▼ネギ

 

両親の介護で忙しい家人を少しだけ助けられたら、というのを口実に朝昼晩と台所に立って自分が食べたい物を優先して作っている。やり始めてみると子どものころから台所仕事が嫌いでなかった自分に気づく。気づきの中に勉強があって、同じ野菜でも切り方を変えると驚くほど味が違うことに驚いたりする。


長ネギという野菜は振り返ると子どもの頃から不思議な野菜だった。筒切りや厚みのある斜め切りだと、噛んだ瞬間ニョロッと甘いネギの味が口の中に広がるのが苦手で嫌いだったけれど、小口切りやみじん切りにしたものが麺類の上にのっていると美味しくて残さず食べた。切り方で味が驚くほど変わるのだ。


朝鮮料理のレシピを見ていたらネギを短冊切りにせよと書いてあり、汁までいただくスープ類や鍋料理だと確かに美味しい。郷里静岡県清水で一番好きなラーメンは、清水で多い細ネギの小口切りではなく、根深ねぎの白い部分をみじん切りにしたものが浮かべられており、おいしいので我家でも真似している。


白髪ネギも見た目や食感だけでなく味わいまで違っておもしろい。仕事帰りにデパ地下に寄ったら、タンスモーク薄切りに白髪ネギを加えてレモン汁であえたものがあったので参考に買ってみた。細かく刻んでも細胞を破壊していないので作りおきしてもネギ臭くならず、歯触りと香りたつ瞬間の味がおいしい。


飲食店経営だった母は包丁で見事な白髪ねぎを作っていた。腕も包丁もなまくらで母にかなわないので、白髪ネギカッターというものを買ってみたが、簡単に作れるので重宝している。辛子明太子があるのでみじん切りしたニンニクと胡麻油を加え、白髪ネギとからめてあえ、今夜の簡単おつまみにしようかな。

 
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【天井川】

【天井川】
 

幼い頃「ごみごみした東京より、自然がいっぱいある清水の方がいい」と言って親元を離れ、静岡県清水市にあった祖父母の家で暮らしたことがある。「あんたが自分でそう言って家を出て行った」と母は言っていたが、そう言ったら喜ぶだろうな…と幼心に思うほど、暮らしぶりと夫婦仲がよくなかったのだ。



大内観音前バス停(2009/11/21)。


自然に囲まれた祖父母の家で暮らすようになったとはいえ、就学前の子どもを毎日家でぶらぶらさせて置くわけにも行かないので、田んぼ道を歩いて幼稚園に行かされた。北街道沿いにある高部幼稚園には卒園までいたようで、若いお母さんに混じって着物姿の祖母がいる卒園写真が、今も古いアルバムにある。



駿府方面から新北街道を辿り左折すると大内観音(2009/11/21)。

川の流れは水とともに土砂を運び次第に川底に堆積させる。堆積した土砂で川底が高くなると水が溢れやすくなるので、土手に土を盛って高くしなければならない。そういう事を繰り返した結果、土手はもちろん川底まで周囲の土地より高くなってしまった川を天井川というのだ、と子どもの頃社会科で習った。



北街道と観音道の交差点(2009/11/21)。

天井川とともに輪中などという不思議な景観を教科書で見て、濃尾平野の暮らしは大変だと隣県を他人事のように思っていたが、あらためて郷里を眺めてみると天井川が多いことに驚いた。祖父母の家と幼稚園とを往復する際に渡った塩田川もまた昭和29年に改修工事が終わるまでは天井川だったのだという。



平坦になった観音道(2009/11/21)。

通園時に畦道が通りづらいと、はるか昔からある旧北街道をたどって観音沢川沿いに新北街道花立に出たもので、そこは今のしずてつジャストライン大内観音前バス停の場所に当たる。かつて新北街道は急勾配の坂をのぼって天井川だった観音沢川を越えており、大内観音に向かう参道は天井川の土手道だった。



大内観音と反対側にある細い道が旧北街道で、観音沢川に沿ってちょっと行ってから左に折れて田んぼの中を行く。
右手巴川方向に祖父母の家があり、旧北街道は塩田川を渡って大内新田を抜けるように続いていた。(2009/11/21)。

天井川が氾濫しないよう盛り土された土手はとても高くて、家々の屋根を見下ろしたように幼い日の記憶は映像化されている。母親の墓に参った帰り道、かつて同じ幼稚園に通った友達がいたはずの天井川跡は、あたりの田んぼと変わらないほど平坦化され、記憶と重ね合わせると唖然とするほど変貌している。

 
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【方位磁石】

【方位磁石】
 

ネット通販でアウトドア用の多機能時計を買ったら想像していたより一回り大きい。ポケットに入れると重いのでショルダーバッグにぶら下げているが、本来そうやって使うものなのかもしれない。時計以外に小さなコンパスがついているのだけれど、それが意外に役立っているので散財でもなかったなと思う。



静岡県清水元城町にて(2009/11/21)。
国道からちょっと奥まった場所にある書道教室。

司馬遼太郎によると、磁針が北を指すことを発見したのは中国人だが、明の時代の船磁石は水に薄い磁針を浮かべるものだったので航海中に船が揺れると役に立たない。日本人が発明した船磁石は磁針が針の上にのっているので揺れても平気で、水を用いない磁石「旱針盤(かんしんばん)」と呼ばれたという。



静岡県清水元城町にて(2009/11/21)。
旧東海道からはかなり離れた場所にある蔵。
入口は巴川方向に向いている。

宗教的理由で方位磁石を必要とする国民ではないけれど、日本人も多分に方位を気にする国民で、仕事場に来客があると「この窓はどっち向きですか?」などと聞かれることが多い。面倒でも「あっち向き」などと答えるわけにもいかないので「北北西」と教えるのだけれど、自分も他所では方位を聞いている。



静岡県清水元城町にて(2009/11/21)。
足もとを見ると黒い鳥の糞がいっぱいでモチノキの実を集めて回ったらしい。

手元に方位磁石があると役立つのは、自然や人の暮らしぶりの不思議を見て、ふと方位が知りたくなった時で、「そうか北西の季節風を一番受けにくい場所なのか」などと合点がいったりする。そういう体験を何度もしていると、日本人もまた宗教的に方位磁石が必要な国民で神様はやおよろずなんだなと思う。

 
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【酒飲みの生殺(せいさつ)】

【酒飲みの生殺(せいさつ)】
 
 
子どもの頃、大人に連れられて飲み屋に行くと「まぁ一杯!」などと客が店主に酒を勧める事がよくあったし、顔見知りはもちろん初対面の客同士も「まま、お近づきの印に」などと酒を勧め合う光景をよく見た。酒をともに酌み交わす連れが欲しいという側面もあるが、くつろげる場作り法だったのだと思う。


静岡県清水。塩田川土手の柳。

静岡県清水で母が営んでいた店は極端に酒を勧め合う飲み屋で、学生時代も社会人になってからも、帰省して店に顔を出すと酒に苦労しなかった。母もまた客の酒をもらっては飲んでおり、よく酔いつぶれないものだと呆れたが「酒は殺して飲めば酔わない、私は殺して飲んでるから大丈夫」と常々言っていた。



静岡県清水。家の軒下に干された柿。

いくら飲んでも酔えない夜が時にあり、期せずして殺して酒を飲むような状態になっているのかもしれない。いつもなら酩酊して記憶が飛んでしまうような酒量でも、実はしゃっきりしたまま帰宅することがあるので「いや最近はめっきり酒が弱くなりました」などという自己評価は当たっていないように思う。



静岡県清水。庭先に干された柿。

酩酊して記憶が飛んでしまう酔い方をするための酒量は一定していない。晩酌では大した時間もかけず大した量も飲んでいないのに、寝る間際の記憶が飛んでいることが多い。「最近は物忘れもするし、飲んで記憶がないことも多くて」などと加齢による衰えののせいにするが、それもおそらく当たっていない。



静岡県清水。大内田んぼの白菜畑。

加齢とともに、上手に忘れる能力が衰えるという一面が人間にはあるのかもしれなくて、些細なことが気になり、目が冴えて眠れない夜が増えてくる。そういうストレスをため込んで鬱々とすることの手っ取り早い解決法が、酩酊して我を失うことであり、上手な酔い方が養生法と言われるゆえんなのだと思う。



静岡県清水。大内観音前にて。

ストレスに満ちた精神状態で一日を終え、とりあえずビールをついで乾杯し、晩酌を始めるとスッと気持ちが軽くなる瞬間があり、それが早いと上手に酔えたな…と思う。酔わないよう踏みとどまるのが酒を殺して飲むという事なら、少量で酩酊するのは自分を殺して酒を飲むのが上手だという事かもしれない。

 
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【翳りゆく秋】

【翳りゆく秋】
 
 
新宿発静岡行き駿府ライナーに乗ったら、首都高に入った途端渋滞に巻き込まれ、押切バス停に降り立ったら到着予定時刻より1時間50分も遅れていた。清水ライナーの座席指定予約が取れなかったのは、エスバルス対ガンバ大阪戦があるせいだと思ったけれど、連休に入るためだったのかとやっと気づいた。
 


静岡県清水。北街道押切バス停前にて。

押切バス停で下車したら2時近く、目の前にある蕎麦店『鐘庵』で昼食にした。デビュー間もない荒井由実を追いかけていた頃「いまマホガニーの部屋という曲を作ってる」と途中経過を何度も聞かされた懐かしい曲がかかっていた。発売時に『翳りゆく部屋』と歌詞も題名も変わって驚いたのは1976年。



大内田んぼ風景。

『翳りゆく部屋』を口ずさみながら北街道を歩き、ふれっぴー高部店で花を買い、塩田川手前でいつも眺める大内田んぼを見たら、深まりゆく秋の中で稲の根株から生えたひこばえの緑が美しい。帰郷して墓参りをするたびに眺めていた田んぼに自分の影が映り、太陽の高度が低くなったな…とあらためて思う。




塩田川もすっかり秋景色。

かつて大内田んぼのいたるところで見かけたジュズダマが塩田川の水辺に群生しているのを帰省の際に見かけた。そろそろ茶色くて艶々した硬い実が採れるのではないかと思い、水辺に降り、いくつか摘んでポケットに入れてきた。秋から初冬にかけて色づく草木の実は、同じ夏を歩いた仲間のようで愛おしい。



塩田川沿いで摘んだジュズダマと墓参りを終えた母親の墓。

墓の掃除をしながら、そろそろ雨ざらしにしてボロになった掃除用タオルを取り替えようと思っていたのに、今回も忘れてきたことに気づいた。墓前においたサトウハチローの湯飲みにひび割れが入り、ポリバケツの側面も割れて水が漏り、人や草木だけでなく物もまたあれこれ、時の流れとともに翳りゆく秋。



塩田川土手から遠望する富士山。

 
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▼傾斜とブレーキ

人は始めてしまったこと、始めようとしていることを、中断するためのブレーキを持っている。そして加齢とともにそれは効きが悪くなるように思う。たとえば今住んでいる集合住宅の住人たちは高齢化し、エレベーターに乗ろうと待ちかまえる時、扉が開いて出てくる人がいても、前への動きを止められない。




千代田区霞ヶ関にて。



パーキンソン病の義父には歩き出すと前のめり小刻み早足になってブレーキが効かないという症状がある。感染する病気ではないのでうつったわけではないけれど、義母もまたブレーキが効きにくい人で、生活のあらゆる場面で、始めなくてはいられない、始めたら止まらない性癖で家族との軋轢を生んでいる。



千代田区霞ヶ関にて。



始めなくてはいられない、始めたら止まらない性癖というのは、よい意味でとらえれば真面目で几帳面で実行力があって辛抱強いという、素晴らしい性格として現れることが多い。それを美徳と感じ日々を静かに過ごしている人がパーキンソン病になりやすいと書かれた本を読んだが義父母はそういう人だった。



千代田区霞ヶ関にて。



そういう両親に育てられた家人もまた、真面目で几帳面で実行力があって辛抱強い性格で、正反対の性格をした夫としてはずいぶん助かっているのだけれど、美徳を通り越して過剰になりすぎるときはブレーキを踏んでいる。アクセルとブレーキが互いを補いたくて伴侶を選ぶということもあるのかもしれない。



千代田区霞ヶ関にて。



パーキンソニズムというのは疾患といえば疾患なのだけれど。人が誰でも持っているある性格の傾きが急峻で、滑り出したら止まらなくてブレーキがかからなくなる傾向の度合いに過ぎないのかもしれないね、と家人と話している。あたりを見ていると加齢によりブレーキの効きが悪くなった人をよく見かける。

 
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▼テレビの恥ずかしさ

twitterにkamenoyuというアカウントをつくり、140字ぴったりでつぶやきを投稿しています。長くなりがちなひとかたまりの文章の贅肉をそぎ落としてぴったり収める作業がとても面白いからで、まとまったところでアップロードする日記です。ひとかたまりの文字がぴったり140字です。(以上140字)

 



テレビというのは不思議なものだ。大きなテレビ受像器を持っていて、テレビの話題をよく口にする人にテレビの話題でお付き合いすると「うちはあんまりテレビを見ないから…」などと慌てて言う。どうやらテレビを見る時間が多いということを他人に知られると恥ずかしいので急いで打ち消しているらしい。



港区赤坂にて。



僕が小学生だった昭和三十年代はテレビのない家庭も多くて、プロレス中継見たさに街頭テレビに群がる人びとの映像が有名だし、電気屋やテレビを持っている他人の家で見せてもらうということも当たり前にあった。だから少なくとも子どもの間では、テレビ番組をたくさん見ているということは自慢だった。



港区赤坂にて。



我が家は朝食の30分、昼食の30分、夕食の1時間30分だけテレビをつけている。テレビのニュースくらい見ていないと社会の表層で起きていることがわからないという脅迫感からだ。1日2時間30分が世間より長いか短いかは知らないけれど、それ以上の時間をテレビのために費やしたいとは思わない。



港区赤坂にて。



このところどうでもいいテレビがどうでもよくなくなったのは地上デジタル放送が始まるからで、おまけに難視聴地域でケーブルテレビ加入者でもあるためで、あれこれ書類が送られてきてうるさい。マンションのアンテナは問題ないはずなので、安いテレビチューナーを買ってきたら地デジもBSも良く映る。



港区赤坂にて。



BSも地デジもよく映るようになったけれど、1日2時間30分の視聴時間が拡大するわけではない。番組の質が変わったわけではないからであり、ややこしい方式変更や著作権問題云々で頑張る以前に番組のレベルが今のままだと「えっ今どきテレビなんか見てるの?」と本当に恥ずかしい時代になると思う。

 
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▼ドイツ語入門

 


 大学に入学したら英語以外に第二外国語を選択しなくてはいけなくて、迷わずドイツ語を選択した。高校時代写真部だったのでドイツ語に憧れがあったのかもしれない。



ドイツ文化会館斜め前のカナダ大使館裏あたり。



 そのドイツ語の最初の授業に出て驚いたのは、受講者が自分一人しかいないことで、当時は教育学部と文学部を残して筑波大への移転が完了していたので学生数がそれほどに少なかった。
 一年間この教師とマンツーマンでドイツ語を学ぶのかと想像したら腰が引けてしまい、慌てて受講者の多いフランス語の授業に受講票を出し直したが、今になって振り返ると、願ってもない学びのチャンスを何でみすみす放棄したんだろうと悔やまれる。級友はみな高校美術部出身なのでフランス語をとっていた。



ドイツ文化会館前の桜の枝にアルファベートを並べて綴られたメッセージ。



 マンツーマンで一年間ドイツ語を学んでいたら、少なくともこれくらいの文章は理解できたんだろうなとドイツ文化会館前の飾り付けを見て思う。たった1回出ただけのドイツ語授業、初日は教師と向き合ってアルファベートを
「アーベーツェーデーエーエフゲーハーイーヨットカーエルエムエヌオーペークーエルエステーウー…」
と何度も繰り返して発音をチェックされたが、その時限りの片言をいまだに忘れないのだから、マンツーマン語学教育の効果は絶大なのかもしれない。惜しいことをした。

 
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▼例祭の頃

 

 郷里静岡県清水でおいべっさんと呼ばれて親しまれている西宮神社大祭が近づいてきた。
 昔の清水っ子は11月20・21日のおいべっさんがやって来るとオーバーコートを出したりして本格的な冬を迎えたというけれど、このところ暖かい冬が続いていて
「19日と20日の清水はおいべっさんですよ」
などという便りが届くとびっくりする。少なくとも中学高校時代を過ごした頃の清水は、おいべっさんの頃になると身を切るような冷たい風が吹いていることが多かった。



おとりさんの準備が進む巣鴨大鳥神社界隈。



 東京ではこの季節になると酉の市の話題を耳にするようになる。
 年寄りが話しているのを聞くと、おいべっさんと同じようにおとりさんと愛称で呼んでいることが多い。浅草や新宿の大きなおとりさんも好きだけれど、六義園正門前から歩いていける巣鴨大鳥神社で、例祭として毎年酉の日に開かれる小さな酉の市も好きだ。昨年は火事が多いとされる三の酉まである年だったが、今年と来年は二の酉までしかなくて、明日12日と24日は縁起物の熊手を求める人たちで賑わう。



巣鴨大鳥神社。



 今から15年近く前になるけれど、富山の住まいを処分して東京に移り住んだ義父母を連れて、巣鴨のおとりさんに出掛けたことがあるけれど、用もないのに歩く散歩など大嫌いという両親なので、寒いだけでつまらないから夜の外出は勘弁してくれと言われたのを思い出す。
 その当時の義父母は歩いておとりさんに行けたのか、ということも感慨深いけれど、勘弁してくれと言われるほどこの季節の東京が寒かったということにも唖然とする。

 
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【折戸でござる】

【折戸でござる】
 

 旧中山道である巣鴨地蔵通り商店街を抜けると庚申塚のある十字路にぶつかり、その先の旧中山道は庚申塚商栄会となる。
 旧中山道を右折するとその道の先は滝野川、飛鳥山を経て王子に至るので王子道と呼ばれ、かなり古い道なのだと思う。左折すると道はやがて下り坂となってJR大塚駅前まで続いており、その道を折戸通りという。

 郷里静岡県清水にも折戸(おりど)という地名があるが、山形県、福島県、栃木県、千葉県、新潟県、富山県、石川県、福井県、愛知県にも折戸という地名がある。清水の折戸は海辺の町なのだけれど、全国各地の折戸は山中の場合もある。どうも折戸という地名は谷戸とか谷津とかと同じように、水との関わりの中から発生したもののような気がする。
 旧中山道である地蔵通り商店街は小石川台地の尾根伝いを辿っており、右手に折れる王子道は尾根伝いに本郷台地に通じ、滝野川でやはり尾根伝いの道である岩槻街道につながっている。右折せず、左折して折戸通りを行くとき、この道は雨が降ったら水を集めて流れ、やがて大塚で谷端川に流れ込み、小石川・礫川(れきせん)・千川とも呼ばれた川となって東京湾にそそいでいたのだとおもう。



豊島区巣鴨。右手が地蔵通り商店街。右手角に庚申塚、まっすぐ行くと滝野川を経て王子。

 高みから水辺へ、水辺から高みへ向かう通路が折戸という地名の由来ではないかと思う。そういう斜面で見つかった折戸遺跡というのがあって土地の人は「おりっと」と読むらしい。折戸通り沿いに「オリトデンキ」という電気屋があり、折戸通りは「オリトドオリ」なのかと道路表示板を改めて見たら「Orido-Dori(.ave)」になっている。尾久(おぐ)が「おく」に読み替えられて定着してしまった事例もあるので、もともとは「おりと」だったのかもしれないと思ったのだけれど、インターネットで検索すると折戸という姓も地名も「おりと」と読むことの方が多いようで、郷里清水とここ折戸通りは「おりど」と読む少数派なのかもしれない。

 
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▼秋の温度

 


 秋が深まり、寝具に冬の上掛けが登場すると、放熱より蓄熱が心地よい季節になる。
 子どものころから、コタツや電気アンカや電気毛布はもとより、他人の体温に接して寝たりするのも苦手で、外部から感じる熱からは逃げ出したくなることが多い。
 自分が出した熱が一番自分に心地よい自然な温もりのような気がし、蓄熱できる程度のものを身にまとっていられれば、冬は暖房の効いていない部屋で寝るのが好きだ。それは室内の水が凍結することのない温暖な地域で生まれ育ったせいかもしれない。



豊島区巣鴨、地蔵通り商店街入口にて。
やはりラジオはどんな薬よりも人に優しい、年寄りの心強い友だちなんだな…と思うNHKの広告看板。



 それでも子どものころの東京はもちろん、生まれ故郷静岡県清水でさえ、昭和三十年代は真冬になると屋外の水がよく凍った。東京では屋外に露出した水道管に荒縄を巻き付けて防寒対策をしておかないと、水道管が凍結して水が出なくなり、朝起きたら朝食の支度ができなかった、などということが寒い冬の日には起こった。



三の酉まである年は火事が多いというけれど、今年は二の酉まで。



 温暖化して屋外の水が凍結しなくなった東京に住んでいると、この季節以降、暖かな春が来るまでは、箱買いした缶ビールを北西向きのベランダに出しておき、外気温程度に冷えたものを飲んでいる。毎年この季節になるとそうしているのは、冷蔵庫だと冷え過ぎて寒いし、室温だと生暖かすぎ、人工の冷却や加熱ではなく季節固有の気温によって温度調節された缶ビールが、なぜか一番おいしいと思うからだ。

 
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▼11月の着物姿

 


 街で着物姿の女性を見る機会が少なくなったな…と久しぶりに着物姿を見て思う。振り袖姿やゆかた姿の若い女性を見かけても本来の着物姿とはちょっと違う気がし、もう少し生活臭のある風俗として、昭和の時代は着物姿が暮らしの中にあったような気がする。



港区赤坂にて。



 明治生まれの祖母は当然として、昭和生まれの母も、日々の暮らしの中で突然思い立ったように着物を着て過ごす日があった。
 日々の暮らしの中の着物というのは、今風に言えば“勝負服”のようなものだったのかもしれなくて、祖母も母親も子ども心に
「(どうして今日は着物を着たのかな…)」
と理由が推し量れないタイミングで、ぐいっとギアチェンジしてアクセルを踏み込むように、ギュッと帯を締めて着物姿で過ごす日をつくっていた。



港区赤坂にて。



 街で振り袖やゆかた姿の若い女性ではなく、着物姿をした妙齢の女性を見かけるとドキッとする。
「(水商売の女性かな、それともお茶とかお花とか踊りの稽古にでも行くのかな…)」
などと想像するとつまらないので、ごく普通の主婦が“勝負服”を着て出陣したところに違いないなどと勝手に想像すると、街がふいに昭和の時代にタイムスリップしたようで、懐かしい色合いを帯びて見えてくるから不思議だ。

 
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▼バラエティ生活笑百科

 


 義母と家人と三人でとる昼食時、平日は『ひるどき日本列島』、日曜日は義父も交えて『NHKのど自慢』、土曜日は『バラエティ生活笑百科』を見るともなく見ている。

 今日の『バラエティ生活笑百科』は漫才のおかけんた・ゆうたが「二度目の離婚」と題してこんな相談事をしていた。
「田中さんという女性が離婚後も田中の姓を使い続け、その後中村さんと結婚して中村の姓に変わった。中村さんとも離婚したので離婚後実家の姓の山田に戻すことができるか?」
 義母はテレビも見ず黙々と食事を続けており、見ていた僕と家人は
「そりゃあ旧姓の山田に戻せるに決まってるでしょう」
と口を揃えテレビに向かって答えたのだけれど、答えは意外にも
「戻せない」
だった。

 離婚してその結婚前に名乗っていた姓に戻したいなら三ヶ月以内に手続きをしなくてはならないそうで、田中さんが最初の離婚をしたあと通常なら親の戸籍の山田に戻るはずが田中姓のままでいたのは、離婚成立三ヶ月以内に「戸籍法77条の2の届」を出して申請したからであり、その時点で田中さんは分籍して一人の戸籍になっている。というわけで山田の戸籍に戻らず田中の一人戸籍になってから中村さんと再婚したので、戻れるのは再婚前の田中姓なのだそうだ。



別に驚くほどのことでもないけれど弁護士とその家族にも運動会がある。



 わが父親は僕が小学校二年生に上がる頃には家に帰ってこなくなり、時々ふらりと帰ってきては家財道具やお金を持ち出したりし、やがて一年くらいのうちには全く家に寄りつかなくなった。その頃には母も離婚を決意していたらしい。
 離婚が成立したら再婚も考えて欲しいと言ってくれる相手もあったようで、僕は泣いていた母親が幸せになれるのならさっさと離婚してしまえばいいのにと心から思っていた。
 だが母は
「離婚したら名前が変わってあんたが惨めな思いをするから、小学校卒業と同時に離婚手続きをして清水に帰ろう。その時からあんたはお母さんの旧姓石原になるのよ」
と言っていた。帰らない父を見限った時点で、母がさっさと離婚手続きをして旧姓石原に戻りたいなら、離婚後三ヶ月以内に手続きをしなくてはならず、それによって当然僕の姓も小学校在学中に石原にかわるわけで、母はそれを理由にいじめに遭う危険を避けてくれたのだと思う。母の場合は、離婚して自分がまず一人の戸籍を選択して旧姓に戻り、小学校卒業と同時に息子の入籍届を出して自分の旧姓を名乗らせる、という方法があった。けれど、どう考えても父との協議離婚が難しかったので家庭裁判所の調停が必要であり、小学校卒業直前まで待ったのだと思う。結局、父は家庭裁判所にも現れず、母の離婚は認められて旧姓に戻り、親権者も母となったので、僕の入籍届を出して父親の戸籍から母親の一人戸籍に入ったことになる。その時点で僕も苗字がかわった。
 そういえぱ小学校の同級生で中学入学と同時に楠さんから山本さんにかわった女性もいたが、彼女の家も父親を見たことのない家で、同じような事情をかかえていたのかもしれない。また離婚後夫の姓を名乗っていた女性が、夫の再婚相手に離婚後も同じ姓を名乗るのはやめてくれと言われて困っていたのも思い出した。たとえ旧姓であってもそう簡単に姓は変えられないらしい。



JR駒込駅近くの線路端にて。



 もしそういう決まりがなかったら、まだ三十歳くらいだった母はさっさと離婚手続きを済ませ、再婚して幸せな人生があったのかもしれない。そう思うと、
「苗字がかわったって恥ずかしくないから離婚してもいいよ」
と気のきいたことを言ってやれなかったことが、ちょっと申し訳ない気もする。
 そんなわけで、離婚と再婚によって母の人生は変わった可能性もあるのだけれど、ありがたいことに母は息子の人生の方が気になったらしく姓名判断をしてもらったそうで、
「父親の姓を名乗って古澤のままでいても、母親の姓を名乗って石原になったとしても、この子の人生に大したかわりはないよ」
と言われたという。

   ***

友だちが「戸籍法77条の2の届」のことを教えてくださってまーるくおさまる手助けをして下さったので、打ち消し線部分を修正してもつれた家族の糸をほどき、こんがらがって間違えた理解の修正をさせていただきました。どうもありがとう。

 
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▼福々まんじゅう

 


 昨夜は東京でも木枯らし一号が吹いたそうで、文化の日の今日は快晴になったが北西の季節風が強く日陰を歩くと肌寒い。



毎年恒例の菊まつりということで、菊が並んだ地蔵通り入口付近。



 用事があって巣鴨地蔵通り商店街に出かけてみたら、祭日ということもあり、予想通り大変な人出で歩くのにも難儀した。歩行者専用道路に見えて専用ではないので、自動車やバイクも通れば猛スピードの自転車も通りかかり、よたよたフラフラ歩いている年寄りを見るとはらはらする。



地味な色合いの服を着た人びとがぞろぞろ歩いていると昭和の時代の浅草六区を思い出す。



 ここは商店街のように見えて、実は参加自由の巨大高齢者デイサービスセンターのようなものなのだから、もっと徹底して年寄りが一日のんびり安全に過ごせるように、行政が地域を援助して整備すればよいのにと思う。箱物を新たに作るのではなく、既存の地域にお金をかけた方が福祉の充実には近道なのにと、要介護老人の世話をしているとつくづく思う。在宅で過ごすということは家や施設に引きこもることではなく、地域でぶらぶら過ごせることだと思うのだ。



福々まんじゅうの駿河屋。



 生まれ育った地域への帰属意識というものは面白いもので、巣鴨駅前で行列のできる人気店福々まんじゅうの駿河屋、その奥さんが清水東高出身で郷里ゆかりの人と知ってから、巣鴨に行くとついつい前を通って商売の具合を気にかけてしまう。肌寒くなってきたので湯気が一段と白く立ちのぼるようになり、これからがかき入れ時だ頑張れと心の中で励ましながら通りすぎる。

 
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▼こりとりくらぶ

 

 軽蔑の意味をこめていう成り上がり者のイメージが強く、虚勢ばかり張って不良や無頼者のファンを引き連れた人気歌手、という悪いイメージばかりを抱いていた男性がいる。その彼がかつてNHK教育テレビでロングインタビューに答えた際の再放送を見たら、「(おや?何てまともで才気あふれる男だったのだろう)」と思えるようになっていた。30年の歳月が色々なものを変えたのだと思う。



妙に和む電柱の看板。



 ごく最近行われたライブの模様がテレビ放映されたので、生まれて初めて彼のコンサート一部始終を見たが、素晴らしくて感動した。「(これは本物だ)」と再認識したし、音楽に辛口の批評をする家人までが
「この人、単なるええかっこしいじゃなかったんだ、真似してた連中こそかっこつけ損ないだったんだ、凄い!」
と感動していた。
 30年近くを要したとはいえ、嫌いな人間を好きになるということは良いことで、そうやって嫌いな人間をオセロゲームのようにひっくり返して白に変えていくのが、良い年の取り方ではないかと思う。黒く塗りつぶすのではなくて。

 
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