私淑してゐた稲垣良典は、講演のなかで「人間としてこれ以上ない悲惨な死に方である十字架についた時、イエスは果たして幸せだつただらうか」と問うてゐる。
深い問ひだと思ふ。思はずはつとして聞き入つてしまつた。
イエスの最後の言葉は「わが神、わが神、なにゆゑわたしをお見捨てになられるのですか」であつた。
かういふ嘆きの言葉を残す心情は、明らかに絶望であり、悲嘆である。それが通常の理解である。
あらうことか、キリスト者の中にも「それは人間イエスの弱さである」とさへ言ふ者もゐるやうだ。
それに対して神学者の中には、これは旧約聖書の詩編22編の冒頭であるから、その冒頭の一節をイエスが言ふことで、22編全体を意味したことは明らかで、それを述べたダビデの結論は、22編最後の一節「主がなされたその救ひを後に生まれる民にのべ伝へるでせう」といふ覚悟と希望なのであるから、イエスは全く絶望を表明してゐないと言ふ者もゐる。
なるほど、さういふことはあるのかもしれない。
しかし、稲垣はさうではないと言ふ。
悲惨の極致においてもイエスは神と出会つてゐる。本当の幸福とは何か。それは神と一体となるといふことである。トマス・アクィナスを引いてさう述べる。
何度も聞き直してみたが稲垣の言葉をそのまま書き取ることはできない。それは私の理解が及ばないからである。 キリスト者稲垣には明瞭に、手応へのある真実を摑んでゐるらしいのは分かるのだが、どうも言葉にして書くことができない。
十字架につくことで私達に救ひをもたらしたとすれば、それは仕業と成果の機能主義的解釈に過ぎる。十字架につかなければ人類を救へないといふのであれば、「お見捨てになられるのですか」とは叫ぶ必要はない。「神よ、私はお約束を果たしました」と言へば済む。しかし、さうではなかつた。
そこにこそ、神とイエスとだけが知り得る関係性があつたのではないか。それは十字架といふ血の場であるが、一体の境地であり、幸福の極致であつたのだらうと思はれる。
イエスの十字架に涙するのは、その悲劇をうつすらと知るからであり、十字架に救ひを感じるのは、そこに悪が入り込めない神と人とのよりしろを見るからである。
イエスの悲しみは神の悲しみである。その心理の絶頂はキリスト教だけが示し得た人間の奥義だらうと思ふ。残念ながら私達日本の宗教にはそれを示し得た人物はゐない。