言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語286

2008年08月04日 07時27分49秒 | 福田恆存

(承前)286

日本とは何か――さういふ問題を考へれば、どうしても假名遣ひのことに觸れなければならないのである。それが思想的な誠實といふものである。

ところで、『江戸のダイナミズム』といふ書を近年上梓された西尾幹二氏は、そのなかでかう書いてゐた。

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋

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価格:¥ 2,900(税込)
発売日:2007-01
「『現代なかづかい』は矛盾がありすぎ、『旧仮名』すなわち『歴史的仮名遣い』は無理がありすぎ、これなら納得がいくという比較的妥当な仮名遣いの制定はこれからのわれわれの課題です。」

氏が本當に「われわれの課題」であると御思ひなのなら、まづは歴史的假名遣ひで書くべきだ。歴史的假名遣ひで學習した世代の人が「矛盾がありすぎ」る「現代かなづかい」で書いて「課題」を解決することがどうしてできるだらうか。歴史的假名遣ひで書くことの「無理」よりも「矛盾」の方が樂だからか。そんな態度から「課題」解決の精神はうかがへない。憲法改正は、現行の憲法下で行はれなければならない。法律だからである。しかしながら、假名遣ひは法律で決められたものではない。私信や個人名の文章を歴史的假名遣ひで書いても何ら問題はない。むしろ、さうしながら「これなら納得がいくという比較的妥当な仮名遣い」を摸索していくのが思想的誠實である。

私は、「日本とは何か――さういふ問題を考へれば、どうしても假名遣ひのことに觸れなければならない」と書いたが、「觸れる」とは「歴史的假名遣ひで書く」といふこと以外にどんな接近法もない。西尾氏は、假名遣ひの摸索が「われわれの課題」であると言ふが、「現代かなづかい」で書いてゐてそれを本氣で考へてゐるとは到底思へない。そして、そんな精神で書かれた日本文化論とはいつたいどんな代物なのだらうか、戸惑ひを拭へない。

言葉はそれを使ふ人が何を考へてゐるのかを示してしまふものである。例へば、御禮を言ふ言葉として一般的な「ありがたう」は、「滅多にないこと」といふ意味の「有難し」から來てゐる。それに對して英語の「thank」は、本來「思慮深い」といふ意味であり、「think」と同じ意味である。ここにある發想と私たちの發想とは百八十度意味が異なる。日本語にあるのは相手への敬意であり、英語にあるのは相手にたいしての評價である。何をどう考へて來たのかといふことは、言葉の歴史を見れば分かる。さうであれば、歴史性に統一をもたらさうと思へば、言葉にたいしての姿勢は保守的であるべきで、私たちの場合、假名遣ひはその中心にある問題なのであるから、それを保持することは最優先のものである。

このことはこれまで縷縷述べて來たことだが、なぜ近代になつて假名遣ひを變更しようといふ動きが出てきたのかといふ歴史を思ひ出せば、おのづと明らかになる。じつに逆説的であるが、假名遣ひを變へようといふ動きが、わたしたちの國において大事なものとは何なのかを教へてくれたのである。 

福田恆存は、明治以來の近代國家のあり方を「適應異常」と言つたが、まさしくその「適應異常」の典型が、この假名遣ひ改變である。

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