◉日本裏山辞典――興津七面山

2018年7月28日
僕の寄り道――◉日本裏山辞典――興津七面山


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興津中町や本町あたりのことを調べていると七面山(しちめんざん)の名がときどき出てくる。七面山といえば山梨県南巨摩郡にある信仰の山で、日本二百名山にも数えられ標高が 1,989 メートルもある。

興津中町にある理源寺さんのサイトを見ると
「寺の裏を沢端川が流れ、その向こうに七面山という山がある。沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、身延の地形に合わせて寺が建立された。江戸時代の初め頃のことで、当地に疫病が流行し、多数の死者が出たので、村の代表者が身延の七面山を信仰して厄を逃れたという縁故からのことである。今でも七面山信仰が厚い由縁である」
とある。

沢端川の両岸は山になっているので、どの山が七面山なのだろうと地図を見たが山の名の記述がない。「興津 七面山」をキーワードに検索してみたものの山を特定する手がかりがない。ウィキペディアによると全国各地に七面山があるようで、ここ興津の七面山もそうであるように静岡県沼津市下香貫にも列挙されない七面山があるらしい。

寺や神社が取り囲むように点在する中心の高みが七面山なのではないかと思う

もう故人になられたが、清水区庵原の友人を訪ねてハイキングをしたら、庵原の低山にもそれぞれ名前があり、土地の人がそう呼ぶことで語り継がれる地図にない名前を知った。名もなき花がないように、名もない山などないのだなぁ、と感心したものだった。

七面山らしき山塊へちょっとだけ登ってみた

わが家の墓がある清水区大内の寺に裏山があり、清水平野の背後に屏風を立てたようになっている。その山頂の一部が鎌倉時代の武将梶原景時終焉の地とされているので梶原山と呼ばれている。山塊全体の名を調べると、扇山や帆掛山の名も見え、一本松が名物だった高みもあり、清水湊から目印とされたはずなので、帆掛山は理にかなった古名かもしれない。

そういう地元の人たちの口から口へと伝えられた『日本裏山辞典』でもあったら便利だろうと、小さな歴史散歩で里山を歩くたびに思う。

裏 山 を 吹 き 降 り て く る 夏 の 息

(2018/07/28)

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◉牛と道草と汽車の旅

2018年7月25日
僕の寄り道――◉牛と道草と汽車の旅


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雑誌の編集会議が静岡であるので帰省した。朝一番でいくつか仕事を片付けたら九時半近くになったので、のんびり小田急線に乗ろうと新宿駅に出たら、折よく快速急行小田原行きが入線して来た。

下り小田急小田原線は渋沢駅を過ぎ、国道 246 号線と川音川に沿って谷あいを進み、東名高速道路をくぐって新松田駅を過ぎ、酒匂川沿いの水田地帯を相模湾岸の小田原めざして南下していく。このあたりの風景が好きだ。何度通っても嬉しくなる。なにか「嬉しくなる」ことを見つけるために旅はあり、旅に大きな括弧をつけて人生もその中に含まれる。

終着の小田原駅目指してゆく電車の窓をいく筋も水が走り、激しい雨が降って来た。雨の小田原駅からは快速アクティ熱海行き、同じホームから東海道線島田行きと乗り換えが都合よくできており、丹那トンネルを抜けたら駿河湾岸は晴れていた。

前回 2018 年 6 月 21 日の帰省『◉興津氏の居館跡を見に行く』の朝は豪雨で、落ち着いて見学できなかった宗徳院あたりをもう一度歩いてみた。中世の駅家(えきか)がそのまま江戸以降の宿場と重なっている場所はとても珍しく、蒲原と並んで興津がそういう場所であり、しかも当地を支配した武士団の居館跡から見下ろせる貴重な場所だからだ。

道草の場所

宗徳院まで歩く道すがら、道草したら思いがけないものを見つけて嬉しくなった。嬉しくなったので、今回の取材とは別に、国会図書館に行くついでに掘り下げて調べてみようと思う。歩けばかならず「嬉しくなる」ものに出会う。

夏 草 も 嬉 し さ の う ち 牛 の 道

(2018/07/25)

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◉興津氏の居館跡を見に行く

2018年6月21日
僕の寄り道――◉興津氏の居館跡を見に行く


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清水区興津本町 363 にある宗徳院のある場所が入江氏を祖とする氏族興津氏の居館跡だというので、『季刊清水』編集会議前に、清水美濃輪町の友人と待ち合わせして歩いてみた。

入江氏の祖と言われる藤原為憲は 939(天慶 2 )年、常陸国で起きた平将門の乱を藤原秀郷に協力して平定し、恩賞として木工寮次官となり、藤原の「藤」と木工の「工」をあわせて「工藤」の姓を興した人。平将門、鎌倉北条氏の祖となる平貞盛とは互いに従兄弟となる。

この為憲の三代あとが入江氏の祖維清(これきよ)、その二代あとの枝分かれに清綱が出て岡部氏、清綱の息子が息津(おきつ)六郎であるという説がある。入江氏から分かれた吉川、船越、矢部、三沢、渋川、興津などの各分家が源家棟梁に直接奉公することで御家人化していく。

狭隘な海辺、それゆえに交通の要衝である興津郷を掌握した興津氏の経済基盤は清見ヶ関の関銭と地元船持を掌握しての海運だった。それゆえに海道を眼下に見渡せる高台の居館が必要だったのではないかと思い、実際その場所に立ってみたら雨だった。

杉並木が視界を遮っているものの、「この場所なら昔は海道によく目配りできたはずだよね」と友人と話した。「ここは何宗ですか」と聞かれたけれど激しい雨で手帳が取り出せない。山梨の天沢寺から出た明光德舜大和尚による開基が 1505(永正 2 )年だから、箱根を越えた北条早雲が相模を平定していた頃にあたる。戦国の時代が始まり、居館ではなく城が必要になったわけだ。当然武田家に縁があるので境内には武田菱が多く見られる。

ここに居館を構えた興津氏が興津川西岸に横山城を構えて居城としたのが延文年間 1356 から 61 年頃。宗徳院開基までにある約 150 年の空白期間、この場所がどうなっていたのかは知らない。数時間後の会議で、編集長に宗徳院の話をしたらよくご存知で曹洞宗だと言う。なんで知っているのかと聞いたら、愛犬の墓があるのだと言う。

雨降りでは町歩きもままならないので早々に切り上げ、編集会議のある静岡駅南口、水の森ビル前に行ってみたもののちょっと早い。傘をさして町歩きしたら「鯖大師」の文字が見え徳雲山崇福寺とある。

鯖大師ってなんだっけと記憶を辿ったら、清水にチャンチャン井戸、興津川上流に黒川の昔話があるように、由比にもやはり似たような民話があり、それを調べて鯖大師の話を知ったのだった。各地に伝わる弘法大師伝承である。

この徳雲山崇福寺は稲川町にあるのだけれど、開基は稲川村を領有していた稲川氏だという。1811(文化8)年、その稲川家の株を庵原出身の漢詩人山梨(稲川)が買い取って長男清臣に継がせ、自身も後見人として稲川村に移住し、字を玄度、名を治憲、号を稲川(とうせん)としたのだという。清水の偉人山梨稲川の名はこの場所から来ている。(2018/06/20)

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◉徳丸

2018年6月3日
僕の寄り道――◉徳丸


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友人夫婦がマンションリフォームのため一ヶ月ほど東武練馬駅近くの戸建て住宅に仮住まいを始めた。面白い町だから遊びに来いと言われ、初めて降り立つ東武練馬駅改札前で待ち合わせた。出かける前に予習ということで地図を見たら東武練馬駅は徳丸ヶ原(とくまるがはら)の丘の上である。

この場所は1991年発行の写真集『あの丘にのぼれば―武蔵野・最後の原風景をゆく』木村松夫写真・文、農山漁村文化協会発行のデザインを担当した際、著者の案内で編集者と共に歩いた場所だった。その時は高島平から丘にのぼったのであり、28年ぶりの再訪になる。

徳丸ヶ原といえば高島秋帆。ここで砲術訓練が行われたのは 1841 年だった。この演習によって高島秋帆は幕府から砲術専門家として重用されるわけだが、鳥居耀蔵の讒訴(ざんそ)によって逮捕・投獄され高島家は断絶となった、ということになっている。

陶芸の登り窯のような銭湯。残念ながら3月31日に廃業されていた

鳥居耀蔵といえば清水。三年前に「鳥居耀蔵と本駒込と清水」と題して日記を書いた。

徳丸らしい崖線沿いの風景

20 年以上四国丸亀藩に幽閉された鳥居耀蔵は、明治になって幽閉を解かれて江戸に戻り、明治 3 年から 2 年ほど清水の草ヶ谷や小島で暮らしている。

夕暮れ迫る旧川越街道

わが家の墓は清水区大内の曹洞宗保蟹寺にあり、帰省すると墓参りをしているけれど、この寺の当代住職は駒込吉祥寺から出ている。駒込吉祥寺には鳥居耀蔵の墓がある。ということで歴史しりとりおしまい。友人が予約した焼き鳥屋で乾杯。(2018/06/02)

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◉村誌町誌

2018年6月2日
僕の寄り道――◉村誌町誌


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国立国会図書館まで『由比町誌』を閲覧に行ったら、コンピュータで読めるようにデジタルライブラリー化されており、検索したパソコンで閲覧請求してすぐ読めるので感心した。

自宅のパソコンで『飯田村誌』を検索したら静岡県立中央図書館でデジタルライブラリー化されていた。こちらは自宅で読める。『庵原郡飯田村誌 巻之12 』は附録なので写真や図解を集めたものだが、これがとても面白い。見覚えのある飯田の風景、その明治大正期を写した写真は見れば見るほど興味深い。

巻末には水彩による飯田村の風景画が折りたたまれて収録されている。刊行が 1913(大正 2)年なので、明治時代末期の写生だろう。山の形は変わらないので、どの辺で描かれたものかがわかりやすい。

静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーには『興津町誌』も公開されている。「家康は古い油で揚げた鯛の天麩羅を食べて死んだ」と子どものころに聞いたが、その罪深い鯛と、同じく家康が愛したという「興津鯛」が別物であることを知ったのは大人になってからだ。

「これですよ!」というように、興津町誌にはアマダイの絵が書き添えられている。アマダイを二枚に開いて中骨をとり一夜干ししたものを「興津鯛」と呼ぶのだと地元の人は言う。(2018/06/02)

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◉皇紀西暦換算

2018年6月1日
僕の寄り道――◉皇紀西暦換算


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戦前に書かれた郷土史の本を読んでいて、地方豪族とはいえ皇族の末裔に筆先が及ぶと、「申すも畏多(おそれおお)き事ながら」と直立不動の姿勢をとったような文章になっている。歴史の本だけにああそういう時代だったのだなという実感がある。安倍氏や高橋氏や庵原氏など郷里で上古から私領を持っていた氏族については「皇族方が國造(くにのみやつこ)となり此の地に住し給うた」という表現になっている。

『相模新風土記』の鶴岡文書に「入江庄長崎楠木の地神領(じじんりょう?)」という記述があるそうで、鎌倉時代に長崎と楠木の二村が鶴岡八幡宮の神社田だったことがわかる。で、その文書が書かれた年が正應六年(一九四三)と書かれていて驚いてしまう。西暦ではなく皇紀で書かれているのだ。一瞬西暦か、そんなはずはないと驚いてから、皇紀がでてくるたびに換算しなくてはならない。

神武天皇即位を紀元前 660 年として、皇紀 1943 年から 660 年を引けばいいわけだが、1943年から 660年を引いた 1283 年は弘安 8年になってしまう。正しくは「正應六年(一九五三」)が正しい。正應六年は皇紀 1953年、西暦 1293 年である。昔の人もややこしくて計算間違い、書き間違い、校正漏れを犯しているのだろう。まことに畏れ多いことである。(2018/06/01)

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◉貸し借りあれこれ

2018年5月31日
僕の寄り道――◉貸し借りあれこれ


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この春、田端西台通りの道路拡幅工事現場が遺跡発掘中で、奈良から平安時代にかけての住居跡が見つかっていた。見つかった住居跡は縦穴式の民家で、火災によって地中に取り残されたいわば事故物件であり、事故当時の状況が保存されたタイムカプセルになっているという。

面白いのは、そこから鍬と鋤の刃先が見つかったことで、鉄器を首長が一括管理して統治していたという従来の説を覆す可能性があるという。当時は鉄が貴重だったので、農具は木製で刃先にだけ鉄が取り付けられていた。そういう簡素な農具でさえ首長から貸与され、農民が自前の農具を持てない時代だったとされている。

民俗学者宮本常一によると、新潟県蒲原平野地方には貸鍬(かしくわ)の制度があったという。貸主は鍛冶屋で、農民は鍬を借りて農作業を行い、秋の収穫を終えると鍛冶屋は鍬一丁に対して米一升から二升を取り立てたという。山形県庄内地方には貸鍬以外に貸鎌や貸鋤の制度もあった。

能登半島では揚げ浜による製塩用の貸釜制度もあり、一石焚きの釜の貸料は年米一石だったという。貸主の鋳物師は持っている釜の数だけ所得があるわけで資本家化し、実際に鋳物を鋳造する職人を大工といった。鋳物は冬に鋳られるので夏場は仕事がなく、鋳物の大工たちは東京に出稼ぎして左官をしたという。

郷土史の編集会議で帰省し、郷里の鳶職は東京でも有名だったと言ったら、郷里で有名なのは塗装職人としてだったはずだという。

どこでどう憶え違えたのかと気になっていたら、マンション管理組合の理事長を押し付けられてしまい、大規模修繕の業者を呼んで面接をした。驚いたことに彼らの多くはもともと海辺の塗装会社だった。船や港湾施設の塗装工事をするために高度な足場を組める技能者だったからだ。

能登の鋳物大工がどうして出稼ぎ先の東京では左官職人だったのだろうと思って、そんなことを思い出した。泥や砂やコテを使って鋳型を作るのがお手のものだったからだ。

はて、壊れやすい農機具で、自前の道具を持つことと有償貸与方式を比べて当時の農民はどっちが得だったか、米による支払いが経済の根幹だったから長いこと日本は年末一括払いの掛け売り方式だったのか、資本家というのはそういう貸し借りから生まれるのか、貸借経済が町という仕組みを発生させたのか……などなどあれこれ思うところが多い散歩である。(2018/05/31)

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◉中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫

2018年5月26日
僕の寄り道――◉中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫


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 恩師であり仲人でもある中学社会科の先生にはずいぶんご無沙汰している。お訪ねするたびに危なっかしい運転で駅まで送ってやるというのを断るのに四苦八苦し、免許証を返納されたと聞いて安心したら、最近は
「編集会議前にちょっと寄るんじゃなくて、編集会議後に寄って泊まっていけ」
などとおっしゃり、言い出したら人の言うことをお聞きにならないので、ついつい足が遠のいている。

そういう年老いた恩師を訪ねて郷土史の話をし、
「えーーっと承久の乱だから……」
と恩師が言葉に詰まられ、
「えーーい、くそっ、うん、そうだ、鎌倉時代の 1221 年!、そのあたりだ」
などと正解を絞り出されるのを見ていると、教師というのは大したものだなあ、こういう膨大な知識をもとに生徒を指導しておられたのだなぁと感心してしまう。

感心しながらいたたまれないのが、なかなか記憶の引き出せない恩師を補うように、先回りして合いの手を入れると、
「おーー、お前はよく勉強してる、よくそんなことを知っているなぁ!」
と驚かれることだ。ワープロが精一杯、パソコンはさわれなくて、インターネットもメールも使えない恩師に比べ、こちらは知りたいことがあればインターネットで答えを見つけられてしまうのだ。調べやすかっただけで勉強の質が違う。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

そんなわけで、最近はインターネットで調べられないことを見つけて国会図書館に行くのが楽しいし、昔の地味な本こそ読んで面白いし、インターネットに載っていないような事柄をコツコツ調べられたお年寄りの書かれたものが楽しい。

郷里静岡の小島藩は二万石以下の小藩で築城が許されず陣屋を構えていた。移封され上総国金ヶ崎藩、のちに櫻井藩に改称、櫻井県となったのち合併して木更津県となった。

中村泰著『上総一宮加納藩の歴史』橘樟文庫、発行福祉新聞社という本作りの手伝いをして完成本が送られて来た。同様に、小藩ゆえ陣屋しか構えられなかった一宮藩は廃藩となって一宮県となり、木更津県を経て立派に千葉県となった。最後の藩主加納久宜の子、加納久朗は千葉県知事まで務めている。木更津県を経ることにより小島藩とともに千葉県の母体となったわけだ。

雑誌『季刊清水』編集長に献本したが、そうだ、ご機嫌伺いを兼ねて恩師にも送ろう。(2018/05/26)

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◉魚の話あれこれ

2018年5月25日
僕の寄り道――◉魚の話あれこれ


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ひどく幼い頃だから昭和三十年代始めころ、巴川でいとこたちと川遊びしたことがある。堀込橋上流は幼児でも背が立つほど浅く、水が透き通って川底の小石が手に取るように見えた。足を突かれ、怖くて泣きべそをかくほど様々な生き物で満ち満ちていた。

昭和初年から終戦までの郷土について書かれた市史を読むと、当時巴川で獲れた魚としてウナギ、フナ、コイ、ボラ(イナ)、ハゼ、エビ、ハヤ、ウグイ、セイゴなどの名前が挙げられている。関東ではハヤとウグイは同じ魚をいうので、ハヤ、ウグイのどちらかは関東でヤマベやオイカワにあたる魚を指しているのではないかと思う。小学生時代は支流の塩田川でよくヤマベをとった。

九十歳を過ぎ、かつて渋川でウナギの稚魚をとった頃をご存知の方がいるというので、女性編集委員のお供をして訪ねてみたいと思っている。戸籍を取り寄せてみると、わが祖父重太郎の父親は國太郎といい、江戸時代の平民なので居住地を冠して「渋川の國太郎」と呼ばれていた。おじいちゃんである渋川の國太郎は何をしていたのかと叔父に聞いたら川魚漁師だったという。

戦時中も川魚漁が盛んだったらしいが、清水市が勝手に静岡市の汚水巴川放出を承認したので漁民が反発し、巴川漁協設立の動きもあると記録に見える。巴川下流域の製紙工場から出る汚水も問題となり、折戸湾では海苔や牡蠣の養殖に問題が出ている。

清水区万世町にて。

市史編纂担当編集委員の聞き間違いか、清水湾でクロダイ釣りが盛んだがクロダイは悪食(あくじき)なので泥団子やスイカの皮でも釣れると書かれている。

清水湾では今でもクロダイ(チヌ)のダンゴ釣りが盛んだが、米ぬかに様々な工夫を加えており、ただの泥団子で釣っているわけではないと思う。団子は針につけた餌が沈んでゆく途中で他の魚に奪われないよう保護する工夫なのだけれど、物資の乏しい戦時中は本当に泥団子だったのかもしれない。針にはアミやエビなどの餌をつけて団子で包むが、やはり戦時中はスイカの皮で疑似餌をつくる工夫があったのかもしれない。

ただクロダイは悪食なので泥団子でもスイカの皮でも釣れるというのは、ちょっと違うのではないかと妙におかしい。(2018年5月25日)

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◉松原入口と和田英作

2018年5月24日
僕の寄り道――◉松原入口と和田英作


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高校時代はよく三保松原入口まで歩いてから清水駅行きバスに乗った。たしかバス停前に商店があり、そこで漫画や成人向け雑誌を買い、友人たちと車内で回し読みしたものだった。

県道 199 号線三保松原入口交差点から折れて松原へと向かう道は、当時ずいぶん細い道だったように覚えているが、最近拡幅されたようで見違えるほど道路も空も広くなった。

洋画家和田英作(わだ えいさく)が静岡県清水市三保に移り住んだのは 1951 年 8 月で、1959 年 1 月 に亡くなるまでこの地に住んでいた。

広くなった松原入口の道沿いに和田英作邸跡の案内板があり、まさかこの場所とは知らなかったのでちょっと驚いた。道は和田邸の反対側に拡幅されたのだろう。

写真も文学も音楽も「制作者の人間が好きだからその人の作品が好き」ということがない。創作の対象や、結果としての作品について好き嫌いがあるだけだ。有名無名は関係ないし、人柄など知りようがないし、たとえ作者が死刑囚だと聞かされたとしても作品の評価は変わらない。とくに絵画作品についてはそういう接し方が多い。

和田英作の作品を見て好きな作品はほとんどないけれど、戦時中、愛知県知立市に疎開していた時に描いた『夏雲』(佐野美術館蔵)は何度見てもいいなぁと思う。作品を見て作者が好きになるということはある。

こういう景色が好きだったのなら、おそらく三保松原入口で没して本望だったろうと思う。和田邸があったあたりはかつて宮方という地名だったらしい。(2018/05/24)

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◉瀬織戸と折戸

2018年5月23日
僕の寄り道――◉瀬織戸と折戸


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 2009 年 11 月 10 日に「折戸でござる」と題して日記を書いた。「折戸でござる」はかつての NHK で放送されていた公開歴史バラエティ「お江戸でござる」を、次郎長通りの魚屋がもじって言った駄洒落の盗用である。

かつて三保は海によって隔てられた島だった、と「瀬織戸(せおりど)の渡し跡の案内板に書かれている。他所で削りとられた土砂が海流で運ばれて堆積し、三保半島がつくられる過程で、なぜかこの場所で陸続きにならなかった何らかの物理的作用があったのだろう。

陸続きになった後も、この瀬織戸の沖は魚が集まる良い漁場なのだそうで、網の入れ方などをめぐって漁師の争いが絶えなかったらしい。瀬織戸神社境内の松は樹齢 400 年以上というけれど、漁師たちのよい目印でもあったらしい。

昭和 5 年 12 月 20 日にわが母は西伊豆土肥(とい)で生まれた。そのひと月前、昭和 5 年 11 月 26 日にマグニチュード 7 の「北伊豆地震」があった。工事中だった丹那トンネル内で断層が動き、2.7 メートルのズレが生じたあの地震である。

県内で 259 人の死者を出したその地震は 26 日の午前 4 時 3 分に発生した。その翌日 27 日午後から折戸湾内にイワシの大群が押し寄せ、清水で 30 艘、興津で 5 艘分の漁獲があったと記録にある。

さらにその翌日も異常な豊漁が続き、海岸にはイワシの山ができたという。山になるほどとらなくてもいいではないかと思うけれど、地震前は不漁続きだったそうで、ずいぶんと漁民を喜ばせたらしい。不漁も大漁も、地殻変動が影響しているかもしれない。(2018/05/23)

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◉土俵

2018年5月22日
僕の寄り道――◉土俵


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現在の三保街道、県道 199 号線、折戸三保真崎線が竣工したのはいつだったのかという興味で、昭和初年頃からの『清水市史』吉川弘文館を読み始め、昭和 9 年に着工予定というところまで読んだあたりから戦局に暗雲が垂れこめ、いよいよ昭和 16 年には英米と戦端を開いて破局へと突き進んでいく。

1940(昭和15)年、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)一行が清水市訪問、栄寿座でベルリンオリンピック記録映画『民族の祭典』上映、などの話題を織り込みながら『清水市史』は数十ページの戦時記録が続く。折戸三保真崎線が竣工したのかしないのかなどの記述はみあたらない。

ただ昭和 14 年あたりで、売れなかった清水港埋立地が完売し、清静工業用水道計画が加速し、日本軽金属清水工場建設の地鎮祭が行われ、上水道を三保まで延長する工事が進み、清水港の追加埋め立て分譲計画がスタートし、市長が静岡鉄道の延伸三保本村乗り入れを要請したりしているので、この辺りで道も竣工したのかもしれない。

御穂神社から羽衣の松方向へ伸びる神の道を通り、境内裏手に回ったら土俵があって、忘れていたことを思い出した。旧清水市の巴川右岸には土俵のある神社が多く、昔から相撲が盛んで、現在も祭礼に相撲が欠かせない地域が多い。巴川左岸には土俵を見ないと言ったら、御穂神社にはあると教えてもらったことがある。あれがこれだったのかと思う。

巴川右岸は長尾川から東、興津川を越えて阿曽あたりまで、土地は荘園として伊勢神宮に寄進され高部御厨(たかべのみくり)だった。それゆえ吉川氏の祖となった入江氏は駿河守となっても巴川右岸に手が出せず、有度側の左岸を拓かなくてはならなかった。

土俵のある神社分布もそれに関係あると思うのだけれど「(なんだ三保にもあるのか)」と思ったのを思い出した。(2018/05/22)

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◉日本史と市史

2018年5月21日
僕の寄り道――◉日本史と市史


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2018 年 5 月 19 日の日記で折戸の柴田家について書き、その中で「柴田家が建てられた時代に現在の三保街道、県道 199 号線などなかった」と書いた。それでは県道 199 号線はいつできたのだろうと思って、昭和初年頃からの『清水市史』吉川弘文館を読んでいる。

内閣認可済み「昭和 2 年決定の都市計画街路網』を見ると、折戸から真崎までの「折戸三保真崎線」は地図で「II・I・10」と番号が振られ「2 番大路・第 1 類・10 号線」ということになっている。幅員は 10.5 間で昭和 3 年度施行予定とある。

世界大恐慌(1929-33)の最中であり、日本も昭和恐慌の真っ只中で、清水はさらに風土病的に金欠だった。それでもこの大不況の中で数々の大工事が行われている。

不況による失業者対策とも言われるし、昭和 3 年の御大典に合わせるためというのもあるし、昭和 5 年の天皇行幸に間に合わせたいという思惑もあるし、欠食児童すら急増する中で権力者と欲望家の「なんたらミクス」的なばら撒き事業でもあった。

昭和一桁の時代に、こんなこともあんなことも郷里で起こっていたのかというメモを、一回り大きい日本史の中にメモして流れを掴むため、格好の書籍を近所の書店で見つけたので買ってみた。

石黒拡親(いしぐろひろちか)という予備校講師が書かれた『2時間でおさらいできる 日本史』大和書房で、文庫本なのでポケットに入るメモ帳にちょうどいい。市史を大日本史に書き込むためのメモ帳として、これこそ求めていたものである。とてもいい。

折戸三保真崎線のほうは財源不足で手がつかず、昭和 9 年に着工予定というところまで市史を読み進めてきたきた。まだ本当に着工して竣工がいつになるかはわからない。このあと静岡地震もあるし、戦局も暗雲垂れ込めてきた。(2018/05/21)


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◉柴田家と三保街道

2018年5月19日
僕の寄り道――◉柴田家と三保街道


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『季刊清水』41号(2008)「特集1清水湊を遠望する」の中で、遠藤章二さんが「廻船問屋柴田屋の成立と折戸村の醤油醸造所」として書かれた、あの柴田家の建物が現存するのでお願いをして見せていただいた。

詳細は本年末に発売される『季刊清水』51号(2018)に五味響子さんが詳しく書かれる予定なので余談をメモしておく。

清水区折戸、国道150号線が駒越東町で県道199号線と分岐する三叉路近くに柴田家は存在するのだけれどどうも記憶がない。そんな立派な旧家があの騒々しい交差点辺りにあっただろうかと訝しみつつ歩き、天野回漕店のトラック・ヤード奥をのぞいたらそれはあった。

玄関を開けていただいて中に入り、まっすぐ土間を突き抜けた突き当たりの引き戸を開けると、その先に荒れ果てた庭と長屋門があり、右手にちょっとした広場があって、作り付けの坂を登ると瀬織戸神社前の小道に出る。

「ああ、そうか!」
と思う。

柴田家が建てられた時代に現在の三保街道、県道199号線などなかったのであり、瀬織戸神社前の古道が三保街道だったのである。遠藤さんの記事にある柴田家古図にもそれがちゃんと描かれている。

「十」が現存する母屋、「七」が長屋門、人力車夫が車を引いているのが旧三保街道で、取り付けスロープを降りようとしている。

柴田家の裏手、県道199号線が通っているあたりは田畑で、その先は折戸湾になっている。
幼い頃だから昭和30年代、明治生まれの祖父に連れられて折戸在住の伯母を訪ねた。祖父は孫を連れて県道を歩く気にならなかったようで、駒越から旧三保街道を歩いたのだけれど、柴田家はおろか瀬織戸神社に参った記憶もない。

その頃書いた作文がまだ残っているので読み返してみると意外なことが書いてある。
100歳めざしていまも健在な伯母の家は折戸4丁目にあり、旧柴田家前から旧三保街道を歩き、東海大学海洋学部入り口を過ぎたちょっと先にある。その道すがら、祖父が道の脇にある畑の作物を指差し、あの葉っぱはなんだかわかるかと聞き、わからないと答えたら、あれは煙草の葉っぱだと言う。

あの煙の素が畑で作られていることによほど驚いたらしくて、東京に戻ってから夏休みの作文に書いていた。その当時はこの辺も畑が多かったわけで、清水南高もまだない。(2018/05/19)


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山で暮らす――薩埵山合戦補遺

2017年12月27日
僕の寄り道――山で暮らす――薩埵山合戦補遺


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『季刊清水』読者からメールで問い合わせをいただき、49ページ下段にある「延宝8年(1680)」と薩埵山合戦の関係について疑問を持たれたらしい。原文は以下の通り。

「延宝8年(1680)、薩埵山合戦に敗れて下野に帰れなくなり、武士を捨てこの地にとどまって帰農した佐野氏が拓いた集落だといわれ、住人は佐野さんが多いらしい。」

この件について次のようなお返事を編集長を通じて伝えていただいた。

「この延宝8年(1680)は薩埵山合戦(正平6年(1351))にかかるのではなく読点を打つことで、手島日真さんが大代集落にある墓を調べて刻まれた『延宝8年(1680)』の存在を確かめられたことを踏まえ、 “大代(大城)集落は少なくとも延宝8年(1680)年には拓かれた(拓かれていた)と由比町報の記録から採り、『延宝8年(1680)に佐野氏が拓いたと集落』すなわち『集落として延宝8年(1680)には大代(大城)があったことが資料からわかっている』という意味で書きました。ややこしくなってしまいました。これと同様の記述は52ページ槍野(うつぎの)についての『この地域に入って根を下ろした人たちがどこから来られたのか確かなことはわからないけれど、天文14年(1545)にはすでに5、6戸の人家があったと資料にある』という表現と同じで、こちらの方がわかりやすいですね。文章が拙いので疑問を抱かせてしまい申し訳ありません。ご容赦ください」

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以下、由比の山間部を歩きながら考えたことです。
日本各地に落人の隠れ里伝説が伝わる集落がある。いくさに敗れて落ち延びた武士が山奥でひっそり身を寄せ合って暮らしたという話で、由比にも信濃国佐久郡望月から落ち延びた望月氏、下野国安蘇郡佐野から出て薩埵山合戦に敗れそのまま帰農したという佐野氏の伝説が伝わる。

大代(大城)集落にて

それが事実として、落ち延びて根を下ろした先が現在子孫とされる人々が暮らすこの場所なのだろうか。民俗学で山の暮らしについて書かれた本を手当たり次第に読んでみたけれど、隠れ住むことによる苦労は並大抵のことではない。おそらく隠れ住んだ人々は、土地を耕し広げ、子孫を増やし、時の流れとともに過去の因縁から逃れ、日の当たる明るい場所へと居を移して行ったのではないかと思うのだ。

薩埵山合戦の戦場となったとも伝わる桜野集落にて

だから各地の落人伝説を訪ねても、集落の佇まいが、自然とともに暮らす天国のように見えてしまうことが多い。こうなるまで、歴史とともに忘れられたご先祖たちの苦労は、もっと日の当たらない谷間に埋れているのではないかと思えてならないのだ。

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