【近くへ行きたい】不動院から滝不動まで

 駒込駅前でおばあさん二人連れに
「ちょっとお訪ねしますけど旧古河庭園はどっちでしょう」
と聞かれたので
「この道を真っ直ぐ下ってください。下ってまた登りますが登り切って道が左に折れた所が入口です」
と教えた。丁寧に礼をされてよたよたと歩いて行かれたが、ふと気になって時計を見たら16時10分だった。

 「旧古河庭園に入園されるんですか?」
と聞くのが本当の親切ではなかったかとしばらくして気づいた。もし旧古河庭園に行くなら、あの足取りで歩くと着く頃には16時30分で入園終了時刻なのだ。まぁ、行くだけ行ってみた事による満足というのもあるし、歩けば介護予防にもなるし、と言う事でよしとしたが気になる。

|西ヶ原不動院の道標|

 旧古河庭園裏手、霜降橋交差点から旧東京外大方向へ向かう道があり、右側が学生時代を過ごした西ヶ原になる。アパート裏手に一度も行った事のない寺があって不動院という。境内に珍しい道標が保存されているというので見に行ってきた。「滝不動までの道は説明しにくいから誰か案内人を見つけた方がいいよ」という意味の事が刻まれているそうで、こういう親切もある。

 本当の親切は引っぺがしたら裏が壁になっているような平面的なものではない。「平面的な助けに頼るな、人は立体的なのであなたの困難に合わせる可塑性がある。物怖じしないで人を見つけて頼れ」という助言もまた、立体的で親切である事を教える、江戸時代の道標を思い出して見に行った話だ。

【追記】
日記もどきをツイッターでつぶやいたらこんな書き込みが流れてきてほっとした。
「散歩をしていたら、旧古河庭園が5月26日まで夜間開園でライトアップというポスターを見かけた。TL のおばあさん二人組も堪能されたに違いない、などと勝手に想像」
よかった、あのおばあさん二人は無事に夜間ライトアップを堪能したことだろう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

小さな穴掃除のこと

 家庭内の様々な場所にある道具にはさまざまなフィルターが付いている。ただ異物を通さないだけでなく、集まった異物をゴミとしてまとめる機能もフィルタは担っている。
 優秀なフィルターは目に見えにくい微細なものまでとらえるので感心するが、結局それを掃除するのは人間の仕事なのでかなわないなとも思う。フィルター掃除が面倒だとはいえ何でもかんでも使い捨て化するのは良くないので、「わ~すっごくとれてる~」などとわざとらしい歓声を心の中であげて、労働を快感化し、自分をだましだまし励行している。
 今朝は浴槽の循環孔についているフィルターを清掃したが、メッシュ状の茶漉しよりさらに精細な構造なので、ありていに言えば面倒臭いったらありゃしない。この循環孔は正式名をなんというのだろうと調べたら追焚口というらしい。追焚口のフィルタはかなり細かい毛埃のような物も通さないようになっていて、金属メッシュの茶漉しよりも細かい。


 お茶どころ静岡出身のせいか、急須の茶漉しの掃除がいい加減だと気になって仕方ないので妻に任せておけない。ほんのちょっとでも古い茶葉が引っかかっているとせっかくのお茶の味が損なわれる気がして放っておけないのであり、嫌々ながらの面倒な家事分担はそういう「これは我慢ならん!」によって自動的に割り振られているように思う。
 微細な穴に詰まったものを、楊枝を使ってほじくり出すような行為が好きでたまらないという性向が、自然な家事分担の役に立っているとも言える。
 レース編みが大好きだった若い頃の母もそういう人で、小さな穴の中の汚れが気になると、編み針の先でほじくり出しては喜んでいた。子どもの頃よく耳掃除をされたのもその延長だったのだろう。楊枝や編み棒や耳かきなどの細いものは、そういう性向を持っているかのバロメーターかもしれなくて、重箱の隅をつつくような校正が得意な編集者の鉛筆立てには、たいがい年季の入った耳かきが混じっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

iPhone4 のワープロ化について

 iPhone を使い始めて丸二年が過ぎた。もともと小さなコンピュータで文字打ちするのが好きだったので、未明に目が覚めると小さなスクリーンキーボードを叩いてずいぶん文章も書いた。
 二年間しっかり活用してバッテリーもだいぶくたびれたということもあり iPhone を第五世代に機種変更した。電話に使えなくなった古い iPhone は、自分でバッテリ交換を試してみたら上手く行ったので使い続けることにし、メカニカルなスライド式キーボードを取り付けて文字打ち専用ワープロ化することにした。


 iPhone 第四世代用のスライド式キーボードつきケースを初めて見たのは nuu という会社のものだったと思うけれど、その後、中国製の類似品がたくさん秋葉原に出回った。使ってみるとそれぞれキー配列が微妙に違い、使い勝手の良いものになかなか出会えなかった。
 第五世代が出て旧型になったせいか、第四世代用のアクセサリが投げ売りになったので、あれこれ買ってきて究極のスライド式キーボードつきケースを探してみた。結果、群を抜いて優れていたのが iBUFFALO Bluetooth キーボード iPhone4 専用ケース BSKBB07BK という機種で、パソコンで文字入力している者が違和感なく使えるような気遣いが細部にあって好もしい。これはいいなと思う点を列挙すると次のようになる。


・句読点がファンクションキーを押さなくても直接打てる。句読点は打ち込み頻度が高いのでこれはとても大切。
・スペースとエンターキーが大きくて打ちやすい。これもまた仕様頻度が高く、さっと指が動いて打ち間違いのない大きさであるのは大切なポイント。
・tab/caps/shift/delete キーの位置が端っこという直感的な場所にあって戸惑わない。
・shift/fn キーが左右にある。押しながらのキー操作が多いので便利。
・iPhone のホーム画面に戻れるホームボタンがある。
・キーボードがアイソレーション式でクリック音がうるさくない 。
・キーボードを閉じたときのがたつきがなくてカッチリしている。

ということで電車内でゲームをするヘンなオヤジ風原稿書きツールメモ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【近くへ行きたい】旧岩槻街道日光御成道と赤羽一番街とシルクロード

 大宮の特養ホーム訪問帰りに、大宮駅駅ビル内の東急ハンズで義母の買い物をしようとしたが目当てのものがなく、そういうものは赤羽まで戻った方が見つかるのではないかという話になり、赤羽駅西口のイトーヨーカ堂で買い物をした。
 赤羽駅西口ロータリーに面したイトーヨーカ堂前の道は旧岩槻街道日光御成道であり、道はそこから JR の下をくぐって川越えをするために岩淵宿方向へと向かう。JR 赤羽駅はかつて現在地よりもう少し川口寄りにあり、今の赤羽駅前として開発される前の地図なら旧岩槻街道のルートがわかるかもしれないと思い、大正時代、関東大震災前の地図を見たら、やはりイトーヨーカ堂前から道標のある宝幢院前までの道筋がよくわかった。

 買い物を終えて東口に出て、赤羽一番街裏手にある小さなアーケード商店街「シルクロード」を歩いた。昔からある玩具店や古書店以外は赤提灯が目立ってレトロな飲食店街化しているように見える。そのうちの一軒に入ってみたら、料理が美味しく客扱いも良くて楽しく飲むことができた。

|シルクロード、赤羽駅東口方向|

|シルクロード、岩淵方向|

シルクロードを出た突き当たりを右折すると赤羽小学校、左折して一番街と交差する角に「まるます家」があり、その先を線路に沿って右折した道が旧岩槻街道日光御成道になる。


 地下鉄南北線に乗って駒込まで乗り換えなして帰宅するため赤羽岩淵駅まで歩いたが、旧岩槻街道日光御成道を歩くより遥かに近いので裏通りを近道した。旧街道が忘れ去られていくわけだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

モード学園コクーンタワーあたり今昔

 代々木の出版社で打ち合わせがあり、約束の時刻まで時間が空いたので西新宿を歩いたら、新宿郵便局越しにモード学園コクーンタワーの異様な姿が見えた。
 あのビルが建つ前は何だったのだろうと古い地図を調べたら、朝日生命保険本社があった場所だった。それより昔、たとえば関東大震災で東京地図が大きく様変わりする前、その頃は何があったのだろうと地図を調べてみた。

 地図上方に鉄道路線が見えるのは淀橋浄水場までの引き込み線。こんな場所に女子大学があるのが気になり、「女子大学 角筈」で検索してみたら東京女子大学だった。ここが1918(大正7 )年東京女子大建学の地で、当時の住所は東京府豊多摩郡淀橋町字角筈になる。その下には1916(大正5)年に神田から移転してきた日本中学、現在の日本学園があり、正確にはこの辺りがモード学園コクーンタワーが建つことになる場所に近い。

 その後、朝日生命保険本社があった時代を経て今に至るわけだけれど、関東大震災後、戦前の地図を見ると東京女子大も日本中学もすでになくなっていて今度は工学院がある。工学院の沿革を調べてみると、関東大震災によって京橋区南小田原町にあった校舎が全焼し、1923(大正12)年日本中学校を仮校舎として授業を再開したとある。
 このあたりは昔からめまぐるしく変貌しており、そう思って見上げるとモード学園コクーンタワーも多少異様さが薄らぐ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【近くへ行きたい】西ヶ原一里塚と渋沢栄一

 江戸時代、現在の東京都域内には一里塚が 18 か所あったという記述をネットで読んだけれど、自分で調べたわけではないので確証がない。往事の姿を残して保存されている一里塚はもうふたつしかないというのは確かで、現存しているのは中山道志村一里塚と岩槻街道西ヶ原一里塚の 2 か所だけになっている。
 霞が関の全国社会福祉協議会に行って仕事の打ち合わせを終えたあとの雑談で、西ヶ原一里塚の話が出て渋沢栄一がらみの話になった。全社協の起源を遡れば明治 41 年 10 月 7 日に発会式を行った「中央慈善協会」となり、その初代会長が渋沢栄一だったわけで、まだ久保講堂があった時代の古びた全社協ビルで、古株の職員から渋沢栄一の話を聞いた頃のことが懐かしい。渋沢栄一との縁を歴史の道に辿って行けば、旅の徒然を慰めるように西ヶ原一里塚のこぼれ話が出てくるわけだ。いちど渋沢栄一記念館訪問を兼ねて歩いてみたいと言うので、ぜひ一緒に歩きましょうなどと話して別れた。

区内には二ヵ所の一里塚があった。西ヶ原一里塚、稲村一里塚である。西ヶ原一里塚は、都内でも唯一、昔からの場所に位置する国指定の史跡である。慶長九年の街道整備のおり、幕府は各街道に一里ごとに一里塚を築くことにし、塚の上には榎が植えられて、街道は松並木とした。一里塚は旅人の目じるし、馬子・駕籠の料金の目安になったことはいうまでもない。西ヶ原一里塚は日本橋から二里目にあたる。今日、両側とも旧位置のままにあるが、大正初年に東京市より撤去されそうになった。しかし滝野川町民の熱心な保存運動が地元の最有力者渋沢栄一を動かし、今日のように保存されることになった。(*)

 大学生時代の四年間、この一里塚近くにあるアパートで暮らして文京区内の大学に通ったので、毎日のように脇を通ったが、驚くほど巨大建造物が建ち並んで面影をとどめないのに対して、当然のことながら塚だけはいまも変わらずにいる。歩く距離数が多くなるほど血圧が下がるので、なるべく早朝散歩をするようにしているが、全社協で一里塚の話しをする数日前にも、通りかかって写真を撮ってあったので資料をまとめて掲載してみた。

|西ヶ原一里塚で岩槻方向を見たところ|

 墳丘のようになっている一里塚の手前の道が、日光御成道・岩槻街道で、向かい側の塚は歩道の脇に残る。塚の先が新道で、都電もここでふたつに分かれていた。この一里塚の由来のほかに、史跡として残すか否かは、国民が文明的であるか野蛮であるかを判断する基準とまで記した石碑が塚にある。渋沢栄一が誰にも読めるようにと三上参次博士に依頼して大正五年に仮名まじり文で書いた碑である。(*)

 早朝散歩の足をとめ、一里塚を眺めて休憩していると一里塚に対する「なぜ?」がいくつも思い浮かぶ。街道に松並木が生えている景色は全国各地でいまも見られるが、なぜ塚には榎が植えられたのだろうか。榎は枝を張って日陰を作るということもあるけれど、根を張って塚が崩れないようにするためにも、都合のよい樹木だったらしい。街道整備にかかる出費は大変な経済的負担だったから。
 もうひとつの「なぜ?」、一里を三六町、一町を六〇間、一間を曲尺(かねじゃく)六尺などと厳密に定めた情熱はどこから来たのだろうということ。思うに、街道を行き来して物流をになった人々が、距離によって料金を定めるのに便利で、経済を活性化して維持するため、距離の概念は経済の大切な基礎の一つだったのだと思う。

|西ヶ原一里塚で日本橋方向を見たところ|

本郷通りはこの塚があるため、ここでカーブー(ママ)しており、塚には交通量があまりに多いので近寄れず、かえって保存がゆきとどく結果となっている。中山道には志村一里塚が残るが、道路拡張のため、移動されている。この西ヶ原の場合は、二つの塚の中間の道がちょうど昔のまま日光御成道の幅を伝えている、まことに貴重な史跡といえる。(*)

 塚が保存されていることも重要だけれど、江戸時代の街道がどれくらいの道幅で作られたのかがわかるということが、動かさないでそのまま保存することの重要ポイントで、やっぱり日本資本主義の父と呼ばれる実業家だけに渋沢栄一は冴えていたんだなと、最後の「なぜ?」にも勝手な解釈で無理矢理丸めて納得する。


*東京ふる里文庫22『北区の歴史』芦田正次郎ほか・文/東京にふる里をつくる会編/名著出版 昭和54年 より

 

【追記】
地図上で西ヶ原一里塚はどんな風に描かれているのだろうと思い、明治初期と後期2枚の地図を見たがまったく描かれていないので驚いた。当時の地図作製者にとっては一里塚など早晩削り取られるべき道路の邪魔物にすぎなかったのだろう。それではと思い、路面電車が一里塚を避けるようにして敷設されたのち、関東大震災直前の地図を調べたら渋沢栄一邸とともに記載されていた。

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

【近くへ行きたい】街道と足湯

 中山道大宮宿にはなぜか脇本陣が九軒もあったというので、検索したらさいたま市緑区大字大門2864に建物の一部が修復保存されているという。地図で探してみたら埼玉高速鉄道浦和美園駅に近くて中山道じゃないじゃん…とよく見たらその脇本陣があったのは岩槻街道日光御成道沿いだった。
 大震災のあった 3.11 の翌日、駒込駅から動いていた地下鉄南北線に乗り、埼玉高速鉄道へと乗り継いで浦和美園駅で下車し、臨時バスに乗って古道らしい地名の残る田舎道を通り、さいたま市見沼区にある特養ホームまで義母の様子を見に行ったのだけれど、なんとあの道が岩槻街道日光御成道だったのかと今になって驚いた。

|岩槻街道と浦和美園駅と特養ホーム|

 浦和美園駅を出た大宮駅東口行きバスは玄蕃新田とか南部領辻とかいった古めかしい地名の地域を辿り、上野田で左折するまで旧岩槻街道日光御成道を走っていたのだった。右手に浦和学院高校、左手にさぎ山記念公園を見つつ左折し、加田屋新田、山、御蔵と古そうな地名を点で繋ぎながら、特養ホームのある東新井へたどり着いた日のことを思い出した。
 毎日埼玉の特養ホームまで母親の食事介助に通っている妻に
「もしまた大地震が起こって、その時点で埼玉県内にいたら、都内に引き返そうとせず特養ホームに戻って泊めて貰え」
と言ってある。六義園前から日光御成道を歩いていけば特養ホームまで行けるわけで、地下鉄南北線と埼玉高速鉄道は日光御成道の現代版なのだなと思う。

|特養ホーム屋上から見るさいたま新都心。あのあたりが旧中山道|

 5月12日は母の日、特養ホームで母の日会があるというので参加した。
 郷里静岡県清水に比べて埼玉県は平野部が広い。京浜東北線に乗って大宮まで出掛けるのだけれど、その路線に沿うようにしてある中山道、南北線と埼玉高速鉄道に沿ってある岩槻街道、そして岩槻から先で合流する日光街道と街道が平行して縦走し、それらを横に繋ぐようにして鎌倉時代からの古道がある。
 露天風呂の足湯があるというので特養ホーム屋上に上がってみた。中山道、岩槻街道、日光街道に挟まれた地域にある老人ホーム屋上で、たくさんのお母さんたちが足湯を使う風景を眺めながら、昔の人の旅をぼんやり思う。

|特養ホーム屋上露天風呂で足湯を使うお母さんたち|


▼岩槻街道日光御成道地図

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【近くへ行きたい】駒込土物店跡(こまごめつちものだなあと)で考えたこと

 仕事の打ち合わせ帰りに地下鉄南北線東大前駅で降り、旧中山道を辿って白山上まで出て、白山上から岩槻街道まで大好きなショートカット(地図赤線)を通って駒込土物店石碑前に出た。

駒込土物店跡(こまごめつちものだなあと)
 神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
 起源は、元和年間(1615~24)といわれる。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の“さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといわれている。土地の人々は“駒込辻のやっちや場”と呼んで親しんだ。また富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である“土物”が取り引きされたので土物店(つちものだな)ともいわれた。正式名は“駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは“駒込青果市場”と改称した。
 街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡張などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の青果市場となって現在に至っている。(石碑脇にある文京区教育委員会の案内板より)

 神田の市場には葛飾や江戸川や千葉方面の野菜が入ってきたが、駒込の市場には北や豊島や板橋方面の野菜が並んだ。江戸野菜としては地元駒込茄子以外に滝野川蕪、滝野川人参、滝野川牛蒡などという名が知られていて、どうして江戸野菜の栽培が隆盛を極めたかと言えば、江戸の人口爆発で消費量が増えたこと、土地が蔬菜栽培に適していたこと、そして米に比べて年貢徴収に関する幕府の目が甘かったので、お百姓は精を出す甲斐があったという。

日光道中は千住から出るのに、将軍が御成道を通るのは、岩槻城があったためであろう。将軍が途中で宿泊するのは、通常の宿の本陣というわけにはいかない。日光社参のときには、岩槻・古河・宇都宮の城に宿泊する。日光道中では古河まで城がない。千住から岩槻へ行ったこともあるが、それでは少し廻り道になる。そこで御成道が作られたのであろう。岩槻からは日光道中の幸手に出て、それから本街道を通るのである。(中山道を行く |児玉幸多| 中公文庫)

|中山道・岩槻街道間の白山上ショートカット(下の地図で赤線)|

 岩槻街道は将軍日光社参のために作られた道であり、それ以外の用途では岩槻城主の参勤交代などに用いられたらしいが、野菜を運ぶ農民にとっても便利であり、白山上が中山道との結節点だったので駒込土物棚が自然発生したのだろう。
 日本の街道は人が歩く道であって車が通らないという特徴があった。車の轍で道がへこめば修繕の労力と金が必要となるため、幕府が車の利用を禁じたと言うが、幕末・明治維新、郷里静岡県清水に大量の幕臣が難民として流入した際、幕府の人間が自ら荷を積んだ車を引くのだから、われわれも車をひいてええずら、ということになって車の利用が加速したという。
 板橋辺りから駒込土物店に野菜を担いでくる板橋方面のお百姓は坂が各所にあって大変な苦労だったという。野菜を売った帰りには人の屎尿を肥料として買って帰ったというが、車を引かずに運んだのかしらという苦労が気になる。車の利用は道が傷むから禁ずるという理由以外に、お百姓が苦労もなしに広範囲な換金作物流通を始めたら、幕藩体制が揺らいで困るという思惑もあったのだろう。

 |駒込土物店辺り(明治初め頃の古地図)|

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【近くへ行きたい】ニッポンレンタカー日暮里駅前営業所の石灯籠

 さいたま市にある特養ホームに義母を訪ね、京浜東北線で日暮里まで引き返し、買い物をしたあと一杯飲みながら歩いて帰った。
 荒川区東日暮里にあるニッポンレンタカー日暮里駅前営業所脇を通ったら敷地内に「宝暦十一年」(1761)と刻まれた古くて立派な石灯籠があり、どこかから持ってきたというより、もともと敷地内にあったものを保存しているようにも見える。どういう由来のものか聞けそうな人が見あたらないので、帰宅して検索してみたが情報がない。

 日暮里駅東側は現在の JR に沿うように音無川が流れ、川に沿って根岸から王子に向かう古道があった。根岸芋坂羽二重団子前を通って西日暮里駅前に向かう線路沿いの道がそれで、明治時代鉄道開通前の古地図を見るとニッポンレンタカー日暮里駅前営業所あたりにも枝分かれした道が見える。もともとこの場所にあったなら道行く人のために設置された常夜灯だったのかも知れない。真相はわからないけれどレンタカー会社とあながち無関係でもないわけだ。

(地図は鉄道開通後の明治時代)

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

2013年5月5日の写真日記

 

秋葉原まで歩いて買い物に出たら根津神社は大混雑。

 根津神社でお参りするため行列する善男善女。

 愛犬を連れて根津神社に店を出していたチョコバナナ屋。飼い主の仕事に付き合っている犬を見るのが好きだ。退屈そうで寝てばかりいるが、飼い主の人生に付き合うというこれも一種の使役犬。

 白鳥がいっぱい漕ぎ出している不忍池。

 白鳥とカモメ。

 片足を上げ羽根の中に入れて冷えないようにしているカモメ。真夏に近づき、40度近くある体温と外気温の差が小さくなっても、やはり片足やくちばしを格納して休むのだろうか。

 不忍池ほとりの路上にしゃがみこんで手づくり握り飯を食べているおじさんに「おい!」と声をかけられたのでびっくりしたら友人のカメラマンだった。お互い東京在住とはいえよくピンポイントで遭遇するもんだと大笑いした。写真は雀の餌やりをする女性。

 ヨドバシアキバで仕事用ソフトライセンスの支払いを済ませたら、ポイントが貯まっていたので iPad mini 用の Logicool Ultrathin Keyboard Mini と交換してきた。秀逸な出来映えで、マグネットによる固定ギミックが素晴らしい。写真は秋葉原電気街外れ、創業明治5年の「以し橋」。この時期になると店の前にある緑のアーケードが心地よい。神田祭も近い。

 六義園から飛んで来てベランダ排水溝で発芽していたモミジ。苔ごと移植した鉢の土砂流出を防ぐため青木ヶ原樹海で拾って来た小石を配してみた。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ちかいの魔球と塩田川】

【ちかいの魔球と塩田川】

 子どもの頃、ちばてつやの野球漫画『ちかいの魔球』が好きだった。主人公二宮光は水中で魚のハヤが危険を感知して瞬間的に方向転換する様子を観察し、その原理を投球方法に取り入れて魔球を完成させたのだったと記憶している。そのシーンでなぜか郷里静岡県清水市を流れる塩田川を思い出していたのは、主人公と同じようにハヤの動きを興味深く眺めたことがあるからだろう。

 5月2日、墓参りを終えて塩田川を渡りながら立ち止まったら、やはりハヤのような魚たちがたくさん泳いでおり、僅かな人の気配にも敏感に反応してすばやく向きを変えていた。この魚たちが幼い頃に見た魚たちと同じ種類なのか、それが果たして本当にハヤなのかについては確証がない。ただ、今も昔も相変わらず魚影が濃いことと異様にすばしこいことは確かだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【カメのいる田んぼ】

【カメのいる田んぼ】

戸田書店発行『季刊清水』の編集作業が今年も始まった。

 会議や取材で帰省するたびに、清水区大内にある寺へ墓参りし近くにある田んぼを定点観測するのが毎年恒例になっているのは、いつも田んぼの角で甲羅干しをしているカメに会うのが楽しみだからだ。
 2011年6月19日の日記を見たら、やはり墓参り後カメの様子を見に寄っていて
「いつもの大内田んぼ。この畦の角に大きなカメがいていつも甲羅干しをしており、頭上に人影が見えると亀とは思えない俊敏さで逃げていく。」
と書き添えてカメのいない定位置の写真を載せていた。

 今回は一ヶ月以上早いのでまだ田植えの準備も整っておらず、畦から逃げ出すカメの姿も見えないのでまだ寝ているわけでもなかろうにと思ったら、水中にいて鼻だけ水面に出していた。

 いつもなら慌てて水中深く潜ってしまうのに、今回はカメラを向けても平然としているのは、まだうとうとと眠いのかもしれないなと思う。人間だって眠くてたまらない春なのだから。
 今年も墓参りとカメ定点観察をかねた長丁場の郷土誌づくり作業が始まった。

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( )