昨日今日明日

昨日今日明日
2014年9月30日(火)

00
なんと iOS 8 の日本語入力で「きょう」と打って「2014年9月30日」と変換できるようになっていた。「きのう」「きょう」「あす」と打ってあれこれ自在な書式による日付入力ができる。

01
これができるようになれば、わざわざ iPhone の ATOK Pad で日記を書く必要もないのでたいへんうれしい。「今日は何日だっけ」と考えずにすむために ATOK Pad を使っていたという事もある。

02
ATOK を使う理由のもう一つにカタカナ英語のアルファベット変換があったが、alphabet と iOS 8 のことえりはちゃんと変換する。synchronize とか interchange とか大概の言葉の spelling を知っている。

03
Macintosh と iOS 端末の日本語変換ユーザー辞書シンクロナイズができる ATOK Sync の機能も、使い続けるため毎年バージョンアップ料という年貢を払わされるのに嫌気がさしていたところなので、MacOS Yosemite のことえりもこうなるなら、ことえりに本気で移行しようと思い始めた。ちゃんと iCloud で辞書が同期するし。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

顔の覚え方

2014年9月29日(月)
顔の覚え方

00
子どもの頃から人の顔を覚えるのが苦手で、家が商売をしているというのに客の顔を覚えないとは何事だ、誰のおかげでご飯が食べられている、と母親からよく叱られていた。

01
学校で制服姿ならちゃんと名前を覚えて挨拶もできるのだけれど、街で私服姿の同級生に出会うと、誰であるかを思い出すのにも苦労した。

02
近所の商店街に買い物に出たら、よく見る男性が自転車を漕いで通り過ぎ、どこかの店頭でよく見かけるのだけれど店の商売が思い出せない。

03
八百屋じゃない、酒屋じゃない、パン屋でもないと首をかしげつつ歩いていたら、糠漬けの美味しい食料品店前まで来たところで「あ、この店で漬物を売っている息子だ」と思い出した。

04
たぶん顔だけでなく服装や暮らしぶりなどの特徴を関連づけながら人を覚えるので、服や場所が変わってしまうと、顔だけでは思い出せなくなるのだろう。

05
「この前、道ですれ違って挨拶したけど無視されちゃいました」
などと笑って言われることが多く、そういう無礼を盛大にやらかしながら生きているのだろう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

知りませんでしたの未来

2014年9月28日(日)
知りませんでしたの未来

00
些細なことであっても知らない事に出会うのは楽しい。節目年齢を過ぎたら隠居的な生き方をしたいと思っていたけれど、実際そういう年齢になってみたらうまくできたもので、自分を抑制してまでする無益な上昇志向がなくなった。上昇志向のない無益な知識探求は楽しく、そういう楽しみに生きることを隠居というのだろう。

01
常に現在のみを対象とする仏教の考え方に立てば、未来は運命として既に存在してこちらにやって来るものではなく、未だ来たらぬ今だから未来という。今の自分にとって既知であるものは過去であり、既知のことを思いだしてばかりいると心の健康によくない。未知であるものは未来なので、知らない事を知るというのは未来に出会って今を生きることになる。

02
加藤秀俊さんの本★1を読んでいたら、蕎麦粉はフランス語で farine de sarrasin(ファリン・ド・サラザン)といい「サラセンの粉」なので蕎麦はサラザンらしい(加藤さんはサラゼンと書いている)。あのサラセン帝国の方からやって来る商人が持ち込んだのでサラザンなのかと驚いた。驚いたついでに、世界史で習ったサラセン帝国という名も、ヨーロッパ中心主義的な言葉だということで、最近はほとんど使われないと知ってさらに驚いた。

03
週末の特養ホーム訪問帰り、さいたまのスーパーマーケットに寄ったら、鮮魚売り場のアサリにこんな札がつけられていた。パック詰めされたアサリに家庭でも砂抜きをするよう注意書きがあるのをよく見るけれど、ある程度までしか砂抜きせずに売られる理由は鮮度保持のためと知って、驚いて、嬉しい。「知りませんでした」には未来を引き寄せる力がある。

★1 加藤秀俊「隠居学」講談社

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

赤のある風景

2014年9月26日(金)
赤のある風景

00
夏の盛りの日なたに咲く赤いカンナは、焼けついた台地が地上に点じる赤い炎のように見える。幼児期に体験した水辺の夏が、そういう燃え上がる生気としての感じ方に関連しているかもしれない。

01
朝夕や日陰の涼しさが秋の訪れを感じさせる頃、風景の中に見つける赤は警戒色としてのはたらきを強く感じる。トラックの荷台から飛び出た荷物の先に、注意を促すため結わえ付けられた赤い布も、やはりそういう効果を持っている。

02
赤は鉄の味がする。秋の風景に突然現れたように見える赤は、口の中を傷つけた時に舌が感じる鉄の味に似て、ふと死を連想させる小さな痛みである。雨上がりの六義園内を散歩したら、水辺にあるハゼノキが赤くなり始め、赤い実を落とす木の下に、赤い彼岸花が咲いていた。小さな秋を見つける感慨は、冬を連想する心の疼きを伴う。

03
学生時代の授業で色彩心理学の本を読んだ。Wikipediaの記事に赤は食欲や性欲を誘う色である(要出典)と書かれており、例として赤提灯が挙げられていて笑った。赤提灯が食欲を誘うか否かは人それぞれだと思うけれど、この中に生きた人間がいますというサインにはなっていて、遠くにポツンと見える赤提灯はこれからの季節、人恋しい気持ちを誘う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

風呂やトイレで時計合わせ

2014年9月25日(木)
風呂やトイレで時計合わせ

00
ガス給湯器とか、おしり洗浄機能つきトイレとか、液晶表示パネルつきの機器に時計が内蔵されるようになった。入浴中や排泄中にいま何時かわかるのは意外に便利で、いろいろなものに時計が表示されるおまけはうれしい。

01
ただひとつ困るのは、標準電波受信とかネット時刻合わせとかの機能がない簡便な仕組みの時計は時刻がよく狂う。たしかこの時計は5分くらい進んでいるはずだからNHK朝ドラを見るならもうちょっと長湯できるなとか、朝湯を使いながら人間の認識のほうを調整したりする。

02
数分の狂いならそうやって騙しだまし利用しているのだけれど、10分以上の狂いになると一瞬ドキッとしたりすることもあって精神衛生上よろしくない。精神衛生上よろしくない許容限度を超えると、正確な時刻表示をするスマフォ片手にそれぞれの機器を修正している。

03
おもしろいことに、こういう機器の時計は進むことはあっても遅れることがないように思われる。ユーザーに不都合な事故が生じるのは時刻の遅れの方が多そうな気もするので、狂うことを前提にして、多少進み気味に調整されているように思うのだけれど真偽のほどはわからない。

04
前回ユーザーが時刻合わせした日時と修正量を記録して計算し、何度か時刻合わせするうちに、機器が置かれた温度環境にあわせてアバウトな速度調整するしくみはどうだろう。機械式時計を職人さんが調整するようなゆるい仕組みは、簡単にできてとてもフレンドリーな気がする。ゆるくて和みのある商品開発は風呂やトイレに相応しいのではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

折りたたみ傘と子育て

2014年9月24日(水)
折りたたみ傘と子育て

00
子どもの頃は折りたたみ傘をたたむのが面倒で嫌いだった。面倒なのでくしゃくしゃに丸めて傘袋に突っ込んでおくと母親にひどく叱られた。

01
「あんたは何でも物を粗末にして、物のありがたみを知らない」
とこごとを言いながらきれいにたたんでくれ、そういう折りたたみ傘を思い出すと面倒くささが苦にならないので、いまでは傘をたたむのが嫌いではないし、ビシッとたたまれた折りたたみ傘を見ると気持ちがいい。

02
気持ちがいいので、妻がほったらかしにした折りたたみ傘をたたんでおくと、
「あ、ありがとう」
などと言われるのでさらに気持ちがいい。


03
さらに気持ちがいいので、じょうずにたたまれていないアサガオやヒルガオを見ると手伝ってやりたくなる。折りたたみ傘はやさしい子どもを育てる(ほんとかなぁ)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

カレー南蛮百連発:044 北区田端新町の瀧乃家

2014年9月23日(火)
カレー南蛮百連発:044 北区田端新町の瀧乃家

00
買い物を兼ねてふらりと散歩に出たら田端新町一丁目に瀧乃家という蕎麦屋があった。瀧乃家は駒込駅前にもあってカレー南蛮やカレー丼がなかなか美味しいが、総本店が 荒川区東尾久四丁目だと聞く。あの瀧乃家と同じところから出た店かもしれない。

01
カレー南蛮を頼んだらきょうびのカレー南蛮にありがちな色合いをしたのが出てきた。タマネギなので難波葱にルーツがあるという南蛮イコール難波説とは縁のない東京風カレー南蛮。…と思いきやタマネギなのに肉は豚肉ではなくかしわ肉で、「これはポイントになりますね」などと、採点などする気もないのに荒川静香風に喜んでしまう。

02
あとは微塵の甘味もないのが好印象で、こういうカレー南蛮は胃もたれせず、かえってだんだん弾みが付いてつゆまで一滴残らず飲み干してしまったりする。わざわざ遠くから食べに来るようなカレー南蛮ではないけれど、近所にいたら時々食べたくなるようなやさしいカレー南蛮だった。

03
ポケットにタバコを突っ込んだ作業着姿の客が多いせいか、会計をしたらレジ脇に珍しくマッチが置いてあり、この蕎麦屋のある通りが「むつみ通り商店街」という名であることがわかった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

水平線が弧を描いて見えるのは、地球が丸いからではない

2014年9月23日(火)
水平線が弧を描いて見えるのは、地球が丸いからではない

00 
水平線が弧を描いて見えるのは地球が丸いからではない。単に脳が弧を描いているように見せているだけである。 

01 
ということではないか、と気づいたのは高校写真部部活の時で、歪曲収差のない 21mm 広角レンズが写す画像の不思議さに首をかしげたのがきっかけだった。 

02
横に長い建物とか、鉄道の高架とかを正面に立って眺めるとき、そういう平行なものが、広角レンズで撮ったように平行に見えるか、あるいは魚眼レンズで撮ったように両端がすぼまって見えるか、そう聞くと人それぞれ答えが割れるのだ。

03
原理的に平行なものが平行に見える、平行ではあるけれどの中心から遠ざかる両端はすぼまって見える、そのどちらも理屈では正しいのだ。魚眼レンズが映す像が歪んでいるのではなく、魚眼レンズも広角レンズも歪んだ人間の知覚にあわせて補正してあるのだ。

04
理屈ではどちらも正しい二つの異なった見え方をする人がいる。地球が丸いので水平線は弧を描いて見えると言われるけれど、ちっとも弧を描いているように見えない人もいる、それは脳の仕業だからだということがうまく説明できない。

05
高校の部活で後輩たちに、広角レンズと魚眼レンズが設計の仕方の違いで、同じ平行なものを撮っても、理論的にそれぞれ正しい、違う写り方をするのに似ている、と説明したのだけれどうまくいかなかった。そういう説明からでも詰められそうな将棋に思えるけれど手数(てかず)が多すぎる。

06
そのことを久しぶりに思い出し、ネット検索したら、水平線の見え方について少ない手数でうまく説明している人★1がいて感心した。横に寝ころんで水平線を見る、水平線に直定規状のものをあてがってみる、というまっすぐな攻め手に唸った。


★1 →地球岬

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

七社と無量寺と神明宮と不動院

2014年9月22日(月)
七社と無量寺と神明宮と不動院


00
昼休みに小一時間の散歩をし、旧古河庭園近くの坂道を本郷通りに向かって登っていたら、七社神社祭礼の提灯が飾られていた。北区西ヶ原二丁目にある七社神社は、かつて西ヶ原一丁目にある無量寺の境内にあった。明治初年の神仏分離によって現在地に移されたわけだが、現在地に七社が移ってきた場所は樹齢千年以上といわれる巨大杉がそそりたつ神明宮だった。

01
江戸名所図会に無量寺の絵が残されており、高台には確かに移転前の七社が描かれている。ということは七社神社はかつて旧古河庭園内にあったのだなと思い、国土地理院所蔵の明治初年東京地図を見たら、無量寺もまた現在地とは違う場所にあるので驚いた。

02
ということは明治の神仏分離により、七社はこの地図にある神明宮の場所に移転し、無量寺は不動院の場所に移動したことになるわけだ。区の観光ページその他をネット検索しても、七社の移転について書かれてはいても、無量寺の移転について記述がないのが不思議だ。

03
どういうことだろうと一日考えていて不意に思い出したのだけれど、2013年05月29日に【近くへ行きたい】不動院から滝不動までという日記を書いた。そのときにも、一瞬ヘンだなと思ったのだ。実は西ヶ原三丁目の不動院と西ヶ原一丁目の無量寺、その名前が地図上の間違いで入れ替わっているのだと思う。ようやくすっきりした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

蔓の巻き方

2014年9月20日(土)
蔓の巻き方

00
蔓の巻き方というのは面白い。面白いというのは、ややこしさを気軽に楽しめるということでもある。ややこしさを言い表すために、右巻きと左巻き以外に、Z巻きとS巻き、Z撚りとS撚り、右ねじと左ねじなどという言葉があるのも、気軽なのでややこしさがただ微笑ましい。

01
そういえばパーキンソン病だった元薬剤師の義父と、ドーパミンの前駆体であるエルドパの話をしていたら、左旋性と右旋性の講義を受けることになってしまったことも懐かしく、あれもまた右巻きと左巻きに関連した話だった。

02
蔓の巻き方というのは面白い。面白いというのは、ややこしさを気軽に楽しめるということでもあるので、他人が丹精している植物が天才を発揮して、見事な蔓を勝手に巻いていく姿を見ていると見飽きるということがない…という話に戻って文章もまた一回転。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

サークルゲーム

2014年9月20日(土)
サークルゲーム

00
季節がめぐって一巡したなと小さな気づきがあるたびに、バフィー・セントメリーが歌ったサークルゲームという曲を思い出す。人は季節の回転木馬に乗せられて、くるくると回るうちに歳をとっていく。

01
最寄りの駒込駅から自宅に帰る見慣れた歩道沿いにも、ペンキで華やかに化粧された木馬に乗せられ、上下に揺られながら回転している者だけにわかる、年周期で巡りくる光景がある。

02
歩道沿いに植えられた薔薇がまた蕾をつけ、ちょうど見頃になっていたので写真に撮った。四季咲きのバラなのか、毎年この季節になると咲くような気がするし、ひょっとすると感傷的な勘違いかもしれない。

03
歩道に向いたカウンターに腰掛けた喫茶店の客が、ガラス窓越しにこちらを見ている。回転木馬に乗って回ってくる幼児には、笑顔に混じって泣きべそをかいた顔もあり、自分はそういう後者の子どもだった。

04
回転木馬は世界のいないいないばぁ遊びであり、感慨深げにありふれた風景を撮る人は、たいがい心の中で泣きべそをかいている。そして通りすがりの人から見れば、何をしているのかわからない不審でヘンな人なのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

東京外国語大学跡地のオオモクゲンジ[追記]

2014年9月19日(金)
東京外国語大学跡地のオオモクゲンジ

00
染井霊園内にあるボダイジュが今年も見事なヘリコプターで種を飛ばす季節になった。植物が種を飛ばす方法に感動してオオモクゲンジを知り、本郷の東大構内にあると知って見に行ったのが10年前★1のことで、ふと思いだして見に行ったのが一昨日★2のことだ。

01
昼休みの散歩に出て祭礼準備中の西ヶ原七社神社に立ち寄り、帰りに買い物をしながら東京外国語大学跡地「西ヶ原みんなの公園」脇を通ったら、防火樹林帯の中にある大きな木が二本、黄色い花を盛大に散らせており、一目見てオオモクゲンジだったのでびっくりした。

02
東大構内にあるものよりさらに大きいので、東京外国語大学移転前から構内にあったのではないだろうか。1974(昭和49)年からこの辺りにすんでいたけれど、この季節に黄色い花をつけるオオモクゲンジがあることにはまったく気づかなかった。

03
パラグライダーのように種子を散布する面白い植物が、歩いて行ける距離にまたひとつあることがわかったので、カメラ片手に散歩する楽しみが増えた。

追記:

オオモクゲンジが種を飛ばす季節になった。数珠玉として使うというだけあって種を手に取ってみると驚くほど硬い。写真は2014年10月30日の正午過ぎ。


★1 もう一度オオモクゲンジ
★2 もういちどオオモクゲンジ

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

犬の散歩

2014年9月19日(金)
犬の散歩

00
机に座っていればできる仕事が多くなり、座って寝て食べて飲んでいるだけだと絶対的に運動量が少ない。運動してしかも食べる量を減らしていた頃がいちばん健康的だった気がするので、昼休みは外に出て散歩をし、昼食抜きの生活習慣をめざしてみる。

01
今日はどっちに歩いてみようかと道順を思い浮かべると、道沿いで食べられる昼食ばかりが思いついて煩悩の虜になってしまう。静岡県清水でビーグル犬を飼っていた叔父は、毎朝の散歩で晴れ渡った空にひときわ美しい富士山を見ると、立ち止まって
「下ばかり向いて拾い食いのことばかり考えるな、顔を上げて富士山を見ろ!」
と苦笑いしながら愛犬に小言を言っていた。

03
昼間近になって散歩に出かけるときは、午前中すわり仕事だったせいか、たいしてお腹が減っていないのだけれど、歩き出した途端にぐんぐんすき始めて、頭の中が食べ物のことでいっぱいになってしまう。

|昔懐かしい中華そばに自家製チャーシューが美味しい。麺もやや太くコシがあっていい。うしろに見えているのはおまけで付いてくるバナナ|

04
もうダメだと思い、田端駅近くで常連がよくラーメンを食べている『だるまや食堂』の前まで来たところで吸い込まれてみた。いまどきラーメンが350円でいいのだろうかなどという余計なことを考えてしまい、結局チャーシュー麺を頼んでみたのだけれど、これが想像以上に美味しくて驚いた。驚いたのはいいけれどちっとも健康によくなくて、犬の散歩以下である。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

空間を埋める

2014年9月19日(金)
空間を埋める

00
二十代の頃、デザイナーとしてよく料理写真撮影立ち会いをさせてもらった写真家がおり、キッチン兼用スタジオに行くとアシスタントが必ずカスミソウを買ってきていた。何に使うのかというと、撮影する料理と小物類を配置したときにできる、間の抜けた空間をカスミソウで埋めるのだ。

01
どうしても構図が決まらないと「カスミソウ!」と言って、前後左右の空間にカスミソウを突っ込んで構図を決めるのであり、なんと安直なと笑いながら、写真家○○○先生の名前をとってカスミソウを○○○草と呼び、かげでクスクス笑ったものだ。

|名前を知らない小さな白い花|

02
カスミソウではないけれど、空間に一条の蔓や茎や花があって、それが何もない空間に緊張感を与え、いい光景だなぁと心がとらえられることはよくある。空間の埋め方というのは考えれば考えるほど奥が深いので、道端に教材があると写真を撮ったりして学んでいる。

|大好きなミズヒキ|


コメント ( 0 ) | Trackback ( )

力石に魅せられて

2014年9月18日(木)
力石に魅せられて


00
清水次郎長通りの魚屋からメールが来て、郷里静岡市で力石(ちからいし)について調べているブロガーを紹介された。雨宮清子さんといって『力石に魅せられて 姫は今日も石探し』★1と題したブログを開設されており、とてもよく調べられていて面白く勉強になる。しかも石は小さいのから大きいのまで子どもの頃から好きなのだ。

01
東郷平八郎旧宅跡で見た力石★2もそうだけれど、文字が彫られて巨大な力石は、実際に持ち上げることのできない男のファルス的欲望を象徴した飾り物に過ぎないと思っていたのだけれど、雨宮さんのブログを読むと、昔からとんでもない力持ちがいて本当に持ち上げていたらしい。

02
力石というのは面白いものだと認識を新たにしたのだけれど、各地に残る力石の保存情況はまことにお寒い状態らしい。確かに彫り物でもされていなければただのローリングストーンに過ぎないので、教育委員会の解説付きで保存されている幸運な石は少ないのだろう。

03
今日も昼休みに近所を散歩したら、初めて通る道で神社を見つけた。東灌森稲荷神社(とうかんもりいなりじんじゃ)★3といい、太田道灌が江戸築城の際、方除け守護神として江戸周辺に七つ祀った稲荷社(他の六つは柳森稲荷社、烏森稲荷社、杉の森稲荷社、雀の森稲荷社、吾嬬森稲荷社、宮戸の森稲荷社)のひとつだという。

|東灌森稲荷神社|

04
こういう辻にある古い神社なら、昔々ここで昼の弁当をつかった若者たちが、休憩時間の娯楽に力石で力比べをしたとしてもおかしくない。かつて庚申待ちをしたような古いお堂が公民館となって今もつかわれているところには、必ず古い将棋盤の一つや二つはころがっているもので、娯楽のない時代の境内には必ず力石の一つや二つが転がっていたはずなのだ。

|石鳥居は吉原遊郭の尾張屋彦太郎が奉納したもの|

05
この東灌森稲荷神社境内にも必ず力石が転がっているに違いないと探したら、どこの力石もそうやって冷遇されているらしい場所、拝殿脇のおきつねさんの横にそれらしいものがあった。こんな重そうな丸石がわざわざ運ばれてきて、捨てられもせずに転がされているということは力石に違いないのだ。

06
力石だという証拠はないが、力石じゃないという証拠もないわけで、ともかく重機のない時代にこの重い丸石を運んできた人がいるというだけで、紛れもない力石だと思うのだ。力石に魅せられた人のブログを読んで近所の力石を力ずくで発見した。

★1 →『力石に魅せられて 姫は今日も石探し』
★2 →東郷平八郎旧宅跡で見た力石
★3 東京都北区東田端1-11-1

コメント ( 6 ) | Trackback ( )
« 前ページ