言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『論座』終刊はなぜ?

2008年08月16日 07時11分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞社が發行してゐる月刊誌『論座』が10月號で休刊するといふ。かういふ場合の「休刊」とは「終刊」のことであるが、殘念だといふ思ひがないわけでもない。しかし、今月號を讀むかがり仕方ないなといふ思ひの方が強い。

それは何か。インタビューの録音を活字にして文章構成するのだが、それが何だかなつてゐないのだ。ありていに言へば、文意が明瞭ではないといふこと。インタビューされた本人の校正を經てはゐるのだらうか。しかし、それでも「てにをは」ぐらゐの直しぐらゐしかできてゐないのではないか。具體的に言へば、

大阪大學總長の鷲田清一氏の「哲學の現場は言説が立ち上がる場所」。この方の文章もすこぶる理解しにくいが、この記事の内容も分かりにくい。現場に出て「臨床哲學(鷲田氏の用語)」を實踐すべきといふのが主旨だらうが、哲學と實踐といふことが結びつくといふのもずゐぶん御氣樂な感じがする。また文章添削をすれば、「立ち上がる」といふのも何だか變だ。「立つ」は自動詞、「上げる」は他動詞。それらが複合動詞を作ることができるのか知らん。「立て上げる」か。

評論家の吉本隆明氏と今話題の「ロスジェネ」編輯長で作家の淺尾大輔氏と對談。淺尾氏がインタビューする形式だが、對談と言つても言ひやうな雙方の分量である。長時間のものらしく、文章になつたのはその一部分であることは明瞭で、省略をはつきり感じてしまふほど飛躍がある。吉本氏の淺尾氏評價が前半と後半とで百八十度變化するのであるが(惡→善)、もうすこし詳しく載せてほしい。吉本氏の文章も決して分かりやすいものではないが、會話はほんらいもう少し理解しやすいはずだ。收穫なのは、吉本氏の次の一言。「机の前に原稿用紙を擴げて坐つたけど、何も頭に浮んでこねえから今日はやめたつていふことが、僕もよくありました。だけど、机の前に坐つたといふことが殘るわけで、次の作品に必ず影響があります。(中略)この『無形の蓄積』といふのが重要だといふことだけは、自分の實感を交えて言へる氣がします。」――力のある言葉だ。

最後は、漱石の新發見の講演。滿洲日日新聞主催の講演會記録である。貴重なものであるには違ひないが、漱石自身の手が入つてゐるものではないやうで、十分に推敲されたものとは言ひ難い。研究者ならいろいろなことに氣附くのかも知れないが、これは一般人向けの月刊誌に載せるものとしては不親切である。やはり文意は不明瞭である。しかるべき專門家に見せて註釋づきでの掲載をしてほしかつた。編輯部に註をほどこす力量がないのであれば、さうすべきである。

私は、熱心な『論座』の讀者ではなかつたが、終刊は殘念である。版元は朝日新聞社であるから、別の雜誌を企畫してのことだと思ふが、次囘にはもつと本格的な編輯による充實した誌面作りを期待したい。ところで、中央公論から移つてきた「Foreign  Affairs」は今度はどこに行つてしまふのでせうね。

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