言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『正論』の記事読みました。

2024年06月07日 09時30分23秒 | 評論・評伝
 昨日、仕事上のお付き合ひのある方が来校された。或る大学の広報をご担当の方である。一渡りご説明が終はつたところで、いきなり「先生、『正論』の記事拝読しましたよ」と話を始められた。そして、その内容についてのご感想を語つてくださつた。
 この仕事をしてゐて、かういふ機会に出会ふことは滅多にない。『正論』の読者であつたことも嬉しかつたし、拙論についても丁寧にお読みいただき、なほその主旨に賛同してくださつたことも嬉しかつた。
 著者と作問者と受験生の三幅対で成り立つ受験国語であるのに、共通テストは著者と作問者が同一であり、解釈を唯一に限定する神の立つといふことは問題であるといふ拙論の主旨にいたく共鳴してくださつてゐたのである。
 最近は楽しいことが世の中にも私の環境にも乏しいなかにあつて、たいへんありがたい僥倖であつた。
 またしばらくはかういふことはないだらう。それでも坦々と生きていく、その日常こそが大事だと思つてゐる。
 

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