【清水の 1582 年】

【清水の 1582 年】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 22 日の日記再掲)

かつて郷里静岡県清水には戦国時代に築かれた城がいくつかあり、そのうちのひとつが江尻城(小芝城)だった。

今川義元が桶狭間の闘いで織田信長に敗れて死んだのが 1560(永禄 3 )年であり、かねてから駿河進出の機会をうかがっていた武田信玄が 2 万 5 千の兵を率いて侵攻を開始したのが 1568(永禄 11 )年である。今川氏真に加えて西の徳川、東の北条も入り乱れての奪い合いとなり、その際にわが郷土清水を占拠した武田軍が 1569(永禄 12 )年に築城した城が江尻城である。

「馬場美濃守信房に縄張りさせ今福和泉守を奉行とし、守備を武田左衛門太夫に当たらせ、人夫を督励し、日夜をわかたぬ突貫工事でやった。そんなわけで、本城はわずか三ヶ月の短時日に成しとげたので、石垣で堀をめぐらすひまがなかったから、壕を掘ってその土で土手をつくって、その上に塀を築いた。しかし十年後の天正六年(一五七八)に改造修築にとりかかって約一カ年で竣工したが、その城は堅固で外観も城楼を建てた立派なものである。それはいかにも東海の名城にふさわしいものであった。」(戸田書店『わが郷土清水』より)

三方原の戦いで徳川家康を破った武田信玄が病死したのが 1573 年で、その 9 年後である 1582(天正 10 )年 2 月まで江尻城は穴山梅雪を城主とする武田の城だった。江尻城が東海の名城となるための修築は着工も完成も武田信玄亡き後だったのである。

1582(天正 10 )年というのは仰天するほど慌ただしい。

2 月には江尻城主穴山梅雪が江尻城を開城して徳川方に寝返り、織田・徳川連合軍に攻められた武田勝頼が天目山麓で自刃して武田家が滅亡したのが 3 月、その戦の帰り、徳川家康に案内されて東海道を遊覧した織田信長が江尻城に宿泊したのが 4 月 13 日。信長が東海遊覧の礼として家康を安土城に招待し明智光秀が接待役を務めたのが 5 月 15 日から 17 日まで、毛利攻めに手こずっていた羽柴秀吉応援のため織田信長が安土城を出発したのが 5 月 29 日。明智光秀が丹波亀山城を出陣したのが 6 月 1 日、本能寺の変により織田信長が自刃したのが 6 月 2 日、その報を聞いた堺遊覧中の家康一行が慌てて逃げ帰るのが有名な「神君伊賀越え」であり、家康に同行していて帰りは別ルートをとった穴山梅雪は落命している。

穴山梅雪は結果としていずれにせよ 1582 年に死ぬことになっていた。

江尻城に籠もって織田・徳川連合軍と戦いその結果憤死したとしても 4 ヶ月ほど早死にしただけだったのであり人の運命というのはわからない。裏切り者の汚名を残すことを潔しとせず、忠臣として 4 ヶ月の余命をなげうって戦っていたら、この決断をきっかけとして歴史の歯車がちょこっと狂い、その後の出来事におやおやというようにしわ寄せが生じ、思いもかけない結果として日本が大きく変わっていたかもしれない……可能性もあるんじゃないかな。

『その時歴史が動いた』(清水弁では『そのときれきしんいのいた』)という言葉が相応しい気がする清水の 1582 年である。

清水入江 2 丁目、旧東海道に面した東明院の山門は 1601(慶長 6 )年、江尻城が廃城になる際に家康から貰った裏門を移築したものである。残念ながら火災で焼けて現在あるものは 1831(天保 2 )年に修復されたものである
(写真大上)。
ただし門扉につけられた武田菱をモチーフにした南蛮鉄の金具は江尻城当時から使われていた年代物であり、徳川の代になっても江尻城には武田菱が残されていたのである。
(写真大下)。
Data:SONY Cyber-shot T1

【清水の瓦】

東明院山門脇に古い瓦が展示されており実家が瓦屋だったので興味深いが、解説が“名文”すぎてよくわからない。

「元入江二丁目渡辺好夫様特別技能瓦士、本家鬼面工房江尻台町渡辺武雄様に修復依頼して…」というのが面白い。

清水はとても瓦製造業が盛んだった。祖父の工場があった能島辺りにはかつて沢山の瓦工場があり、何となく苗字の由来を調べると祖父方の先祖もまた甲州から南下して来たようだし、巴川周辺の粘土を利用した瓦製造業というのは武田の侵攻によって清水に持ち込まれた産業ではないかという気がしてならない……が気がするだけである。

高校時代(1970年)に撮影した能島

能島橋の周辺は子ども心に「(この辺は古いものが淀んでいる場所だなぁ)」という妙な気配がある場所で、とくに吉川・北脇方面から北上し、能島橋を渡り、押切方向に向かう細い道はそうとうに古い気配が子どもの頃からあった。

2005年4月17日に撮影した能島

三十年振りくらいで歩いてみたが、瓦工場がたくさんあった当時の面影は薄れた。それでも相変わらず細い道沿いの路地を覗き込むと瓦が積んであったりするし、えもいわれぬ古びた空気が吹きだまりのように路傍に淀んでいる。

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【今福丹波守(いまふくたんばのかみ)】

【今福丹波守(いまふくたんばのかみ)】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 22 日の日記再掲)

週末の介護帰省をし、寝ていた母を起こしてエンジンをかけ、天気も良いので散歩を兼ねた外食に連れ出し、買い物をして実家に戻る。
「あんたこれから『魚初』に行きたいんでしょう?」
などと言われてドキッとする。

   ***

「考えてみると、街路に人の名を冠するというヨーロッパの住居表示のシステムはそのまま記憶の装置である。道路に名を付け、家の一軒ごとに番号を振る。道路の名はほとんどの場合、歴史上の人物である。そういう形で人々は歴史を共有する。」(「 [Stranger026]  雪と春、ヨーロッパの記憶装置、3 人の少年 その 2 by 池澤夏樹」より)

メールで届いた池澤夏樹の文章を読んで一瞬郷里清水の『次郎長通り』を思い出した。けれども、わが郷土清水にとって人々が歴史を共有するための道しるべとなりそうな手がかりは次郎長通り商店街の名前ではなく、地名や、土地の人々の言い伝えの中にこそあるのかもしれない。

そういえば最近は「次郎長通りの魚屋」より「美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋」と日記に書くことが多く、それは町名ともなっている「美濃輪」が、1570(永禄 13 )年、駿河に進出した武田信玄が北条氏の水軍による攻撃に備えるため馬場美濃守に命じ山本勘助流の縄張り法で築城させた袋城に因む物、であることを忘れないためであったりする。

「あんたこれから『魚初』に行きたいんでしょう?」
と母に言われて思わず「うん」と頷いてしまい、自転車に跨って久能街道を走り、原稲荷を過ぎ、清水村松原方向へ左折して坂を下って行ったら、左手の民家に真新しい石碑が建っていた。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

「甲州武田軍団二十四将軍之一人 今福丹波守子孫の家」
と書かれている。

昨年10月22日金曜日の日記に関して、「こはだの刺身」と名乗る謎の人物が当サイトの掲示板に
「しるべには東面に「清水み奈登道」南面に「南久能山道」とある。東に向かう道の右側に本能寺がありここからドラッグストアのある中田川暗渠までのわずかな小道を今福丹波守の屋敷跡にちなんで地元衆は丹波街道と呼んでいます。丹波街道から中田川沿いにくだり美濃輪に向かう道がすなわち「清水み奈登道」という訳です。久能街道話、続きは刺身のおかわりの時に」
と書き込みがあったのを思い出し、今福丹波守の子孫が清水に、しかも丹波街道近くの屋敷跡にいまだに住まわれていることに驚く。

どうして驚くかというと、駿河に進出した武田信玄は当時久能寺(村松に移されて後に鉄舟寺となる)のあった久能山を城に改造して久能城とした。久能山は沖を行く北条水軍を見張るのに絶好の場所であり、東の袋城、西の持舟城(用宗のこと)に武田水軍を置き、駿河湾の制海権を手中にしようとしたのであり、その久能城を治めたのが今福浄閑斎・同丹波守父子だったのである。

その今福丹波守は天正 10 年 10 年 2 月 27 日、徳川群に包囲された久能城に数日籠城し、城を明け渡して甲州に去ったことになっている。ところが丹波街道の先、久能街道沿いにある海長寺『椿の御朱印』の由来では、1582(天正 10 )年 12 月、徳川家康が甲斐の武田を攻略した際、「残徒」今福丹波守の追撃を避けてこの寺に逃げ込み椿の蔭に隠れて命拾いした、その縁で 1602(慶長七)年『椿の御朱印』を賜り三ツ葉葵を定紋とすることを許された、とある。

今福丹波守主従 7 名は家康を発見できなかった責を負って自刃し、杉原山堤畔に小堂があって祀られているという。武田信玄が死んだのが 1573(天正元)年なので責を負ったのは武田勝頼に対してであり、穴山梅雪が江尻城を明け渡して徳川方に下ったのが 1582(天正 10 )年 2 月 25 日なので、穴山梅雪の寝返りにより圧倒的不利となった武田勝頼のもと、今福丹波守はその 10 ヶ月後も清水にいて徳川家康をすんでの所まで追いつめたことになる。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

その今福丹波守の御子孫が織田・豊臣・徳川の時代を経た後も同じ土地におられるのが不思議であり、家康は武田や上杉など、猛将の血筋や家来衆を主亡き後も重んじたというのでそのせいかなとも思い、その後の今福家に関する波瀾万丈(?)の話しに興味がある。

興味があるので家の中を覗き込んでいたら斑(まだら)模様の飼い犬が出てきてこちらを睨み、「バオンッ!」と吠えるかと思ったらこちらに敵意のないことを察したらしく、何事もなかったかのように奥へすたすたと帰っていった。今福家 18 代目が、犬とはいえなかなか肝の座った御家中を抱えておられることに感心する。

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【イルカとサメ】

【イルカとサメ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 22 日の日記再掲)

クジラやイルカを食べることの是非というのは、ウシやブタやニワトリまで含めて人間のための食糧資源という根本的な他の生物に対する考え方の是非から問わないとまともでない。

「ウシは人間のための食糧資源として神さまが与え給うた物だから、バンバン殺して食べて良いのです」
などという西欧人に呆れつつ、
「イルカを食べるなんて残酷なこと、信じられな~い」
と言いながら水族館にイルカのショーを見に行くことは西欧人に負けず劣らず滑稽であり、滑稽であるぶん冷酷である。

先日も新聞記事にのっていたけれど、食用より何より、大量に捕まえて調教し僅かに生き残ったイルカが観光ショー用に高額で売れるために乱獲され、そのために命を落とすイルカが多いらしい。可愛いイルカのショーを見に行くことによってイルカを殺しているのであり、ある意味食用とするより無邪気なぶん人という生き物の残虐性を強く感じる。

清水幸町にて
Data:SONY Cyber-shot T1

イルカ食よりサメ食の方がまだポピュラーで通りがよいかもしれない。イルカ食を嫌悪しつつイルカショーを見に行くのに似ているサメ食を嫌悪しつつフカヒレスープが大好物という無邪気な人たちは別にして、日本各地にサメ料理を郷土食として愛する人々がいる。

青森の魚市場に行ったらサメ肉専門の店があり、さく取りしたものを購入している親子に出会ったので、物怖じしない友人のカメラマンが「生で食べるんですか?」と尋ねたら「鮮度の良いものを刺身で食べるとマグロの大トロより美味いよ」と教えてくれた。

そのカメラマンと気仙沼で飲んでいたら、地元の客が「東京から来たんなら気仙沼の寿司屋でぜひサメの心臓、巨人の星の握りを食べてって」と言っていた。

ずいぶん前だけれど、テレビで広島県山間地域のお母さんたちが、郷土食のサメ料理が忘れ去られつつあることを心配し、替え歌を作って子どもたちに歌って貰い、伝統文化の保存に努めていた。『四季の歌』の替え歌であり「♪ワ~ニを愛するひ~と~は心清きひと~…」と歌われていた。広島ではサメをワニと古名で呼ぶのであり、文化の深さを感じてしみじみとする。愛護を叫ぶ人より食べる人の方が真剣さにおいて心清く感じることが多い。

イルカ肉が当然の如く並ぶ清水の魚屋でサメ肉が売られているのを見たことがないが、スーパーの鮮魚売り場などに行けば清水でもサメ肉は売られているのかもしれない。東京はサメ食が盛んな東北地方に近いせいか、小さな魚屋でもサメの切り身が売られていたりするけれど食べたことがない。

東京大学学食にて
Data:SONY Cyber-shot T1
余談:陳列棚の「和定食」の上にある「半ライスのフルーツについて」という厨房からのメッセージが面白い。

「半ライスのフルーツが食べづらいと言う、意見が多数入りました。」

改善案

「小口切りにて提案しますのでよろしくお願いします。」

いかにも東大の学食に相応しいカチッとしたやりとりで嬉しくなる。

仕事で本郷の出版社まで出掛け、昼食は東大構内の学食『銀杏・メトロ』に行ったら「今日の和定食」の主菜が「サメの生姜照り焼」だった。食べてみて意外だったのは「(サメの身というのは繊維がないんだろうな)」と思っていたのだけれど、箸で押すとマグロやカツオやブリのように年輪状に割れ、おそらく繊維を断ち切るように切り身にしているのだろう。生姜醤油で身自体の風味が隠されているのか、食べた感じはカジキマグロの繊維をやや細かくしたような味で、「カジキの生姜照り焼」と言われてもわからない気がし、衣をつけてフライにしたら「マグロカツ」で通ってしまいそうな気がする。

東京で目にする店頭価格はカジキマグロに比べたら仰天するほど安いので、確かに「♪ワ~ニを愛するひ~と~は心清きひと~…」と歌いたいお母さんの気持ちもわかる。

【モツ】

清水のおでんには必ず豚モツの串が入れられているけれど、由比では昔おでんといえばイルカのモツが使われていたのだという。観光祭りで復元されて食べられるという話しを地方紙で昨年読んだけれど、食べることができなかった。

上清水『水越』にて
Data:SONY Cyber-shot T1

イルカ食の盛んな伊豆で生まれ育った母によれば、食べ物は粗末にせずモツまで大切に食べるのは当たり前で、きれいに洗って天日干ししたものを炙って食べると美味しかったという。「 ♪ モ~ツを愛するひ~と~は心清きひと~…」というのもまた真理であるような気もする。

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【清水野菜村と縄文】

【清水野菜村と縄文】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 22 日の日記再掲)

静岡県清水にある郷里への週末介護帰省時は、JA しみずのスーパーマーケットに行って『清水野菜村』というコーナーで買い物をするのが楽しい。

清水市内にある JA のスーパーマーケットを母は「ふれっぴー」と呼び、JA しみずの店にはそういう愛称がついているらしくい。

ふれっぴー興津店、ふれっぴー庵原店、ふれっぴー袖師店、ふれっぴー飯田店、ふれっぴー高部店、ふれっぴー楠店、ふれっぴー梅ヶ谷店、ふれっぴー月見店があり、わが母の夢は「ふれっぴー入江店ができないかなぁ」というものである。

魚でも野菜でも住んでいる土地でとれるものを食べるからこそ医食同源であるというのが病いを得てからの母に付いた知恵の一つである。
「人気の秘密は、清水野菜村の生産者が、朝、収穫された新鮮な野菜を直接、ふれっぴー各店の野菜村コーナーに出荷するからです。朝一番に、おいしいところだけを収穫し、そのまま出荷するだけに、鮮度とおいしさはおりがみ付き。さらに、各農産物には生産者の名前が書かれたシールが貼ってあるので顔の見える地元の農産物として安全で安心さも二重丸です。食の安全性に対する意識が高まっているだけに毎日の食生活は大事にしたいもの。「地産地消」という言葉にもあるように安心して食べられる食生活を送るには地元で収穫された農産物を食べるのが一番です。」(同サイトより)

ふれっぴー高部店にて
Data:SONY Cyber-shot T1

野菜というのは朝一番に収穫するのが何でもおいしいというのは嘘なので、「最もおいしい時間帯に収穫した野菜を朝一番で出荷するので」と言った方が正しいとも思うのだけれど、そういうことにこだわると「最も美味しい時間帯に食べるからこそ美味しいのだ、ホウレンソウは夕一番に収穫して夜の畑で食え!」などという究極のバカになるので朝一番としておいたほうがいいかもしれない。
 
   ***
 
以下冗談めかした考察。

清水の古代遺跡では不思議なことに掘っても掘っても貝塚が出ないらしい。「貝塚が出た!」と考古学者が色めき立つと、それは昭和 30 年代に清水の子どもたちが駄菓子屋で買って食べ散らかしたバイ(ツボ)やナガラミ(キシャゴ)の貝殻であり大量の爪楊枝と混じって出土するのが特徴らしい。日本各地の古代遺跡では必ず貝塚が見つかるのにどうして清水にはないのだろう。

清水村松原「原稲荷」の大クスノキ
Data:SONY Cyber-shot T1

JA しみずが発行した『清水昔ばなし』の第 53 話に「村松原の稲荷神社」が登場する。

昔、稲束を担いだ一人の老人が現れ、粗末な小屋を建ててこの土地に住み着いた。
「それからおじいさんは、朝は星のあるうちから、夕方月の出る頃まで、村人に農耕を教えた。種の蒔き方、苗の植え付けや穫り入れ、溝を掘って田んぼを作り、道も作った。村人が大変な作業をしている時には励まし、その先にある収穫のことを語り、作物の育ちに目を配った」(JAしみず『清水昔ばなし』より)

きっとまめったい(勤勉な)清水の先人たちは古代から、貝を拾って食べるより野菜を作り、タケノコを掘り、イノシシを狩り、コハダをさばいて酢漬けにし、興津鯛や倉沢アジを開いて干物にし、イルカをつかまえて味噌煮やタレにするという生産の喜びに早くから目覚めていたのだろう…ということにしておく。だいたい弥生文化の東進は浜松の手前あたりで停滞しており、自然の恵み豊かな清水は縄文文化が優勢だったのだろう。苦労して稲作するような土地も少なかったし。

原稲荷に関する昔ばなしの結末はヨーロッパの昔ばなしに出てくるBrownie(ブラウニー)にそっくりで、感謝した村人たちがお礼に立派な家を建ててやろうと相談して訪問したらおじいさんは忽然と消えてしまう。こうでなくてはいけないという善意の善意たる好もしい完結の仕掛けがある。

おじいさんの小屋のあった場所に、おじいさんを稲倉玉神として祀った神社が通称「原稲荷」村松原の稲荷神社なのだ。

原稲荷裏手にある大クスノキ
Data:SONY Cyber-shot T1

市の天然記念物に指定されたクスノキが見事で、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に通う道すがら見上げては惚れ惚れする。惚れ惚れしながら本殿裏にあるポツンと離れた大クスノキも気になり、裏手に回ったら更地にすっくと立ち、根方に小さな石の祠が置かれていた。

日蓮の弟子で海長寺をひらいた日位上人が社殿後ろに本妙庵という僧舎を建て、その本妙寺が祭事を執り行っていたが、明治の神仏分離で原神社側に別途神官が置かれたという。その本妙寺跡なのかもしれない。

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:塩田川】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:塩田川】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 18 日の日記再掲)

幼い頃、北街道が塩田川を渡る橋のたもとに大きな石碑があった。

北街道を通るたびに何となく気になり、大人たちはその場所で記念撮影をしたりする妙に晴れがましい場所だった。実家のアルバムにも母とこの石碑前で撮影してもらった記念写真が残されている。おそらく撮影されたのは昭和 30 年だと思う。

大内観音参道から保蟹寺前を通り、古道とおぼしき山沿いの道を辿り、高部ゴルフの脇を通って塩田川にかかる鴨田橋上に立ったら、塩田川の堤防が見事な桜並木のある遊歩道として整備されているのに驚いた。

幼いころ通った高部幼稚園に勤めている方から、例の石碑が塩田川の土手、北街道から少し上流に行った場所にちゃんと残されていると聞いていたので歩いてみたらちゃんとあった。

碑文には「治水安民生」と大書され、その下に小さな文字がびっしり書き込まれている。読んでみると大意は次のようなものである。

「梅ヶ谷と柏尾の山地を水源にするふたつの河川が合流して塩田川になっている。遙か昔から山林が荒廃して土砂が流れ込み川底を埋め、大雨の際は水が溢れて田んぼを荒らしたので延宝貞享の昔から両に争いが絶えなかった。そのことは柏尾神戸家に伝わる古い記録で明らかである。以来二百有余年の間に川底はどんどん上がり天井川になってしまい、大雨の度に氾濫や決壊を引き起こし、下流の押切、大内、大内新田、能島などの田んぼを押し流し、家屋を破壊する災害を繰り返し、しかもその復興費は民の負担となっていた。「県費支弁編入」を村当局と村民はねばり強く県当局に懇請し、昭和四年九月にようやく準用河川の指定を受けることが出来た。しかしこれによって受けられた援助も姑息な災害復旧援助の範囲にとどまり、根本的方策は採られず、折悪しく日華事変の勃発により戦時体制下の一般土木事業打ち切りの憂き目にあう。終戦後、土地改良食糧増産等の必要に迫られ村民の意識も盛り上がり、熱意ある誓願は国と県当局を動かし、高部改修事業として昭和二十二年六月から継続事業として河川改修が始まった。川底をさらい川幅を広げ、堤防を補修し溢れそうな水が速やかに巴川に流入するようにし、昭和二十九年度をもって事業は終わることとなった。総工費二千万円は国費と県費で賄われたが、潰地家屋移転等の補償に関しては援助が得られず紛糾した。村長が自分の土地を提供し、その熱意に住民が村費四百万円の支出を認め、事業は円満に完了された。村民は話し合い、後の世にこの偉業を伝えるために石碑を建てた。昭和二十九年三月」
 
ぼくが生まれた年の春に塩田川の改修は終わり、この石碑が建てられたのであり、大人たちはこの真新しい石碑の前を通りかかるたびに晴れがましい気持ちになって記念写真を撮ったのだろう。

桜が花吹雪を散らす塩田川の上にコイノボリが渡され、勢いよく下流に向かって泳いでいる。一番左にある吹き流しにはこう書かれていた。
 
「祝高部小入学おめでとう」

Data:SONY Cyber-shot DSC-T1

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:霊山寺】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:霊山寺】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 16 日の日記再掲)

静鉄バスの路線図を見たらちょっとびっくり。

幼い頃、大内の田んぼの中の一軒家で暮らし、最寄りのバス停といえば北街道『花立(はなたて)』だったのだけれど、いつの間にか『大内観音入口』に停留所の名前が変わっていた。

幼い頃は「今日は大内(おおち)の観音さんに行ってくる」と言うと叔母がおむすびを握ってくれたものであり、観音さんは懐かしい遊び場所だった。

梶原景時親子の墓のある梶原堂前から細道を辿って大内の観音さんへ向かう参道に出る。参道脇に公民館とプールがあり、祖父の葬式のあとは村人が公民館に集まって精進落としをしたし、夏になるとここでよく泳いだ。山からの湧き水を使っているのか猛暑の真夏でも水が冷たすぎるくらいだった。

プールの水面に散る桜を見ていたら三十数年振りで大内の観音さんに登ってみたくなった。

【 1 】大内観音入口バス停近くにある道路標識には「清水駅 4km 霊山寺 2km 」と書かれているが平面の地図ではバス停から観音様までは 1km くらいの距離である。たかだかそれだけの距離を数十メートル分け入っただけで山里のようになるわけで、こういう見る者の観念による風景の激変は舞台演劇を見るようで楽しい。

【 2 】山から湧き出す水がさらさらと音を立てて参道脇を流れ、山が吹き降ろす風は春とはいえ冷たい。犬を連れたご婦人と擦れ違った後、結局下山するまで誰とも擦れ違わなかった。

【 3 】八重桜が自然のアーチになっており、ピンクの薄紙にも見え小学校運動会の入退場門みたいだ。

【 4 】大内の観音さん(霊山寺)のある梶原山南面はミカン畑になっており、収穫したミカンを麓に下ろすためのロープウェイがある。

【 5 】農道から折れて参道に入るが、参道といってもやはり農道を兼ねているらしく、右手に収穫したミカンを麓に卸すためのモノレールがある。左手にはたくさんの杖が貸し出されるようになっている。高齢者は杖無しだと相当にきついと思う。

【 6 】こんな石畳を踏んで、観音さんへの参詣(登山)は始まる。

【 7 】この山からは豊富に水が湧き、この沢づたいで子どもの頃よくサワガニをとって遊んだ。

【 8 】巨大な岩を削ったような石段もあり、まるで修験者の山に登っているようで月山登山を思い出す。

【 9 】参道脇の樹木には俳句を書いた木の札がかけられていた。道を急がないならゆっくりと読むことで休み休み登れば良いと思う。今回は急いで登って降りたので、俳句が目に入ったのはこのあたりまで。

【 10 】『仁王の力石』。本当に踏んで見た。踏むくらいで疲れが取れるなら喜んで何度でも踏みたいくらいにこのあたりまで登ると疲れる。

【 11 】湿って泥沼のようだったという大内田んぼ脇の山に意外と岩場が多いのに驚く。桜の花びらが美しいが振り仰ぐ余力はない。

【 12 】やっと藁葺屋根の山門が見えてくる。大内の観音さんこと大内霊山寺は奈良時代行基が開山したと伝えられ、室町時代に建立されたこの仁王門は県内で2番目に古く、国の重要文化財に指定されている。

【 13 】やっと着いた!、と思ったあとの石段がけっこうきつい。膝が笑っている。

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【 14 】山門を抜けて今度こそ着いた!、と思ったあとの本堂までの石段がけっこうきつい。膝が泣いている。

【 15 】こんなに僅かな段数を登ったあたりで同じようなアングルの写真を撮っており、写真を撮ることで休もうとしていた自分の心根を知る。

【 16 】振り向いて眺める清水の町並み。

【 17 】本堂には木製舞台があり、ベンチが二つある。ウグイスの鳴き声以外は無音。

【 18 】誰もいないというのは贅沢であり、所在ないものである。小銭入れの有り金をすべて賽銭箱に入れて家族の健康を祈願する(後でバスに乗ったら小銭が無くて困った)。

【 19 】本堂は市指定の有形文化財であり、天井には天井絵が描かれている。

【 20 】本堂から眺める山門。美しい。

【 21 】山門から眺める桜。これまた美しい。

【 22 】山門下から見下ろす郷土清水。はるかかなたに三保の松原が見える。夕暮れが迫って来たので急いで下山する。

Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:梶原堂】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』北街道編:梶原堂】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 15 日の日記再掲)

「ムード歌謡曲」というヘンな言葉があり、そうとうにヘンな日本語だと思うけれど言わんとすることはわかる。

この日記のように郷土史にいい加減にこだわりながらの写真日記にそういう喩えをするなら、「ムード郷土史!」という肩の凝らない(類:役に立たない、信憑性に乏しい、胡散臭い)ものといえるかもしれない。

隆慶一郎の時代小説を読んでいると「狐ヶ崎の刑場」という言葉が何度も出てくる。狐ヶ崎というのは現在の静岡鉄道狐ヶ崎駅辺りではなく、本当は静岡鉄道柚木駅とか東海道本線東静岡駅の北東側に見える高さ 100 メートルほどの山塊、谷津山のある盛り上がった場所の一部(おそらく北街道と接していた場所)を指すらしい。家康関連の資料を調べると今川の人質屋敷があった場所として狐ヶ崎の名が登場するし、「狐ヶ崎の刑場」という言葉も出てくる。

源頼朝亡き後、鎌倉を追われた梶原景時一族が京へ上る途中、夏目漱石が 50 歩ほどの幅しかないと喩えた紙縒(こより)のような興津(息津)の街道を抜けた際、地元の豪族入江一族の者に発見されて討ち取られる。

どうしてそんなドジを踏んだかと言えば、興津を抜けたのが運の尽きで、清見寺のある場所はそもそも清見関という関所に適した場所であり、喩えれば今の清水平野というパウンドケーキに生クリームをニョロッと絞り出すための口金だったのであり、見つからないはずがないのである。

当時の清水平野はその多くが水面下にあったり低湿地だったりし、中世東海道は今に残る近世東海道よりもっと北の山側を通っており、それは現在の北街道にほぼ重なる。

一面にススキの生えた湿原に足を取られつつ、追っ手と戦った末に討ち取られた梶原一族の首は、街道沿いの狐ヶ崎にさらされたらしい。狐ヶ崎というのはそういう場所だったのかもしれない。

中学生時代、母の友人に招かれ、北街道沿い鳥坂のミカン山(梶原山)に上り、大きな竹のカゴを背負ってみかん狩りをし、山の斜面で昼飯を食べながら梶原一族滅亡の話を聞いた。

「この山ではねられた首が狐ヶ崎まで飛んで行った」
というミカン農家に言い伝えられた昔話を聞き、首がそんなに飛ぶはずがないのはともかくとして、どうしてよりによって静岡鉄道狐ヶ崎ヤングランドの方向に飛んだのか不思議に思ったけれど、首が北街道沿い「狐ヶ崎の刑場」方面へ運ばれたということなのだろう。

写真上:梶原山へと向かう道。
写真下:梶原親子の墓前に降り積もる桜。
Data:SONY Cyber-shot T1

幼い頃、北街道沿い清水市大内にあった祖父母の家で暮らしていたが、当時のぼんやりとした思い出の中では北街道は西の鳥坂辺りで途絶えており、清水市もその地点でお終いで、そこから西は崖になっていて先がなく世界の果てになっていた(子どもにはそう思えた)。北緯 35 度線をどこまでも西に進んだら、地球を一周して興津の町を抜け、北街道を高橋、天皇、押切と辿ってはるばる大内まで戻ってこられる、と知る以前の幼年時代、この辺りはそういう世界の果てになっていたのだ。

そういう世界認識というのは長じても抜けないもので、週末の介護帰省で静岡駅前からバスに乗り、北街道を東に辿って「(清水に入ったら歩こう)」と思っていたら、ちゃんと鳥坂バス停で降車ブザーを押していた。

梶原一族を供養するため『梶原山龍泉院』という寺が 160 年後の 1360(延文五)年に建立され、それは約 600 年後の 1962(昭和 37 )年に矢崎山の山麓を削るために立ち退かされたというから、今の常葉短大キャンパスの辺りにあったのではないかと思う。

北街道を東に歩くと左手に「鎌倉本體の武士 梶原景時を祀る梶原堂 大内午未会」という石碑があり、現北街道を折れて細道を行くと梶原堂がある。

御堂脇で風化の激しい三基の墓は、景時、景季、景高の墓だということなので、狐ヶ崎から1500メートルも東に飛んだことになる。

写真上:清水の梶原親子の墓。
写真下:鎌倉の梶原親子の墓。

鎌倉在住の友人の住まいが梶原という場所にあり、土地の名がかつて「大字清水返り」といったと聞き、「ひょっとして近所に梶原氏の供養塔でもありませんか」とメールで尋ねたら「深沢小学校の敷地内に確か石塔を納めた石窟があります」とのことだった。学校の許可を得て敷地に入り、撮影して頂いた写真がメールで届き、それは梶原景時、景季、景高の墓だと伝えられているという。

だとすると梶原親子は 100km 弱の距離を北東に鎌倉まで飛んで清水から帰ったことになる。

【梨の花咲く頃】

清水ではかつて梨の栽培が盛んだった。幼い頃の極めて矮小な生活世界も梨畑で満ちており、梨畑で働くお百姓について歩き、梨を貰って帰るのが楽しみだった。

梶原堂のある山麓付近では今も梨畑を多く見る。純白の花が満開になったさまは壮観であり、幼い頃は桜の花の記憶より梨の花の記憶、そして花より真夏の日向で食べた生暖かい梨の味の記憶の方が鮮明である。

[Data:SONY Cyber-shot T1]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 17 】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 17 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 14 日の日記再掲)

生まれて初めてヘッドホンというものを買ったのは中学生の時で、買い物場所は清水駅前銀座にあった長崎屋の電気売場だった。

面白いなぁと思ったのは、ヘッドホンをあてて耳を澄ますとレコード盤の無音部分でパチパチと音が聞こえるのに、曲が始まるとパチパチ音が聞こえなくなるのだ。

それはオーディオ用カセットテープでも同じで、雑音の発生が避けられない音響機器では無音部分が無音でないのは当たり前として、無音部分で気になる雑音も有音部分では大きな音の下層部になることによって聞こえなくなり、相対的に無音になるのだ。

4 月 2 日に旧東海道を東京方面に向かって歩き、辻の一里塚があった場所を確認し、興津宿にさしかかってどこかに興津一里塚の跡があるはずだと目を皿のようにして歩いたが見つけられなかった。

街道に沿った興津は紙縒(こより)のように細長い。

明治時代、海水浴に訪れた夏目漱石が正岡子規に宛てた手紙には、山が海辺まで迫った興津には 50 歩ほどの幅の平野部しかないと書かれている。

そこに街道が整備されて宿場町となったわけで、その後東海道本線が通り、東海道が国道一号線として自動車が往来できるよう拡幅され、家並みや道路や鉄道が 50 歩ほどの幅の平野部でより合わされて町になっている。

当然場所をとる一里塚が保存されているはずもなく、おそらく解説板が残っているくらいだろうと思ってはいたのだけれど、興津駅前入口を過ぎ、身延街道分岐点を過ぎ、宿場町の面影をわずかにとどめる町並みのはずれに来てもとうとう見つからない。

道端で立ち話しているふたりのご婦人に、「あの~…」と声をかけたら待っていましたとばかり他人に物を教えるポーズをとられるので、「興津の一里塚跡はどこでしょう」と尋ねると、「一里塚なんて聞いたことがないやぁ」といい、「一里塚じゃなくて多分『あと』なんです」と言うと「『あと』じゃあ余計わかんない」と言う。

夕暮れが迫り、帰京の時刻に間に合わなくなるので諦めようと思ったら「公民館で聞けばわかるんて公民館に行かれるといいですよ」と言う。「ああ、公民館ですか…」と答え「(土曜日の夕暮れ時に公民館に職員がいるとは思えないし、帰りの時刻が迫ってるからまたにしようかなぁ)」思う。

そうしたら親切なご婦人が「ほいじゃあね、近道を教えるよ。ほら、そこに国道から左に入る道んあるでしょ。それん細い道だけんどこまでも行けるですよ。そこを行きゃあ公民館はじきにわかるよ」と言う。

「どうもありがとうございます」と礼を言い、でも公民館に行くのは止めておこうと国道を興津駅前入口方向に歩き出すと、ご婦人たちが大声で「違う違う、道を反対っかたに渡るだよ!」と叫ぶので仕方なしに道路を渡って反対側を歩き出すと、「違う違う、そこっ!そこの脇道を入るだよ!」と叫び、無意味な寄り道になりそうだけれど一応手を振って「(わかりました)」の合図をしてトホホと脇道に入る。

驚いたことに旧東海道(国道)裏の脇道は昔の防波堤だった。

[写真上:“興津商工会”看板の所を「違う違う、そこっ!そこの脇道を入るだよ!」と言う]
[写真下:「ほいじゃあね、近道を教えるよ」は胸に迫るもののある道だった]
Data:SONY Cyber-shot DSC-F707

幼い頃、東海道本線の列車に乗って蒲原駅を過ぎ、由比、興津と進むと列車は海岸の防波堤沿いを進み、海が荒れている日は波しぶきが車窓にかかったりした。沖合が埋め立てられる以前、興津の町はこんなところまで海が迫っていたのである。

まさに心細い海辺の町だった当時の興津の姿を想像しつつ人影まばらな夕暮れの防波堤跡を歩くと、突然左手にある埋め立て地の公園から犬を連れた男性が現れ、それはどこの防波堤でも見かける、海辺へ下りる階段の跡だった。

   ***

一週間後の日曜日、再び興津の旧東海道を歩き、駐在所に入って「この通り沿いに一里塚跡はありませんか」と尋ねると「一里塚……聞いたことがありませんねぇ」と駐在さんは言う。

がっかりしていると、それではあんまりだと思ったのか「ここに観光マップがありますからごらんになってください」と言うので広げてみると国道沿いに「一里塚」と書いてある。「あっ、一里塚ありました」と言うと「どこどこ」と駐在さんが言うので「ほら、ここが駐在所でこの道をまっすぐ行って興津駅前入口を過ぎて、左側に銀行があってその先の左側に……」とこちらが教えている。

これで「ありがとうございました」と駐在さんの方が出ていったらパチンコ屋『コンコルド』のCM(清水に帰省するとこのパチンコ屋のナンセンスCMを見るのが楽しみ)である。

地図を見ながら歩いたら道端に「一里塚址」という石柱があり、その場所を見て唖然とする。

前回この場所で古い番地表示板を夢中で撮影したのであり、そのすぐ下に「一里塚址」と刻まれた石柱はあったのだった。

土地のご婦人や駐在さんは暮らしの大事に気を取られて些事である「一里塚址」など見えないのかもしれなくて、間抜けな旅人はレトロな番地表示板に気を取られて足下が見えなくなっていたのである。

【もくネジ】

興津駅前の観光案内板を見ていたら、
「もくネジはおきつの主力産業です」
と書かれていて「(いいなぁ)」と思う。

[Data:SONY Cyber-shot T1]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 16 】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 16 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 13 日の日記再掲)

清見寺という名だな 
このお寺は古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな

(山下清『清見寺スケッチの思い出』より)

旧東海道を興津宿に向かって歩くと清見寺がある。

街道(国道 1 号線)からいきなり石段を登り山門を潜ると参道は JR 東海道線の跨線橋になっている。

幼い頃は寺の参道と鉄道のねじれた関係をとても奇異に感じたものだった。

かつて夏目漱石は 1889(明治 22 )年、一高一年生だった夏( 7 月 23 日)興津に海水浴のため訪れている。

1889 年というと高校時代
「いちはやく( 1889 )明治憲法発布さる」
などと日本史の勉強で丸覚えした年であり、学習参考書の隅に書かれていた
「当時の人は「憲法」などという言葉を知らず、「憲法の発布が下される」と言われて絹布(けんぷ)の法被(はっぴ)を下さるのだと思った」
という豆知識が可笑しくてまだ忘れずにいる、そういう時代である。

[写真上:東海道本線跨線橋下を行く東海1号の車窓から見上げる清見寺 Data:SONY Cyber-shot T1]
[写真下:清見寺跨線橋上から見下ろす東海道本線 Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

漱石はその時の模様を正岡子規あての手紙に書き、それを子規が筆写したものが残されているという。「東海道興津紀行」として元の漢文を書き下したものが岩波版全集に収録されているというので孫引きしてみる。

都城(とじょう)の西、六十余里、山勢隆然(りゅうぜん)、地を抜きて起(た)つ。潮流直(ただち)に山麓(さんろく)に逼(せま)り、山海の間、平地を得ること、穆(わずか)に五十歩。旗亭(きてい)十数、其の間に点綴(てんてい)し、蛋戸(たんこ)漁家(ぎょか)と錯落(さくらく)として相間(あいま)じり、呼びて興津(おきつ)と曰う。所謂(いわゆる)東海道五十三駅の一なり。山腹に古刹(こさつ)有り、仏閣経楼、高く青霞(せいあい)の上に出(い)で、之を望めば縹渺(ひょうびょう)として画図(がと)の如し。

漱石はこの寺が清見寺、清見寺のある山が清見山だと紹介し、「興津の西、山勢漸(ようや)く北に向かって走り、海湾(かいわん)も亦(ま)た南に曲まがり、三里にして清水港(しみずみなと)に達す。港尽(つ)きて湾再び東に折れ、洋中に突出すること二里許(ばかり)、古松無数、遠く天と連なり、白帆(はくはん)明滅して、その間を行く。」と描写した湾が清見潟だと言う。

そういう時代の漱石によればこのあたりは山が海に迫り、興津にはわずか 50 歩ほどの幅の平野部しかなかったという。昭和の時代を経てこういう時代になり、山下清が清見寺を訪れた頃にはすでに「お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな」という状況になっていたらしい。

JR東海道本線跨線橋から清見潟を遠望すると埋め立て地に立つクレーン越しに日本平とその頂上の鉄塔群が見え、もっと右側に清水市街地と日本平が見えるはずだと思いこんでいたので意外な気がする。

旧街道、国道、鉄道、バイパスなどが集中する猫の額ほどの平地に参道を持つ「古っぽしいけど上等」な寺がでーんとあったりするわけで、こういうねじれた土地は広島県尾道の街を歩いた際にも見たような記憶があるが定かではない。

土塀越しに身を乗り出し清見潟に向かって咲きかける清見寺の桜も、塀の内側に回ってみると海からの風を避けるように山側に身を反らせつつ、それでも穏やかな日の清見潟の陽光を懐かしむように海側を振り返っており、そうやって長いこと悩みつつ月日を過ごしてきたのかもしれなくて、幹もまた興津の桜らしくねじれている。

[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 15 】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 15 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 12 日の日記再掲)

街という西瓜(すいか)を鋭角的に切り分けるように主要国道から斜めに分岐する細道があると、それは旧街道だったりする。

かつて人馬がのんびり歩いた古道を拡張し重ね合わせるように発展した主要国道が、どうして旧街道と鋭角的に袂を分かたなければいけないかというと、旧街道沿いの古い街並みを迂回するためだ。

清水辻 3 丁目、細井の松原で鋭角的に国道一号線と合流した旧東海道が清水横砂東町で鋭角的に分岐していくように見える場所がある。幼い頃から何度となく自動車で通過し、こっちに行くと国道で興津に向かうけれど、あっちの細道を行くとどこに行くのだろうと思うことが多かったが、多分旧東海道はこっちではなくあっちなのではないかと思い始め、生まれて初めて脇道に徒歩で逸れてみた。

いかにも旧街道沿いらしい街並みをちょっと歩くと踏切があり、JR 東海道本線の列車が轟音と共に通過する。

国道一号線を行き交う自動車が踏切でのんびり東海道本線の通過待ちをするわけにはいかないモータリゼーションの時代になり、国道は旧街道と袂を分かって左に逸れ、東海道本線を潜るか跨ぐことになったのだろう。山下清が「どっちが偉い?」と悩んだ興津名物がここにもある。

国道が東海道本線を潜ろうにも潜れない理由があって、その先で波多打川を跨がなくてはならない。ジェットコースターのように潜った途端に跨ぐわけにもいかず、仕方なしに旧東海道ルートから逸れた国道は器械体操の連続技のように東海道本線を跨いだついでに波多打川も一気に跨ぐという高難度の跳躍をする。

そしてこの高難度の場所に向かって東進してきた国道 1 号線静清バイパスがさらに頭上で東海道本線を跨ぎ、旧東海道を跨ぎ、国道 1 号線を跨ぎ、波多打川も跨ぐというさらなる超高難度の技を披露している。

そういう喧しさから逃れて踏切を渡り、旧東海道だったのではないかと思われる静かな脇道を進むと、魚屋、ハンコ屋、よろず屋などがある懐かしい街並みが続く。そしてその先が三叉路になっていて「はい、ここで問題です。はたしてこの先、旧東海道はどれでしょう?」という三択問題になっている。

旧街道が川や湿地に出会うと「どっちが偉い?」と悩むまでもなく川や湿地が偉かった時代があり、そういう場所では道がカクカクッと折れ曲がっていることが多いので、旧東海道はここで左に折れてカクカクッと波多打川を越え興津宿に向かったのではないかと思い、右に逸れていく道は波多打川河口のある海岸に向かう道だったのではないかと想像する。

そう思いつつも、10,000 分の 1 の地図ではこの先で消えてしまう真ん中の細道こそ、古(いにしえ)の旅人が踏み分けた旧東海道だったのではないか、などと意地でも思いたかったりするので強引に直進すると、私道のような細道を辿って波多打川河畔に出る。

昔の旅人なら意地でも川を渡って直進し、土手をよじ登って興津宿に近道したくなったりしそうな気もするけれど、コンクリート護岸に覆われていてそれはできそうにない。

帰京後地図を見ると清水茂畑の北を水源地とする波多打川自体が、この「どっちが偉い?」と悩ましい場所でカクカクッと折れ曲がっており、そもそも波多打川が現在と同じ場所を流れていたのかも疑わしい気がする。

対岸に桜の木が見え、その右手が清見潟公園で井上馨の銅像がある。井上馨なら幕末の旧東海道を何度となく往復したので波多打川の昔を知っていそうな気もするけれど、じっと海の方にそっぽ向いている。

[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

【延命地蔵尊】

国道 1 号線と旧東海道の分岐(合流)点に『延命地蔵尊』の祠がある。その左隣の建物も非常に趣があり、窓に防犯を目的としたものか格子が嵌められているので、銀行や郵便局だったのではないかと思う。

『延命地蔵尊』の建立はそうとうに古く、地元の人に「横砂のお地蔵さん」と呼ばれて愛されているという。左にある常夜灯もかなり古い(……らしいけど新しいかな)。

『わが郷土清水』(鈴木繁三著、戸田書店刊)の図版を見ると鎌倉時代の中世東海道もこのあたりから山側のルートを辿っているので、中世以降激動の日本史の目撃者なのかもしれないけれど、祠に昔話を聞けないのが惜しまれる。

祠の両脇に供えられた菜の花と桜がいかにも春らしい。

[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

 
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【清水さくらノート 2005 … 2 】

【清水さくらノート 2005 … 2 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 11 日の日記再掲)

旧東海道、東海道本線を跨ぎ、国道一号線バイパスをくぐり、波多打川(はたうちがわ)に架かる橋を渡ってややこしく進むと旧東海道から右手に入る道があり、そこが清見潟である。

清水と興津、今と昔、あれとこれ……。
この曖昧な境界へのアプローチはなんとなくややこしい。

この先、くねくねとした旧東海道をすすんで左手にある古刹「清見寺(せいけんじ)」を訪れた山下清も、旧東海道と東海道本線と古い寺のややこしい関係(旧東海道から清見寺への参道を東海道線が分断しているのでいったい誰が一番偉いのかわからない)に驚いていたという。

皇太子だった大正天皇が海水浴(明治22年。この年に東海道本線は静岡まで開通)をしたのをきっかけに、興津には後藤象二郎・伊藤博文・松方正義・西園寺公望など多くの政治家や文化人が押しかけて別荘を建てたり宿泊するなどし、別荘地・避暑地として大変賑わったという。

井上馨の別荘は「長者荘」といい敷地面積 5 万坪という広大なものだった。場所は旧東海道沿い、西園寺公望の「坐漁荘」よりもう少し清水寄りだったらしい。1896(明治 29 )年に完成し、しばらくは東京と興津との二重生活だったが、病いを得てからは興津滞在が多くなり、1915(大正4)年「長者荘」にて 81 歳で亡くなられている。

清見潟公園にも沢山の桜が植えられており、満開の桜の下に井上馨の銅像があった。

いくら郷里が好きで、いくら美しい桜の下の特等席で、いくら痛みを感じない青銅の身体になったとしても、喧しく煤けた湾岸道路越しに埋め立て地の大型クレーンを眺めて座っているのは僕なら嫌だけれど、力ずくで興津駅に急行を停車させ、日本郵船会社・三井財閥・藤田組などと深く結びついて政財界の黒幕として君臨した井上馨なら、眼前に広がる清見潟コンテナヤードを飽かずに眺めてまんざらでもないのかもしれない。

桜というのは花の下で車座になって酒を飲み馬鹿騒ぎしている時以外、ことに一人で見上げていたりすると妙に心寂しい花で、清見潟公園の桜並木にも飽いたのでそそくさと退散する。

公園から旧東海道へ抜ける小径があり、海辺での労働を生業にしていた人々がかよった道なのだと思うと味わい深い。街道沿いからこの道を海辺に抜ければ昔は公園も桜並木もない美しい海岸だったはずで、天皇が海水浴をしたり、政治家が別荘を建てたり、文化人がホテルで夜毎の饗宴を繰り広げたりする以前の良き興津を思い浮かべつつゆっくり歩く。

街道沿いの鮮魚店『魚格』を覗き、石段を登り、東海道本線跨線橋を渡ると清見寺の桜が東海道本線に向かって花吹雪を散らせていた。

[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

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【清水さくらノート 2005 … 1 】

【清水さくらノート 2005 … 1 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 10 日の日記再掲)

まるで花見列車のように満開の桜が次々に車窓をよぎる。早朝の東海道本線を行く列車にこんな春の日があるのを知らなかった。遠距離介護でなければ、人生で最も贅沢な春の帰省である。
 
美濃輪稲荷大鳥居前『魚初』に立ち寄り、郷土史の資料をあれこれもらい、
「張り切って歩いてくださいね」
と笑顔で激励され、江川沿いの志みづ道を辿って実家に帰る。

本町にある市立清水保育園の桜が満開になっていた。小中高それぞれで校庭に咲く桜にに味わいの違いがあって面白い。幼稚園や保育所の桜というのは妙に乳臭い気がして愛らしい。

県道 197 号入江富士見線、通称「記念塔へと上る坂道」の下、上清水町交差点に出たら柳宮通り左手、上清水八幡前のバス停辺りが桜色に染まっているので引き返すと、通りに面した鳥居から続く参道の桜が満開になっていた。

入江富士見線を記念塔方向に上る左手、清水カトリック教会の桜も満開になっていた。先週の帰省時には枯れ木のようだったのに、花咲爺がまだ樹上にいそうに思えるくらい、劇的な開花をしていた。ローマ法王死去に伴い、新たな法王選びコンクラーベの最中に咲く桜である。

月見草には富士が、桜にはゴザがよく似合う。

青いビニール製のお花見シートなどより遙かによく似合い、敷いて良し掛けて良し(頭まで掛けると死体になるが)で、地べたに敷物一枚敷いただけでそこが豪華な宴会場になるという極めて日本民族にふさわしいお花見ツールは、ゴザのほかにはない。

八分団手前、旧久能道入口角に『佐野製畳』があって、ここは同級生の家だ。家の上に立派な鳩小屋があり、裏手の庭では大きなコンクリートの土管のようなものに腐葉土を入れ、沢山のカブトムシを飼っていた。「ござあげます」の文字が妙に暖かい。

静岡鉄道入江岡駅ホームが綺麗になり、石垣の上の桜もまた満開になったが、残念ながら花曇りで富士山は見えない。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-T1]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 14 】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 14 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 8 日の日記再掲)

旧東海道(国道1号線)を歩き、庵原川を渡り、700 メートルほど歩いた横砂交差点で、右手海側に入る細道が気になり、100 メートルほど寄り道したら不思議な場所に出た。

右手に遊歩道があり、道端で女性が三人立ち話していたが、怪しい男(僕)がきょろきょろ辺りを見回しているので、訝しげな顔で振り返りながら左手の建物に入っていき、そこには『よこすな保育園』と書かれていた。

不思議な既視感のある場所なので写真を何枚か撮影し、帰京後清水西久保在の友人にメールで問い合わせたら、そこはやはり静岡鉄道清水市内線横砂終着駅跡だった。

高校時代カメラをぶら下げて横砂終着駅に立ったのが1971年のことであり、34年振りの再訪である。

どうしてそんなに久し振りかというと、1974 年 7 月の『七夕豪雨』をきっかけにして清水市内線は廃線となったのであり、僕にとって横砂という町はチンチン電車に乗って行く場所だったのである。入江町の実家から旧東海道を歩き「(ずいぶん遠くまで来たなぁ)」と思う意外な場所に横砂終着駅跡はあった。

横砂終着駅跡まで続いていた鉄道軌道は『袖師横砂線自転車歩行者専用道』と名付けられ、ケヤキの高木とサツキの低木が植えられた全長 630 メートルの遊歩道になっている。竣工が昭和 54 年とあるので『七夕豪雨』の 5 年後である。

1971 年撮影の写真を見ると木製の改札らしきものの先に北西から南東に向かう細道があり、これが現在の横砂交差点から東海道本線を渡って海側、袖師第一埠頭に向かう道だとすると、奥に見える電車の車庫跡が『よこすな保育園』のある場所ということになる。

古い写真を眺める時、そこに写っているのが家族や友人なら、その後の人生を知っていることが多いので、写真の中の人々が現在に至るまで歩いた道のりを思い浮かべることも出来る。だが自分の写した写真の中で、車庫前を右から左に歩く農作業帰りらしいカゴを背負ったご婦人、駅のベンチで切符の束をいじっている鉄道職員は見ず知らずの人なので、彼らのその後を知らないがゆえに、あの日あの瞬間の「あそこ」で凍りついたままである。

帰京後、友人に確かめてやっと「ここ」が横砂終着駅跡だとわかって時計の針が動き始めたけれど、不思議な既視感が何であるのかわからずに立ちつくしていた時は「ここ」と「あそこ」を繋ぐものを見失っていたのであり、それは古い写真の中にいる見ず知らずの人になって凍りつくのに似ている。

いい年をして人前を憚らず泣きたくなるのはそういう瞬間だったりする。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-T1]
[Data:minolta SR-T101・Rokkor 58mm F1.4]

【土筆(つくし)】

旧東海道が JR 東海道本線を跨ぐ線路際に土筆が群生していた。

毎週末の介護帰省で通過する場所だけれど、飛び去る車窓の風景を眺めながらの旅では気づかない春がここにある。

こんなに沢山の土筆が一カ所に生えるのを見るのは何十年振りだろうと感動しつつ撮影していると、オレンジと緑、ツートンカラーの下り列車が通過していった。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 13 】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 13 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 7 日の日記再掲)

旧東海道、矢倉町通りを過ぎて直進すると国道1号線に合流する。

この区間にかつては松並木があり「細井の松原」と呼ばれたという。

「元禄 16 年( 1703 年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長 199 間 2 尺(約 360 米)松の本数 206 本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。」(辻地区まちづくり推進委員会)

国道 1 号線に出て振り返ると合流地点に松の木が1本植えられ、石碑が立ち、解説板が添えられているので一見一里塚に見えるがそうではない。この松は平成四年に植えられたものであり、石碑は平成十三年東海道四百周年を記念して立てられたものである。

松並木は第二次世界大戦中の 1944(昭和 19 )年、松根油採取(航空機燃料とするため)の目的で伐採された。その際、夥しい量の人骨が出土し、東海道で倒れた旅人を埋葬したものであろうと類推され、骨は寺に埋葬された。石碑には「無縁さんの碑」と刻まれている。

かつて無縁さんも見たであろう「細井の松原」の在りし日を忍んで石碑脇の松の木をクローン培養して旧東海道に植えて菩提を弔う。合掌。

国道 1 号線に入ってすぐの道路沿いに洋食屋『 OKAME 亭』(辻 1 丁目 10 - 19 )がある。かつては『おかめ食堂』といい、静鉄西久保営業所の運転手さん御用達の定食屋だった……と聞いているのだが行ったことがない。清水総合飲食業組合辻支部の資料を見ると「おかめ食堂 辻 1 丁目 10 - 19 」の下の欄に「静鉄食堂 辻 1 丁目 10 - 20 」というちょっと行ってみたい嬉しい名前の食堂があるが今もあるのだろうか。

掲示板で教えて頂いた情報によると、かつて「細井の松原」沿いには江川という川が流れていて愛染川の支流だった。現在は辻町では暗渠に、袖師で地上に出て国道を渡り愛染川に合流しているという。

国道一号線藍染川橋上から下流方向のコンクリートのどぶ川を見ると山茶花だろうか、赤い花びらを落としていて都市の痛ましさがここにもある。

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 12 】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編 12 】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 4 月 6 日の日記再掲)

旧東海道、辻の一里塚を過ぎて 200 メートルほど行くと左手に細い道があり、「秋葉道(あきはみち)入口」と書かれた「生き活き」街づくり辻の会の解説板がある。

「東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。この入口には戦後まで「秋葉山五丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。」



秋葉山というのは、火防ぎの神様三尺坊大権現を祭った神社であり、神仏分離により本山は静岡県周智郡春野町の秋葉神社と静岡県袋井市の可睡斎に分かれているが、徳川家が可睡斎を重んじたため江戸以降各地にその信仰が広がったという。清水の秋葉山開山は戦国時代 1571 年であり、遙か昔から厄除けや火防ぎの神様「あきわさん」と呼ばれて慕われている。

毎年 12 月 15 日 16 日の大祭には、秋葉山に続く沿道に多数の露店が並ぶし、子どもの頃はサーカスの小屋がかかったりした。

子どもの頃というのは「ここ」と「あそこ」だけが興味の対象だったのかもしれず、住んでいた場所と行った場所の記憶だけが残っていて、その道中の記憶というものが抜け落ちていることが多い。

幼い頃、あきわさんでサーカスを見た記憶があり、当時住んでいた清水市大内からあきわさんまでバスに乗って北街道を走ったはずなのだが全く記憶にない。漆黒の闇が覆う田中の一軒家と、まばゆい電球にてらされたサーカス小屋の光景が北街道を数キロ隔てて記憶の中で孤立している。

この旧東海道(近世東海道)から「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続したという参道は、辻 3 丁目の国道 1 号線交差点から真っ直ぐ秋葉山方向へ伸びる広い道ではなく一本手前の細道だったように解説板では読めるが、「矢倉の辻」が現在の北街道「秋葉前交差点」だとすると、現代の地図ではその経路がよくわからない。中世東海道を、静清バイパスと県道 338 号線の丁字路交差点近くにある神明宮から「矢倉の辻」まで辿るルートに関しての解説は友人のサイトに詳しいが残念ながらアクセス不能になっている。

思うに 2004 年 12 月 4 日の日記【地図を塗る】』で気づいた清水平野の成り立ちに関する自分の日記をもう一度読み直してみると「鈴木島江尻浜堤」の上(高い土地)を辿って南下してきた東海道が「嶺西久保浜堤」方向に右折して秋葉丘陵をかすめて中世東海道に折れていったのではないかと思われ、

「その過程で驚いたのは、清水の浜堤の位置が何度も行きつ戻りつした古道の位置にピッタリと重なり、何故旧久能道が不二見小学校手前で海沿いに折れ、村松方面を進んだのかも明瞭になる。古道は地盤のしっかりした浜堤の上を辿ったのであり、歩きづらかったであろう地域は湿地帯だったり、小川が流れていたりしたのである。」(【地図を塗る】』より)

と同じように古い旧東海道から分岐する秋葉参道もまた旧久能道のように「かくかくっ」と折れ曲がっていたのかもしれない。

そう思って辻3丁目の国道1号線交差点から真っ直ぐ秋葉山方向を眺めると途中で一段窪んでおり、その窪みこそが「鈴木島江尻浜堤」と「嶺西久保浜堤」の境界であり、かつては湿地帯だったり小川が流れていたりしたのではないだろうかと思えたりする。

子ども時代の記憶に「ここ」と「あそこ」を繋ぐ道中が欠落しているように、都市の記憶もまた史跡と史跡を繋ぐ道中を思い出すことがなかなか難しい。多分、記録された人の歴史自体もそういう構造になっている。

写真上段:旧東海道と北街道の交差点。この交差点は事故が多発した時代があるのか、虎模様のコンクリート壁が四隅にある。昔はこういう交差点がたくさんあったことを思い出し、たまらなく懐かしい。
写真下段上:旧秋葉道だったと思われる小路。
写真下段下:矢倉神社前を通って秋葉山に向かう北街道。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

●掲示板にて清水市立第一中学出身の方から、国道一号線から秋葉山に向かう北街道が窪んで見える辺りに、かつて南北に流れる川があり、家に入るのに川に渡した橋を渡ったりする生活風景が見られた時代があり、その川は暗渠になっていると教えて頂いた。

●掲示板にて清水市立第三中学出身の方から、その川の名は愛染川支流の江川と呼ばれた川であり、江川の東側の高み(「鈴木島江尻浜堤」)を通っていたのが旧東海道、江川に沿って植えられた松並木が「細井の松原」なのだと教えて頂いた。

【風の辻】

秋葉山へ折れる交差点近く、旧東海道沿いの民家に空き缶やペットボトルを利用した風で動くオブジェが飾られていた。

玄関先に作者であるお父さんが胡座をかき、木槌と金鋏を使って器用に新作を作っていた。話しかけたくても物怖じして出来ないのが僕の弱点で、それでも気になるのでわざと大きな音をたてて息を吹きかけてオブジェを回していたら、お父さんが気づいてこちらを見た。

こちらをちらっと見ただけでまた作業に戻ってしまったが、一瞬合ったお父さんの視線が「(おらも物怖じする方だんてお互いっこだよ)」と言っていた気がし、一瞬でも人の出逢いの風が吹いたのを感じたので満足して道中を急ぐ。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

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