【頑是と是非】

【頑是と是非】

人において何かが気になるということは、些細なことでも時事と関係している。

なぜか気になったので頑是(がんぜ)ないの頑是と是非(ぜひ)なしの是非についてちょっと考えた。

頑是ないは行為の前に思慮がない、是非なしは行為の前に考える余地がない。考えもなしにする頑是ない子どもの行為にめくじらたてるな、考える余地なく大人が成すべきことは是非もなく決まっているだろう、ということ。

ついでに、にっちもさっちもとうんともすんともについても考えた。にっちもさっちもいかないは前後にも上下にも身動きがとれないこと。うんともすんともは、うんをうけてすん、えっちらをうけておっちら、えっさをうけてほいさという駕籠舁(かごかき)言葉だということに自分でした。

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【メタボリックなブランチ】

【メタボリックなブランチ】

銀座から新橋駅に向かって歩くと、ついつい静岡新聞社の巨大モニュメント的ビルディングの前で、しばし立ち止まって見上げてしまう。

東海道新幹線車窓からもよく見えるこのビルは、静岡の地方新聞社が建てたものであるという一点によって懐かしいふるさとへとつながっている。

設計者丹下健三、所在地東京都中央区銀座、延床面積 1493 平米、鉄骨鉄筋軽量コンクリート構造、地下 1 階、地上 12 階の奇抜なこの建物は 1967 年に竣工した。

東京での暮らしを引き払って郷里静岡県清水に戻ったのが 1966 年なので、このビルができたときはすでに東京にいなかった。

清水市内に新築された店舗兼用住宅に引っ越したら、清水市役所のすぐ横であることにびっくりした。いまはもうないその市役所の建物もまた丹下健三設計であり、外側から内部構造の柱が一切見えないよく見るとやはり地味に奇抜な建築物だった。

社会変化や人口増加に合わせて有機的に成長していく(ように見える)都市建築を提案したメタボリズム( 1959 年に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動)の代表的作品といわれる銀座の静岡新聞社ビルは、あくまでも静岡新聞社の東京支社なのであり、新陳代謝(メタボリズム)の表現としての枝(ブランチ)を表していると無理やり考えても、非常に良くできたモニュメントだと思う。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 2 月 28 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【中肯綮(こうけいにあたる)】

【中肯綮(こうけいにあたる)】

「虚子(きょし)、四方太(よもた)の諸君は折々この点に向って肯綮(こうけい)にあたる議論をされるようであるが」(漱石『写生文』)

高浜虚子(たかはまきょし)と阪本四方太(さかもとしほうだ)がしていたという肯綮にあたる議論の「肯綮」ってなんだと辞書を引いたら、「骨に肉がはまりこんで、骨と肉とが結合している所。そこに包丁を当てれば、肉を骨から切りはなすことができるので、物事の急所、重要な点の意に用いる」という故事からとった言葉だとある。なるほど、調べてみると深い。

調べごとした余禄で、鳥取出身の俳人坂本四方太(1873-1917)の墓が駒込の染井霊園にあることを知った。暖かい一日になりそうなので行ってみる。

虚子と四方太共著による写生文集『帆立て貝』は国立国会図書館でデジタル化されており自宅のパソコンからネット経由で読める。

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【紅一点】

【紅一点】

こう‐いってん【紅一点】
[王安石、詠石榴詩「万緑叢中紅一点」](青葉の中に一輪の赤い花が咲いている意) 唯一つ異彩を放つもの。(広辞苑第四版より)

東京都港区赤坂。カナダ大使館と草月会館の間に旧高橋是清邸跡を開放した小さな公園がある。

青山通りから右折してドイツ文化会館方向へ向かう際、この公園の角を折れるのだけれど、舗装道を通らずついつい公園内を歩いてしまう。決して近道ではない回り道のように思うけれど、なぜか足が向いてしまうのが不思議である。

毎日赤坂で打ち合わせがあるわけではないけれど、年度末が近づいて立て続けに用事があり、通りかかるたびに公園内でフルートの練習をする女性を見た。

東京都港区赤坂7丁目、高橋是清翁記念公園内でフルートを吹く女性。カバードキイタイプのフルートらしく手に手袋をはめて演奏している。

翌日も高橋是清翁記念公園内でフルートを吹く女性。今日の手袋は赤。

公園内に入ったとたん笛の音が聞こえて誰かが練習していることがわかるので、フルートを吹く女性に突然遭遇してドキッとするわけではないけれど、木々が生い茂る薄暗い公園内で女性がひとり笛を吹いている風景には、広辞苑を引き写しつつ言葉にすれば、二つの相対立する感覚や感情などが空間的あるいは時間的に相接して現れる時、その差異が強調され、あるいは際立つ現象としての対比がある。

2 月 27 日は笛を吹く女性はおらず、このところ冷え込みがきついせいか公園内は人影もなく閑散としている。

敷石を踏んで曲がりくねった細道を歩き、是清翁の銅像がある築山脇を通り過ぎようとしたら、眼の片隅で見慣れた景色の中に異彩を放つものを見つけ、それは銅像前に置かれた花束だった。

東京都港区赤坂。高橋是清像前に置かれた紅一点。

ににろく‐じけん【二‐二六事件】
一九三六年二月二六日、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒を目指し、約千五百名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクー‐デター事件。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎を殺害、東京麹町区永田町一帯を占拠。翌日戒厳令公布。二九日に無血で鎮定、事件後、粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は著しく強化された。(広辞苑第四版より)

そうか、昨日2月26日は二・二六事件のあった日なのだったと気づき、最近の軍事と教育をめぐる社会風潮と二・二六事件の背景を思うと、是清翁前の花束は万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)としてひときわ異彩を放ちつつ鋭い対比となっている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 2 月 27 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【第四人称】

【第四人称】

外山滋比古の本を初めて注文した。
注文するまで外山(とやま)を間違って読んでおり、生誕の地である幡豆郡を「はずぐん」と読めなかった。はずかしい。

出版社 ‏ : ‎ みすず書房 (2010/6/16)
発売日 ‏ : ‎ 2010/6/16
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 160ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4622075474
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4622075479

で、ついでに『思考の整理学』 ちくま文庫 Kindle 版も読んでみようかとクリックしたら
「お客様は、2019/11/21にこの商品を注文しました。」
と表示された。買ったのに読んでいないのだ。かさねてはずかしい。ちゃんと読もう。

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【このゴジラが最後の一匹だとは思えない】

【このゴジラが最後の一匹だとは思えない】

霞ヶ関合同庁舎の内閣府で会議があるので、有楽町駅前を歩いていたら突然ゴジラに遭遇した。

有楽町駅日比谷側にゴジラ像ができたことを知らなかったので思いがけない再会が底抜けに嬉しい。

思えばゴジラの出る東宝映画に夢中だった少年時代も底抜けに嬉しくて、
「(ああ、この辺でスカッと一発ゴジラでも出て、たるんだ社会に喝を入れてくれないかなぁ)」
などという時代の気分にひどく合致していたんじゃないかと思う。

嬉しくてゴジラの周りを歩きながら写真を撮っていたら、同年配のオヤジがこちらを見てニヤッと笑っていた。

彼もまた
「(ああ、この辺でスカッと一発ゴジラでも出て、たるんだ社会に喝を入れてくれないかなぁ)」
などという鬱屈した思いを胸にこの時代を生きているのかも知れない。

「このゴジラが最後の一匹だとは思えない。」
古生物学 山根恭平 博士 1954年11月8日
(ゴジラ像に添えられたプレートより)

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 2 月 26 日、14 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【結玉】

【結玉】

ロシアの夢を見て未明に目が覚めたので、青空文庫でドストエフスキーを読んでいたらこんなことが書いてあった。

「君はね御苦労だが、晩にもう一遍来てくれ給へ。君は忘れつぽいから、直にハンケチに結玉(むすびたま)を一つ拵へてくれ給へ。」(『鰐』)

この忘れてはいけないことを思い出すために結球をつくっておく話を、子どもの頃に読んだ記憶があるのだけれど何だったのか思い出せない。あの結び目をつくる話なのではないかと思う。

結縄(けつじょう)のように高度な情報伝達のためでなく、ふと忘れかけた用事を思い出すための工夫として、ハンカチに結球をつくる話、何で読んだんだったかなあ。

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【山折り谷折り】

【山折り谷折り】

山あり谷ありの人生における山折り谷折り、忙しい中にも洒落た息抜きがないとしんどい。
 
Macintosh 用ソフトウエア『山折り谷折り』の取扱説明書には、
「教科書に載ってる偉人さんの写真に縦に折り目を付けて、笑い顔~とか、泣き顔~なんてことをされた経験はありませんか? あの感動を再び!」
とある。作者は相当に若い。
僕が山折り谷折りの暇潰しを知ったのは、人生三十代に入り、友人と出かけた初島観光の帰り、酔い覚ましに立ち寄った熱海駅前だった。いい年した大人が温泉街の喫茶店で山折り谷折りしたお札の福沢諭吉が見せる泣き笑いに大笑いしていた頃、作者は教科書でそれをやっていたのだろう。

喫茶店で暇潰しなどする暇もなくなったけれど、パソコンの中なら人目につかないので山折り谷折りで遊んでみる。手持ちの写真で友人や自分の顔を探してみたのだけれど、ちっとも面白くない。友人も僕もエライ人ではないからだ。

厚生大臣だった津島雄二さんをボランティアで(強調)撮影したものがあったのでどうかとも思ったのだけれど、津島さんはいつも薄笑いを浮かべているので、やはり面白くなく、山折り谷折りにはエライ上にいつも真面目くさった顔が最適なのだと思う。

仕方がないので、持っている一番エライ方の写真で山折り谷折りをしてみた。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 2 月 25 日、19 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【定位置】

【定位置】

スマートホンを置くだけで充電できるワイヤレス充電器は使ってみると便利なものだった。写真は木製コースターのような充電器。

充電するためにケーブルを繋ぐ手間がいらないからではなく、無意識に置く場所が定まるからだ。どこへ置いたんだっけと探すことがなくなった。

古い iPhone をワイヤレス充電対応にするペラペラのモジュール。本体背面と保護ケースの間に挟む。

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【三河屋の時代】

【三河屋の時代】

わが家では珍味とくに乾燥珍味はほとんど食さなかったのだけれど、インターネットで知り合った郷里の友人から珍味詰め合わせを送って頂いたら、あっという間に食べ尽くしてしまった。

老人の看護・介護をしていると就寝前の晩酌タイムはくたくたであり、さっと食べられる乾物がことのほか便利なことを改めて思い知る。さらに便利なものといえば、かつては利用しなかった近所のコンビニエンスストアが生活に欠くことのできない助けになっていることにも驚く。朝夕、年寄りのために咄嗟に必要になる物が何かしら出現するのであり、サンダル履きで駆けつけられるコンビニが 100 メートル置きくらいに乱立しているのに、どうして共倒れにならないかもわかってきた。僅か数分の違いが貴重なのであり、そのことは子育ての体験がないから気付かなかっただけなのかもしれない。

コンビニのない昔が不自由だったかというとそうでもなくて、僕が小学生時代の東京には三河屋というものがあった。江戸時代の十組問屋のひとつ、酒・味噌・醤油を扱う組合に三河の国(現愛知県)出身者が多かったのが起源と聞く。昭和三十年代の三河屋は酒・味噌・醤油を逸脱して、菓子・雑貨・青物まで扱い、現代のコンビニの走りのようになっていた。
 
北区王子4丁目にあった三河屋を近所の人は屋号で呼ばず乾物屋と呼んでいたが、乾き物こそが日本人の暮らしを助けるコンビニエント(Convenient)そのものだったのだとも思う。スーパーマーケットや現代のコンビニとも違い、墓地の近くにある三河屋に行けば線香と蝋燭は必ず手に入ったし仏前に供える花まであった。限られた地域で求められるものを見過ごさず、専業にあぐらをかかないマメな人たちがいたのだ。コンビニエントとは人々が咄嗟に求める「乾き」なのだと思う。

東京の路地裏を歩くと、思いがけない場所で商売を成り立たせている商店があって楽しく、乾物屋に出逢ったようで嬉しくなる。それらは大概、本業を逸脱して既成概念から自由であり、商いの本質を見せつけられているような気もするのだ。商圏というのは規模や品揃えや流行への対応力のみで決まるのではなく、いつの時代も変わらないサンダル履きで走る人々のコンビニエントを見過ごさないことから、商店自らが生み出せるものなのだと、つくづく思う。

平成の市町村大合併で静岡市に併呑される郷里清水市。呑み込む側では大規模小売店が新たな集客を目論んで店舗拡張に余念がないようだけれど、中途半端な商圏意識を脱却しコンビニエントへの逸脱で商いの原点に立ち戻るチャンスが清水の商店主にひと足早く訪れているのかもしれない。

本業からコンビニエントへの逸脱といっても、今さらコンビニチェーンに身売りすることでは芸がないように思う。サザエさんに登場した三河屋はどうなったのかなあとインターネットで検索すると、世田谷区桜新町で「セブンイレブン三河屋店」となって健在らしい。
 
※写真は清水市・北街道「花立(はなたて)」から見る霊山寺。この大内観音前にかつてポツンと酒屋があり、そこの息子と僕はここで待ち合わせて高部幼稚園に通った。その酒屋も当時から逸脱しており、毎日届いてガラスケースに並ぶ黒糖味のコッペパンが楽しみだった。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 2 月 24 日、19 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【今朝の富士山】

【今朝の富士山】

六義園正門前の仕事場から富士山を遠望するようになって四半世紀経ったけれど、富士山手前の山々がこんなにはっきり見えたのは初めてだ。


DATA : SONY Cyber-shot DSC-WX300

しかも左の山裾に宝永火口が見えることにも初めて気づいた。よい天皇誕生日の朝である。

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【とほとはっきょい】

【とほとはっきょい】

漱石を読んでいたら漢詩が出てきて、これは白居易(白楽天)だろうと思ったので下定雅弘『白楽天 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』 (角川ソフィア文庫)の電子書籍版を買った。

買ったあとで漱石が「灯影無睡を照し心清妙香を聞く」とひいたのはどの詩だろうと調べたら白居易ではなく杜甫だった。

勇み足 白居易のこって 杜甫を読む

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【山葵の辛さ】

【山葵の辛さ】

街に茎山葵(くきわさび)が出回る季節になった。特に白い花をつけた愛らしいものを花山葵(はなわさび)といい、静岡県産であることが多い。

そのまま刺身のつまにしても良いし、粗塩をつけてポリポリ食べると辛みのあるクレソンのようで、清涼感が口いっぱいに広がる。山葵の茎を買って来たら洗って綺麗に整え、適当な寸法に切りそろえ、ザルにとって熱湯をさっとかける。大きめの密封容器などに入れて、バーテンダーがシェーカーを振るように激しく振り、小さな瓶にだし醤油とともに入れて保存する。こうするとピリッと辛い山葵の茎の醤油漬けが出来上がる。酒のつまみにも、御飯のおかずにもなる早春の味覚である。

郷里静岡県清水にも清冽な水が湧き出す山あいには山葵田(わさびだ)がある。清水市宍原にはクレソンがたくさん生えていて、年末年始に母とよく取りに行った。夢中になって摘んでいると、通りかかったお百姓が、
「クレソンだけにしとけよ」
と声をかける。上流に山葵田があるからだ。

市街地からさほど遠くない山間部に山葵田があるという恵まれた土地柄のせいか、清水市内でも茎山葵がよく売られている。母は息子夫婦の真似をして山葵の茎の醤油漬けを作るのだけれど、母が作るとちっとも辛くないと言う。作り方を何度も教え、その通りにしていると本人は言うのだけれど、
「ちっとも辛くならない」
と愚痴をこぼす。振り方が足りないのではないか、お湯はちゃんと沸騰していたか、などと念を押してみるけれどいまだに理由がわからない。

週末の買い出しに出ると、静岡県産の花山葵が店頭に出ていたので、早速夕飯はお刺身と山葵の茎の醤油漬けが食卓をにぎわす。こんなことなら次郎長通り魚初商店のまぐろを取り寄せておくのだったと悔やみつつ、懐かしい故郷の味を噛み締める。

そうか、清水で売られている花山葵はいかにも摘み立てで生気溢れるしゃんとした姿をしていたなあと気付く。もしかしたら花山葵は流通経路を経て少しくたびれた程度のものの方が、辛みが増しているのかしらなどと思ったりもし、都会人ならではの皮肉な辛さなのかもしれない。山あいから朝露をつけたまま出荷される清水の花山葵は、ふるさとの季節感溢れる味わいである。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 2 月 23 日、19 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【2222年2月22日】

【2222年2月22日】

朝刊一面下のサンヤツ広告もテレビ番組ページもにぎやかにネコだらけで、何事だろうと思ったら、222(にゃんにゃんにゃん)と2が並んでネコの日なのだという。

ということは 200 年後の今日、2222 年 2 月 22 日はさぞやにぎわうことだろう。

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【時の重さ】

【時の重さ】

パソコンで仕事ができるようになってからというもの、すべてのデータはバックアップして保存しており、出版社や印刷会社から
「ひょっとして古いデータがありますか」
と聞かれて、
「すべて保存しているのでひょっとしなくても必ずありますよ」
と答えてありがたがられる。けれど、デザイナーの側から言わせてもらえば、データ保存に関する出版社や印刷会社のずさんさは目を覆いたくなるほどである。

ようやく納品を終えたこの仕事はいつから始めたんだっけと、バックアップをとりながらデータの日付を調べてみると、2002 年 7 月 29 日とあり、半年以上も一冊の本に関わってきたわけだ。

時の重さを計量する尺度は心許ない。
この本の仕事に着手して一週間ほどのちに義父母が相次いで倒れ、自宅に戻れない看護・介護の日々が始まり、そのドタバタの中での仕事だった。それを思うと膨大なデータの海に刻み込まれたさまざまな思い出もまた、個人的にかけがえのないものだったりする。

データ紛失による編集制作費、印刷費の損失を思えば出版社や印刷会社にこそデータ保存という時の重さを理解して欲しいのだけれど、時の重さの計量単位の一つであるデザイン料の安いデザイナーこそが時の重さを最も感じているというのが皮肉な現実である。というかそういう皮肉でしか表現できないものこそが現実なのだろう。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2003 年 2 月 22 日、19 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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