言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語289

2008年08月18日 15時34分40秒 | 福田恆存

(承前)

ところが、これは何度でも書かなければならないことであるが、國語の問題なんて「どうでもよい」と思ふ人が、一般の國民は言ふまでもなく、本來國語に關心を持ち、私たちの文學がどういふ言葉で書かれてきたのかといふことに深く配慮をすべき作家すら多くゐる時代なのである。いや、もはや言葉に關心を持たうとする作家はほとんどゐないと言つてもよいかもしれない。

  たとへば、『日本語のために』を書いた丸谷才一氏は、戰後しばらく歴史的假名遣ひをやめてゐたが、芥川賞受賞後には、再び歴史的假名遣ひに戻した。確かに、國語の傳統を守らうとしてゐる。しかし、氏の文學が「文化の荒廢」を免れてゐるかと言へば、そんなことはない。『裏声で歌え君が代』などといふ小説を書く作家が、どんな傳統を受け繼がうとしてゐるのか、私にははなはだ疑問である。

あるいは逆に、歴史的假名遣ひで評論を書き、演劇作家でもある氏は、「話し言葉である戲曲こそ書き言葉である歴史的假名遣ひで書くのだ」と言つてゐた山崎正和氏は、今は著述に歴史的假名遣ひを使はない。假名遣ひなど「どうでもよい」ことへと後退してしまつたのである。御二人とも、近々文化勳章をもらふのであらう。さういふ國である。

  さうであれば、先にも引用したが、私が會つた或る文藝評論家が語つたやうに、法律を出して歴史的假名遣ひを使ふべしとしても、「文化の荒廢」は解決しない。文化といふものを意識しない「思想」が蔓延してゐるのである。「どうでもよい」といふ思想が「文化の荒廢」を招いたのである。

當たり前のことであるが、言葉は思想を載せる器であると同時に、思想そのものでもあるから、「制度」を變へても「思想」を變へなければ、問題は解決しない。人人が自覺しない「思想」をこそ撃つ言説が必要なのだ。國語問題を改めて今日提起するとすれば、思想問題として論じることが必要なのだ。

ところで、あるところでまとまつた評論を書くことになり、今、福田恆存を改めて讀んでゐるが、福田恆存といふ自分は單なる保守派ではくくれない存在であることを知らされた。それはあまりに自明であるし、私もさう思つてゐたが、よほどこの人の思想は深いものであるといふことに驚かされるのである。

敬語について、私は「よく知られてゐるやうに、敬語は天皇を中心とした待遇表現から發達したものである。それと同じやうに、言葉の表記の仕方である假名遣ひも宮中の中で使はれ發達したものである。なぜならば、文字を書いたり讀んだりする必要があるのは、多くは皇族貴族あるいは中央・地方の役人にゐないからである。さうであれば、彼らの中心には天皇がゐたのは歴史的事實であり、假名遣ひは敬語と同じく天皇を中心とした人間關係のなかで築かれたと言つて間違ひはないだらう。」と以前書いた。今もその考へは變はらないが、敬語といふものが上下の人間關係の中で生まれたと考へるだけでは、今日のやうな社會ではいつしか打ち捨てられて良いといふ氣分を生み出しかねない。いや、事實さうなつてきてゐる。さういふことへの配慮が無さ過ぎた。福田恆存は、かう問ひを立てる。

「敬語が縱の身分關係を重視する『封建性』から生れるものなら、ヨーロッパの封建時代はどうして日本語のやうな複雜な敬語を生まなかったのか」

(「西歐精神について」)

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