言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

楊逸『時が滲む朝』を讀む

2008年08月19日 18時39分03秒 | 文學(文学)

時が滲む朝 時が滲む朝
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:2008-07
  第139囘芥川賞受賞作品を讀んだ。芥川賞作品を讀むといふのは、自分に課してゐる義務である。現代小説をあまり讀まない身であるから文學を云云する立場の最低限のマナーのつもりで讀んでゐる。が、オリムピックが北京で行はれて、かういふタイミングで中國人作家を選ぶのかといふことがすぐに頭に思ひ浮んで、いつにもまして本を取る手が伸びなかつた。

  しかし、一讀して惡い印象はなかつた。外國人が書いた日本語の小説で、かういふ作品を芥川賞を與へるといふのはどうかといふ疑問もないではないが、小説としては嫌ひではない。民主化を目指すある中國人の、青年期から二人の子持ちになるまで描いた内容は、銓衡委員の誰かが書いてゐたやうに、果して中篇といふ長さが適切であるかどうかといふ疑問も當然あらうが、これはこれで良いと思ふ。いつもながら池澤夏樹氏の論評は的外れであるが、「タイトルも上手とはいえない」といふのはまつたく見當違ひに思へる。

 日本にゐる主人公・浩遠が故郷の父に電話をする場面でかうあつた。

「父さんっ」浩遠は電話を持つ手が震えだし、じっと我慢していた涙が大きな声とともに溢れ出た。欲しい玩具を買ってもらえないときの民生(主人公の息子)の泣き声とそう変りはなかった。

「よしよし、泣きな、父さんも若い頃に何度泣いただろうか。夜中に布団を被って狼が吠えるように泣いてさ、すっきりしたら、翌朝の朝日が凄くきれいに見えた」

 浩遠の泣き声が次第に弱まり、しまいに笑った。胸に詰まっていたものがスッと抜けていくのをはっきりと感じ取った。

「すっきりした」

「明日早起きして、朝日を見てごらん、虹が見えるかも」

「見る。絶対に見る」浩遠はやけになって涙に濡れた袖で顔中を拭いた。

 かういふ場面は感傷的である。が、「電話を持つ手が震えだし、じっと我慢していた涙が大きな声とともに溢れ出た」のは、異國にゐるものが誰もが經驗する場面でもあつて、滲み出てくる情感がある。ここに「時」を感じるかどうかは私の感性とは違ふが、「浩遠」がこの朝に「時」(「時の流れ」)を感じたといふのは、十分に理解できる。この作品一番の場面であつた。

  日本語に問題があるかどうかといふことを多くの選評が書いてゐたが、私には氣にならなかつた。この作品よりも「ひどい」作品はいくらでもある。さういふ作品にこれまでたんと芥川賞を與へて來た銓衡委員の方方が今更おつしやることではない。

  さて、いつも通り「選評」の評である。

  村上龍氏がかう書いてゐた。「わたしは文化大革命や天安門事件について、自作のために資料を集め読んでいたこともあって、『時が滲む朝』における中国の若者たちの民主化への思いと行動、その挫折というモチーフには関心も興味も持てなかった。」と。まつたく恐るべき文學觀である。自分が知つてゐることには關心も興味もないと書いて平氣なのは、いかにも「おつむのよろしくない勉強家」が書きさうなことである。知的滿足度だけで作品を評價するといふのなら、何かの論文銓衡の委員にでもなつたらいい。私ごときが言ふのはをこがましいが、小説とはさういふものではあるまい。龍氏らしさ全開の文章である。

  小川洋子さんといふ人は、じつにやさしい人柄であらう。この人の選評にはまつたくトゲがない。人徳なのだらうか。政治術なのだらうか。芥川賞の銓衡には、多少の嫉妬があつてもいいと思ふが。この方にはさういふものの蔭も感じなかつた。宮本輝氏は「小説の造りという点においても、あまりに陳腐」。石原氏は「単なる風俗小説の域を出ていない」。これほどストレートに批判する人がゐるといふは、受賞作に汚點となるものではない。

コメント
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