言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

公教育と公立教育

2008年08月01日 22時49分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 政治について書くのは遠慮してきたが、私が住む大阪の知事の體たらくにはどうにも我慢がならないので、一つだけ書いておきたい。それは、伊丹空港の廢止についてでも、センチュリー交響樂團の解散についてでもない。教育についてである。

 橋下知事は、どうも公教育といふものを公立教育と同じものと思つてゐるやうだ。市民の教育を目的としたものを公教育といふのであつて、公立學校か私立學校かといふ手段の次元でこれを考へてはならない。私學助成金が憲法の89條に抵觸しないのは、それが「公の支配に屬してゐる」と考へられるからであり、「公教育」の主體が私立であるか公立であるかは問題とならないといふことであらう。法律家に法律論を言ふのは、氣が引けるが、「素人論議」と國土交通大臣に言はれて、「玄人の政治が今日の政治家を駄目にした」と言つた橋下知事の傳にならへば、「玄人の法律音癡が今日の教育制度を駄目にしようとしてゐる」とでも言へる。

 當選間もなくは、「何萬票の有權者の聲を背景にして」とよく話してゐて、さすがに今はそれを言はないが、それでも票の數だけでその質を見ないのは、衆愚政治である。文化とは何かといふ定義を一度もしないで、文化は市民に任せよといふのは胡麻化しであるし、一方財政破綻を囘避するために文化豫算から削るといふのは分かり易過ぎる。文化は政治の婢であらうか。政治に奉仕しない文化はいらない、さうはつきり言つた方がすつきりする。

 大阪をよくしようといふのなら、もつとよく研究すべきである。特に教育について語るなら、御出身の北野高校の經驗だけで語るのはどう見ても危い。北野が大阪の公立教育の代表ではない。大阪の公教育の主體を探る道に、公立か私立かといふ二分法は何の役にも立たない。

 私の手元に、東京の世田谷區が發行する小學生用の「日本語」の教科書がある。小學一年生の教科書がいきなり俳句と漢詩である。前書のはじめには「言葉には力があります」とある。そして、その「力がある」言葉として選んだのが「響きとリズムのある」俳句や漢詩であつたのであらう。これを暗誦させるのであらうか。私はやられたと思つた。そして、これこそが教育の要だと思つた。公教育の建直しとはかういふことからしかできないと感じた。私立學校か公立學校といふ問題がいかにも瑣末で、どうでもよい問題なのだと改めて思ふ。

 世田谷區といふ一地方がかういふ教科書を作れたといふのは、 小泉内閣の構造改革特區の成果である。橋下知事が本當に大阪を改革しようとするのなら、すべきなのは金の計算ではなく、自由に活動できる道を準備することである。

 

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