言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語288

2008年08月11日 10時02分30秒 | 福田恆存

(承前)

ところで、言葉なんて通じればいいぢやないかといふ氣分が支配する私たちの社會において、歴史的假名遣ひの復活を目指すにはどうすれば良いか、といふ問ひに答へる前に、もう一つ別の問ひを立ててみたい。それは、なぜ、今、歴史的假名遣ひを使ふ者がその意味と價値とを説明し、「現代かなづかい」を使ふことの誤りと、それを用ゐることの不合理とを糺さなければならないのか、といふことである。

 それが私の心の中にずつとある。日常生活で私は使ひ、職業柄十代の子らにもそれで書いてゐる。これまで何の不都合もなかつたが、決して擴がることもなかつた。もちろん、自然と子ども達も「思ふ」などといふ書き方をするやうになるが、それ以上には擴がらない。もちろん、私の感化力=教育力の無さによるのであるが、これを文明論的に言へば、相對主義の時代といふことになる。何でも自分を基準とすべしといふ發想である。歴史もなければ未來もない。昨日と今日とが違つてゐても、あるいは今朝と晩とで考へが違つてゐても、いつかうに構はない。大事なのは「今、ここ」での氣分なのである。さうであれば、さういふ氣分から生まれる志向や思考は、正統などといふもを考へずすべてを相對化し、「ただ一つの價値」を「單に一つの價値」におとしめるのである。それが、「國語」が文化の問題ではなく、思想の問題になつてしまつたといふことである。過去から手渡された言葉を、そのまま受け容れるのではなく、「今、ここ」の氣分によつて審議されるといふ事態が訪れたのである。

 福田恆存の生誕九十周年の記念會で、その弟子の坪内祐三氏が、「歴史的假名遣ひ=コスプレ論」を語り、趣味の問題に貶しめたが、さういふ言説が言はれるのも、國語が生活から、意識の生活から游離し、「思想」になつてしまつたといふことなのである。弟子が師の志を無化し、勝手に發言するといふその樣自身が、言葉が思想問題になつてしまつたといふ象徴的な事件であつた。

 そして、假名遣ひが思想の問題になつてしまつた以上、思想的に克服する必要が生まれ、七面倒くさい手順を踏まえて、國語の正常化を訴へなければならなくなつたのである。

今、私たちが生きてゐる時代はかういふ状況なのだ。それは福田恆存が國語問題を取り上げ、「なぜ國語を破壞するのか」と呼ばはつた時代よりも更に後退した状況なのだ。かつて福田はかう書いた。

「戰後の文化の荒廢について、少くともその原因の大なるものとして國字國語の改惡を擧げなければならない。日本人はそれにより前頭葉切斷(ロボトミー)の手術を受けたのである。」

  これは、昭和五十五年十月に書かれたもので、『文化なき文化國家』のあとがきの最後の部分である。

 なるほど歴史的假名遣ひの使用をやめて、新假名に變へた「日本人はそれにより前頭葉切斷(ロボトミー)の手術を受けたのである」が、今ややめてゐない人にも同じく「文化の荒廢」は訪れたのである。文化が一人の生活習慣のことではなく全體の生活を意味する以上、そこに生きる人人は等しくその状況下で生きなければならない。國語は、個人のものではないといふことである。

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言葉の救はれ――宿命の國語287

2008年08月10日 07時27分27秒 | 福田恆存

(承前)

歴史的假名遣ひを墨守せよとは私も言はない。特にここは福田恆存とも考へが異なるところだが、漢字の音の表記(字音假名遣ひ)については現代の讀みで良いと思ふ。漢字の讀み方は現代假名遣ひに、その他の部分は歴史的假名遣ひに、といふのでは矛盾ではないか、それでは、歴史的假名遣ひを使ふ根據も曖昧になるとおつしやる向きもあるが、それは矛盾ではない。現代假名遣ひをも包攝するのが「歴史的」假名遣ひである。つまり、假名遣ひを「歴史的」といふ文脈で捉へることによつて、過去と現代との假名遣ひの異同を統一的に把握することを可能とするのである。歴史的假名遣ひは、過去假名遣ひでも古代假名遣ひでもない。「歴史的」といふのは、時代と共に變化する假名遣ひに何とか一貫性を見出さうとする精神があつてはじめて成立するものなのである。

                                  ∴

そもそも漢字は私たちの國の言葉ではない。外來語であるといふことをもつと意識した方が良い。和語の不足を補完するために必要不可缺なものとして取入れたと考へるべきである。したがつて字音の假名遣ひは私たちの今の讀み方で一向に構はない。漢字自體が同じであれば良いのだから(したがつて、漢字は正漢字でなければならない)。もし字音も歴史的假名遣ひでなければならないと言ふのであれば、英語やフランス語の外來語の讀みはどうしたら良いのか、「シェイクスピア」と「シーフード」の「シ」を歴史的假名遣ひで區別することはできない。外來語は、所詮本來のオトとは違ふのであるから、そこまで御附合ひする必要はない。「ラジオ」を「レイディオ」に書き換へる必要はあるまい。また、作家の小林信彦氏がつとに言ふやうにofを「オブ」ではなく「オヴ」にする理由などさらさらない。

「歴史の流れ」といふ言葉が、上から下へと移動することを意味するとしたら、私たちの歴史は、その文化の質を落してゆくことによつて推移した、まさに「流れていつた」といふことなのだらう。皮肉なことに、文明開化とは「移動」であり、「外發的である」と認めてゐた時代には、漱石や鴎外や藤村を輩出することができたけれども、「どうでもよい(相對主義)」の現代には、さういふ作家を一人も生んでゐないのである(私は今も村上春樹を讀み續けてゐるが、氏には決定的に缺けてゐるもの――絶對・超越――がある。氣附いてはゐる氣配であるが、故意に避けて搜してゐる振りをしてゐる。あるいは「搜す」といふ行爲こそが文學の役割であると考へてゐるふしがある。その詳細は、別のところで書いたので觸れないが、氏のパラレルワールドを徒らに評價する提燈批評家に圍まれてゐる限りは、氏もまたいつかその探求を止めて、これで良いのだと感じてしまふやうになるだらう。いつの日か、氏の作品に決定的に缺けてゐるものがあることを自覺してくれることを私は願つてゐる)。

「流れ」の最下流にある現代は、 不毛な時代である。それは豐かではあるが、何もないといふ見事な逆説を地で行く奇妙な時代である。しかも人人は、その不毛を見ずに、豐かさの蜃氣樓に心奪はれてゐる。年二囘發表される芥川賞を見ても、ベストセラーになる「一流」作家の文章を讀んでも、いづれも豐かさの中で樂しむか足掻くかで、根本的な不毛には氣附いてゐない。文學者の筆になるものをしてさうなのであるから、人人の氣分もまたさうなのであらう。

 絶望する氣力さへ、そこにはない。現代が危機なのだといふ自覺を持たずして、その先にある絶望はない。厭世的な氣分になるのはたやすいが、そこからはいつまでも蜃氣樓を見つづけてゐたいといふ甘い願望しか生まれない。何もないのだと自覺する時に、やうやく私たちの精神は動き出すのである。

 さて、かういふ時代にあつて、「歴史的假名遣ひ」の復活を目指すには、どうすれば良いのだらうか。

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漱石の『硝子戸の中』

2008年08月07日 21時37分32秒 | 文學(文学)

漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129) 漱石母に愛されなかった子 (岩波新書 新赤版 1129)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2008-04
 三浦雅士の『漱石――母に愛されなかつた子』(岩波新書)を六月に読んだ。感想を書きたいといふ思ひを抱きつつも、そのままになつてしまつた。もう一度読み返すこともあるだらうが、結論を言へばいい本であつた。私ごときが評価したとして何の影響もないとは知りつつも、いい本はいいと言つておきたいといふ衝動はある。三浦氏についてはあまりいい感想は今までなかつたが、漱石といふ人物にぶつかればいい音が鳴るといふことは、三浦氏の筆の程もまんざらではないといふことだらう。

 もちろん、瑕疵もないわけではない。「母に愛されなかつた子」といふ主題で、近代にぶつかつた漱石像のすべてを言ひ尽くすのはもとより強引過ぎるのであり、土台無理である。しかし、さういふ側面で描ききるといふ筆力はすばらしい。その一つの証左が、『猫』の冒頭部分の解釈である。

 「『硝子戸の中』を読んで漱石の出生の秘密に接した後に、『吾輩は猫である』を読み返すと、胸に迫ってくるものがちょっと違ってくる。たとえば冒頭の部分からしてそうです。」と書いて、誰もが知る「吾輩は猫である。名前はまだない。」を引き、『硝子戸の中』の一部を重ねる。「漱石はその第二十九章を、私は両親の晩年になって出来たいわゆる末っ子である、私を生んだ時、母はこんな年をして懐妊するのは面目ないと言ったとかいう話が、いまでも折々は繰り返される、と、書き出しています」と記す。

 誕生を期待されずに生まれた子供(漱石)は、その後養子に出される。その経緯も『硝子戸の中』には詳しい。さういふ状況を知つて、「名前はまだない」といふ『猫』の冒頭を読むと、まさに「胸に迫ってくるものがちょっと違ってくる」。私は、不勉強だから、かういふ解釈は漱石研究においては「常識」であるのか否かを知らない。しかし、私に最初にそのことを知らせてくれた本書はありがたいものである。さう言へば、猫は最後には酩酊して水がめに落ちて死んでしまふ。名もないままに(愛されずに)死んでしまふ姿は、三浦氏の主題を肯定することにもならうか。

 小説を読むときに、その作家の生涯を知らなければならないなどといふことは、邪道であらう。しかし、この場合、その読み方は正道であるやうに思へた。かういふ読み方で漱石作品を味はふと、作品全体を貫いてゐるもの、それを則天去私だとか、士大夫の精神だとか、と一元的に論じるのも間違ひであるやうに思はれた。

 一昨日、熱が出て一日床に臥してゐたが、『硝子戸の中』を読み返した。私はなぜか『硝子戸の女』と言ひ間違へるのであるが、今回読んで、「女」がずゐぶん印象的に書かれてゐることを感じた。一人の女ではない。とは言へ、三浦氏の主題である「母」だけでもない。漱石の心に引つかかる「女」の存在である。何気なく書かれた小品(日記風随筆)であるだけに、案外大事なものが出てゐるやうである。このことも三浦氏は書いてゐた。

 『硝子戸の中』は三時間ほどで読めるのではないかな。御一読をすすめたい。

硝子戸の中 (新潮文庫)

硝子戸の中 (新潮文庫)
価格:¥ 300(税込)
発売日:1952-07

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言葉の救はれ――宿命の國語286

2008年08月04日 07時27分49秒 | 福田恆存

(承前)286

日本とは何か――さういふ問題を考へれば、どうしても假名遣ひのことに觸れなければならないのである。それが思想的な誠實といふものである。

ところで、『江戸のダイナミズム』といふ書を近年上梓された西尾幹二氏は、そのなかでかう書いてゐた。

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
価格:¥ 2,900(税込)
発売日:2007-01
「『現代なかづかい』は矛盾がありすぎ、『旧仮名』すなわち『歴史的仮名遣い』は無理がありすぎ、これなら納得がいくという比較的妥当な仮名遣いの制定はこれからのわれわれの課題です。」

氏が本當に「われわれの課題」であると御思ひなのなら、まづは歴史的假名遣ひで書くべきだ。歴史的假名遣ひで學習した世代の人が「矛盾がありすぎ」る「現代かなづかい」で書いて「課題」を解決することがどうしてできるだらうか。歴史的假名遣ひで書くことの「無理」よりも「矛盾」の方が樂だからか。そんな態度から「課題」解決の精神はうかがへない。憲法改正は、現行の憲法下で行はれなければならない。法律だからである。しかしながら、假名遣ひは法律で決められたものではない。私信や個人名の文章を歴史的假名遣ひで書いても何ら問題はない。むしろ、さうしながら「これなら納得がいくという比較的妥当な仮名遣い」を摸索していくのが思想的誠實である。

私は、「日本とは何か――さういふ問題を考へれば、どうしても假名遣ひのことに觸れなければならない」と書いたが、「觸れる」とは「歴史的假名遣ひで書く」といふこと以外にどんな接近法もない。西尾氏は、假名遣ひの摸索が「われわれの課題」であると言ふが、「現代かなづかい」で書いてゐてそれを本氣で考へてゐるとは到底思へない。そして、そんな精神で書かれた日本文化論とはいつたいどんな代物なのだらうか、戸惑ひを拭へない。

言葉はそれを使ふ人が何を考へてゐるのかを示してしまふものである。例へば、御禮を言ふ言葉として一般的な「ありがたう」は、「滅多にないこと」といふ意味の「有難し」から來てゐる。それに對して英語の「thank」は、本來「思慮深い」といふ意味であり、「think」と同じ意味である。ここにある發想と私たちの發想とは百八十度意味が異なる。日本語にあるのは相手への敬意であり、英語にあるのは相手にたいしての評價である。何をどう考へて來たのかといふことは、言葉の歴史を見れば分かる。さうであれば、歴史性に統一をもたらさうと思へば、言葉にたいしての姿勢は保守的であるべきで、私たちの場合、假名遣ひはその中心にある問題なのであるから、それを保持することは最優先のものである。

このことはこれまで縷縷述べて來たことだが、なぜ近代になつて假名遣ひを變更しようといふ動きが出てきたのかといふ歴史を思ひ出せば、おのづと明らかになる。じつに逆説的であるが、假名遣ひを變へようといふ動きが、わたしたちの國において大事なものとは何なのかを教へてくれたのである。 

福田恆存は、明治以來の近代國家のあり方を「適應異常」と言つたが、まさしくその「適應異常」の典型が、この假名遣ひ改變である。

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公教育と公立教育

2008年08月01日 22時49分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 政治について書くのは遠慮してきたが、私が住む大阪の知事の體たらくにはどうにも我慢がならないので、一つだけ書いておきたい。それは、伊丹空港の廢止についてでも、センチュリー交響樂團の解散についてでもない。教育についてである。

 橋下知事は、どうも公教育といふものを公立教育と同じものと思つてゐるやうだ。市民の教育を目的としたものを公教育といふのであつて、公立學校か私立學校かといふ手段の次元でこれを考へてはならない。私學助成金が憲法の89條に抵觸しないのは、それが「公の支配に屬してゐる」と考へられるからであり、「公教育」の主體が私立であるか公立であるかは問題とならないといふことであらう。法律家に法律論を言ふのは、氣が引けるが、「素人論議」と國土交通大臣に言はれて、「玄人の政治が今日の政治家を駄目にした」と言つた橋下知事の傳にならへば、「玄人の法律音癡が今日の教育制度を駄目にしようとしてゐる」とでも言へる。

 當選間もなくは、「何萬票の有權者の聲を背景にして」とよく話してゐて、さすがに今はそれを言はないが、それでも票の數だけでその質を見ないのは、衆愚政治である。文化とは何かといふ定義を一度もしないで、文化は市民に任せよといふのは胡麻化しであるし、一方財政破綻を囘避するために文化豫算から削るといふのは分かり易過ぎる。文化は政治の婢であらうか。政治に奉仕しない文化はいらない、さうはつきり言つた方がすつきりする。

 大阪をよくしようといふのなら、もつとよく研究すべきである。特に教育について語るなら、御出身の北野高校の經驗だけで語るのはどう見ても危い。北野が大阪の公立教育の代表ではない。大阪の公教育の主體を探る道に、公立か私立かといふ二分法は何の役にも立たない。

 私の手元に、東京の世田谷區が發行する小學生用の「日本語」の教科書がある。小學一年生の教科書がいきなり俳句と漢詩である。前書のはじめには「言葉には力があります」とある。そして、その「力がある」言葉として選んだのが「響きとリズムのある」俳句や漢詩であつたのであらう。これを暗誦させるのであらうか。私はやられたと思つた。そして、これこそが教育の要だと思つた。公教育の建直しとはかういふことからしかできないと感じた。私立學校か公立學校といふ問題がいかにも瑣末で、どうでもよい問題なのだと改めて思ふ。

 世田谷區といふ一地方がかういふ教科書を作れたといふのは、 小泉内閣の構造改革特區の成果である。橋下知事が本當に大阪を改革しようとするのなら、すべきなのは金の計算ではなく、自由に活動できる道を準備することである。

 

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