お手盛りと弁当

 「ごめん、もう入らない」
などと言われてせっかく用意した朝食を食べ残され、いやな思いをしなくてもいい方法は
「ご飯は自分が食べられる分だけ自分でよそってください」
と言ってお手盛りにしてもらうことで、妻とはいえ
「(朝飯を作って貰ってるんだからとっとと起きて、てめーの飯くらいてめーでよそいやがれ)」
というさばさばしたつき合いをするしか仕方ないのだと思う。どんなに優しい亭主でも他人のお腹の都合まではわからない。

 ひとりの昼食は梅干しの入ったおにぎりを食べる程度でいいや、と最近は思うのだけれど、そんなものをコンビニに行って一個百数十円も払って買うのもばかばかしいので、余裕のある朝は小さな弁当箱にご飯を詰め、昼食用に日の丸弁当やごま塩かけご飯を作るようにしている。
 自分で詰めた弁当というものは必ず適量と感じるのがおもしろい。コンビニだと
「(おにぎりだけじゃさみしいからサンドイッチでも買おう)」
などという邪悪な食欲に負けてついつい買い過ぎてしまうのだけれど、、自分で用意した自分の弁当というものは、自分の腹具合を見透かしたかのようにちょうどいい。というか自分のお手盛りや、自分への愛情弁当を、自分自身が受け入れられなくなるということは、きっと心が危うい。

|駅弁の空き容器。一人の弁当用にちょうどいいので愛用している。|

 「誰のせいでもない、みんな自分がまいた種だろう!」
などという年長者から口うるさく言われた説教も、茶碗や弁当箱のご飯を例にして思い出すとなるほどと味わい深い。
「誰の押しつけでもない、みんな自分がよそった飯だろう!」
というわけで、何事も
「たいていのことは自分が決めたようでいて、実は他人に決めさせられているのだ」
などと、心理学者のような“そりゃそうだけどさ”的理屈をこね、些細なことにまで、自分がまいた種に自分で腹を立てるようになったら、きっと心が危うい証拠だと思うので用心しよう。

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ビックリハウスの時代

 上京して大学に通うようになり、書店でビックリハウスという雑誌を見つけてびっくりした。1974年入学1978年卒業で、ビックリハウスの刊行期間がが1974年から1985年までなので初期の読者だったのだろう。
 歴史上の位置づけはサブカルチャー雑誌ということになっているけれど、振り返ってみるとどうもしっくり来ない。当時はまだ印刷物でコミュニケーションをとろうと思ったら、ガリガリと原紙を切って謄写版印刷の時代であり、商業ベースの印刷物は肩肘張ったもので、「ちゃんとしたもの」しか本や雑誌になり得なかった。それが力の抜けた時代のおまけみたいな内容でも、ちゃんと雑誌になって書店で売られていることに驚いたのがビックリハウスだった。

 仕事の打ち合わせに出かける途中、千駄木の古書店で『ビックリハウスの エンピツ賞傑作選』を見つけたので買ってきた。エンピツ賞というのはビックリハウスの芥川賞で、万年筆を持って肩肘張って書いたものではなく、鉛筆で広告の裏に書いたような文学作品の登竜門だった。
 どんな持ち主が読んだのだろうと赤茶色く焼けたページをめくったら栞がわりの包装紙が挟まっていた。オランダ Rademaker(ラドマーカー)社製のキウイキャンディーであり、飴を舐めながら読み、読みながら舐めるうちに、栞がわりにはさんだのだろう。

 思えばビックリハウスはサブカルチャーというより、飴を舐め舐めのユルカルチャーだったような気がする。やがて印刷物はコンピューターによる DTP の時代になり、時代はユルカルチャー全盛期に入っていく。1984年、Macintosh が登場した時のキャッチフレーズは「The computer for the rest of us.」「これまでにない一般ユーザー向けコンピューター」だったわけで、ビックリハウスもまた「for the rest of us.」だったように思えて懐かしい。

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あさっての神様

 親からそうしろと躾られたわけではないけれど、食事の食べ始めに
「おいしい」
と言葉に出して言う癖があり、おいしいと思わなくてもやはり
「おいしい」
と言ってしまう。母親と二人暮らしの時は母親に対して、妻と二人暮らしになってからは妻に対して、
「おいしい」
と言っているが、これはまず
「ありがとうございます、こうして食べ物をいただけることに感謝します」
という意味であって、この味付けは良いですという意味を含まない場合もある。もちろん料理のできばえ自体がおいしい場合の方が多いのだけれど…と念のために書いておくが。

 家庭内ではこれでかまわないのだけれど、他人と外で食事をするとき、
「おいしい」
とつい声に出して言ってしまい、味にうるさい友人に
「えーっ!ほんとうにこれがおいしいんですかー?」
などとと驚かれて、返答に困ることがある。この場合もやはり
「ありがとうございます、こうして食べ物をいただけることに感謝します」
という意味であって、この味付けは良いですという意味を含まない。

 要するにおいしいと作り手に言っている場合と、神様に感謝しておいしいと言っている場合があるから紛らわしいのだけれど、もっとはっきり
「神様、食べられるという感謝の気持ちだけでおいしいです!」
などと突然人前で声に出して言うと、どんな邪教の信者なんだろうと怪しげな目で見られそうな気もし、昔アメリカのホームドラマで見た、家族揃ってする食事前のお祈りのようにスマートには行かない。みんなで共有する神様がいないから、こんなにややこしいんだろうなと思う。

|特養ホーム敬老会で出された昼食|2012年9月16日|

 外食して店を出るときに
「ごちそうさま」
と言ったら
「金を払ったのに『ごちそうさまー』なんて、なんで言わなくちゃなんないんだよー」
と酔った友だちに冗談めかしてからまれたので
「『ごちそうさま』は神様に言ってるんだ、だから店員だってこっちを見ずに『ありがとうございましたー』って言ってただろう、あれは客じゃなくて神様に言ってるんだぞー」
と答えたことがある。日本の神様はあさっての方角にいる。

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猫の水田、雀の稲刈

 豊島区駒込3丁目、住民管理による小さな田舎『私の庭・みんなの庭』に寄ったら、先日稔りの秋を迎えつつあるように見えた小さな田んぼが、早くも稲刈りを終えて坊主頭になっていた。

|「私の庭・みんなの庭」にて|2012年9月18日|

 そして庭の隅に刈り取られた稲束がホダ掛けして天日乾燥されていた。こんなに少ないと、脱穀後の藁束を束ねて田んぼに伏せて置く光景の再現までは難しいかなと思う。

|「私の庭・みんなの庭」にて|2012年9月18日|

 猫の額のように小さな水田で、子どもたちによる雀の稲刈も終わり、小さな田舎に小さな秋が訪れていた。

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特養ホーム、実りの秋

 春になると特養ホーム裏手、南西側庭の木々にたくさんの花が咲く。顔見知りになった古顔のおばあさんに
「あの花は何の花ですか?」
と尋ねたら柚子と花梨だと言うのだけれど、
「本当にあの花は柚子で、あの花は花梨なのかなぁ、ちょっと違う気もするけれど…」
などとこっそり話していた。
 義母がその庭に面した部屋に移り、畳からベッドの生活になり、春は花に群がる蝶たちを眺め、猛暑の夏も終わり、残暑が厳しいとはいえ季節は秋になり、裏庭の木々たちも実りの秋を迎えていた。

 毎日昼食介助に通う妻が、病院リハビリで習った手足のマッサージを義母に施している間に、部屋の窓をあけてベランダへ出てみたら、おばあさんの言うとおり、柚子と花梨がたわわに実り、その間に割って入った葡萄の蔓にも立派な房がついていた。

 写真に撮ろうと拡大してみると、食用にしたい一心で農薬をかけたりしていないせいか、随分虫がついてワイルドな様相を呈している。春は春で鳥や蝶たちが狂ったように群がっていたが、秋はまた鳥や虫たちによる収穫祭でしばらくのあいだ賑わうのだろう。

 「人様に食べられることなく、鳥や虫につつかれて腐っていくだけでは、果実も生まれてきた甲斐がない」
などと、戦前戦中戦後にわたる食糧難の中、たくさんの子どもを育てて苦労した祖母なら、きっと言いそうな景色だなと思う。だが飽食の時代といわれる今なので、たくさんの鳥や虫や目に見えない生物を喜ばせ、その力を借りて種を大地に送り届けることができる光景を見て、これが生き物の定めに沿ったは良い実りの秋なのだなと思う。

 人もまたそれぞれが年相応の病を得て、過剰な延命医療で苦しむこともなく命を終えていくこと、それが一見、蝕まれ朽ちていくように見えたとしても、それはそれで良い実りの秋なのだと考えられるようになる時代のチャンスが、いま訪れているのではないかと思う。

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老人ホームの東京キッド

 祝日に関する法改正で、敬老の日が9月の第三月曜日になったので、今日は記念日としての老人の日ということになる。NHKのニュースキャスターが
「あさっては敬老の日です」
というので一瞬ドキッとした。子どものころから親しんだので、敬老の日と言えばやはり9月15日が思い浮かんでしまう。
 9月15日、義母が暮らす特養ホームで敬老会があったので行ってきた。例年恒例の歌謡ショーが終わったあと、各ユニットに戻って家族一緒の食事会になり、食事会の最後にケアワーカー手作りのアトラクションがある。
 シルクハットに蝶ネクタイ姿の男女ケアワーカー三人が、美空ひばり『東京キッド』を歌いながら、替え歌でひとりひとりお年寄りの紹介をしながら祝って回るのだが、みんな子どもに戻ったようにかわいく変身し、あの子もこの子もこんなに若々しく可愛いかったのかと驚いた。
 公然と「暗くて、きつくて、薄給だ」といわれるような仕事に、笑顔で取り組む若者たちに
「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチュウインガム」
などと屈託のない笑顔で歌われると胸に迫るものがある。

 どうしてこうも明るく表情が変わるのだろうと思うに、老人介護は人の命を預かる仕事なので、業務中は緊張して真剣な顔つきなのが老け込んで見せているのかなとも思うし、介護は辛くきつい仕事なので、余興になったらリラックスして素の笑顔に戻ったのかなとも思えるけれど、いずれにせよ業務上仕方なく笑顔で振る舞っているわけではないので、ああ良かったと心から拍手をおくる。この子どものような介護職たちが、また一年事故もなく無事に年寄りの命を守ってくれたわけで、親の長寿を祝うというより、介護してくれる他人に今度は家族が感謝する日が9月の第三月曜日老人ホームの敬老の日なのかもしれないなと思う。
 アトラクションの模様をムービーで撮影したのでDVDに書き込み、ラベルを手描きして、介護職への敬老の日プレゼントにする。

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旅の味わい

 仕事のために読まなくてはいけない本も溜まってきたけれど、一足早く秋の空のようにスカッと突き抜けて、明るく元気な気分になる読書がしたくなったので、新聞の書評にあった文庫本を買ってみた。
 立て続けに気分が塞ぐような出来事が身に降りかかった主人公が、ひとり南の島へ旅に出るという痛快冒険小説で、読み始めたら旅に出るまでがぐいぐい引き込まれるように面白いのだけれど、目的地の島に着いた途端につまらなくなってきた。

|六義園上空の雲|2012年9月13日|

 いつでもどこでも文章が書けるように、単3や単4の乾電池で動くワードプロセッサのようなものを、いざというときに備えて用意しておくのが好きだ。あんな状況、こんな状況、痛快冒険小説に出てくるようないかなる場面でも、それさえあれば好きな作文のできる道具を買いそろえて悦に入っているが、なかなかあんな状況、こんな状況がやって来ない。仕方がないので自宅でそれを広げてみるが、なんで大きなコンピュータが使える場所で、わざわざ電池で動くワードプロセッサを使わなくてはならないのかと思えてきて、馬鹿馬鹿しくて作文をする気になれない。

|六義園上空の雲|2012年9月13日|

 痛快冒険小説の方は、楽しいはずの島暮らしにさまざまな難題が降りかかるらしい。次から次へと難題が降りかかるような人生は、賑やかな都会暮らしの定めと考えればなんとか耐えられるけれど、なんで天国のような南の島まで来て苦労などしなくてはならないのかと思うと、馬鹿馬鹿しくて読み進める気になれない。
 せっかく持って来たのに読む気が失せたのでページを閉じ、注文したタンメンが来たのでそちらに集中し、

「(やっぱり昔ながらの安いタンメンは屑野菜のようなものばかり入っていて、炒めたキャベツの芯が硬くてほんのり甘いのがいいんだよなぁ)」
などと目の前のものについて考えながら食べる。

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ニガウリの巻きひげの謎

 地球温暖化や原発事故による節電の必要が叫ばれる遙か以前、おそらく武士が頭にちょんまげをのせていた時代から、植物を利用した緑のカーテンに類するものは、夏を少しでも涼しく暮らせるよう、庶民の智慧として暮らしの中にあったのだろう。
 静岡県清水という温暖な土地にあったわが生家でも、一人暮らしをしていた母は、南向きの二階ベランダにヘチマを這わせ、西日が差す居間の窓にはニガウリを植えて緑のカーテンにし、東向きのトイレの窓には自然に生えた山芋が茂って朝の日差しを遮っていた。

 義母が暮らす特養ホーム、軽い肺炎を起こして一ヶ月ちょっと入院して戻ったら、二階テラスに植えられたニガウリが伸びて、三階の窓辺に届いて緑のカーテンになっていた。つる植物を上手に誘引するよう作られているという「つるものネット」に、ニガウリの巻き鬚(まきひげ)がくるくると巻き付いている様子を眺めていると見飽きることがない。

 「巻きひげは、何かに触れるとその先端で巻きつくと同時に、より基部に近い位置で、螺旋状にねじれを生じて、植物体を引き寄せる。螺旋状になった巻きひげは、ばねのように働いて緩やかに植物体を固定する役割を果たす。ちなみに、この螺旋をよく見ると、途中で向きが反転している。ひっぱられた場合も、この形であれば、ねじれてちぎれることが少ない」と Wikipedia にある通り、螺旋状の巻きひげが途中で向きを反転させているのもよくわかり、自然の仕組みは良くできていると感心する。

 感心して眺めながらどうしても不思議なのは、巻きひげが「つるものネット」に触れてから螺旋状になって絡みつくというより、先端が触れて「つるものネット」につかまった時点で既に後部に螺旋部分があるので、それが先端部に順送りされて結果的に巻き付くのだろうか。
 いつか仕事をリタイアしての暮らしで、窓辺に植えた緑のカーテンを眺めて暮らせる夏が来たら、デジタルカメラを据えてコマ落とし撮影し、巻きひげの不思議を確認してみたい。

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世代間の隔たりについて

 世代間の隔たりをくっきりと感じる機会が増えてきた。ただその隔たりが現実のものなのか、自分が加齢により相対的に感じるようになったものなのかがわからない。

|一軒だけ取り残された風情のよい家|2012年9月6日|

 今から四半世紀前頃は、なよなよと体力のない学生たちがふらふらと街を歩いており、自分の世代を上回る体格の若者を産み出す力は、もう日本社会からは失われたのではないかと思っていた。それがこのところ街を歩くと若者の体格が驚くほど良くなっており、喧嘩でもすることになったらとても太刀打ちできそうにないと思う。身長178センチメートルの優位性などはもうとうになくて、若いスポーツ選手が世界を相手に活躍できるわけだ。

|風情のよい家の前にある防火用水|2012年9月6日

 街角で行列のできているつけ麺やラーメンの店に入ってみると、最近の若者はこんなものをうまいと思って食べているのかと驚くことが増えてきた。足し算足し算でどろどろと濃いだけの液体に、香りづけというより臭いだけの魚粉を加えたりし、さらに加えるものはないかと競っているように見える。逆に、程良く席が空いている店に入ってみると、どうしてこんなにおいしい店がもっと流行らないんだろうと思うことも増えてきた。

|台東区上野5丁目で見つけたラーメン屋。さっぱりと美味しい。|2012年9月6日

 若者の体格がよくなったと感じるのは、世界レベルの選手が増えてきたのでそう見えるだけなのか、気力体力の衰えが若者を大きく見せているに過ぎないのか、食欲が衰えて若者の「ガッツリ系」が口に合わなくなっただけなのか、それらのどれが理由であるかの真相はわからないし、実は理由はすべてを足し算したものなのかもしれない。それでもあえて隔たりを感じていたいので断言してしまえば、最近の若者は図体がでかくて、食べ物に対する口が曲がっている。

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老人と王権

 8月2日から1ヶ月あまり入院していた義母が東大宮の病院を退院した。
 老人が長期間入院しているとあっという間に認知症がすすんでしまうという事例をよく聞くが、義母の認知症はこれ以上すすみそうもない状態なので、その心配はしていなかった。
 意外だったのは入院した病院がとてもリハビリに熱心で、治療方針が決まったらすぐに退院日めざしてリハビリを始め、少なくとも入院前の状態に戻すからどんな暮らしをしていたか資料が欲しいという。家族や施設職員による写真記録は大切だ。
 そんなわけで一ヶ月間拘縮部のリハビリなどを受けたせいか、退院時には車いすへの着座姿勢など、とても良くなっているように見えた。

|老人ホーム裏手の苔むした斜面に日が差していた|2012年9月5日|

 特養ホームに帰ったら、義母のユニットに新しい利用者が加わっていた。
 昼食時、車いすに乗って現れたときからひどく興奮しており、なぜ起こされて車いすに乗せられ、なぜ食堂に連れられて来たか、ちゃんと説明もなくさせられたのが嫌だと大声で怒鳴り散らしている。食事は車いすに座ったままではさせないというのが施設側の介護方針なのだけれど、なぜそうしなくてはいけないかを説明してくれるまでは、車いすから普通の椅子への移動介助されるのも嫌だと言う。
 ケアワーカーが丁寧に説明すると、ああ言えばこう言うで次々に質問を変え、永遠に相手か自分が疲れ果てるまでの禅問答に持ち込むタイプで、久しぶりにこういう老人を見た。久しぶりというのは、在宅で介護されていたときの義父がそうだったからで、介護専門職が三人がかりでも手に負えないような老人に、家族が泣きながら振り回されていた頃のことを思い出した。

|赤羽駅ホームに落ちていたRegalia(王権)と書かれた紙片|2012年9月5日|

 介護職や家族を際限のない堂々巡りに引き込んで振り回そうとする老人は、
「ああ、何もかもやだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ…」
という思いで胸が一杯になり、その「やだ」と思う現実を運命として受け入れなくてはならないとわかっているのだけれど、受け入れなくてはならないちゃんとした理由を説明しろと言いつつ、相手が説明不能な方向へ次々に誘導することで、ちゃんと説明して貰えないから自分は受け入れられないのだ、受け入れられないのは自分のせいではないのだ、ということにしたい戦術なのだと思う。
 まるで老練な心理学者を相手に禅問答を仕掛けられているようなものだなと思ったら、行動主義心理学者バラス・スキナーの「歪んだタクト」を思い出した。

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小島に生まれて小島に眠る


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 和田島の学校で打ち合わせを終え、興津駅から上り電車に乗って帰京する前に、ちょっと寄り道して小島藩陣屋跡を歩いてみた。諸田玲子さんの『日月めぐる』を読んだあとなので、一万石の小藩の陣屋があった場所を歩き、酒瓶神社にでもお参りし、まだ感傷的な楽しみ方ができるうちに物語を反芻してみたいと思ったからだ。

|小島陣屋跡パノラマ|2012年8月31日|

 父祖代々まもり続けた身代を実の子に受け継がせたいなどということは、平均寿命がとんでもなく延びた現代だから簡単に思いつくけれど、驚くほど短命だった時代にはとても難しい事だった。城を持てない一万石の小藩とはいえ、ありがたく受け継いでいけば当主はもちろん従業員とその家族まで食いつないでいけるわけで、ご先祖が残してくれるものはありがたい。だが早死にの時代にあっては、それを血を分けた実の息子に譲るのは難しかった。

|小島陣屋跡|2012年8月31日|

 小島藩祖とされる松平信孝(まつだいらのぶなり)は、三河十八松平のひとつ、丹波篠山藩主である形原松平家の出で、1671(寛文11)年に滝脇松平家の養子に入り、この人の代で一万石に加増されて諸侯に列せられている。というわけでこの人を初代に数えることもある。
 次の代の松平信治(まつだいらのぶはる)は先代信孝の妹と旗本戸田和泉守重恒のあいだに生まれた二男で、この人が養子に入って小島に陣屋を構えた。52歳で亡くなり、息子がいたが早世していたので、次の代は形原松平家から松平信嵩(まつだいらのぶたか)が養子に迎えられて後を継ぐ。この人は22歳の若さで亡くなるが小島で生まれた息子がおり、わずか4歳で家督を継ぐ松平昌信(まつだいらしげのぶ)ということになる。松平昌信の時代のことは鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)さんが「駿河史秘話~小島藩と白隠禅師と朝鮮通信使」と題して北村欽哉(郷土史家・朝鮮通信使研究家)さんが行われた講演を丹念にまとめられているので参照されたい。

|陣屋跡はほとんど農地になっている|2012年8月31日|

 歴代小島藩主の墓は弘法大師ゆかりの台東区下谷英信寺にあるが、11代のうち昌信の墓だけが、小島陣屋近く、臨済宗妙心寺派拈華山龍津寺(りょうしんじ)内にある。小島に生まれて小島に眠るという百姓に生まれたら当たり前で避けられないことも、小藩とはいえ藩主となるとなかなか得られない境涯であり、殿様も因果な商売だったんだなと思う。

|往事を偲ばせる石垣|2012年8月31日|

 小島陣屋跡を見終えたあと、酒瓶神社にお参りした。ここにある石の鳥居は9代藩主松平信進(まつだいらのぶゆき)が寄進したものだが、彼もまた出雲松江藩主越前松平家からの養子だった。諸田玲子さん『日月めぐる』は、ほぼこの人の代を中心に書かれている。
 幕末から明治にかけて、小島藩は千葉へ転封となり版籍奉還を経て消えていくのだけれど、そういった殿様漂流の歴史ではなく、父祖伝来の土地に縛り付けられることによってその地に生き、その地で眠っている人たちの、暮らしの歴史を学びたいなと思っている。

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和田島メモ


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 編集委員をしている雑誌の取材で清水区和田島に出かけた。
 和田島は、興津川河口から流れが刻んだ谷間の道を辿っていくと現れるちょっと開けた平らな土地であり、ああ町の中に出たと一瞬思わせる場所にある。子どもの頃、興津川上流に遊びに行くときは自動車やバスで必ず通り過ぎる場所だったが、縁あって出かけたので初めて足で歩いてみた。

|興津川の和田島魚道|2012年8月31日|

 食料品を扱うよろず屋、今風に言えばコンビニ風の店が数軒あり、床屋、魚屋、金物屋、診療所、食道を兼ねた旅館、幼稚園、小学校、中学校もあるひととおり揃った山の町である。ただし山梨県境まで続く奥清水で開けた町はここだけなので、清水区総面積の37パーセントを占める広い学区から、中学生は毎日自転車で通学してくるという。山の子どもたちはたいへんだ。

|和田島の町並み|2012年8月31日|

 下調べもなしに出かけていったので、帰京してから寄っておけばよかったと思う場所が和田島にはいくつかあり、また出かけるときのための覚え書きを書いておく。
 ひとつは奥清水地区にたくさんある白髭神社のひとつを見ておけばよかったこと。白髭神社は清水で一番多い神社なので珍しくなく、わが生家の氏神様もまた白髭神社なのだけれど、考えてみたら奥清水は空襲を免れた社殿が現存しており、江戸中期建造の社が今も残っているのだった。ということは建てられた最初の場所に社がある可能性が高く、どんな場所にあるのか確かめてみたかった。かつて踏鞴製鉄が行われた場所である可能性もあるので。

|和田島小学校|2012年8月31日|

 もうひとつは臨済宗妙心寺派蔵珠寺。両河内はタケノコ栽培が盛んで、東京の八百屋店頭でも「おいしい両河内産」などと誇らしげに書き添えられて売られているのを目にする。ただし茶、毒荏、和紙や蚕ほど産物としての記録がないので、タケノコ栽培がいつ頃から始まったのかが気になっていた。
 両河内中学の生徒たちが聞き書きした資料を見せてもらったら、明治40年頃に和田島の寺から持って来て植えたのが始まりとあった。和田島で寺と言えば蔵珠寺なので、一度行ってみたい。
 というか、和田島というのは、リタイアして東京を離れたら、暮らしてみたい郷里の町のひとつである。

|鮎を釣る人|2012年8月31日|

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新東名高速道路を見上げて


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 この夏は郷里清水に帰省し、新東名高速道路の橋梁下を悪夢を見るように驚きながら何度か歩いた。新東名は30%以上の区間が橋梁上を通るので、上空を通過する高速道路を見上げる谷間の地域が多い。自然景観の中に異様な構造物が出現し、結局インターチェンジも作って貰えず、高速輸送網の足もとに取り残されたままの山間僻地ぶりを嘆く地元の声もよく聞く。

|清水区和田島にて|2012年8月31日|

 台風が来たら停電して何日も復旧せず、土砂崩れ箇所などの復旧作業も都市部より後回しにされ、陸の孤島のようになって新東名高速道路を見上げて暮らすしかないのが、山里の宿命なのかという話を聞く。聞きながら疑問に思うことがあり、
「でもそこに通行できる新東名高速道路があるんだから、災害救助のためにあそこからここまで、降りてきてもらうことはできないのですか?」
と尋ねたら、災害時に降りてくるための道はあり、現に災害復旧のための車両は新東名を使ってやって来たという。

|県道196号線土砂崩れ現場|2012年8月31日|

 3.11の大災害以来、東海道線普通列車で帰省するたびに、根府川や由比などを通過中、東南海大地震に遭遇しなければいいなと思う。東海道線や新幹線、国道一号線や東名高速道路が、狭隘な海岸線を奪い合うように集中して走る地域で、大災害が起きることを想像すると、新東名高速道路は完成してよかったと思う。いざというときの都市部だけではなく、奥静岡地域の災害支援のため、新東名高速道路をいかに有効活用するかが十分に検討されていることを望む。そうでないと山の自然に申し訳が立たない。

|和田島で興津川を渡る新東名|2012年8月31日|

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蓮と茶屋

 蓮の花が咲く季節に上野不忍池を通りかかると、ぶらっと入ってビールでも飲みながら、窓の外を眺めていたい風情のよい茶屋がある。

|上野不忍池にて|2012年8月30日|

 毎年そう思うのに、この場所を通りかかるときは、たいがいは打ち合わせ前の時間潰しなので、なかなか願いが叶わない。今年もまたお預けかなと思うので、あの席に腰掛けたつもりで写真を撮ってきた。

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鴨の午睡

 鳥の胸板というのは顎をのせて休憩するのに適している。そして胸板に顎をのせているときというのは、自分の鼓動が子守歌のように心地よく聞こえているのかもしれなくて、たいがいうつらうつらと気持ちよさそうにしている。

|上野不忍池にて|2012年8月30日|

 鳥の瞼は下から上に閉じ、上から下に開く。タカなど上空から襲ってくる天敵にいち早く気づくためには上から開いた方が有利だから、という説明が理に適っているように思う。鳥の瞼は瞬きをするためにあるわけではなく、瞼とは別に、横に動く瞬膜というものがあり、それを開閉させることが人の瞬きに当たる機能を担っている。しかも水鳥の場合、瞬膜は閉じると水中メガネの役割をするそうで、良くできているなぁと感心する。

|蓮の花が絶賛開花中|2012年8月30日|

 見れば見るほど良くできた身体の仕組みを授かっており、これでスズメのように儚く短い生涯だったらもったいないことだと思うが、カモは平均十数年、運がよければ二十年くらいは仲良くつがいで暮らすそうで、それはまあ何よりだなと思う。

|下から上に閉じた瞼|2012年8月30日|

 根津の出版社で打ち合わせがあり、約束の時刻まで間があるので池の畔で時間潰しをした。蓮の花咲く極楽のような景色の中で、カモたちも眠たそうだが、彼らの瞼は下から上に閉じるので、人間のように「瞼が重くなる」と開いてしまって眠れないことになる。

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