる波がコンクリート岸壁にぶつかる音、そして闇の中、激しい雨音に混じって聞こえてくる「ただいま大雨洪水警報が発令されました…」という広報スピーカーの音だったりする。

それらの音を録音してサイト内に残しておこうかな、などと考えたりしているのだけど、写真はともかく音の方は自信がない。

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【見通し】

【見通し】

静岡県清水新富町。
かつて清水静岡間の軽便鉄道が走っていた場所に建っていた建物が解体されて更地になった。
静岡鷹匠町から走ってきた小さな SL はこの場所から鉄橋を渡って東海道本線を越えて新清水駅(江尻新道)に向かった。


ちょうど新清水を発車した静鉄電車が浜田踏切を渡ってこちらにやってきたのでよくわかるが、この更地になった場所は東海道本線を越えるためのカタパルトとしては低すぎるので、斜面を登りもっと高みになった鉄橋を渡って東海道本線の向こう側に下りていたのではないだろうか。

そしてどこへ下りたのかというと現在のシルバー人材センター、元の清水市立図書館があった場所こそその地点ではなかったかと思うのだけれど、ちょっと資料がないのでわからない。

そういえば浜田踏切脇の農園が今年は雑草が生え放題なのでこの地域は激変しそうだけれど、開発計画の詳細もまたわからない。

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【昭和四十九年秋彼岸】

【昭和四十九年秋彼岸】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 24 日の日記再掲

 

清水駅前銀座に買い物に行ったらアーケードに真っ赤な幟(のぼり)がずらりと並び、毎月 23 日が延命地蔵さん縁日だったことを思い出した。

ずらりと並んでいるのは延命地蔵さんに奉納された赤い幟なのだけれど、「昭和四十九年秋彼岸」と書かれたものがほとんどである。僕は昭和四十八( 1973 )年に清水市の高校を卒業して上京したので昭和四十九年にはもう清水にはいなかったのだけれど、その当時のことを振り返っても駅前銀座商店街に延命地蔵さんがあったという強い印象がない。

■静岡県清水。駅前銀座商店街にて。電光掲示板の「 2189 へ」って何だろう。
OLYMPUS C755UZ

■昭和四十九年秋彼岸と書かれた幟。
OLYMPUS C755UZ

駅前銀座商店街にあったはずの延命地蔵さんが写っている写真がないかと高校時代に撮影したネガの中を探したら、1972 年当時の延命地蔵さんがちゃんと写っていた。

■昭和四十七( 1972 )年7月の清水駅前銀座延命地蔵さん。
minolta SR-T101 Rokkor 21mm F4

当時マスコミを騒がせた幼児誘拐殺人事件が清水駅前銀座であり、当時の駅前銀座は子どもが連れ去られても気づかないほどに雑踏していた。そんな痛ましい事件があったことを思い出し、何となく右に貼られているポスター、女性の泣き顔が気になってこの写真を撮ったことをなぜか今もしっかり覚えているのだけれど、泣き顔と商店街の間に延命地蔵さんがあることは記憶から欠落している。

■昭和四十七(1972)年7月の清水駅前銀座。たしかこのあたりで誘拐事件があったのだと思う。
minolta SR-T101 Rokkor 21mm F4

今その写真を見直すと、泣き顔と銀座通りの間に子どもを守る地蔵さんがある寓意性もちょっと感慨深いが、おそらく駅前銀座の商店主たちが東京巣鴨地蔵通り商店街の活況を見て、清水にも泣き顔と商店街の間に延命地蔵さんがあることに気づき、街を救済する菩薩として押し立て始めたのが昭和四十九年秋彼岸だったのかもしれないと思う。

   ***

清水に住む友人のお母さんが先日喜寿を迎えられたので、七十七歳を過ぎたら少しは息子さんの言うことも聞けるようにとの願いを込め、巣鴨とげ抜き地蔵さん前で売られている日本一高い耳かき「原田の耳かき」を贈った。

とげ抜き地蔵さん前のベンチ群はお年寄りで満席状態であり、座れないおばあちゃんが
「せっかく巣鴨まで来てお地蔵さんのそばに座れなけりゃ意味がないよ」
と座れた人への聞こえよがしに怒っているのが可笑しかった。

彼女たちは若者が夏の日射しの下で裸になって甲羅干しをするように、のんびり線香の煙を吸い込みながら日光浴ならぬ「地蔵浴」をしに来ているんだろう。

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【蓮の一年】

【蓮の一年】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 23 日の日記再掲

 

「あなたは去年の今日」
と入力してGoogleで検索したら
「…何をしていましたか ? 」
などと続く文章が膨大にヒットするのではないか、と試してみたらそうでもなくて、ちょっと意外に思いながらトップにヒットした記事を見たら、
「あなたは去年の今日の悩みを覚えていますか ? 」
 という文章だった。

そんなものを覚えていないからこそ人は精神の安定を保って自分を守れるのだと続くのだけれど、
「ええ、もちろん覚えていますとも!」
と答えられるような悩みや苦しみを、人は一生のうちで何度かは持つことがあるだろう。

■同じ日に同じ場所に行ったら同じ花が咲いている。
OLYMPUS C755UZ

去年の 7 月 23 日の午後、母の看護・介護で悶々とした日々のなか、息抜きがしたくて、上清水町にある大小山慶雲寺境内に行ったら蓮の花が咲いていた。

その頃から母には黄疸(おうだん)が出始め、朝夕意識が混濁して奇妙な言動をするようになった。医学系出版社の友人にメールを書いたり、訪問看護師に相談したら、肝機能低下によって意識の混濁が起こることがあると教えられた。かなり命の存続が危ぶまれる状態にさしかかったのだと。

■去年の写真と見比べても、データに日付が記録されていなければ見分けがつかない。
OLYMPUS C755UZ

最後の最後まで自宅での暮らしの中で死なせてやりたいと思っていたのだけれど、息苦しい熱帯夜にエアコンも扇風機もつけられない地獄(母は熱帯夜でも寒がって湯たんぽを欲しがった)のような生活の中で、やっとの事で自立していた排泄まで不可能になったら、やはり病院の清潔な病室での看護を選択すべきではないのか、でもそれは母の意志に対する裏切りになるのではないか、などと悶々とした悩みを抱いていたのだった。

■実家のガスセントラル給湯器が壊れたらしい。お金をかけて直すのももったいないし、友人は「電源プラグの抜き差しでなおることがる」と言い、いざとなったら銭湯に行ったらいいと言うけれど、清水にはもうずいぶん前から銭湯が一軒もないのだ。それにしても無人になると家にどんどんガタが来ることに驚く。蓮がシャワーに見えてうらめしい。
OLYMPUS C755UZ

ちょうど 1 年後の 7 月 23 日、無人になった実家の片付け帰省中だったので、大小山慶雲寺境内に行ってみたらやはり蓮の花が咲いていた。
「あなたは去年の今日の悩みを覚えていますか ? 」
と聞かれたら
「ええ、もちろん覚えていますとも!」
とまだ答えてしまう 7 月 23 日である。

 

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【The Circle Game】

【The Circle Game】

『いちご白書』という映画があり、映画自体はともかく僕は主演のキム・ダービーとバフィー・セントメリー( Buffy Sainte-Marie )が歌った「 The Circle Game(サークルゲーム)」という曲が大好きだった。

今でも変わらずに好きなのだが、全共闘世代にはもっと好きな人が多いようで飲み会などで伴奏なしで歌ってみせるととても喜ばれたりする。



We're captive on the carousel of time
We can't return, we can only look behind From where we came
And go round and round and round In the circle game……

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【江尻船溜まりに溜まるもの】

【江尻船溜まりに溜まるもの】

江尻船溜まりに停泊中の「開発丸」。

僕は昔から江尻船溜まりが好きで、今でも他地域の友人を清水に迎えるとよく案内したりし、最近は清水駅東口ができたので、清水のもう一つの玄関口といっても良い場所になった。

清水魚市場があり、市場に隣接して「河岸の市」があり、市場食堂があり、岸壁の大衆食堂があり、岸壁では釣り好きのオヤジが小魚を釣っていたりするのだけれど、友人を案内するたびに海面のゴミを見て絶句する(僕ではなく客が)。どうもこの船溜まりは海上のゴミが吹き寄せられてたまりやすいらしい。


ここからは海釣り公園「メガフロート」への渡船も発着しているけれど、洗濯機のゴミ取り器みたいに浮かべておくと水面のゴミをすくいとってくれる装置が開発できないものだろうか(あるのかもしれないな)。

富士山の見える日当たりの良い船溜まりがゴミ溜まりにならないよう何とかして貰いたいと思う。

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【ビル建ちぬ】

【ビル建ちぬ】

風立ちぬ……といえば堀辰雄。
堀辰雄といえば立原道造……。

満24歳の若さで早逝した詩人立原道造に関する評論を読んでいたら意外なことが書かれていた。

■入江二丁目の今年四月

「立原道造は大正三年(一九一四)東京下町の工場主の家に生まれた。似た環境に育った芥川龍之介、堀辰雄とおなじく、府立三中、一高、東大と進んだ。実際、十歳年長の堀辰雄には兄事し、その結婚式には唯一の友人として出席した。東大では建築を学び、一級下に丹下健三がいた。卒業設計は「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」である。」(関川夏央『本よみの虫干し――日本の近代文学再読』岩波新書753より)

清水・静岡ではかつて「ビル建ちぬ」といえば丹下健三だったのだけれど、長生きしていたら立原道造が旧清水市役所や駿府会館を設計した可能性もあったのかもしれなくて、それはきわめて詩的なクレーの絵みたいな建築物だったかもしれない……
なんてわけないか。

「建築と詩がとけあったような絵を描く画家になりたい」(クレー)

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【記憶の鉄路】

【記憶の鉄路】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 19 日の日記再掲

 

入江岡駅で電車を降り久能街道を実家方向に下っていったら右手、「船庄」向かいが更地になっていた。

■淡島町と入江南町の町境から更地越しに新清水方向を見る。手前の道は久能街道。
RICOH Caplio GX 

■更地側から淡島町と入江南町の町境、「パソコン21中村タイプ」前を通る道を見る。
RICOH Caplio GX 

頑丈な基礎の立派な建物が建っていたのだけれど、鉄柱を焼き切り、コンクリートを砕いてあっという間に整地されてしまった。生きているうちにこういう光景を見るとは思わなかったので写真に撮っておいた。なぜならこの場所は静岡鉄道清水静岡線が今の路線になって複線化される以前、軽便鉄道として走っていたルートだとネットで知り合った友人に教えて貰ったのだった。ある意味で近代の遺跡である。

友人から借りた入江小学校100周年記念誌「入江の里」より解説を抜粋してみる。

明治四十一年静岡鉄道株式会社として発足、静岡清水間に軽便鉄道が敷設された。入江地域としては巴川の鉄橋を越ゆると勾配の土堤状の路線があり、これをシュシュ蒸気を吐きながら登る。そして現在の入江岡停留所附近から高い鉄橋で東海道国鉄線を跨ぐ、そして淡島神社と、栄町横側の間を通った。此処に江尻新道(今の新清水)入江町と二つめの停留所があった。停留所は小さい窓口から切符を売りながら菓子店を営んでいた。菓子箱とか硝子瓶等が並んでいて、飴とか干菓子とかが多かった。天井から幾つか吊してあった。硝子製の水筒とかピストル型の瓶の赤白青の金平糖が子供の魅力であった。ここを通ると三丁目裏通りを斜めに走って、東海道へ出た。ここに追分停留所があり、これより東海道路面となった。東海道の松並木と並んで小さな汽車が石炭を焚き黒い煙と白い蒸気を撒き散らしながら客車を曳航した。所要時間は清水波止場から静岡鷹匠町まで、一時間六分で賃金は十三銭、発車回数は二十四回であった。(文と写真:入江小学校100周年記念誌「入江の里」より)

■この更地の奥に農地があり、そこにマンションが建つためここがその建物へ久能街道からのアプローチ(通路)となるらしい。すごいことを考えるものだ。清水の町はマンション建設ラッシュによって「えっ!」と住民を驚かせながら変貌していく。いま清水の町には「えっ!」が溢れている。
RICOH Caplio GX 

輸送業競争の激化と関東大震災を契機とした輸送力増強という時代の必然に後押しされ、大正 13 年に複線化し線路も今の東海道本線南側を併走するルートに変更され、鉄橋も撤去されたのだそうで、入江界隈で大正13年まであった鉄橋と軽便鉄道時代の静鉄を知っている人は少ない。

■おそらくこの辺りに軽便鉄道の鉄橋が架かっていたのではないだろうか。
RICOH Caplio GX 

■右手の木立に隙間があるので線路を覗き込んだら静鉄電車が新清水駅に向け入江岡駅を発車していくところだった。
RICOH Caplio GX 

写真を撮り、想像をふくらませ、空き地の先に鉄橋を架け、小さな機関車に牽引された軽便鉄道を走らせ、清水静岡間 1 時間 6 分の旅を想像してみる。

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【今年初めての蝉の声】

【今年初めての蝉の声】

静岡県清水島崎町。
7月16日、今年始めて蝉の鳴き声を聞いたけれど大内新田在の叔母に聞いたら数日前から鳴き始めたという。
ビジネスホテルときわ駅南店前を通ったら蝉が鳴いており、思わず写真を撮ったけれど、音を撮影するのは難しい。

 
実家の整理が終わったら清水帰省時はホテルに泊まることになるのだけれど、そうかこの島崎町のホテルもいいなぁと改めて思った。
こんなに港の岸壁に近いし、魚市場は近いし、中学高校時代を過ごした場所も目と鼻の先だし、
どうして今まで思いつかなかったのだろうと不思議であり、蝉の声もまたよい客引きのひとつと思える夏間近。

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【楠楼前灯ろう流し場所にて】

【楠楼前灯ろう流し場所にて】

稚児橋たもと、楠楼前。

地元入江商店会の灯ろう流し場所。
昨年もここから流していただいたけれど、ここの流し役の人はひとつひとつ書いた人の名前、名前がなければ書かれている内容をラウドスピーカーで読み上げながら流してくれる。


大変な労力なのに毎年偉いなぁと感心してしまう。
灯ろうは上が赤でしたが青なのだけれど、よく見るとまれに上下逆転しているものがある。

来年はぜひ上が青のものを探して買おうと思う。

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【山の上の雲】

【山の上の雲】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 7 月 17 日の日記再掲

 

7月15日(土)、清水に帰省するたびに「ただいま」と帰って行くおなじみのラーメン屋、その店のお母さんはわが母よりひとつ年上で今年喜寿を迎える。孝行息子たちがお祝いをすることになり、常連さんに混じって仲間に入れてくれるというのでいそいそと出かけて行った。

お友達が由比の山持ちで、その手作りの山小屋を借り昼食を兼ねたバーベキューをするというのだけれど、郷里でも蒲原・由比・興津の海岸線地帯がひどく好きなので、海に面した高いところで一杯飲めると聞いただけで嬉しくなってしまう。

■由比駅前にて。
RICOH Caplio GX 

■由比駅前観光案内板。
RICOH Caplio GX 

海の見える高台で缶ビール片手にほろ酔い気分になり、どうしてこの土地が好きなんだろうと思う。

ここは遙か昔から交通の難所であり、山が海辺まで迫った猫の額ほどの海岸線に、東名高速道路、国道 1 号線、東海道本線、旧東海道がコードのように束ねられて走り、腰を下ろしたこの山の下もまた由比トンネルになっていて東海道新幹線が轟音とともに走り抜けていく。

静岡県清水市に生まれて親とともに故郷を出奔し、清水・東京間を何度も何度も激しく往復して半世紀が過ぎたけれど、その往復の泣き笑いは東名高速道路や国道 1 号線や東海道本線や旧東海道や東海道新幹線を結束したこの場所を必ず通っていたのであり、交通の難所は人生のすべてを概観する要所でもあり、「そんな人生」と言葉でひとつかみにするための急所でもあった。病んだ母を連れ途方に暮れつつ右往左往して演じた泣き笑いのどたばた人生は、泣いても笑ってもこの結束点を通過していたのである。

■かつて「がけくずれ」があった斜面に作られたドッグランより。桜の苗木も植えられている。向こうに山小屋が見え、その向こうに「さった峠」がある。
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■地滑り跡の先には東西交通手段の結束点があり、司馬遼太郎の言葉を借りれば日本の歴史はこの場所を行き交うことによって作られた。
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山小屋前を V の字になって海まで続く斜面は、かつて大規模な土砂崩れがあって山がえぐり取られた跡なのだそうで、背後の山を削り、コンクリートの段々を設けることで崩壊を食い止める治山工事をしたのだという。もともと濁沢と呼ばれる流れがあって大規模土石流が発生したらしい。

由比駅前から旧東海道を進み、山道を登って山小屋に向かう際に、左へ折れる「さった峠」と手書きされた木製標識がある旧道への分かれ道があり、おやっと思って帰京してから調べてみたら、おそらく山下清もかつてこの近くを訪れている。

「ぼくは峠の景色で一番きれいだと思ったのは日豊線の「つくみ峠」だな 甲府の精神病院からやっと逃げだしたとき なるべくみつからないように山の方ににげたので その山の峠からみた町の景色もよかったな ここの峠は「さった峠」だな 昔の人はこの峠から富士山だの海だの見たのに いまどうしてそこへいけないかというと がけくずれのためだな そのがけくずれを描くかな」(山下清『東海道五十三次』毎日新聞社より)

そう言って山下清は「がけくずれ」という絵を描いている。「さった峠」に登って「富士山だの海だの」を眺めて絵が描きたかったのに「さった峠」へ向かう道はがけくずれで通行できず「がけくずれ」の現場を見上げて描いているが、その崖崩れの現場こそ由比駅前から「さった峠」へ向かう道の中間にあるこの場所だったような気がする。

■入道雲が顔を出し、あっという間にまた夏が来た。
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■静岡にいると「 S 」字型の雲まで嬉しかったりする。
RICOH Caplio GX 

山小屋から富士山は見えないのかという質問に、富士山は裏山の頂に登らないと見えないとご主人は答えていた。

富士山の眺望を遮っているであろう山塊を見ていたら、稜線から夏到来を思わせる小さな入道雲が顔を出し、右手に真抜けた「 S 」字型の雲が浮かんでいた。

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